北奥三国物語 

公式ホームページ <『九戸戦始末記 北斗英雄伝』改め>

早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



北奥三国物語 鬼灯の城  

第4章 渦流

渦流(かりゅう)
 時は天正十八年の十二月の初めのことになる。
 小雪がちらつく中、一人の侍が釜沢館を訪れた。
 男の身の丈は五尺七寸ほどで、恰幅の良い体つきをしている。年の頃は五十歳を少し越えた辺りで、頭頂部が少々薄くなっていた。
 男は寒さをあまり苦にせぬのか、小袖に綿入れを羽織り、その上に藁蓑を被っただけであった。
 雪でなければ外套を羽織ったのだろうが、雪はいずれ溶けて体に水が浸み込む。
 このため藁蓑にしたわけである。
 一瞥して男がひとかどの侍であることは明らかだが、その割にはごく質素ななりをしていた。
 その侍の名は沼宮内治部と言い、岩手郡の地侍である。本姓を河村と言うが、これは北奥の名家のひとつであった。
 治部は従者二名を連れ、片道一泊二日掛かる道程を、馬の背に揺られてこの地まで来たのだった。
 この頃、治部は自領の野山を崩し、農地を作っていた。これは先代の沼宮内民部の代に始めた事業で、親子二代掛かりである。
 開墾を行う際に重要なことは水利を確保することであるが、その普請には経験がものを言う。
 治部は民部の開墾計画を引き継いだものの、如何せん、土木工事の経験が乏しかった。
 そこで、治部は父の知己である小笠原家を思い出した。
 釜沢の地では先代の吉清の代から開墾が進められ、用水路なども整っている。
 幸い、先代の吉清、当代の重清とも、沼宮内とは交流があった。
 そこで治部は、農地や用水路の造成方法について見学し、指南を受けるために、釜沢を訪れたのだった。
 既に真冬で、この年の開墾作業も終わっていたから、この地を視察するにはちょうど良い頃合である。

 重清は治部到着の報せを受けると、直ちに大手門まで出向き、一行を迎えた。
 「治部殿。よくぞお出(い)で下された。まずは中に入り、冷えた体を温め下され」
 重清の言葉に、治部は深く頭を下げた。
 「淡路殿。今、下の道で用水路を見て参りました。あれは上手く考えられたものですな。城山から流れ落ちる水を集め、高台を回るように水路が作られております。あれなら、馬渕川に届く前に、農地の隅々まで水を行き渡らすことが出来まするな」

 釜沢館は寺館山の尾根の端に建てられている。そこで、治部は奥州道を北上して来た。奥州道は馬渕川に沿って北に伸びるが、本道から館に上がる坂道が見えるから、道に迷うことがない。
 その坂道の下には、「釜沢用水」が流れており、歩いていると自然にそれが目に入る。
その坂を上がって行き、坂の上から一望すると、用水路が坂下から田畑に向かって放射状に広がっているのが見て取れた。
 治部はその用水路のことを言っていた。
 
 重清は己の顎鬚を片手で一度撫でると、治部に向かって頷いた。
 「あれは父吉清が普請を始めた水路でしてな。父が亡くなった後は、それがしが引き継いで普請を進めました」
 馬渕川の河岸には平地が広がっているが、元々大半が荒れ野であり、穀物の生産には向かなかった。
 寺館山一帯は高地で、山に降った雨水が集まり、それが渓流となって流れ落ちる。
 従前、その水はただ真っ直ぐ馬渕川に合流していた。
 小笠原吉清はその水の流れを利用するために、まず山裾を取り巻くように水路を作った。次にその水路を野原に向け、放射状に走らせたのであった。
 水路の完成には長い年月を要したが、その努力が実り、畑や田圃を作ることが出来た。
 わずか二十年の間に、釜沢の農地は倍増し、領民は食うに困らなくなったのだ。

 「父の描いた図面がござる故、是非にそれをご覧(ろう)じあれ。では中に」 
 重清の先導で、二人は主館の中に入った。
 治部の従者たちの方は、用人が武者溜に連れて行き、主とはそこで別れた。
 重清は治部を常居に案内し、二人は囲炉裏端に腰を下ろした。
 「大変ご足労でござりました。さぞ体が冷えたことでしょう。まずは暖を取って下され」
 囲炉裏の脇には、既に酒器が置かれている。客の体が温まるように、予め用意してあったのだ。
 「いや。これはかたじけない」
 治部は自ら杯を手に取り、酒を注いだ。
 「父(てて)御殿とは長年の交わりがござりましてな。この館にも幾度か参ったことがござります。ま、前回は、ちょうど普請が始まったばかりで、斯様に整地がなされるとは思いもよりませんでした」
 重清が頷く。
 「それは、それがしが三十の時でござりますな。よく憶えております。その時、父の横に控えていた随身がそれがしでござる」
 「おお、そうでござったか。それは伊勢殿も人が悪い。あの時はご子息のことを紹介してくれなんだ」
 「それこそ、当時は普請のことで頭が一杯だったのでしょう。しかし、その頃の努力のお陰で、今は斯様に作物が満ちておりまする」
 治部が「ほう」と息を吐き、再び酒を注ぐ。
 「今になり伊勢殿に如何ほど先見の明があったかが分かった。父御殿はいずれ冷害の年が続くのを見越して、それに耐え得るように農地を改良しようとなされたのだ。私は五六年前から開拓を始め田圃を作っているが、とても一朝一夕には成し得ぬ。二十年先三十年先を見越して進めねばいかんのだ。飢え死ぬ者が出てから、いざ対処しようと思うても、どうにもならぬでな」
 治部の言う通りで、この釜沢ではもはや飢えのために死ぬ者はいない。
 父の教えを守り、重清はきちんと暦を調べ、その年の天候を予測して、畑で作る作物を替えていた。
 また穀物を充分に備蓄しており、作柄が悪い年には、それを民に分け与えていた。

 「しかし、何事も物事には一長一短がありましてな。いや、光の当たる側面と陰と申すべきかもしれませぬ」
 重清の言葉に、治部が顔を上げた。
 「やはり盗人が来ますか」
 「はい。食い詰め浪人や、あるいは百姓までもが、米を強奪するために、この地に侵入して参ります」
 「豊かなるが故の揉め事だが、それはそれで厄介な問題でござろうな」
 「今は若者に刀や槍を持たせ、武術の指南をしております」
 「ああ。それが白鷺兵でござるか」
 「はい。他領の者はそう呼ぶようです」
 冬季になると、毎年のように強盗が侵入して来る。それへの備えとして、重清は常備軍を組織した。平時ではわずか三十人、戦時でも戦力の中心は七八十人だけだが、しかし、訓練の行き届いた精鋭の兵たちである。
 重清の兵たちは、皆が額当ての脇に白い飾りを付けている。自軍の兵と他を区別しやすくするためだが、そのかたちや色合いが白鷺を思い出させるので、「白鷺兵」と呼ばれるようになっていた。
 重清の言葉を裏付けるように、主館の外から掛け声が響いて来た。
 「エイ」「エイッ」
 七八人ほどが剣を振るう稽古をしているのだ。
 治部は声のした方に視線を向けると、小さく頷いた。

 ちょうどその時、板戸越しに廊下から声が掛かった。
 「淡路さま。桔梗でござります。お客さまに手炙りをお持ちしました」
 これに重清が返事をする。
 「では中に参れ」
 戸板が開き、桔梗が姿を現した。
 桔梗自身は盆を捧げ持っており、その背後にいる侍女が手炙りを抱えていた。
 「手炙り」は、暖を取るための一人用の火鉢である。
 桔梗は下座に膝を立て、治部に丁寧に座礼をした。
 「それと、何か肴が必要と思い、誂(あつら)えて参りました。お口に合わぬかも知れませぬが、お試し下さい」
 桔梗が運んで来た盆には、器が載っている。その中には、魚を昆布で巻いた煮物が入っていた。
 「鮭の干したものがござりましたので、どう料理すべきか迷ったのですが、寒干(かんぽす)大根と一緒に煮るか、昆布巻きにするか考え、昆布にしてみました」
 桔梗が器を置くと、そこから蒸気が立ち上り、美味そうな匂いが広がった。

 「これはこれは。まことかたじけのうござる」
 治部は顔を上げ、桔梗の全身を眺めた。
 桔梗は小袖に奴袴を穿き、その上に羽織を着ていた。長い髪を後ろで束ね、顔かたちを露にしているため、ひときわ色白であることが知れる。その色白の肌に、くっきりと大きな眸(ひとみ)が二つ開いていた。
 治部がすぐさまお愛想を口にした。
 「奥方さまはまことお美しゅうござる。淡路殿は男冥利に尽きますな」
 その言葉を聞き、桔梗は慌てて首を振った。
 「いえ。私は内儀ではござりませぬ」
 たちまち桔梗の顔が上気し、耳たぶまで赤くなった。
 ここに重清が助け舟を出す。
 「桔梗殿はこの家の者ではなく、客人でござりましてな。ほら桔梗殿。貴女は客人の立場なのだから、斯様なことは侍女たちにお任せ下され」
実のところは人質なのだが、重清は桔梗に対して異例の待遇を与えている。
説明が面倒になるため、重清は桔梗のことを、敢えて「客人」と称したのだ。
 それを聞き、桔梗はほんの少し「ばつ」の悪そうな表情を見せたが、すぐさま身を正した。
 「いえいえ。ただ寝起きしているだけでは、申し訳ござりませぬ。何かお手伝いをさせて下さい」
 そう伝えると、桔梗は治部に一礼をして、常居から下がった。
 板戸を閉じた時、桔梗は我知らずの内に顔に笑みを浮かべていた。
 己が重清の妻と間違えられたことが、少し嬉しかったのだ。

 桔梗が去った後、入れ替わるように巳之助が廊下に立った。
 板戸越しに声が掛かる。
 「お屋形さま。急ぎの件がござります」
 「何だ。中に入れ」
 板戸が開き、巳之助が中に入る。
 巳之助は視線を床に落としたまま下座に進んで、そこで膝を折り、床に手を突いて低頭した。
 顔を上げ、重清の横に沼宮内治部が居るのを見取ると、巳之助は重清に視線で問い掛けた。  
 「客の前で用件を話しても良いのか」という意味である。
 重清はすぐさま巳之助に発言を許可した。
 「客人の前だが、構わぬ。用件を申せ」
 巳之助はもう一度低頭すると、頭を下に向けたまま話を始めた。
 「中平の百姓たちが、川を渡り、こちら側に乱入しました」
 釜沢領は東西に長く広がっているが、この付近のみ狭くなっており、北側が目時、南が四戸と接している。
 中平は釜沢の東にあり、ちょうど目時領や四戸領との境目にある地である。
 この地は大きく言えば四戸領の野々上という地域に属するのだが、この地は複数の地侍の支配地が細かに入り組んでいた。
 このため、従前より何かと騒動の多い土地柄でもあった。
 「此度は何だと申すのだ」
 「その者たちが申すには、我が方が行っている開墾作業によって、土砂が馬渕川に流されている。その土砂が所々で溜まり、水の流れが悪くなった。そこでその責任を取れ、代償を払えと騒いでおるようです」
 「言い掛かりだな。今年も冷害で不作だったから、腹の虫が収まらずそんなことを申しておるのだろう。捨て置け」 
 ここで巳之助が顔を上げた。
 「二百人が鍬や鎌を振り上げ、こちらの民を襲う勢いで迫っておるとの報せですが・・・」
 「二百人だと。では中平の百姓だけではあるまい。近在の者までが示し合わせて寄せておるという訳だな。野々上全体か、あるいはさらに加わっておる。それで、こちらに怪我人は出たのか」
 「上(うわ)野平の者が数人ほど傷を負ったようです。再び川向こうに陣取っているとのこと」
 重清はすぐさま立ち上がった。
 「では直ちに俺が参ろう。巳之助。ぬしはここに留まり、こちらの治部殿に、我が領の農地の普請について説明してくれ。そこに図面を用意しておる」
 そう巳之助に言い付けると、重清は治部に向き直った。
 「治部殿。斯様な事態ゆえ、それがしは中座致します。この後はこの巳之助がお相手致しますので、ご勘弁下さい。それがしは、この件を終わらせたら、また戻って参ります故」
 これに治部が一礼を返す。
 「淡路殿。火急の事態じゃ。それがしのことは気にせず直ちに参られませい」
 その言葉を聞き、重清は一度深く低頭して、その場を立ち去った。

 重清が主館の外に出ると、そこには白鷺兵が集まっていた。
 冬季なので、館内に詰めて居た兵の数は十二人ほどである。他は領内の見回りに出ている。
 「馬渕川に百姓が集まって騒いでいるということだ。これから直ちに支度せよ。ひとまず仲裁の体(てい)を取るが、相手は二百人と大勢だ。いずれも、それなりの覚悟をして、こちらに越境して来ておるだろう。話しても分からぬかも知れんな。皆、具足を着用し騎乗の上、小半刻後に大手門に集まれ」 
 「はい」「畏まりました」
 すぐさま、兵たちが武器庫に向かって走り出した。
 重清自身も主館に戻り、寝所(奥の間)に向かった。
 廊下を歩き、控の間の前に来ると、そこで声を掛けた。控の間は下士が詰める部屋である、
 「誰(たれ)かある。一人奥の間に参れ」
 今、正室は目時館にいるから、甲冑を身に付ける手伝いがいない。そこで下士か用人に軍装を手伝わせることにしたのだ。
 すると、桔梗が小走りで駆け寄って来た。
 「私が参ります」 
 重清は小さく頷くと、足早に寝所に入った。
 
 桔梗は重清の後ろに続き、寝所に足を踏み入れた。桔梗がこの部屋に入るのは、もちろん、初めてのことである。
 「奥の間」は十六畳敷きの広さで、中央に囲炉裏がある。春から秋にかけては、寝所の囲炉裏は蓋で塞がれているが、今は冬なので、その蓋が開けてあった。
 上座の方には文机(ふづくえ)が置かれ、日頃、重清はそこに座っていることが分かる。
 背後の床の間には、書が積み重ねられており、日頃より重清が書に親しんでいることが見て取れた。
 (淡路さまはきっと無骨なお方と思い込んでいたが、どうやらそんな風でもなさそうだ。)
 体の大きな重清が、顎鬚を摩りながら書を読み耽っている姿を想像すると、何だか可笑しい。
しかし、今はそんなことを考えている状況ではない。桔梗は心を引き締め、重清の指示を待った。

 桔梗の見守る中、重清が書籍の山を掻き分けると、その下から縦横二尺くらいの箱が出て来た。
 鎧櫃(よろいびつ)である。
 通常、甲冑類は武器庫に仕舞い、担当の者が手入れを行うが、重清は己の鎧を手元に置いていたらしい。
 重清はその鎧櫃を持ち出すと、部屋の中央に置き、蓋を開いた。
 その中身を取り出しながら、重清は部屋の隅を指差した。
 「あちらの葛篭(つづら)に装束が入っておる。それを出してくれ」
 急場のことでもあり、重清の口調は身内に対するそれになっていた。
 「はい」
 桔梗は直ちに葛篭を開く。するとその中には鎧直垂(ひたたれ)一式が入っていた。
 重清の方は、櫃から胴当てや具足を選び、外に出している。兜はそのまま箱の中だった。
 (軽装備でお出になるのだわ。)
 点検が終わると、重清はくるくると着物を脱ぎ、褌一枚の裸になった。
 筋骨逞しい肉体が露になる。
 釜沢館主は、実年齢よりもはるかに精悍な姿をしている。
 それが目に眩しかったので、桔梗は視線を下に向け、重清を見ぬように努めた。
 重清が黙ったまま、桔梗の方に左手を差し出す。そこで桔梗は重清に具足下着と直垂を手渡した。
 「領境で百姓共が騒動を起こしておるそうでな。ひとまず供えはして行くが、もちろん、これは合戦とは違う」
 寝所で着替えをしているので、重清はつい己の妻に対するのと同じ振る舞いで接した。
支度を終え、重清が背後を振り返ると、しかし、そこに居たのは桔梗であった。 
 ここで、重清は桔梗が目時の人質であることを思い出した。
 日頃、同じ館で暮らしており、時折、夕餉を共にもしていたから、重清は桔梗を家中(かちゅう)の者と錯覚する時がある。
 「相手は目時の者たちではないのだから、案ずることはござらんぞ」
 もし相手が四戸でなく目時であり、さらに侍同士の衝突まで発展したら、たちまち人質の身が危うくなる。
 重清は桔梗の不安を除くために、そう言ったのだ。
 「はい」
 さすがに桔梗の身が引き締まる。
 桔梗は己が人質の身の上であることを、ここで改めて思い知った。
 「よし。では参る」
 重清は桔梗にそう言い残して、奥の間を出た。

 重清が主館の外に出ると、そこに馬が引き出されていた。
 兵士たちは既に全員が馬を並べている。
 「うむ。では上野平に行くぞ」
 重清が兵たちに告げた瞬間、背後から声が掛かった。
 「お待ち下さい」
 重清が振り返ると、そこに杜鵑女が立っていた。杜鵑女は全身白装束の祈祷衣を身に着けている。それまで杜鵑女は北館で祈祷を行っていたが、館内のただならぬ気配を知り、ここにやって来たのだ。
 白装束の巫女が青白い顔をして立っているのは、如何にも不気味である。
 よく見ると、巫女はかなりの美形なのだが、それが却って鬼気迫る佇まいを醸し出していた。
 このため、兵士たちは、そんな巫女の周りから数歩ほど後ろに下がった。
 その間隙を通り、杜鵑女がゆっくりと重清に近付く。
 「淡路さま。東に悪い気が見えますぞ」
 「領境の百姓共が騒いでおるそうだ」
 しかし、杜鵑女はゆっくりと首を横に振った。
 「私には、その方角に毒蜘蛛の姿が見えまする。罠の気配がござりまするな。敵は百姓ではござりませぬ。少なくとも数百の兵団が待ち構えてござります。ほれ」
 杜鵑女が東の空を指で示す。すると、その方角には、黒い煙がもくもくと立ち上っていた。
 「あやつら。百姓家に火を掛けたか」
 「百姓共はおそらく釣り餌でござります。もし淡路さまが出てくれば、それを口実に合戦に持ち込むつもりでござりましょう。ここは一層警戒をせねばなりませぬぞ。今、淡路さまが直ちに動員出来る兵は如何ほどですか」
 「まあ、良いとこ総勢で百五十人程度だな。中核となる者は六七十だけだ。普段はこれこの通り、十人余しかおらぬ」
 「では、それを見越し、敵は相応の兵力で来ておるはずでござります。短時間で一気に釜沢を攻め取る手筈です」
 杜鵑女の言葉に、重清は足を止めて思案した。だがそれもほんの一瞬で、すぐさま、兵たちに命を下した。
 「皆、聞いたか。この祈祷師はこの先には罠があり、危険だと申しておる。だが、我らは、命に代えても、この地の民を守らねばならぬ。この地に住む父母や妻子を守るのは、それこそ我らの務めなのだからな」
 直ちに兵士たちが呼応する。
 「お屋形さまの申される通りでござります」
 「我らは民を守ります」
 重清は鬚の伸びた顎を大きく上下に振った。
 「よし。では一名が蓑ヶ坂下へ、一名が西の砦に行き、双方の兵を連れて来い。ひとまずは、ここにおる者で当地に向かうが、追って我らに合流しろと申すのだ」
 若侍二人が馬の腹を蹴って、その場から離れた。日頃より定めている物見・伝令役の者たちである。

 重清は腹心の部下数名に段取りを告げる。
 「敵が如何様な策を弄しておるかは、まだ分からぬ。ひとまず外套で具足を隠し、ゆっくり近付いて相手の出方を見よう。まずは裏で手を引く者が何者かを確かめる。まあ、四戸が中心だろうが、それだけではあるまい。郷を跨いでの連衡策で参っておるだろう」
 兵たちは一旦馬を下り、武器庫に走る。
 一人が戦時用の外套を取り出すと、皆でそれを纏った。首から下をすっぽりと覆う布であるから、兵士たちの武具が目立たなくなる。

 重清が馬に跨ると、杜鵑女が下から馬上の重清を見上げた。
 「淡路さま。私も参ります」
 杜鵑女のこの声で、すぐさま後方から女の従者が走り出る。その若い娘は、毛皮の外套を抱えていたが、杜鵑女に走り寄ると、それをさっと肩に打ち掛けた。
 これで、杜鵑女の首から足先までが、長い外套で覆われた。
 「杜鵑。ぬしにも弟子が出来たか。しかし、軍師気取りは構わぬが、今は命の懸かる事態だぞ。それでも良いのか」
 すると杜鵑女は、ひときわ高い声で「ほほほ」と笑った。
 「淡路さま。淡路さまは勝たれます。今日はこれより必ず合戦に至ります。しかし、必ず勝たれますぞ。この後、戦をする機会は幾度と無く訪れますが、淡路さまは連戦連勝を納め、いずれは糠部の、そしてこの北奥の盟主となられるのです。私はそれを見届けとうござりますぞ」 
 杜鵑女の青白い顔が輝く。
 まるで何かが乗り移ったような表情で、神々しさすら覚えるほどである。
 「この期に及んでは、それは悪くない話だ。では俺の後ろに尾(つ)いて参れ。馬には乗れるな?」
 「はい」
 「よし。誰か杜鵑に馬をやれ」
 この命令で一人が厩に走る。

 杜鵑女はここで己の従者を手招きで呼び寄せた。
 女従者は酒器と杯を捧げ持っていた。
 「では淡路殿。出陣の礼でござります」
 杜鵑女は杯に酒を注ぎ、その杯を重清に差し出した。
 「俺は験(げん)など担がぬ。己で己を助けられる者のみを神は助くるのだ。ぬしの千里眼にこそ耳を傾けようが、古くからの慣わしなど顧みぬ。後漢の関雲長は汜水関の戦いで、袁紹に敵の華雄を討ち取れと命じられたが、出陣の酒を断って戦いに出た。酒を飲んで勢いを付けるほどの敵ではないという意味だ。事実、雲長はあっさり華雄を倒し、その首を持ち帰ったのだ。故事に倣うのであれば、俺はそっちの方だ」
 杜鵑女がにっこりと微笑む。
 「淡路さま。これはただの気合付けです。さしたる意図はござりませぬ。私のような祈祷師が申すのも何ですが、この私は厄落としや験担ぎなど薦めませぬ。そうではなく、これは実際に役に立つことです。雪中では体が冷え、体が動かなくなります。酒を少し入れれば、冷えた体が温まりまするでな」
 今度は重清の方が笑みを漏らした。
 「なるほど。小雪がちらついておるから、まずは酒で体を暖めよと申すのか。それなら承知した。皆、巫女から杯を受け取り、酒を飲め。それで気合が入る」
 すると、「待っていました」と言わんばかりに、兵士たちの間から「うおう」「うおう」「やるぞ」と威勢の良い声が上がった。
 
 重清は十人の兵士と女祈祷師を従えて、大手門を出発した。馬で出陣する時は、月山神社口から出るから、そこから上野平までは一里の距離である。
 あと四丁の距離に近付くと、確かに百姓家のひとつが燃え盛っているのが見えて来た。
 「あれは村長(おさ)の家ではないか。あ奴らの狙いはただの略奪だったか」 
 周辺の郷では、この年も不作だった。
 それなのに、釜沢領ではそこそこの作物が収穫出来ている。上野平を襲った百姓たちは、そのことがどうにも気に入らなかったのだ。
 重清の背後から、杜鵑女が声を掛ける。
 「それだけではござりませぬぞ。あちらをご覧下さい。百姓たちは一旦、川向こうに引き上げていますが、まだそこに留まっています、まるで己を誇示するようにです」
 「それが罠なのか」
 「そうです。おそらく川向こうの山裾には、一兵団が隠れておるでしょう。淡路さまが馬渕川を渡れば、その時こそ口実が出来ますでな」
 「先に俺が自領に攻め入ったから撃退した。そう申すわけだ」
 「はい。先方は、日頃我が方に家士が少のうことを承知しております。事実、ここにいるのは僅か十騎ですな。これを破るのは容易い話です」
 ここで、重清は兵士の一人を呼び寄せた。
 その者は小保内三太郎と言う名で、年の頃は二十三歳である。この若者は重清の姻戚の者であった。
 「三太郎。下流の浅瀬を渡り、あの山の後ろを覗いて来い。迂回して、奴らの背後から一望するのだ。敵の数と、何処の誰が来ているかを確かめて来い」
 「はい。畏まりました」
 三太郎は重清に一礼をすると、川下に向かって馬を駆った。

 次に重清は兵士たちに下馬を命じた。
 「状況が見えるまで、しばらくここに留まるぞ。馬を寄せ、皆の体が冷えぬように寄り集まっていよう。いずれ蓑ヶ坂の隊もここに来て合流する」
 十人はその場にひと塊にまとまり、三太郎の帰りを待つ。
 小半刻を超える時が過ぎ、三太郎が駆け戻って来た。
 三太郎は転げ落ちるように馬を下り、重清の許に走り寄った。
 「お屋形さま。山の陰に軍勢が控えておりまするぞ。旗印を見る限り、旗印は四戸(中務宗春)と、下斗米、福田にござる。その数、四百から五百!」
 重清が目を見張る。
 「何だと。皆、九戸縁(ゆかり)の地侍たちではないか。九戸党がこの釜沢に攻め入ろうとしておると申すのか」
 そこに杜鵑女が口を挟んだ。
 「いや。恐らくはその者たちだけで示し合わせた謀(はかりごと)でしょう。仮にこれが九戸殿の命なら、一千騎で寄せて来ますからな。不作に苦しむ者たちの窮余の策にござりまする」
 確かに、この数年、北奥の各地で小競り合いが続いている。だが、いずれも地侍と地侍、個々の家と家の間の争いだった。
八戸と櫛引など、ごく近くにあり、血縁とも言える者同士が、血で血を洗う抗争を繰り広げていたのだ。
 しかしここに来て、次第に複数の地侍たちが手を組むような構図に変化している。
 北奥の地侍たちが三戸と九戸の核を中心に、二極に分かれるように対立するようになっていたのだ。

 ここで重清が自らに言い聞かせるように言う。
 「九戸殿と俺は同族と言えぬことも無い。同じ小笠原の血脈なのだからな。ならば、九戸殿はいきなりここを攻めたりなどせず、前もって自陣に加われと誘うだろう。そこを顧みず、斯様な策を講じたということであれば、それは疑いのう、四戸中務が中心となって描いた絵図だろう」
 四戸中務宗春は油断のならぬ人物である。
 何せ北奥で一二の有力者である九戸一族が、敢えて姻戚の契りを結ばねばならぬほどであった。身内にしておかねば、寝首を掻かれかねぬほどの曲者なのだ。
 「となると、この件は九戸殿には一切内密にした話なのだな。ならば、そこにおる四百五百の後ろに兵はおらぬ。敵勢はそれっきりだ」 
 しかし、釜沢勢は現況この十余騎である。
 蓑ヶ坂や西の砦から兵が合流しても、高々五十騎程度に過ぎない。 
 「杜鵑。ここはどう対処する?」
 重清の呟きに、杜鵑女が馬を前に進めた。
 「直ちに川を渡ってはなりませぬぞ。我が方が敵を攻めても宜しいのは、先方が川を渡って来た時だけです」
 「攻めるも何も、この十騎ではどうしようもあるまい」
 しかし、ちょうどそこに、蓑ヶ坂下に駐留していた兵たちが到着した。
 「小笠原十蔵ほか十六騎。ただ今参りました」
 小笠原十蔵は、叔父吉兵衛の次男で、重清の従弟にあたる。齢は三十七歳で、侍として脂の乗り切った年頃である。
 日ごろ、十蔵は蓑ヶ坂方面の偵察隊を指揮していた。
 重清が力強く頷く。
 「これで兵力は二十七だ」
 さらにそこに西の砦からの兵が到着した。
 この隊は途中で領内に動員を掛けながら移動したので、元の四十二騎の他に、徒歩(かち)の二十五名が加わっていた。さらに、後で徒歩兵が数十人ほど駆け付ける手筈である。
 「ひとまず、これで六十九騎と二十五人になった」
 徒歩兵は百姓家の次男三男であるから、即戦力とはならず、あくまで後方で騎馬兵を補佐する役目を務める。
 だが、敵の目からは、それなりの陣営には見える。敵兵から見れば、釜沢軍は百人ほどの軍勢に映っている筈である。
 「これが我が方の総てだ。これで行くしか道は無い」
 もはや重清の腹は決まっていた。

 この時、川向こうにいた百姓たちが、再び騒ぎ出した。
 釜沢兵が出陣の装備をして対岸に並んだことに刺激を受けたのだ。
 「ほら。どうした。腰抜けども」
 「こっちに来てみろ」
 百姓たちは口々に悪口雑言をがなり立てていた。
 それを見て、小笠原十蔵が重清に伺いを立てた。
 「お屋形さま。ここはどう致しましょう」
 ここで重清は十蔵に策を伝えた。
 「今は動くな。相手をよく見るのだ。対岸の百姓の後方には四戸軍がおる。だが山陰に隠れているから、半里から一里は離れておろう。こちらと百姓との間はほぼ一丁だ。ならば、こちらが百姓共を叩き、すぐに戻れば、四戸軍は届かない。我らがこちら岸に戻った後に、やっとこの対岸に着く」
 十蔵が頷く。眼光鋭く精悍な顔つきだ。
 「敵は我が方を見くびり、勢いに任せ川を渡ろうとします。しかし、重装備ですから、川の流れに足を取られ、動きが緩慢になる。そこに矢玉を浴びせるということでござりますな」
 「そうだ。弓手を二十人とし、その者たちに総ての矢玉を集めよ。そしてこちらの土手の後ろに控えさせて置け。火縄一人は敵の大将が間近に近付くまで我慢させるのだぞ」
 釜沢は小領だが、しかし、斯様な時世ゆえ、鉄砲一丁を備えていた。
 ここで重清は後ろを振り返った。
 すぐ後ろには、杜鵑女が控えている。
 「それならどうだ。杜鵑」
 杜鵑女はゆっくりと低頭した。
 「そういうことなら宜しゅうござります。常に川のこちら岸に重きを置くことが肝要ですぞ」

 対岸では、今や暴徒と化した百姓たちが大声を上げていた。
 「こっちに来てみろ。臆病者ども!」
 すると、群集の後ろの方から、縄に縛られた一人が引き出された。
 引き出されたのは初老の男である。
 敵方のいかつい大男が、その老人を引きずるように川縁に連れて来る。
 その老人に、重清は見覚えがある。
 男は上野平の村長(むらおさ)だった。
 すると、その老人の傍らに立つ大男が叫んだ。
 「小笠原淡路はそこにおるのかあ?淡路。こいつを渡して欲しくば、淡路が自らここまで引き取りに来い!」
 村長を引き立てた者をよく見ると、とても百姓の物腰ではない。屈強な侍が百姓姿に身を窶(やつ)したものに違いなかった。
 
 重清は一瞥でその男の素性を見取った。
 「あれは四戸の侍だな。是が非でも我が方に川を渡らせたいのだろう。三太郎。ちょっとこちらに来い」
 重清の命を受け、若者が馬を近づける。
 「三太郎。ぬしは弓の名手だ。間合いはおよそ六十から八十間だが、あの侍を射抜くことが出来るか」
 「はい」
 「では、ぬしが弓隊を率い待機せよ。俺が命じたら、すぐさまあの男を射るのだ」
 「畏まりました」
 三太郎が振り返ると、弓隊の二十人は一斉に下馬し、馬を後方の繁みの裏に隠した。
 
 対岸では、大男が村長の首に刀を当てていた。村長は後ろ手に縛られており、抵抗が出来ない様子である。
 大男が村長に命じる。
 「爺。さあ叫べ。『淡路さま。助けて下され』と叫ぶのだ。叫ばねば、ぬしの首を切り落とすぞ」
 男が村長をさらに前に押し出した。
 「さあ、叫べ」
 村長は背中を押され、前向きに倒れたが、すぐに引き起こされた。
 そこで村長が叫ぶ。
 「長一郎さまあ。これは罠でござります。後ろには四戸侍がおりますぞう。こちらに来てはなりませぬう」
 村長は声に限りに重清に叫んだ。
 それで、大男が慌てて村長を制止した。
 「こら。そうではない。『助けてくれ』と申すのだ!」
 しかし、村長はさらに声を張り上げる。
 「来てはなりませぬ。来てはなりませぬぞ。長一郎さまあ」
 その姿に、重清が唇を噛んだ。
 「あれは、幼き頃よりこの俺を可愛がってくれた爺さまだ。何とか救ってやらねば・・・」
 この村長は重清のことを「長一郎」と呼ぶ、数少ない縁者の一人である。

 釜沢兵が見守る中、村長は叫び続けた。
 すると、大男が業を煮やし、刀で村長の片耳を削ぎ取った。
 「ぎゃああ」
 村長が顔の横から血を流して、のた打ち回る。
 ここで重清は十蔵を呼んだ。
 「十蔵。ここから半丁ほど上流に浅瀬がある。そこなら、対岸の山裾からは見えぬ。直ちに十名を連れ、この川を渡り、百姓共の後方を突け。侍に指揮されていても、大半は百姓だ。後ろから攻撃されれば動揺する。そこで俺が正面を叩く。目立たぬように行けよ」
 「畏まりました」
 十蔵が一礼をして、その場を去る。
 重清が前に向き直ると、大男が重清を見ていた。
 「小笠原淡路。そこにおるではないか。ぬしは己の民を守ろうとはせんのか。今のぬしの姿を見れば、釜沢の者はさぞ失望することだろうぞ」
 重清は馬の腹を蹴り、川原に下りた。
 「きさまは侍であろう。四戸の者だな」
 敵は百姓に化けているから、必然、弓手や砲手はいない。そのことを見越した振る舞いである。
 「我が民を傷つけたな。その咎は重いぞ。この川の川原に、ぬしの首級を晒してやろう。高札にはこう書く。『愚かなる四戸侍。盗人を働いたかどで死罪に処す』とな。ぬしは侍としてではのう、盗人として死ぬのだ」
 これで大男がいきり立った。
 「何だと!」
 「何人の侍が紛れ込んでおるのだ?五人か。それとも十人か。小細工を弄したがために、ぬしら五人は本隊から孤立しておる。半里後ろに隠れておる兵たちがここに届く頃には、ぬしの胴体はこの川に沈んでおるだろうて。わははは」
 重清の高笑いに、大男が本性を現す。
 大男はすぐさま背後の者に声を掛けた。
 「槍を持って来い。あやつ。けして許しては置かぬぞ」
 その男の背中に重清が畳み掛けた。
 「おい。木っ端侍。俺と一騎打ちはどうだ。この川原で勝負だ」
 大男が我慢ならぬという風情で部下に命じる。
 「おい。馬だ。馬を寄こせ。わしはあの淡路をぶち殺す」
 後方から馬が引き出され、大男がそれに飛び乗った。
 大男はすぐさま馬を駆り、馬渕川の川原を越え、水の中に入った。
 それに応じ、重清も川縁まで馬を進めた。
 「おい。四戸侍。ぬしの名は何と申すのだ。もはや素性は知れておるのだから、名乗っても構わぬだろう?」
 「わしは四戸忠五郎だ」
 「ほう。では中務殿の縁者だな。大男は体の隅々まで知恵が行き届かぬと申すが、どうやらそれはまことのようだの」
 たちまち大男の顔が怒りで赤くなる。
 「何だとう」
 「そりゃそうだろう。俺は家来たちにお前の後方を突かせるため時を稼いでいるのだ。ぬしはそのことに気付かぬのだからな」
 これで大男の両目が丸くなった。
 「そして、此度最初に死ぬのは忠五郎殿。ぬしだ」
 その言葉が終わるのと同時に、重清が右手を高く上げた。
 「三太郎。直ちにこやつを射よ!」
 すぐさま「ひゅうひゅう」と羽根の音が鳴り、大男の体に十数本の矢が刺さった。
 「ぎゃあ」
 大男が馬から落ち、「じゃぶん」という水の音が立つ。
 ほとんど同時に、対岸の百姓たちの後ろから叫び声が上がった。
 小笠原十蔵の小隊が、百姓たちの後方を突いたのだ。これでそれまでまとまっていた百姓たちは散り散りに分かれた。
 驚きの余り、川に入って、こちら側に逃げて来ようとする者まである。
 
 「これで四戸兵が出て参るな」
 重清は一旦、川の中で下馬し、四戸忠五郎に近付いた。大男の体は半分沈んでいたが、重清はそれを引き起こし、仰向けにすると、一刃で首を切り落とした。
 重清はその頭の髻を掴んで、自軍の方に放り投げた。
 「槍の穂先にこれを刺し、川原に晒して敵兵に見せるのだ!」
 頭はごろごろと転がり、釜沢兵の足元に届いた。兵の一人がそれを拾い、槍で首の下から突き刺す。これは敵の好戦意欲を失わせようという所為である。
 ここで重清は再び馬に跨り、川より出て土手の上に上った。
 「よし。皆支度をせよ。四戸勢が川に入った時が勝負だ。足が止まったら、そこを狙い打て。矢が尽きたら、敵が土手を上がって来るところを槍で刺すのだ」
 果たして、三丁先の山裾から軍勢が姿を現した。
 重清は自軍の後方にいた杜鵑女に声を飛ばした。
 「杜鵑。ぬしは下がっておれ。この期に及んでぬしの助言は要らぬ。ここからは、俺の領分だ」
 「畏まりました」
 杜鵑女は馬を返し、その場を離れた。

 見る見るうちに四戸軍が接近する。
 釜沢兵は総身を固くして、交戦の時を待った。
 四戸兵が対岸に集まり、戦陣を整えようとした時、重清の許に家来が駆け寄って来た。
 「お屋形さま。目時が出陣して参りました。奥州道の北を、あと一里の所まで参っております」
 重清の眉間に皺が寄る。
 「なに。筑前が兵を出したのか」
 由々しい事態である。目時筑前は重清の宿敵で、これも油断のならぬ相手であった。
 重清は少しの間思案したが、すぐに見極めがついた。
 「捨て置け。おそらく様子を見に参っただけだろう。対岸の敵は九戸党に近しき者たちだ。しかし、目時は三戸方。けして四戸に与(くみ)したりはせぬ。敵の敵は味方と同じだ」
 だが、もちろん、いざ釜沢軍が弱ったと見るや、目時は必ずそこを突いて来る。
 目時と釜沢は人質を取り交わしている。
 しかし、一気に釜沢を倒し、重清を殺してしまえば、その人質の問題も解決する。
ましてや、此度の人質は双方とも女子である。跡継ぎか、それに近い男子を失くすのとは違う。
 「なら、目の前の四戸をこの川の中で総て倒すしか道はないわけだ」
 もし重清が劣勢になれば、そこに目時が割って入り、四戸と目時で釜沢を分けることにもなりかねない。
 ここで重清は家来たちに叫んだ。
 「皆の者。腹を括れよ。ここが我らの正念場ぞ」
 「おう」「おう」「おおう」
 釜沢兵が一斉に鬨の声を上げた。

 四戸軍の渡河が始まる。
 最初の馬群が川の中程に届いたところで、釜沢兵が弓を射掛け始めた。
 水中なので、四戸軍の動きが緩慢となっている。次々に矢が命中し、四戸兵がばたばたと倒れた。
 重清が土手の上に立ち、自軍に叫ぶ。
 「射よ。射よ。ありったけの矢を放つのだ」
 重清の鼓舞の中、釜沢兵が矢を射続ける。
 その内、敵兵の中に、川を渡り切る者が現れるようになった。しかし、敵兵が土手を上がろうとすると、釜沢兵がそれを槍で突き倒す。
 敵兵の数の方がはるかに上回るわけだが、戦闘は上にいる者の方が優位に立つ。
 このため、戦いは一進一退の攻防となった。膠着した状態のまま、戦闘が続く。
 しかし、次第に数に勝る四戸軍が押し出して来て、主力が川を渡り始めた。

 その時、北の方角から法螺貝の音が響いて来た
 「ぶおう」「ぶおう」
 明らかに一個兵団が到着した音である。
 重清が音のした方に顔を向けると、蓑ヶ坂の方角から、騎馬兵団が駆け寄って来るところであった。
 「あれは誰だ」 
 目視出来るだけで、ざっと数百騎が寄せて来る。その後ろにどれ程の兵力があるかは、見当もつかぬ光景である。
 重清が思わず唇をぎゅっと噛み締めると、すぐさま血の味が口一杯に広がった。
 ここで、間髪入れず、後方にいた釜沢兵が叫んだ。
 「お屋形さま。あれは三戸方の軍勢にござりまするぞ」
 重清は思わず舌打ちをした。
 「糞。目時だけではなかったのか」
 三戸軍は蓑ヶ坂の向こう側に隠れていたのだろう。四戸と釜沢が争っているのを知り、漁夫の利を得るべく、出陣して来たのに違いない。
 「不味い」
 重清の顔が、これまで表に見せたことの無いほどの渋面に変わった。
 前は四戸軍。後方は三戸軍に挟まれ、釜沢軍は絶体絶命の危機を迎えようとしていた。
 
 だが、驚いたのは、釜沢兵だけではなかった。法螺貝の音で、川原にいた四戸の兵も、この地に兵団が寄せていることに気付いた。
 川原は土手の下にあるから、対岸のはるか向こうに如何ほどの兵力が寄せているのかなど、目視しようが無い。
 たちまち四戸兵の間に動揺が広がった。
 皆が足を止め、前方の様子を窺い見る。
 兵の幾人かが、大将らしき人物に伺いを立てた。
 これで周囲の視線が四戸兵の一人に集まった。

 重清は土手の上から、その様子を見ていた。重清には、その男の顔に見覚えがある。
 「あれは四戸金次郎だ。中務(宗春)の弟だな」
 すぐさま、重清は小保内三太郎を呼びつけた。
 「三太郎。あやつは城主の弟だ。あやつを捕らえよ。それでこの戦が終わる。殺すなよ。生かしたまま捕らえるのだ」
 重清の命は、ひとまずは目前の敵を押さえ、その後で後方の軍勢に対処しようとする意図による。
 そのためには、眼下の敵を電光石火で叩く必要があった。それには大将を捕らえるのが最も効果的である。
 三太郎は周囲の十五騎を率い、すぐさま土手を駆け下りる。
 「四戸金次郎を召し取るぞ。皆、俺に続け!」
 四戸軍はこれでさらに動揺した。
 三太郎の隊は僅か十五騎なのだが、四戸兵にはその後ろに何百何千の兵がいるように思えてしまう。
 それほど、前方が見えぬというのは不安なものなのだ。
 ましてや川原や川の中に身を置いているわけである。敵に攻められれば、自軍の方がかなり不利である。
 合戦の現場で最も恐ろしい敵は、己自身の不安感や恐怖心である。
 四戸軍はまさにその「敵」に襲われた。
 まず前列の四戸兵が恐れをなし、釜沢兵に背中を向け、対岸に戻り始めた。
 それを見て、今度は四戸の主力が一斉に後ろに下がった。

 この時、最前線にいた小保内三太郎は、自軍の勝利を確信した。
「今だ。この機を逃すな」
 三太郎の狙いはただ一人である。
 ましてや、敵兵は背中を見せて後退している。狙いをその中のたった一人に定めれば、取り囲むのは難しくない。
 三太郎は四戸金次郎を本隊から切り離すことに成功した。
 突撃隊が金次郎を川原に留める。既に周囲に四戸兵はおらず、金次郎一人がその場に取り残されていた。
 立ちすくむ金次郎を、三太郎ら五人が取り囲む。
 「四戸金次郎。抵抗を止めよ。我が主はぬしの命は取るなとのご命令だ。よって、大人しく従えば、ぬしを傷つけたりはせぬ」
 対岸の向こうでは、大将を放り捨てて、四戸兵たちが逃走していた。もはや「敗走している」と言っても過言ではなかった。
 その様を見て、金次郎は自らの刀を放り捨てた。
 「わしの負けだ。好きにせよ」
 三太郎はすかさず四戸金次郎の捕縛に掛かった。

 土手の上では、重清が北の方角を眺めている。
 無論、重清の心中は穏やかではない。
 もし、あの三戸兵が目時と帯同し、こちらを攻め立てるのであれば、重清以下、釜沢軍の命運は尽きるからだ。
 「俺もここまでだったか」
 ここで重清が左を向くと、遠くの山際に杜鵑女が一人で馬に乗って佇んでいた。
 この時、重清の目には、どういう訳か、杜鵑女の姿が詳細に見えた。
杜鵑女の外套の毛が風を受け、さらさらと揺れているのが鮮明に見えたのだ。
 重清の視線が杜鵑女のそれに合致すると、杜鵑女は大きく頷き、右手で北の方角を示した。
 その方角には、三戸軍が寄せて来ている。
 重清はすぐさま杜鵑女の意思を把握した。
 「杜鵑め。俺一人であの兵に立ち向かえと申すのか」
 ここで重清は少しく思案した。
 「なるほど。彼奴らが釜沢を獲りに来るなら、俺一人を殺せば、そこで話が済む。交戦せずに目的を達するのだから、我が家来共を殺(あや)める必要も無くなる。それなら、俺一人が死ねば、家来共の命が救われる勘定だ」
 かたや自軍を動かせば、相手もそれに対応し、必ず交戦に至る。
 重清一人ならば、一人が死ぬか、総て助かるかの二つにひとつである。
 すなわち、釜沢がもっとも得をする方策は、重清が己一人で三戸軍に対することであった。
 「なら、問答無用だろう。はは。目時筑前め。ぬしは戦うことなくして、釜沢を手に入れることになるな」
 腹が決まれば、後はそれを行動に示すだけである。重清は馬の腹を蹴り、単騎で三戸軍の方に向かった。
 主の動きを見て背後に家来たちがつき従おうとするので、重清はそれを制止した。
「尾(つ)いて来るな。俺が独りで対処する。十蔵。もし俺に何かが起きたら、その後はぬしが釜沢を率いるのだ。俺が死んでもけして抵抗するなよ」
 十蔵は答えず、じっと重清を凝視していた。

 三戸の兵団は、前にいた目時八十騎を押し退けるように前進し、重清の前に近付いた。
 重清はゆっくりと前進し、三戸軍に歩み寄る。重清が相手の先頭まで三十間の位置まで寄ると、馬群の後ろの方から将兵一騎が前に出て来た。
 すると、そこに現れたのは東信義である。
 そこで重清が「ふう」と息を吐く。
 「小次郎殿でござったか。なるほど」
 東信義は蓑ヶ坂の上に詰めている。
 その坂のすぐ下に大人数が集まっていたものだから、直ちに兵を出したのである。
 信義が兵を出したのは、偵察の意味もあれば、警告の意味もある。
 だが、重清にとって東信義はけして敵ではない。信義は己の利得のために動く男ではないことを、重清は充分に知っていた。

 東信義は重清のまん前に馬を止めると、快活に笑った。
「淡路さま。ご無事でしたか」
その声で、重清の全身の緊張がすうっと解けた。それは、もはや快感に近いほどの感覚である。 
 「うむ。百姓同士の騒動に託(かこつ)けて、我が領に侵入しようとした輩がおったようだ。此度は何とか撃退出来たようだが、それも小次郎殿が来てくれたお陰だ」
 「兵が寄せておるのは上からも見えました。三戸領に攻め入ろうとする者であることを想定し、兵を出したのです」
 「人数が多い。前に見た物見の兵だけではないようだな」
 「たまたま修練があり、留ヶ崎城下に兵を集めていたところです」
 「七八百はおるのか」
 「総勢一千三百でござります」
 ここで重清は腹の内で唸った。
 (南部大膳め。いよいよ九戸と戦うつもりなのだな。)
 その規模の演習を行うということは、近々に大掛かりな合戦を想定しているという意味でもあるからだ。

 重清が鬚面の顎をしゃくる。
 「小次郎殿。侍を一人捕らえましたぞ。見物しますか」
 「ことの次第を確かめねばなりませぬ故、是非もござりませぬ」
 そこで二人は並んで馬を返し、川縁に向かうことにした。
 馬渕川の川原に着くと、四戸金次郎と百姓の主だった者十数名が引き出されていた。
 重清が金次郎の前に立ち、高らかに言い放つ。
 「四戸金次郎。それがしのことは存じておろう。俺は小笠原淡路重清だ。そして、隣におるのが東中務殿だ。こちらも存じておるだろう」
 金次郎が唇を噛み締める。
 「きさま。三戸と通じておったのか」
 「なに。お前の眼が見えなかっただけだ。百姓を使って策を講じたつもりだろうが、これこの通り、川を越え我が領に進入したのはお前の方だ。それはここに証人がおるぞ」
 重清の傍らで、東信義が頷く。
 重清は馬を下り、ゆっくりと罪人たちの周りを回った。
 「お前たちは、上野平の村長の家を襲い、略奪を働いた。我が領では盗人を働く者は死罪だ。よって、これからお前たちの首を刎ねる」
 重清の言葉に、百姓たちが恐れ戦(おのの)く。
 「お許し下され。私どもは命じられたことに従っただけのことです。自ら望んで盗みを働いたわけではないのです」
 「ではそれを命じたのは誰だ。その者の名を、今ここではっきりと申せ」
 重清が命じるが、しかし、百姓共は金次郎の顔をちらちらと盗み見るだけで言葉を発しない。
 「申さぬのか。ならば一人ずつ、俺が手ずから首を落としてやろう」
 ここで重清は腰の大刀を引き抜いた。
 すると、それまで黙りこくっていた金次郎が、ここで口を開いた。
 「わしだ。百姓共に命じたのは、このわしだ」
 重清は腰を折り、金次郎の顔を覗き込む。
 「ほう。金次郎殿の一存だと申すのか。ぬしの兄、四戸中務殿の考えではないのか」
 金次郎が頭(かぶり)を振った。
 「いやわしだ。わし一人の一存でことを起こしたのだ。だから、わしの首を落とせ」
 金次郎は四戸一族に累が及ぶのを避けるために、己一人が罪を被ることにしたのだ。
 重清はここで腰を上げ、罪人たちを見渡した。
「いや。金次郎殿お一人の考えでは、斯様に軍は立てられぬ。これは中務殿の謀だ。それに違いあるまい。ならば」
 この一言で、その場にいる者全員が顔を上げ、重清を見た。
 「四戸中務殿に責任を取って頂こう」
 この先何が起きるのかと、皆が固唾を呑んで、重清の言葉を待つ。
 「金次郎殿。これから四戸城に戻り、中務殿に申すが良い。我が領に野々上の百姓共が侵入し、盗みを働いた。よって、以後この重清がこの百姓共を統括する。今日より野々上全域が我が方のものだ」
 周囲の目が一様に丸くなる。
 「さて百姓共。ぬしらはいずれか好きなほうを選べ。その一は、盗人として今ここで首を打たれるというものだ」
百姓の間から「ヒイ」という呻き声が上がる。
 「もう一つは、先ほど俺が申した通り、これ以後は潔く釜沢の者になることだ。もしお前たちがそれを望むなら、俺が蓄えてある米をお前たちに分け与えよう。この小笠原淡路は、自領の民を飢えさせたりなどせぬからな」
 重清のその言葉に、百姓たちは川原の砂利に頭を擦り付けるように、幾度も重清を拝んだ。
 「有難うございます。おらたちは小笠原さまにお仕えします。是非ともお仕えさせて頂きとうございます」
 死ぬか生きるかの二者択一で、しかも生きる方を選べば、食い物をくれようと言う。
ならば、答は言うまでもない。

 ここで重清が金次郎に向き直り言い放つ。
 「金次郎殿。百姓共の声を聞いたか。この通りだ。この者たちも異存はないと申しておる。ぬしとてそれに異存あるまいな」
 金次郎とて、選択の余地はない。もし不承知なら、次は三戸軍と戦うことになるからだ。
 「承知した」
 「その答え。ここにいる東殿が証人となるぞ。分かったな。もし違えれば、ぬしの主を討つ」
 これに金次郎が低頭した。
 「重ねて承知した」
 重清が四戸金次郎を殺さずに置いたのは、これが理由だった。
極めて手際の良い対応の仕方である。
 重清の近くには、小笠原十蔵と小保内三太郎がいたが、二人は顔を見合わせ、互いに頷き笑みを交わした。
 その二人に重清が命じる。
 「では、こちらの四戸金次郎殿を川向こうにお連れしろ。丁重にお送りするのだぞ」
 「御意」「御意」
 二人は金次郎に近付き、縄を解き放った。
  ここで重清が重ねて命じる。
 「十蔵。四戸忠五郎殿の首級と骸(むくろ)を四戸兵に引き渡すのだ。後は先方が然るべく取り計らうだろう」
 「はい」
 そこで、その場にいた者たちが一斉に動き出した。
 
 人々が散り始めたところで、重清は東信義に向き直った。
 「小次郎殿。先ほどそれがしは貴殿の力を利用致しました。この場を収め、かつ戦が後を引くことの無きようにするためには、致し方なかったのでござる。どうかお許し下され」
 東信義は快活な口調でこれに答える。
 「いや。お見事でござりました。あれなら、四戸宗春が此度の復讐を試みることはござりますまい。さすがは淡路さまでござりますな」
 「いや。我が民を守らんがために行ったことでござる。今は重ねてお詫び申し上げる」
 重清は信義に向かって丁寧に頭を下げた。
 「こちらこそ」
 今度は信義が拝礼を返す。
 信義は頭を上げると、直ちに配下に帰還を命じた。
 三戸兵の隊列の向きが替わり、兵たちが背中を向け、先ほど来た道を引き返し始めた。

 重清が兵たちを見送っていると、そこに二騎が駆け足で寄って来た。
 一騎は杜鵑女の乗る馬で、もう一騎には沼宮内治部が跨っていた。
 治部は真っ直ぐに進み、重清の許に駆け寄った。
 二騎が目の前に届いた時、重清の方が先に声を掛けた。
 「治部殿。近くで見ておられたのですか」
 治部は二度三度と小さく頷く。
 「うむ。何が起こるか見ずにはおられなんだでな。それに」
 治部は少しく言い澱(よど)んだが、しかし言葉を続けた。
 「もし貴殿が敗れ、その後、釜沢館が攻められたりしたら、中におるわしの命も危なかろう。外で戦況を眺め、貴殿が劣勢ならば、とっとと逃げようと思うたのだ。ははは」
 正直と言うか、人を食った親仁(おやじ)である。
 重清は思わず苦笑いを漏らした。
 「まあ、それが無難でござりますな」
 ここで治部が真顔になる。
 「しかし、淡路殿。冗談ではなく、貴殿は大変だぞ」
 その話を小耳に留め、傍らの東信義の眼がきらりと光った。
 この青年は生来の思慮深さが時折表に現れる。
 その東信義の表情を眺めながら、治部が話を続けた。
 「淡路殿。ここには一望するだけで、ざっと三十町を超える田畑がある。その総てに充分に水が供給されておろう。お父上や淡路殿が作られた用水路のお陰で、この地は旱魃にやられることはない。それら総て数十年前より計画され、構築された水利だ」
 治部の視線の先には、釜沢の田畑が広がっていた。
 「釜沢には糠部でも有数の田畑が存在する。それは今や諸侯の垂涎の的だろう。すなわち、今日のように、それを欲する者が、これからも押し入って来るということだ。まこと皮肉なものだのう。お父上の伊勢殿が領民のために推し進めた開墾の策が、逆に民を殺すことにもなりかねぬのだ」
 物事には表と裏、あるいは光の当たる部分と陰の部分がある。重清もそのことは重々承知していた。
 「しかし、だからと言って、民が飢えるのを放置するわけには参らぬ。冷害のため、他領では死者が出ておりますでな」
 ここで治部が深く溜息を吐いた。
 「北奥の地侍の総てが、伊勢殿、淡路殿のような考えを持てれば良いのだがな。もちろん、わしは貴殿の考えが正しいと思う。そう思って、水路作りを学ぶために、わしはここに参ったのだ」
 重清が今一度居ずまいを正して、治部に向き直る。
 「人には己自身の考えに従って、己の人生を歩むことしか道はござりませぬ。それを他の者がどう受け止めるかは、また別の話。そこまで考えは及びませぬし、考えても致し方ござりませぬ」
 治部はその言葉に二度頷いた。
 「いや、淡路殿。此度はまこと教訓になった。淡路殿の戦いぶりもこの目で見た。これが今日の午の刻から未の刻過ぎまでの、僅かふた時の間に起きたこととはな。まるで夢のようだ」
 ここに東信義が口を挟む。
 「皆さま。もはや日が暮れまする。そろそろ帰参致すことに致しては」
 「うむ」
 「では参ろうか」
 各々の兵たちは既に出発していた。
 それぞれの主は、各々の軍の最後尾(しんがり)に馬を寄せ、帰路についた。

 釜沢兵の背中を眺めながら、重清は隣を進む杜鵑女に語る。
 「杜鵑。これから斯様なことが続くとすれば、なかなか難儀なことだな」
 杜鵑女は主に顔を向けずに答える。
 「なに。淡路さまは勝たれます。天は淡路さまの味方ですぞ。この後は、雪中に鬼灯が赤い実を実らせぬ限り、淡路さまが戦に敗れることはござりませぬ」
 重清は杜鵑女の例え話に、思わず苦笑いを漏らした。
 「杜鵑。それはあくまで例え話なのだな。冬に鬼灯が実らぬ限り、とは、けして起こり得ぬという意味だ」
 ここで杜鵑女は頭の頭巾を取り、重清の前に顔を晒した。
 「淡路さま。ただの例えではござりませぬぞ。今、私は日夜修行を続けております。その中で、幾度と無く貴方さまのことを霊視させて頂きました。もし淡路さまが破れ、命を落とす時が来るとすれば、それは雪の中に鬼灯が赤い顔を覗かせる時だけです。ですが、そんなことはけして起きますまい。すなわち、淡路さまは、いずれ必ずこの北奥の盟主となられるのです」
 重清は顎をゆっくりと横に振った。その顎には、この数か月の間に、鬚が長く伸びていた。
 「杜鵑。俺はそんなことはどうでもよい。ただ我が民の命と食を守りたいだけなのだ」
 この日、重清は命の懸かる戦いを経験したばかりである。この先もこれが続くことを考えると、さすがにうんざりする。
 しかし、杜鵑女は重清の目を見据えて言い放った。
 「淡路さま。淡路さまと釜沢の民が生き残るためには、この地を脅かす敵を悉く倒す他、道は無いのです」
 杜鵑女は真っ直ぐ前を見詰め、確信に満ちた口ぶりで重清を説いた。

 重清は館に帰り着くと、まずは沐浴を済ませ、神に祈った。
 その後、食事を摂り、早目に寝所に下がった。
 重清は夜着を被り眠ろうとしたが、やはり戦闘を経験した直後である。胸が昂ぶり眠ることが出来なかった。
 目を瞑ると、四戸忠五郎の顔が浮かんで来る、忠五郎は首を切り落とされた後も、うらめしそうな目で重清を睨んでいた。
 首を切り落とす瞬間のあの手の感触や、まるで手拭を急に振った時にする「ダツン」という断骨の音も耳から離れない。
 やはり人殺しは、心地よいものではないのだ。
 気がつくと、亥の刻を過ぎ、子の刻に達そうかと言う頃合になっていた。
 もはや真夜中で、館内は隅々まで深閑としている。
 「どうにも眠れぬな」
 重清は起き上がって、囲炉裏に炭をくべた。
 重清がよく眠れぬのは、昼の戦いの興奮が残っていたことだけでなく、この夜が一段と冷え、寒かったせいもある。
 「今宵はよほど冷えるぞ」
 手足は氷のように冷え切ったままである。
 そこで、重清は立ち上がり、板戸を開いて廊下に出た。
 酒でも飲んで体を温めようと考えたのだが、既に深夜である。この時刻に侍女を起こすのは忍びないので、重清は自ら厨房に行き、酒を持って来ることにした。
 重清は厨房に足を踏み入れ、戸棚を探すが、酒の甕がどこにあるのかが分からない。
 あっちを開き、こっちを覗くが、どうにも見つからず、重清は往生した。

 この時、桔梗は廊下を歩く足音で目を覚ました。
 「ああ。あれは長一郎さまだ」
 昼には戦闘があり、重清も奮戦したという話を聞いている。
 命の賭かる戦いを経験したのだから、よく眠れぬのも当たり前だろう。
 「おそらく酒をお探しなのだわ」
 桔梗は起き上がり、夜着を肩に掛け、廊下に出た。
 手燭台を掲げ、厨房の前に立つと、板戸が開いている。
 果たしてその中では、重清がごそごそと戸棚を掻き回していた。
 桔梗は重清の背中に声を掛けた。
 「長一郎さま。何かお探しでござりますか」
 主殿で暮らすようになり、何時の間にか、桔梗は重清のことを「淡路」ではなく「長一郎」と呼ぶようになっている。
 館内の者たちがそう呼ぶのに、桔梗の耳が慣れて来ていたのだ。
 もちろん、直接呼びかける時だけではあるが、もはや身内に近い感覚に近付いていた。
 桔梗の声に重清が振り返る。
 「いや。酒を飲もうと思うてな」
 そこへ侍女のみちがやって来た。
 寝ぼけ眼を擦りながら、みちは桔梗の近くに寄って来た。
 桔梗はその侍女を制した。
 「みち。良いのです。淡路さまのお世話は私が致します。お前は床に戻って休みなさい」
 みちはこっくりと頷くと、用人部屋の方に戻って行った。
 
 桔梗はもう一度重清に向き直った。
 「お酒の甕(かめ)は一番奥の戸棚の下です。私がお出しします」
 桔梗はそのまま奥に進み、戸棚の扉を開く。その下の段には、酒用の甕が置かれていた。
 甕を前に引き出し、別の店から酒器を取り出す。
 酒器に酒を移そうとすると、重清が甕を持ち上げた。
 「女子には重かろう。俺がやろう」
 重清に甕を渡す際に、桔梗の指が重清の手に触れた。
 「冷たい」
 重清の手はすっかり冷え切っていた。

 「長一郎さま。お寒うござりましょう。すぐに手炙りを寝所にお持ちします。しばらくお待ち下さい」
 桔梗のその言葉にも、重清は終始無言である。重清は黙ったまま中腰になり、甕を傾けている。
 暗がりの中、重清の横顔を見詰めながら、桔梗は考えた。
(昼に何があったか、長一郎さまは秘して語らぬけれど、人の心の内は物腰に現れるものだ。) 
 重清の淡々とした振る舞いは、常日頃より一層男らしい。
 重清は器に五合ほどの酒を移し終わると、ゆっくりと腰を上げた。
 「これでよし。起こして済まなんだな。あとは良いから、もう休んでくれ」
 「手炙りをお運びしたら、すぐに休みます」 
 「分かった」
 重清はそう言い残すと、桔梗に背中を向け厨房の外に出た。

 重清は厨房から出ると、渡り廊下を上り下りして、主館の廊下に入った。
 寝所は、廊下を真っ直ぐ進んで、突き当りを右に曲がったところにある。
 重清がその突き当たりに差し掛かると、廊下の左側が見え始めた。
 深夜と言うこともあり、蝋燭の灯りでは、ほとんど先が見えない。
 だが、薄暗がりの中に誰かが立っているのを、重清は感じ取った。
 その黒く重い気配は、この数ヶ月の間、幾度と無く重清の前に現れたものと同じだった。すなわち、今は目時館にいる正室・雪路の生霊である。
 重清はその影に向かって言葉を投げ掛けた。
 「奥か。そうやって出たところで、何も変わりはせぬ。早々に去(い)ぬるがよい」
 重清は生霊にそう告げると、そのまま右に曲がり寝所に入った。

 桔梗が手炙りを抱え、寝所の中に入ると、中央の囲炉裏の前に重清が座っていた。
 灯りは無く、囲炉裏の炭火だけが赤く燃え盛っている。
 すぐ隣には敷物が敷いてあり、夜着が広げられていた。重清は酒を飲んだら、そのまま囲炉裏端で眠りに就くつもりらしい。
 桔梗は重清の背中の後ろに手炙りを置いた。
 こうすれば背中が暖まるからだ。

 「夜分に手を掛けたな。桔梗殿も少し酒を飲むと良い。それで寝つきが良くなる」
 重清は桔梗が返事をする前に、杯を手渡した。
 桔梗が杯を受け取ると、すぐにその杯に酒が注がれる。
 桔梗がその酒を口にすると、先ほどまでとは打って変わって、重清が語り始めた。
 「今日。俺は四戸忠五郎と申す男の首を斬り落とした」
 「左様でしたか」
 「齢の頃は四十を少し越えたくらいだな。あの男にも妻や子がおっただろう」
 「不憫に思われるのですか」
 重清は小さく首を横に振った。
 「いや。あやつを殺さねば、俺が逆の立場になっていたかも知れぬ。それが戦だ。負けた者は叢で朽ち果てる。それが定めなのだ。だが・・」
 桔梗は顔を上げ、重清の言葉の続きを待つ。
 「俺はあの男のことをけして不憫には思わぬ。俺や俺の親族・縁者、家来共や釜沢の民のためなら、俺は幾度でも同じことをしよう。だが、そう思うていても、何故か鳩尾(みぞおち)の奥が冷えるのだ。己の周りを風が吹き荒んでいるようで、寒うて敵わぬ。余りの寒さに、手足の先がびりびりと痺れておる。だが、本当に寒いのは、体ではのう心の方なのだ」
 桔梗が重清の手指に視線を遣ると、確かに指の先が小さく震えていた。
 それを見た桔梗は、不思議な感覚に囚われた。
 何時か分からぬが、かなり前に、この場の情景を見たような気がしたのだ。
 屈強な男が目の前にいて、桔梗はその男をじっと見守っている。
 そんな情景だ。
 しかしそれは、「前に見た」ものではないのかも知れぬ。「そうなって欲しい」「そういう時が来て欲しい」という、桔梗の願望だったのかも知れぬ。
 恐らく桔梗は、これまでずっと、こういう時が来るのを待っていたのだ。

 ここで桔梗は独り頷いた。
 「そして、今がその時なのだわ」
 桔梗はそのことを声に出して言っていた。
 唐突な言葉に、重清が顔を上げて桔梗のことを見詰める。
 桔梗は確信を得て、重清の左隣に体を寄せた。そこで重清の右手を取り、両手で包んだ。
 「長一郎さま。貴方さまの冷えた心と体を、今宵は私が温めて差し上げましょう」
 桔梗は重清の手を引き、己の胸元に引き入れる。
 桔梗の帯は既に緩められていた。桔梗は先ほど重清の寝所に入る前に、半ばは覚悟を決めていたのだった。
 「長一郎さま。私は心を決めて参りました。貴方さまも、よもや女子に恥を掻かせるようなことはなさりますまい」
 重清の右手が桔梗の乳房に触れる。
 心を決めた女の肌は、驚くほど熱く燃えていた。

 ここで重清も腹を括った。
 「承知した。ぬしの心。俺は確(しか)と受け止めよう」
 重清は桔梗を抱き上げると、ゆっくりと傍らの敷物に寝かせた。
 それから、桔梗の右隣に膝をつき、桔梗の着物の襟に手を掛けると、力強く左右に引き開けた。
 重清が桔梗の乳房に掌を添える。
 そこで桔梗は「あ」という声を小さく漏らした。
 それは、桔梗が夜毎に想像したのと、まったく同じ情景であった。
           (この章終わり)

◆注記◆
「一里」:この頃の一里は六、七百㍍であり、地方によって異なる。
「小笠原伊勢信清」:「清」の表記は「浄」と書かれることもあるが、親子で統一してこの表記とした。 

ギャラリー

寺舘山
寺舘山

坂下を奥州道(陸奥道)
坂下を奥州道(陸奥道)

城の下(釜沢用水)
城の下(釜沢用水)

.