(一)陸奥(みちのく)行
縁側で手水を使った後、ふと視線を上げると、庭の木々が眼に入った。
庭の周囲には風除けのために、唐松や山桃の樹を植えてあった。これだけでは寂しいので、所々に何かしらの落葉樹を植え、季節を眼で楽しめるように工夫した。
春は木瓜(ぼけ)だ。鮮やかな木瓜の紅色が、本格的な春の到来を教えてくれる。
秋にはやはり紅葉(もみじ)だろう。この紅葉は秋が来る度に眼を楽しませてくれる。
しかし、このところは雑事にかまけており、手入れをほとんどしなかったので、木々の枝が互いに入れ子になるほど伸びてしまっていた。
「とんと気づかぬうちに季節が替わるなあ」
私は独り言を呟いて、廊下を歩き始めた。
この家の手水場は書斎とは逆の方角にある。このため、手水を使うには、家の周りを半周する必要がある。
縁側廊下は家の周りを囲むようなつくりになっており、一辺がほぼ二十間の長さがある。幅も一間を少し超えるほどの広さで、かなりのゆとりがあった。
その廊下の端まで進み、角を右に曲がると、私の三間ほど前に、日頃より見覚えのある背中が見えた。
(ああ。森下君だ。)
森下青年は、玄関から板間に上がり、そのまま私の書斎に向かおうとしているのだ。
森下青年は歩きながら、奥の書斎の方に向かって声を上げた。
「井ノ川先生。先生はご在宅ですか!」
何か火急の用事があるらしい。
森下青年は気が急(せ)いているのか、ほとんど小走りになっている。
彼がこういう時は、概ね用件の内容が決まっている。
(森下君はまた何か妖怪話を持って来たのだ。)
私は森下青年の背中に声を掛けた。
「森下君。私はこっちだよ」
森下青年が足を止め、後ろを振り向く。
「先生。ご在宅でしたか」
また何か変わった事件が起きたのだ。
森下青年の嬉しそうな表情が、そのことを如実に物語っていた。
「まあ、ひとまず書斎に入ろう。君の話はそこで聞こう。ゆっくりとね」
私の名は井ノ川円了と言う。東京市の郊外に居を構え、この日の本に哲学を敷衍することを志している。
明治のご一新の後、はや三十年近い月日が経ったが、この国の民は、いまだに迷信や俗信に囚われている。私が自らの務めと見なしているのは、人知で解決出来ることを、この世のものならぬ超常現象のせいにする。そんな世間の風潮を正して行くことだ。
今、私の目の前にいる青年は、森下林太郎と言い、帝国陸軍の軍医を務める。
森下君は二十歳を過ぎた頃から、長期に渡り独逸国に留学していたが、今からちょうど二年程前に帰国していた。
彼は帰国直後に、偶々(たまたま)私が狐狗狸(こくり)現象を解明するところを目の当たりにし、それ以来、時々、私の家を訪れるようになった。
まあ、彼は陸軍の中ではまさに選良(エリート)そのものと言っても良く、自分の好きなように医学の研究をしても良い立場だ。それゆえ、彼は軍にあっても、比較的好きなように時間を使うことが出来る。
そう言った経緯で、彼は市井で様々な怪異譚を拾って来ては、私の所を訪れる。
そして、私の家に上がり込んでは、挨拶もソコソコに「今度はコイツを退治しましょう」と持ち掛けるのだ。
座卓の向こう側に座るなり、森下青年は早口で捲し立て始めた。
「先生。今回の話は本物ですよ。先生の言われる『真怪(しんかい)』というヤツです」
眼の色が真剣だ。森下青年は齢三十歳に届いている筈だが、好奇心が強いこともあって、実年齢よりもだいぶ若く見える。
「円了先生。先生はエレオノーラ号をご存知ですか。露西亜(ロシア)船籍の貨物船・聖エレオノーラ号のことです」
「ああ。つい最近新聞で読んだ。先頃、陸奥(みちのく)の海で見つかった漂流船のことだね」
「そうです。魹(とど)ヶ崎沖を漂っていた船のことです」
「確か船員全員が消えていた船だ」
「はい。その船はひと月ほど前に、海に浮かんでいるところを発見されました。その地の漁師が上がって見ましたが、船内には人が一人もいませんでした」
「かの有名なメアリー・セレスト号と同じような話だね。そっちは今から四半世紀くらい前のことだ。その船は葡萄牙(ポルトガル)沖で漂流していたのを発見された。船の中には、つい今しがたまで誰かが食事をしていたような形跡があったが、しかし誰も乗っていなかった。なぜ船員が一人も乗っていなかったかは、いまだに謎のままだ」
ここで森下青年が座卓の上に身を乗り出した。
「こっちのエレオノーラ号は、発見された状況が彼の船とまったく同じでした。魹ヶ崎は本州の最東端の岬として知られる地です。船はこの岬の沖を漂っており、夜中に烏賊釣り漁船と衝突しそうになりました。漁師が合図をしても何の返事も無く、船上は真っ暗だったと聞きます。漁師たちが不審に思い、その船の中を検めて見たのですが、船上には誰一人として乗っていなかったのです」
「不思議な話だ。どうやって無人の船がそこまで辿り着いたのか。また、なぜ人が消えたのか。皆目見当が付かない。荷物はそのまま残っているのだろ?」
森下青年が頷く。
「はい。今日はその荷物の話なのです。その船には欧州からの荷が積んであったのですが、荷はそのまま残されていました。その荷の中に私宛ての包みがあったそうで、昨日、『直ちに必要なら、こちらまで取りに来い』という報せが来たのです。程なく船は魹ヶ崎に近い姉吉港に曳航され、そこに停泊される模様です」
「本州最東端の岬まで荷を取りに来いとは、実に難儀な話だ。本来なら船主が横浜まで運ぶ段取りを取るべきだろう」
「しかし、船員全員が消息不明なので、露西亜国の船主に連絡を取り、先方が手段を講じるのを待つとなると、優に三か月は掛かります。それなら、そこまで来られる荷主は自分たちで取りに来いと言うのも、まあ分からないでもありません。ひと月で荷を手に入れる事出来ますからね。これでも善意のつもりなのでしょう」
「台帳がそのまま残っていたので、送り先が分かったというわけか。しかし、外国から森下君へ荷が届くのなら、その荷の送り主は独逸国の人なのだろう?」
「はい。詳細は分かりませんが、恐らくは私が彼の国に滞在していた時に、交わりのあった人の誰かが送って寄こしたのでしょう」
「見当はつくのかね」
「ライプツィヒとドレスデンには長く滞在していました。そこで私が下宿していた家族や訪問先に幾つか思い当たる人がおります」
森下青年はここで言葉を止め、私の顔をじっと見詰めている。
勿論、森下青年が次に何を言わんとしているか、私はすぐに悟った。
「そこで、君はこの私にも、その船の所まで一緒に行こうと言いたい訳だね」
「はは。私は先生に向かって『一緒に行きましょう』などと申し上げられる立場にはありませんよ。ただ、こういう話なら、先生が黙って見逃す筈はないと考えたのです」
ここで私は座卓の脇に置いていた文箱(ふばこ)から、一通の手紙を取り出した。
「偶々(たまたま)だが、二日前に、岩手の盛岡からこの手紙が届いた。六歳の子を持つ母親からの手紙だ。まずは、その手紙より先にこっちを読むと良い」
私は手紙の中から新聞の切り抜きを引っ張り出して、森下青年に渡した。
森下青年は四つ折りの紙を拡げ、声を上げて記事を読んだ。
「どれどれ。去る八月一日。盛岡仙北町に住む尋常小学校一年の菊池孝君、菅原一郎君、小野寺芳江さんの三人、学校の帰路明治橋を渡りし。子ども等、橋の上より川面を見下ろするに、忽ち水面に着物を着た女が現れり。三人は驚きて逃げ帰りたる由なり」
森下青年の朗読に、私が手紙の内容を続けた。
「手紙はその記事に書かれた小野寺芳江さんの母親から届いたものだ。橋で幽霊を見てから、娘の芳江はずっと家に引きこもっている。どうか幽霊を退治し、娘が登校出来るようにして下さい、と書いてある。この手紙を貰ったのは、この記事が新聞に書かれる前のことだ。事件が起きた直後、すぐに書き送ったらしい」
私の言葉を聞き、森下青年が零れんばかりの笑顔を見せた。
「この日の本で、妖怪退治、幽霊退治と言えば、井ノ川先生を置いて他には頼れる方はおりません。何せ先生は別名『妖怪博士』と呼ばれる程の方ですからね」
森下青年は二人帯同しての陸奥行きを疑ってはいないようだ。
「それから何カ月も経ってしまったが、まあ、幽霊、あるいは妖怪が子ども等を悩ましているなら、是非とも解決しなくてはなるまいね。それに・・・」
前回のこともある。
あの怖谷(おそれだに)での稀有の体験は、今もなお私の心を悩ませ続けていた。
これは森下青年の方も同じだろう。