(質問)九戸市左衛門について、この場をお借りして補足させていただきます。
津軽側の資料で九戸市左衛門がどの程度の扱いがあるのか全体を把握しているわけではありませんが、
①青森県叢書第六編 津軽一統志 巻第六 P176
②資料館所蔵津軽家文書 1 津軽藩諸家家記集(完)
上記の二つでは市左衛門ではなく市右衛門とあります。つまり『 左 』ではなく『 右 』です。
諱が分からないのでどっちでもいいようなものでしょうが、記録上は市右衛門としか残っていないのでは。参考までに弘前市立図書館でのコピーを添付しました。
『 九戸市右衛門 』が正しいのでは?という提案です。他者のサイトでも九戸市左衛門と載っていたのを目にした事がありまして、以前より疑問に思って居りました事項です。
(回答)
1)市左衛門説も複数ある
「市左衛門」と書かれた資料もいくつかありますので、お探しになってみると楽しめると思います。ヒントは、この物語の中で、一行が津軽に向け歩いた道順です。なお、「どこのどの資料に」という書き方はしませんので、その点は悪しからず。調べること自体が楽しみの要素ですから、これを削いだりはしません。
また、資料検討を始めるときりがなく、諸説を全部並べ立てる羽目になってしまいます。
「北斗英雄伝」はあくまで小説なので、諸説のうちの「1つ」を選択しているということです。どれが最も妥当かどうかは郷土史の研究者の考える仕事でもあります。
秋田の鹿角周辺に行くと、南部、津軽とはまた別の「歴史」が書かれていますので、そこが面白い所です。
宮野落城と共に、九戸家が滅したのではなく、しっかりと子孫が生き残ることには意味がありますが、それが現実に政実の長男であったかどうか、鶴千代(市左衛門)であったかどうかは、ここでは大きな問題ではないと考えています。
調べていくことに重きを置くなら、八戸、秋田とりわけ鹿角花輪、盛岡から始め、順々に検索していくと、違いがざっと5通りも出てくるため、なかなか面白いです。大湯四郎左衛門は、自身も含め系図の解釈がまるで異なっていますし、津軽に脱した子の名前もバラバラです。最初は混乱しましたが、「すべて又書き」で、かつ一部に「創作」が含まれていると考えれば、それも当たり前です。
津軽を中心に見られているようですが、そこから一歩外に出てみると、また別の視点があるので、参考になると思います。
2)資料の質
基本的に、「藩史」の系統に類するものは、逆に信憑性がかなり落ちると見ています。盛岡藩で作られたものもそうですが、津軽でも状況は同じで、自藩に都合の良い捏造が多く含まれているはずです。例えば津軽藩で書かれたものを基本とすると、大浦為信は久慈氏の血脈ではなくなってしまいます。
以前は「書状は当時のものだから唯一信憑性が高い」と思っていましたが、書状ですら後代に捏造される例も少なくないのです。さすが、何時の時代でも、役人には頭の良い(悪賢い)人間がいます。
地元のことは地元の資料が正しいだろうと思いがちですが、必ずしもそうではないようです。外出する時には、良い服を着ますが、書物でも同じで、外向きには見栄えの良い飾り方をし、それができなければ創作します。
盛岡藩では、多く「1月1日の年賀式に、九戸政実他数名が参賀に来ず、叛意を露にし・・・」としてありますが、甲斐にいた頃(藩が出来るはるか前)より、南部氏の年賀は11日です。八戸には南部本来の伝統が残っていましたが、こちらはきちんと11日になってます。
ただし、本作では、これを12日に変えています。理由は、その後17日の九戸攻撃に際し、所用日数を推測してみると、この日(12日)でなくてはならなかった、ということです。
史実が何かを推定することに重きを置きすぎると、心情を汲むことを目的とする物語としては、つまらなくなってしまいます。また、今では、いくら調べてもはっきりとわからないことの方が多くなっています。
盛岡藩(三戸南部)では、実際には自分の方が戦を始めているのにも拘わらず、「先に九戸党が戦を仕掛けた」という筋書きに直すため、かなりの部分を捏造したようです。
3)登場人物のほぼ全員に同じようなことが
他にも、法師岡館主・櫛引左馬助清政が、果たして「左馬助」だったかどうか。また、おそらく同一人である「小笠原兵部」の名はどこからきたか、などそれぞれの人物について、複数の説が存在しています。
別掲の「久慈政則」も、義父の備前と資料上混同されている部分が多いのですが、両者が同一人である可能性もあるようです。疑問を持ち始めるときりなく出てきますが、ここでは、「何かしら根拠があること」、「そのうちの1つを選択していること」、「心情を汲むことに重きを置いていること」としてご了解ください。