北奥三国物語 

公式ホームページ <『九戸戦始末記 北斗英雄伝』改め>

早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



島の女 ─盗賊の赤虎が奥州平泉で鬼女と戦う話─                   

 本作は平成24年9月より12月まで盛岡タイムス紙に掲載された中編小説である。
 盗賊の赤虎は三十台の半ば頃の設定になる。
 説話文学に「鬼女の島」「女護ヶ島」の話があるが、今の済州島付近の設定であるようだ。
 直接的には、「今昔物語」巻第三十一第十二「鎮西の人、度羅の島に至りし語」を中心に、複数の説話を合わせ翻案したものである。

 『島の女 ─盗賊の赤虎が奥州平泉で鬼女と戦う話─』

達谷窟毘沙門堂
達谷窟毘沙門堂

 (一)赤虎、侍に捕縛されるの巻
 時は天正の初め頃の話である。
 ある年の夏に、北奥の各地を荒らしていた男が、ふとしたことで捕縛された。
 その男は赤平虎一という名で、世人は男の名を短く詰め「赤虎」と呼んだ。
 赤虎はまだ三十を幾つか過ぎたばかりであったが、既に数十人の盗賊団を率いる首領であった。
 この時、盗賊の赤虎は戦闘で受けた傷を癒すために、出羽の湯治場に長逗留をしていた。
 湯治場に十日も滞在すれば、米や魚菜も乏しくなってくる。そこで赤虎は食物を買い足すために湯治場の外に出た。
 湯治場から最も近い村へは、ほぼ三里の道程であった。
 その村に向かう道の中頃には、幅十間ほどの川がある。その川を渡るために、丸太を三本縛っただけの細い橋が川向こうまで渡してあった。
 赤虎がその橋の上をゆっくりと歩いている時、たまたま向こう岸で遊んでいた五歳くらいの女児が、ふとしたはずみに川に落ちた。
 山間(やまあい)に流れる急流である。女児は瞬く間に流されようとした。
 傍にいた子どもたちが声を上げると、川で野菜を洗っていた女たちが四五人走り寄ってきた。しかし、激しい流れを前にすると、皆が尻込みをして、岸であれあれと叫ぶばかりである。
 女児は浮きつ沈みつしながら、下流の方に流されて行く。
 「これはいかん。溺れてしまう」
 咄嗟のことで、赤虎は着物を脱ぐ間もなく、そのまま川の中に飛び込んだ。
 赤虎が二十間ほど下流に泳いだところで、女児があっぷあっぷしながら流れているのを見つけた。
 赤虎はその女児の首根っこを掴まえると、すぐさま胸に抱き上げる。赤虎は女児を抱えたまま上向きで泳ぎ、程なく岸に辿り着いた。
 その女児を土地の女たちに渡した後、赤虎は、川原の草叢にごろりと横になった。
 背丈が六尺に達し、極めて頑丈な肉体を持つ赤虎であったが、泳ぎはさほど得意ではなかった。赤虎はしばらくの間天を見上げ、はあはあと息を弾ませた。
 もはや初夏の候とはいえ、濡れたままの着物を着たままでは風邪を引く。そう考えた赤虎は、半身を起こし着物を脱いだ。
 立ち上がって両手で着物を絞る。
赤虎は着物が含んでいた水を切ると、傍らの潅木の上にそれを載せた。
 この赤虎の背中一面には、毘沙門天の刺青が施されている。その色鮮やかな絵柄は、濡れそぼつ大男の背で、ひときわ異彩を放っていた。
 「おお」「何と見事な」
 後ろで見ていた見物人の間から、溜め息のような歓声が上がった。
 その見物人の間から、一人の女が駆け寄る。女は齢四十くらいの年恰好であった。
 「おらほの娘の命を救って下さり、有難うござります」
 女は先ほど溺れかかった女児の母親で、娘を救った男のために、体を拭く手拭を届けに来たのである。
 赤虎は黙ってこれを受け取ると、頭髪を拭き始めた。
 「茣蓙(ござ)も携えて来ましたので、これに座って休んでくなんさい」
 女は土手の上に茣蓙を敷くと、その中央に赤虎を座らせた。
 「すぐに酒と肴をお届けします。このままここで待っていてくなされよ」
 そう言い残すと、女は再び小走りで村の方に去って行った。

 赤虎は茣蓙の上で横になり、手足を広げた。天を見上げると、お天道様がちょうど真上にいる。
 「今日はよく晴れておる」
 赤虎は一つ伸びをして両眼を閉じた。
 そのまま小半刻もうたた寝をしていると、その赤虎に声を掛ける者があった。
 「おい男。起きろ」
 赤虎が眼を開くと、己の首元に槍の穂先が光っていた。
 何ごとかと槍の主を見ると、己のすぐ傍らに立ち、槍を構えていたのは、壮年の侍であった。さらに、その周囲にはその侍の家来と思しき男たちが五六人も控えている。
 「おい。貴様は北奥に名高い盗賊の一人であろう。確か赤虎とか言うごろつきの筈だ。汝(うぬ)の背中の刺青がその証拠だろう。言い逃れは許さぬぞ、赤虎。そのままゆっくりとうつ伏せになれ。わしの言われた通りにせねば、今直ちに汝を突き殺す」
 赤虎は言われるがまま体を反転させ、茣蓙の上に腹這いとなった。
 「両手を後ろに回せ」
 赤虎が言われるまま左右の手を腰の後ろに回すと、侍の家来が赤虎を縄で縛った。
 侍は油断無く赤虎を見張りながら、話を続ける。
 「橋の袂(たもと)に近付いたら、たまたま子どもが溺れているのを、汝が助け上げるところだった。なかなか感心な奴だと思い、そのまま眺めていたが、つい先ほど汝の背中を見てしまった。わしの立場上、ひと度ぬしを毘沙門党の首領と認めてしまったのなら、このまま見過ごすわけにはいかぬのだ。よし、立て!」
 「なるほど。溺れた子を助け上げるなど、盗賊らしからぬ振る舞いをしたことが、此度(こたび)のしくじりの元か」
 赤虎はゆっくりと立ち上がった。
 「立っているところを見ると、噂に違わぬ大男だな。さすが奥州にその名を轟かせた盗賊だ」
 「ふん。この俺をどこに連れて行こうというのだ」
 「貴様は何十人もの人を殺めてきた悪党だ。今直ちに殺したところで、誰も異を唱えはすまい。だが、今のわしは海に出て京に向かおうとしておるところだ。ひとまず港まで貴様を連れて行き、当地の地侍に引き渡すなり、その場で磔(はりつけ)にするなり、そこで決める事にする。よし、わしの馬の前を歩け」
 侍が顎をしゃくると、直ちに馬の口を引いた家来が駆け寄り、主にその手綱を渡した。
 ここで侍が出立を宣言する。
 「我らには必ず果たさねばならぬ務めがある。さあ出発だ」
 「はい」「はい」
 家来たちの返事が響く。
 赤虎が後ろを振り返ると、その侍の率いる家臣団は総勢三十数名であった。

 一行が野代港に着いたのは、その翌日である。船着場に降り、海の方を向くと、港の沖には、遠目にも巨大な安宅(あたか)船が停泊していた。その船は二百人も乗り込めそうな、まさに城のような軍艦であった。
 赤虎を捕えた侍は杉原辰之丞という名である。杉原は北奥・出羽の各地から、武器と馬具火薬を買い入れ、自領に運ぼうとしていたのだ。
 輸送隊の総勢は二百三十人で、うち漕ぎ手の人足は八十八人であった。
 「おい。盗人」
 赤虎は岸壁に立つ艫(とも)綱を繋ぐ柱に縛られていたが、背後から響く杉原の声に顔を上げた。
 赤虎は返事をせず、侍の方に向き直る。
 侍は赤虎のことを見据えたまま、この後の赤虎に対する処遇を告げた。
 「赤虎。貴様は我が軍艦に乗り、櫂を漕ぐのだ。ぬしの体躯は、ただ殺してしまうには惜しい。よってその体を、わしのために使わせてもらうことにした。この先、ぬしの一生は船の上だ。だが、今この港で首を斬られるよりは、はるかにましな扱いだろう」
 否が応もない。赤虎はただ従うしかなかった。

 赤虎が押し込まれるように安宅船の底に入ると、ずらりと居並んだ男たちが一斉に見上げて来た。船には左右両側に四十人ずつの漕ぎ手がそれぞれの腰掛に座っている。
 いずれも、ひと癖もふた癖もありそうな面構えであった。
 ここで、下役の侍の一人が、赤虎を舳先(へさき)側の右の三列目に座らせた。
 「ここが汝(うぬ)の座る場所だ。気を入れて漕ぐのだぞ」
 侍は、まず腰掛用の丸太に赤虎の左足を鎖で繋いだ。その次に赤虎を縛っていた縄を解く。これで赤虎が動けるのは、四方に一歩ずつとなった。
 「これから汝らが生きていくのはこの場所だ。力を加減したり、気を抜いた者には鞭が飛ぶぞ。もちろん、そんな奴には飯も与えない。生き永らえたくば、我らに命じられた通りひたすら櫂を漕ぐのだ」
 侍は一方的に言い残すと、すぐさま背を向けて立ち去った。
 赤虎が何気なく右を向くと、櫂の差し出し口の隙間から、僅かに海が見えた。その隙間からは、涼しげな潮風が吹き込んで来てもいた。
 今は初夏である。赤虎は身につけていた着物一枚を脱ぎ、褌一丁の姿になった。
 「おお」
 「あれは・・・」
 「なんと見事な色合いだ」
 赤虎の背中には、衆目を集めずには置かぬ、色鮮やかな毘沙門天の刺青があった。
 「毘沙門の刺青とあれば、噂に聞く盗賊の赤虎ではないか」
 「あの盗人が遂に捕まったのか」
 間を置かず、男たちの間から声が上がった。
 「赤虎。わしらを救ってくれ」
 「そうだ。お前なら、きっと今の境遇を打ち破ることが出来るだろう。どうかわしらを、もう一度陸(おか)に上がらせてくれ」
 「そうだ。もしわしらを解き放ってくれるなら、その後わしらは皆、お前の、いやお前様の手下となろう。下僕でも、奴婢でもなんでもよい。一切文句を言わず、お前様に付いていく」
 「そうだ。お頭。是非ともわしらを解放してくれ」
 男たちが口々に喚くのを、赤虎はしばらくの間黙って聞いていたが、歓声が少し静まった頃を見計らい、徐に口を開いた。
 「お前たち。まずはこの俺を確(しか)と見ろ。今の境遇は、俺もぬしたちも何ひとつ変わらぬ。足を鎖で繋がれて身動きが取れぬ。今ここでどうにかせよと言われても、何とも答えようがない」
 この赤虎の答えを聞くと、一瞬にして、周囲の熱気が鎮まった。
 人足たちは皆罪人か奴隷である。これまで長い間ずっと、船底で艪を漕ぐ毎日を送ってきた。このため、その場の嘘でも構わぬから「俺に任せて置け」というひと言を望んでいたのだ。
 落胆を表わす溜め息が四方から漏れた。
 男たちが従前の通り下を向く。
 「だが」
 再び赤虎が口を開くと、周囲の顔が一斉に上を向いた。
 「希望を捨てぬ限り、いずれ好機は来る。たとえどんな境遇にあっても、いずれは己の力で己自身を救い上げようという気概を持つことだ。ぬしたちを解き放つのは、この俺ではなく、ぬしたち自身の不屈の志なのだ」
 赤虎はごく当たり前のことを口にしたのだが、盗賊としてこれまで踏み越えてきた修羅場の数々が、周囲を圧倒する力強さを生んでいた。
 赤虎のこの言葉で、男達の眼の色が変わった。
 「はい」
 「はい、お頭」
 この時、甲板から銅鑼(どら)の音が響いた。
 出航の時が来たのである。
 「櫂を外に出せ!」
 階段の上から、侍の命じる声が響いた。
 
 軍艦は野代港を出ると、沖合で帆を張り、南下航路を辿った。
 最初の寄港地は加賀である。軍艦は加賀に寄港すると、そこで一旦、奥州から運んだ積荷を下ろした。
 すると、休む間もなく再び出航となった。
 加賀沖で帆を張ると、杉原辰之丞が甲板から下りて来た。
 「ようやく船が港に着いたと思ったら、再び出航だ。さぞ、これから一体どこへ行くのかと思うたことであろう。良いか、者共。この艦の名は波多田丸と言う。すなわち、次に赴く地は西海ということだ。陸では今まさに我が殿が合戦を始めようとしておる。我らが休むのは、織田弾正との戦に勝利した時のことだ。その時まで、我らは我が殿のために、東だろうと西だろうと、資材の調達に回るのだ」
 この言葉を聞き、赤虎は、この軍艦が何のために奥州から西海までを航行しているのかを理解した。
 (なるほど。後方から支援物資を国に送ろうとしているわけだな。織田勢と戦っているのなら、さしづめこ奴らは甲斐の者たちか。あるいは越後の上杉か)
 この視線に、杉原が気づいた。
 杉原は赤虎が己のことをじっと見ているのを悟り、ぎゅっと眉間に皺を寄せ睨み返して来た。

 船はそのまま西に向かった。
 異変が起こったのは、船が隠岐島を過ぎた辺りである。
 急に空が真っ暗となり、強風が吹き荒れ始めた。
 「なんだこれは。秋でもないのに大風とは」
 杉原は直ちに家来に命じ、帆を下させた。
 しかし、風は益々強まり、波が荒れ狂う。
 「荷をきつく縛るのだ!」
 杉原が叫ぶが、船は風に舞う木の葉のように、波に揺さぶられた。
 「これはいかん。この船は外海を航海するようには作られておらぬ。このまま海が荒れたままなら、あるいは・・・」
 杉原は梯子を駆け下りた。
 「お前たち。櫂を外に出せ!東の方角に向け、ひたすら漕いで、漕いで、漕ぎまくれ。陸は東だ」
 人足たちが、大慌てで櫓を船の外に出した。
 杉原は再び梯子を上ろうとしたが、その途中で赤虎に目を止めた。
 (そう言えば、こ奴は子の命を救ったことがあったな。)
 杉原は家来の一人を呼びつけた。
 「この者の足枷を外してやれ」
 杉原がひと言言い捨てて、船底を立ち去ろうとするのを、赤虎が呼び止める。
 「おい。どうせ外すなら、この俺だけでなく、ここにいる者総ての足枷を外してやれば良いではないか。ここは海の上だ。ましてやこんな嵐の中を、どこへ逃げるでもあるまい。相手は人ではなく天だ。船の行く末など、人知の及ぶところではあるまい」
 杉原は振り返って、赤虎の顔を見た。
 その杉原から視線を外すことなく、赤虎が言葉を続ける。
 「たとえ船が転覆したとしても、残った者が手を取り合えば、生き残る者が何人か増えよう。船とともにこの者たちが沈んでしまえば、その機は総て失せるのだ」
 赤虎は確信に満ちた表情をしている。
 杉原はほんの少し思案したが、すぐさま顎をしゃくった。
 「よし。ぬしの申す通りにしよう」
 船は上下左右に揺れていた。
 杉原はよろけそうになりながら、配下の侍に命じた。
 「こ奴らの足枷を外してやれ!」
 命じ終わると、すぐさま杉原は梯子に向かった。

 船はそれから一刻ももたず転覆した。
 横波を食らった船が裏返しとなり、舳先のほうから海中に沈み始めたのだ。
 資材を山ほど積んでいた船は、自らの重みに耐え切れず、半分が海中に没しようとした時に、真っ二つに折れた。
 しかし、何が幸いするかはわからない。
船体が二つに割れたがために、中にいた男たちは、一気に外に放り出された。
 赤虎も海の中にドボンと落ちたが、浮かび上がってみると、折れた帆柱が近くにあった。
 ひとまずはこれに掴まり、周囲を見渡すと、十五間先には大波にもまれる黒い頭がいくつも見えていた。
 「おおい。すぐ後ろに帆柱が浮かんでいるぞ。皆こっちに戻ってこれに掴まれ!」
 暴風雨の最中である。赤虎の声は雨風に遮られ、男たちには届かない。
 赤虎が横を向くと、すぐ近くに杉原の頭が浮いていた。海に放り出された時に頭を打ったらしく、杉原はすっかり気を失っている。
 赤虎は丸太に掴りながら、片手で水を掻き杉原に近寄った。
 「杉原。まだ生きておるのか。返事をしろ」
 杉原の頭は水面を上下していたが、赤虎が首根っこを掴んで引き寄せると、その拍子に「うっ」と声を漏らし、息を吐いた。
 「生きていたか。ならこれに掴まれ。杉原辰之丞」
 赤虎は杉原の腕を引き寄せ、腋の下に丸太が入るように抱き付かせた。さらにこの侍の着物の袖を破り取り、侍の体を丸太に固く縛りつけた。
 波がうねり、赤虎たちは五間以上の高さから、何度も波の底に叩き付けられた。
 その度に全身が強く打ちつけられる。
 赤虎は幾度となくその衝撃に耐えていたが、いつしか気を失っていた。
(二)赤虎、孤島に漂着するの巻 
 それからどれほどの時が経ったのだろうか。
 赤虎の耳に最初に届いたのは、「どどん」「どどん」という重苦しい響きだった。
 ゆっくりと目を開くと、聞こえていたのは浜に打ち寄せる波の音であった。
 赤虎が半身を起こすと、そこは入り江の奥で、縦に一丁、横に二十間ほどの小さな砂浜であった。

達谷窟毘沙門堂
達谷窟毘沙門堂

 赤虎の三間隣には、杉原辰之丞が倒れている。さらにその周囲には、二十数人の姿が見えていた。
 「皆無事か。生きておる者は返事をしろ!」
 赤虎の声に、何人かが身動きをした。
 五六人がよろよろと立ち上がってきたので、皆で手分けをして、浜に伏している者たちの息を確かめた。
 赤虎自身は間近にいた杉原の様子を確かめてみた。肩を掴み軽く揺すってみると、杉原は「うう」という呻き声を漏らした。
 「やはり生きていたか。侍の割にはなかなか根性のある奴だ」
 赤虎は杉原の体を起こし、胡坐を掻かせる。
 「生きておるなら直ちに両眼を開け。ぬしが弱っていると目されれば、すぐさま奴婢どもに殺されるぞ」
 赤虎のこの言葉を聞くと、杉原は自ら首を三度左右に振り、正気に戻った。
 赤虎は再び立ち上がり、周囲を見渡した。
 「存命の者は、はっきりと己の名を口に出して、右手を上に挙げろ!」
 これに応じ、名を告げる声が、次々に響いた。
 「山中七兵衛」
 「津小森重吉!」
 「相沢五郎八!」
 名前は十三人まで続いた。
 「それで終(しま)いか」
 「あと二人、気を失っている者がいます」
 「これで十五人」
 三百人にも及ばんとする侍・船員・人足のうち、この浜に辿り着いたのは、わずか十五人であった。
 赤虎と杉原の他には、杉原の配下の侍が三人で、他は船員が二人と、漕ぎ手の人足が八人である。浜にはこの他にも二十近くの人の姿が見えていたが、これらは皆屍であった。
 赤虎が杉原の方を向くと、この男も生き残った者たちの様子を眺めていた。
 「今は互いに争っている時ではないな。ひとまずは皆で助け合わねば」
 「そのようだ。船を失ったからには、まずはどうやって帰るかを算段する方が先決だ」
 「ここはしばらく休戦と行こう。杉原辰之丞」
 名を呼び捨てにされた杉原が、赤虎のことを少しむっとした表情で睨み返した。
 嵐が過ぎた直後である。「どどう」という轟音を立て、大波が寄せている。

 「ところで、一体ここはどこだ」
 「隠岐島の西から、さらにかなり西南に流されたようだな。おおい」
 杉原は船員の二人を呼び付けた。
 「ここはどこだ。陸(おか)か。あるいは島か」
 船員は二名で、一人は四十過ぎ、もう一人は三十歳の手前ほどの若者である。
 杉原の問いに、年長の男が答える。
 「海図では、ここいらは何もない海原のはずでござります。おそらくは、これまで人に知られたことのない島と存じます」
 「では、この島から、どうやって陸に戻るのだ?」
 「人が住んでおるやも知れませぬ。まずはこの島の中を探索して、人を探すことからです。島に人がいれば船がござります。船があれば、帰る手立てが見つかりましょう」
 杉原の決断は早い。
 「よし。では島の中を調べよう。五人ほどわしに従って参れ。赤虎。お前も行くか」
 赤虎が頷く。
 「森の中で蛇や獣の類が出るかも知しれぬが、我らは刀一本持ってはおらぬ。致し方ない。棒でも拾おう」
 荒波に揉まれ、大刀はおろか、小刀すらも流されてしまっていた。
 「すぐに出発するぞ。残りの六名はここで待機しておるのだぞ。臥しておる二名の世話を頼む」
 杉原と赤虎が歩き出すと、他の五人もすぐ後ろに付き従った。

 一行が流れ着いた浜の後ろには、森が拡がっていた。その向こうには、山がひとつ見えている。
 「あの山はどれくらいの高さだろうか」
 「およそ四五丁だろう。大した高さではない」
 「では、あの山の近くまで行き、上から四方を望んで見るとするか」
 「うむ。それが良かろう」
 一行は森に分け入り、山のある方向に進むことにした。
 森に入り小半刻も進まぬうちに、さわさわという水の音が聞こえた。
岩の間を六尺ほどの渓流が流れている。
 「これは助かる。喉が渇いて堪らなかったところだ」
 「これは果たして飲める水か」
 人足の一人が水の流れを覗き込んだ。
 「大丈夫だ。魚がおる」
 一行は一斉に岩場に駆け寄り、飲み始めた。両手で水をすくう者もいれば、口を直接流れに浸ける者もいる。
 赤虎とて例外ではなく、岩の間に右手を差し入れて水をすくった。
 暫くの間、皆が一心に水を飲んだが、人心地がついたところで、最初に赤虎が異変に気が付いた。
 「おい。俺たちは何者かに見られているようだぞ」
 赤虎が隣の杉原に声を掛けると、杉原はまだそれに気付かずにいた。
 「まことか」
 「うむ。間違いない。この先の坂の上。木の陰に潜んでおる。獣などではなく人の気配だな」
 この話を、杉原配下の侍が脇で聞いていた。
 「なぜ声を掛けて来ぬのですか」
 これに赤虎が答える。
 「なぜ俺たちがこの島に来たのか、それを知るためにこちらの出方を窺っているのだ。けして顔を向けるなよ。こっちが害をなさぬと悟れば、いずれ向こうから声を掛けて来るだろう。この島には人が住んでいる。ならば、こちらが無害だと示しておくに越したことはない。敵とみなされ襲われたら、一切の武具を持たぬ我らはひとたまりもないのだ」
 「違いない」
 杉原も頷く。
 「頃合いを見計らって声を掛けてみよう。それまでは、知らぬ素振りで進むのだ。皆、こちらに悪意がないと思わせるために、とにかく笑顔を見せるのだぞ」
 「はい」「はい」
 一行は再び立ち上がり、山の頂を目指し、歩き始めた。

 半時の後、赤虎と六人の一行は、島の中央に位置する山の頂に上った。
 無論、この山が島の中央にあると知ったのは、山の上から周囲を見渡した後のことである。
 「ここはやはり島か」
 「縦横十里にも満たぬ小さな島だな」
 「船の着けそうな入り江は三つ。二箇所には小さな浜があるだけでござる。もう一つは木々の陰に隠れて見えませぬ」
 配下の言葉に、杉原が唸る。
 「ううむ。これでは国に帰るのによほど難儀しそうだな。人家は見えぬのか」
 「丑寅の方角に、十七八軒ほどの村が見えています」
 「確かに見える。では、そこに行くことにしよう」
 休む間もなく、一行は東に向かった。
 島に人家があるとなると、足の歩みが早くなる。一行は小半時で集落の入り口に至った。
 集落に近づくにつれ獣道同然の道が次第に広くなり、門柱が見え始めた頃には三間ほどの広さになった。
 「ゆっくりと静かに進むのだ」
 いつの間にか、一行の先頭には、赤虎と杉原が並び立っていた。
 門まで二丁の距離となり、七人は横に広がった。
 そのままの態勢で前進し、程なく門柱の前に立った。
 一人の侍が門柱の間から顔を出し、中を窺う。
 「あっ」
 その侍が振り向いた。
 「杭(くい)に人が繋がれています」
 「何だと」
 「まだ若い女子です」
 ここで赤虎が進み出る。
 「わかった。俺が確かめる」
 赤虎が門の中に歩み入ると、右手には大きく太い杭が立っていた。その杭には縄で縛られた女が繋がれている。
 赤虎はゆっくりとその女に近寄った。
 「おい女。ぬしはなぜその杭に繋がれているのだ」
 女が顔を上げた。
 見れば小柄できゃしゃな若い女である。齢は二十三四ほどであろうか。夏場でもあり、女は薄緑の着物一枚であった。
 女は顔を上げ赤虎のことを見たが、訝しげな顔を返すばかりである。
 「女。ぬしはなぜ縛られているのかと尋ねているのだ」
 女はもう一度赤虎の顔を見ると、すぐに赤虎の後ろの方に視線をずらした。
 それと同時に、男たちの背後から声が響いた。
 「その女子は島の掟を守らぬのです。どうしてもしきたりに従おうとせぬから、これから罰するところでした」
 一行が振り向くと、いつの間にか、後に四十の手前程の女が立っていた。この女は、茶色の着物に紺の袴を穿いている。
 その女の左右には、下女らしき十三四歳の少女が一人ずつ控えていた。こちらの二人は、薄紅色の着物に、やはり紺の袴である。
 「その女子は、皆で取り決めた掟にどうしても従わぬ。こんな小さな島で掟破りを押し通すなら、皆の暮らしが成り立たぬ。よって、此度この女を罰することに決まったのだ。ところで、皆様は一体どちらからこの島に参られた方々なのじゃ?」
 女の問いに、杉原が答える。
 「我らはこの島の沖を航行中であったが、急な大風に煽られて、船が転覆してしまったのだ。よって、ここに着いたのは、たまたまのことで、この島を目指して来たわけではない。島の者たちへの害意は一切持たぬゆえ、この島を出ていく支度が出来るまで、ここに置いて貰えれば助かるのだが」
 「昨日の大風でござりますな。この島は、恐ろしい速さの潮流に取り巻かれております。よって、ひと度海に放り出されたら、幾らももたず海の底に沈みます。皆様がこの島に流れ着いたのは、並々ならぬ天の加護があってのことでしょう」
 「なるほど。我らの船には三百人に届こうという人数が乗船したのだが、どうやら生きて島に辿り着くことが出来たのは、十五人だけらしい」
 「十五人?他にもおられるのじゃな」
 「西の入り江にあと八人」
 「では人をやり、迎えに行かせましょう。皆様は、ひとまずこの村でお休みになってください」
 「浜には体を動かせぬ者が二人おるが・・・」
 「なあに、この島には五十人を超える島民がおります。戸板を運ばせますので、それに載せてこちらまでお連れしましょう」
 そう言って、その女はにっこりと微笑んだ。
 「私(わたくし)の名は菊乃と申します。この二人は浜木綿(はまゆう)と美津。では参りましょう」
 この女に導かれ、一行は村の中に歩み入ろうとする。
 数歩前を行く女の背中に、赤虎が声を掛ける。
 「あの杭に繋がれた女子は、どうなるのだ?」
 菊乃が立ち止まり、そのまま振り向かずに答える。
 「島の掟に従わぬなら、このままここ置くわけには行きませぬ」
妙に冷たい声であった。
 これで赤虎が足を止める。
 「ではどうすると申すのだ?」
 「小船に乗せ沖に送ります。その先どこに行くかは、その者の運に任せます」
 菊乃は実に素っ気のない口調である。
 「先ほど、この島は激しい潮流に囲まれておると申したではないか」
 赤虎の眉間に皺が寄る。
 菊乃は「送り出す」と言ったが、あの女子が送り出される先は沖ではなく、「あの世」なのではないかと、直観で悟ったのである。

 菊乃と供の二人は、赤虎一行を先導しつつ、どんどん村の中に入って行く。
 道はほぼ二間の広さで、その左右には家が七八軒ずつ立ち並んでいた。
 そのまま一丁ほど先に進むと、道の突き当りに、ひと際大きな門が現れた。
 この表門から中に入ると、中庭の奥には孤島には似つかわしくない大きな屋敷が建っている。屋根全体が瓦葺で、まるで神社の社殿のようなつくりである。
 「おお」
 「この島に斯様な御殿があるとは」
 一行の端々から驚きの声が漏れる。
 菊乃はすたすたと屋敷に近寄り、建物の左側に回って、一旦姿を消した。
 「皆様はここでお待ちください」
 背の高い方の娘、美津が振り向いて、皆を制止した。
 その場で暫く待っていると、程なく菊乃が戻って来た。
 「村長(むらおさ)が皆様にお会いになられます。どうぞこちらへ」
 一行は菊乃に導かれるまま、屋敷の左側の通用口から中に入った。
 回廊のような廊下を進み、二度右に曲がると、大広間があった。広間の板戸は開かれていた。
 三十畳を超える広さの部屋の奥には、人が一人こちらに背中を向けて座っていた。
 長い白髪が板間の床まで届いている。
 そこにいたのは、紛れもなく老婆の後ろ姿であった。
 (村長というのは女なのか。)
 赤虎は腹の中で相手の素性を探った。
 「御前(ごぜん)様。客人をお連れしました」
 菊乃の呼び掛けに、老婆が振り返った。
 (齢は幾つくらいであろうか。八十を超えていそうだな。)
 顔に深く刻まれた皺の間には、鋭い眼光を放つ双眸が鎮座していた。
 赤虎の視線をよそに、老婆が口を開いた。
 「船が難破したそうじゃの」
 村長は一行をひと通り見回すと、まずは主(あるじ)然とした杉原辰之丞に声を掛けた。
 「昨日の大風にやられました」
 「この島の東は難所で、半年に一度は船が沈む。生きて島に流れ着いたのは、よほどの幸運と言えようぞ」
 「乗員三百名のうち、生きてここに辿り着くことが出来たのは、たった十数人にござる」
 「そうじゃろう。たとえ大風が吹かずとも、港から一丁も沖合に漕ぎ出せば、船がくるくると回される。それほどの潮の流れじゃ」
 「では、我らがこの島から出るのは難しいと申されるのか」
 これに老婆はゆっくりと首を振った。
 「いや、毎年の春秋、すなわち年に二度ほど潮の目の変わる時が来る。潮流の静まるその時なら、船はこの島を離れることが出来るじゃろう」
 杉原が二度三度と頷いた。
 「今は夏。あとひと月ふた月待てば、その機が来るわけだ」
 「その時までに、荒波に耐え得る堅固な船を作ることが出来ればの話だ。まあ、船造りは三月四月では無理じゃ。来年の春が妥当なところじゃろう」
 「一年近くもここにおらねばならぬのか。国では今にも戦が始まろうとしておるのに」
 肩を落とす杉原を、老婆がじっと見据える。ふた呼吸の後、杉原がもう一度顔を上げた。
 「村長殿。島の男衆にも助力願えんだろうか。先ほど菊乃殿は、この島には五十余人の島民がおると申されていた。もし船造りを手伝って貰えるのなら、後日必ず相応の礼は致すが・・・」
 「残念だが、この島には女子しかおらぬ。よって、力仕事は手伝えぬ」
 男たちの間で「ほう」と声が上がる。
「この島では、どういうわけか男が早死にする。恐らくは皆が互いに血縁で繋がっているために、血が濃くなり過ぎるためじゃろう。嘆かわしいことじゃ」
 赤虎は二人の話をじっと聞いていた。
 (女子だけの島か。昔どこかで聞いたことがある。だが・・・。)
 「お前様方にひとつ頼みがある」
 再び村長の老婆が口を開いた。
 「これから少なくとも数か月。あるいは順当には一年の間、お前様方は島で暮らさねばならぬ。なら、その間、身の回りの世話をする者が要り用じゃろう。この島に女子は余るほどおる故、各々が好きな女子を娶ってはくれまいか」
 老婆の申し出は、思いも寄らぬ内容である。男たちは一様にきょとんとした表情で、話の成り行きを見守った。
 「しかし、我らがこの島に居つくことはないぞ。国に帰れば妻子のおる者も多い。もしこの島を出られるのなら、我らは二度とここに戻っては来ぬ」
 「ほっほっほ。この島の女に必要なものは、夫ではなく子種じゃ。女子ばかりでは、いずれ程なく血が絶えてしまうではないか。子種さえ授けてくれるのなら、それから先は、各々国に帰るなり、そのままここに居つくなり、好きにすれば良い」
 男たちの間から「おお」という歓声が漏れた。改めて思い返せば、島でこれまで出会った女たちは、いずれもはっと目を見張るほどの美女揃いであった。
 一年もの間、この島におらねばならぬとしたら、その間、共に暮らす相方が出来るのは有難い。
 「この島には十五を超える家族がおる。お前様方もちょうどそのくらいの頭数じゃろう。なら、各人が好きな家を選び、その家の女子を伴侶とするが良い。姉妹がおれば二人とも娶ってくれれば良い。さすれば、女子たちが生した子らが長じたとき、父を同じくする子同士が夫婦となるのを避けられるでな」
 杉原と赤虎は横を向き、互いに顔を見合わせた。
 「この家の裏手には、集りを開くための大社(やしろ)がある。今宵、そこで島の女たちに引き合わせよう。その後は各々の家に移り、ゆっくりと休むが良いぞ」
 老婆は自分の話が終わると、男たちには委細構わず、くるりと背を向けた。
 老婆と入れ替わりに、菊乃が前に進み出た。
 「では皆様。皆様は社の方にお移りください。西の入り江から残りの皆様をお連れします故、今宵はそこで宴を催しましょう」
 菊乃の言った「宴」という言葉に、男たちは喜色を露わにした。船が難破し島に流れ着いたが、ひとまず、この先の落ち着き先が決まり、不安感が薄れたのである。
 菊乃の先導に従い、男たちが歩き出す。
 杉原と赤虎は、その場に立って男たちを見送り、列の最後尾に付いた。
 「おい赤虎。どう思う」
 杉原が小声で赤虎に問い掛ける。杉原は赤虎の返事を待たず、己の考えを口にした。
 「どうも気に食わんな。まるでわしたちを待っていたかのような段取りの良さだ。話が早すぎるし旨すぎる。それに、当座の期限付きとはいえ、男たちを夫として迎え入れようとするのに、わしらの氏素性を一切訪ねようとしなかった。目の前におるわしの名すら訊こうとせぬ」
 「やはりな。貴様もそう思ったか。俺は西海にあるという女護が島の話を思い出した。貴様はその昔話を聞いたことがあるか?」
 「いや。何だと申すのだ」
 「西海の真ん中に女だけが棲む島がある。極楽のような島で、穀物が良く実り、海では魚がふんだんに獲れる。時折、船がその島に流れ着くが、しかしその島からは一人として戻って来た者がない、と申すのだ」
 杉原がくくと笑った。
 「赤虎。その話は理屈に合わぬぞ。誰一人戻って来られぬなら、どうやって日の本じゅうにそんな話が伝わるのだ」
 杉原の話に、赤虎が「ううむ」と唸る。
 「それもそうだな。世の噂話など所詮は噂に過ぎぬということか」
 「だが、用心するのに越したことは無さそうだ。此度はどこか話が美味すぎるからな」
 「うむ。そうしよう」
 ここで杉原が唐突に立ち止った。
 「なあ、赤虎」
 赤虎も足を止めた。
 「どうやら短くとも数か月、長ければ一年をここで暮らすことになりそうだ。首尾よく島を出られるまで、わしとぬしは休戦と行こうか。今は国に帰ることが先決だ」
 「俺の方に異存は無い。いずれにせよ、共にこの島に留まることになるわけだからな」
 「よし。話はまとまった」
 杉原が差し出した右手を、赤虎は強く握り返した。

 その日の夕刻。赤虎の他七人が社の広間で待っていると、入り江に留まっていた残りの八人がやってきた。
 社の裏の庭では、宴の支度をする女たちの嬌声が響いている。
 暑い盛りでもあり、三方は開け放たれていたが、井戸のある西側の板戸だけは閉じてあった。
 「ええい。ちょっと外を覗いてやれ」
 人足の一人が板戸を少し開き、外の様子を覗き見る。
 「おお。こりゃ凄いぞ。若くて器量よしがてんこ盛りだあ!」
 「何だと。俺にも見せろ」
 「俺も」
 若者たちが板戸に殺到する。戸の隙間からは、庭で煮炊きをしている女たちの姿が見えていた。
 最初の男が言った通り、皆粒ぞろいの美女たちである。
 「おお。あの娘たちを娶ることが出来るのか」
 「こりゃ、良いところに流れ着いたもんだ」
 五六人もが一斉に戸板にしがみ付いたので、戸が「ばりん」と音を立て、外側に倒れた。
 転がり出た男たちの姿を見て、庭の女たちが甲高い笑い声を上げた。
 
 皆が外の方を向いている間に、広間には村長の老婆と菊江が入っていた。
 「皆様。お座りください」
 男たちが一斉に振り返る。
 中央に立つ二人の背後には、若い女たちがあたかも侍女のごとく付き従っている。
 いずれも若く美しい、粒ぞろいの美女たちであった。
 西側の板戸に集まっていた男たちは、急いで己の席に戻る。
 「酒も肴もふんだんにござりますぞ。ほれ女たち。すぐにお出しして差し上げよ」
 菊乃の声に応じ、広間の中に次々と料理が運ばれる。
 一尺を超える鯛や海老。子豚の丸焼き。
 庭で大鍋一杯に炊かれた芋煮汁も運ばれる。
 それは、男たちがそれまで見たことのないような豪勢な料理であった。
 「これは凄い」
 「奥州ではもう何年もの間飢饉が続いておる。だが、ここはそんな飢餓とは無縁の島のようだな」
 「潮の流れが速いようだから、入り江に網を張るだけで、沖の魚が入り込むのだろう」
 酒の量も物凄い。四斗樽ごと広間に運び込まれたが、その量たるや、男二人に樽一つの割合である。
 「見よ、赤虎」
 杉原が己の盃を赤虎の前に突き出した。
 「濁酒(どぶろく)ではないぞ。谷川の清流のように澄んでおる」
 杉原の差し出す盃は、底がはっきりと見えていた。
 「斯様な離れ小島で、斯様に見事な清酒を造っておるというのか。ううむ。俄かには信じられぬ」
 赤虎は呻くように歎声を漏らした。
 男たちが酒に手を付ける様子を見計らい、菊乃が声を張り上げる。
 「これから女たちがこの場に入ります。ひとつ家の女子が一緒に回りますので、お好きな女子たちをお選びください。今宵から、その女子たちの家に寝泊まりするのですぞ」
 その声が終わらぬうちに、女たちが広間の中に入って来た。総勢で三十人を超える人数である。
 「おお。どれもこれも天女かと思うほど美しい。それに引き替え、俺のかかあは・・・」
 男の一人が、国に残してきた己の妻のことを口に出しかけ、慌てて止めた。
 その男の脇に座っていた侍の一人が呟く。
 「誰かを選べと言われても、これでは目移りがして決めかねるぞ」
 その言葉を菊乃が聞いていた。
 「では女たちに選ばせましょう。この島には不器量な女子、気立ての悪い女子はただの一人もおりませぬ。女子が自ら気に入ったお方なら、それこそ心を込めて尽くしましょう」
 すぐさま周囲の男たちから声が上がる。
 「それで良いぞ」
 「承知したぞ!」
 酒の酔いが回ったか、男たちは一様に上気していた。

 女たちは、嬌声を上げながら男たちの間に割り込み、己の伴侶を決めて行く。
 杉原と赤虎は、その様子を眺めながら、黙って酒を飲んでいた。
 そこへ菊乃が近づいた。
 「杉原様と申されましたな。まだお気に召した娘が見つかりませぬか。では、この娘はどうでしょう」
 菊乃のすぐ後ろには、二十歳前の娘が従っていた。色の白い、いかにも大人しそうな娘である。
 「いや。わしの相手では若すぎるな。わしくらいの齢になると、菊乃殿くらいの女人がむしろ落ち着く」
 菊乃が小さく頷く。
 「では、この娘と共に我が家に行かれよ。これは我が娘にござります。御前(ごぜん)様が申された通り、この先、我が家の女子は皆、貴方様のものにござりまする」
 「母子共々妻にして良いと申すのか」
 「ええ。それがこの島のしきたりにござります」
 菊乃は実に平然とした口調である。
 「そうか。よく分かった。否が応でもこの島にやっかいになるのだから、この島のしきたりに従うとするか」
 杉原は「ふう」とひと息吐くと、ぐいと酒をあおった。
 「ところで」
 菊乃が赤虎の方に向き直る。
 「貴方様はどちらの女子を妻になされますか」
 赤虎は顔を上げて菊乃の顔を見る。
 「俺は・・・」
 少しの間、赤虎は思案した。
 「ぬしは確かどの女でも良いと申したな」
 「はい」
 「では、俺は昼にここに参った時、門の近くで杭に繋がれていた女子が良い」
 菊乃の眉間に皺が寄った。
 「利江にござりますか。あれは罪人にて、明日には裁かれる者にござりまする」
 「ぬしは、この島の女子ならどんな者でも妻にして良いと申したではないか」
 「しかし・・・」
 思い余った菊乃は、首を横に曲げ、上座に座る村長の方を向いた。
 村長の老婆は、赤虎の話を聞いてか聞かずしてか、菊乃に向かい、「承知した」と言わんばかりに首を縦に振った。
 菊乃が赤虎に向き直る。
 「宜しゅうございます。では利江を貴方様に差し上げましょう」
 そう言うと、菊乃は広間の入り口の方を向き、何者かを手招きをした。
 その招きに応じ、まだ十二三歳の少女が近くにやって来た。
 「利江は北の岬に立つ離れ屋に、たった一人で暮らす者です。あの女子一人では十分に貴方様のお世話は出来ませぬ。よって、まだ年端も行かぬ者ですが、この娘を下働きとしてお付けしましょう」
 菊乃の脇で、少女がぺこりと頭を下げた。
 「承知した。俺はそれで良い」
 「では半時の後、その家にお連れします」
 「うむ。宜しく頼む」
 菊乃と少女は再び揃ってお辞儀をすると、赤虎の前から去った。
 菊乃が遠ざかった頃を見計らい、杉原が声を掛ける。
 「科(とが)人を所望するとは、お前もおかしな奴だな。赤虎よ」
 「俺にはちょっとした企みがある。この島の女子たちは、どうも胡散(うさん)臭い所があるので、それを確かめてみようと思うのだ」
 「わしはそれほど不審な気配を感じられぬが、ぬしはまだ訝(いぶか)っておるのか」
 「いかにも。何故なら話がどうにも美味過ぎる。村長の屋敷やこの社の中を見よ。調度品はどれを取っても一級品だ。絶海の孤島に住む者たちが、いかにしてこんな品々を手に入れるのだ。あるいはこの島の中央には山が聳えているが、この山の斜面が尽きると、四方はいずれも海だ。米はおろか粟ですら収穫できる土地はない。しかしここには、米どころか酒までもがふんだんにあるではないか。ここには何か秘密がある」
 「そう言われてみれば、なるほど解せぬ。ここは油断なく構えた方が良いようだ」
 二人は顔を見合わせながら、同時に小さく頷いた。
 (三)赤虎、島の女を妻に娶るの巻
 半時の間はすぐに過ぎ、男たちはそれぞれの伴侶に導かれ社を出た。島の女たちの住まいは、あちこちに分散しているため、松明の明かりは、社の外に出るとすぐに四方八方に散って行った。
 赤虎は皆が出て行くのを見届けた後、菊乃に与えられた少女の後に従い、村の入り口に向かった。
 門の内側の地面には、昼と同じように、杭に繋がれた女が倒れていた。
「利江様」
 少女が声を掛けても、女は微動だにしない。

磨崖仏
磨崖仏

 赤虎は腰を屈め、真上から女の様子を覗き見た。利江という名の女は、すっかり気を失っていた。
赤虎は利江の肩口に手を当てて軽く揺すってみる。すると、赤虎の右の掌には生ぬるい血がべったりと付いた。
 「棒で打擲(ちょうちゃく)されたか」
 赤虎はその女を抱きかかえ、上を向かせた。
 「かろうじて生きてはいる。同じ島の者だというのに、随分と残酷な仕打ちだな」
 赤虎は利江を抱き上げ、その場に立ち上がった。
 「おい小娘。ぬしの名はなんと言う」
 「花」
 「ではお花。この女の家に案内(あない)せよ」
 「はい」
 お花という名の少女が先に立つ。赤虎は利江を抱え、少女の後ろを歩いた。

 利江の住処だという庵に着いたのは、それから一刻後のことである。
庵は島の最北端の岬にあった。
 庵には八畳ほどの部屋が二つだけで、他に竈の置かれた土間があるだけである。
 「この女子には身寄りはおらぬのか」
 「はい。この家の者は皆死にました」
 「島には五十人も人が住んでいるのに、一人も血の繋がった者はおらぬのか」
 「はい。利江様は、他の誰とも交わらず、たった独りでここに暮らしております」
 「掟を破ったという話だが、どんな罪を犯したのだ」
 「子どもの私には分かりかねます」
 少女は見た目の年恰好より、はるかに大人びた口調で答えた。
 「では蓆(むしろ)を敷いてくれ。そこに寝かせよう」
 お花は押入れから蓆を取り出し、床の上に敷いた。
 赤虎はその上にゆっくり利江を下すと、穏やかな口調で声を掛けた。
 「済まぬが、着物を脱いで貰うぞ。背中の傷を見るためだ」
 赤虎は利江の帯を解き、背中を露わにさせた。女の背中は、幾度となく打たれたため傷だらけである。
 出血はひとまず収まっていたが、体を動かせば、再び傷口が開き、血が噴き出すであろうことが明らかである。
 「お花。この家で紫根を取り置いてあるかもしれぬ。そこの長押(なげし)の中を見てくれ」
 紫根は血止めの薬草である。万が一怪我をした時のため、乾燥させた紫根の根が仕舞ってあるかもしれない。
 先ほど花が押入れを開けた時、赤虎はその中に長押が置かれていたのを見逃がしていなかった。
 少女はしばらく長押の中を漁ったが、薬草は見つからなかった。
 「ございません」
 「ではここから一丁手前の草叢まで戻り、紫根草の根を取って来てくれ。ここに来る途中、そこに白い花が咲いていただろう。あれが紫根草だ。今が夏で良かったな」
 この時、もはや辺りは真っ暗であった。
こんな暗い中、薬草を探して来いと言われても、年端も行かぬ子に出来るかどうか。
 赤虎はちらとそんなことを考えたが、しかしお花の方は、暗闇を怖がる素振りを微塵も見せず、すぐさま外に出て行った。
 赤虎が台所から外に出ると、すぐ軒下に雨水を溜め置く大瓶があった。そばにあった柄杓で水を汲み、それを盥に写し、手拭いを浸した。
 改めて利江のところに戻り、傷口の周囲をきれいに拭いた。
 「大きな傷だが、さほど深くはない。皮がだいぶはじけているが、縫うまでのことはないようだ。傷口が膿まぬよう処置すれば、いずれ回復しよう」
 赤虎は利江に語ろうとするでもなく、独り呟いた。

 利江は当座の治療の後、そのまま床(とこ)に伏した。以後ずっと気を失ったままで、再び眼を開いたのは四日後のことである。
 赤虎はその間枕元に付ききりで、利江の面倒を見た。菊乃により配された娘・お花はまだ幼く、傷口の処置などまでは及ばなかったからである。
 五日目の朝、このお花が枕元まで粥を運んだ時、利江は両眼を開いた。
 「虎一様。利江様が目覚めました」
 お花の言葉に、赤虎が近寄ると、お花の言葉の通り、利江は眼を見開いて赤虎を見ていた。
 「気が付いたか・・・。ひとまずはこれで安心だ」
 その赤虎に、利江が「お前は誰じゃ」と問うかのように、訝しげな表情を向ける。
 「俺の名は赤平虎一。五日前よりぬしの夫ということになっている。島の習わしだと聞くから、おそらくぬしも承知しておろう」
 利江は何も言わず視線を外し、赤虎の背後方を見遣る。そこには、お花が立ち、利江のことを窺い見ていた。
 赤虎は利江の視線の先をちらと見たが、もう一度向き直り話を続けた。
 「ぬしが何の罪を犯したかは知らぬが、随分と厳しく打たれたものだな。命を落とさずに済んで良かった。この後もけして無理をせず、お花に粥を食べさせて貰ったら、またゆっくり休むが良いぞ。俺はこれから村に行き、仲間の様子を見て来る」
 赤虎はお花に顎で合図すると、土間に下り、外出の支度を始めた。

 利江の住む庵は、島の北端にある岬に、たった一軒だけ立つ離れ屋である。
 島民の多くが住む集落は、岬の離れ屋から二里にも満たぬ場所にある。しかし、火山島でもあり、村への道は上がり下がりの起伏の多い細道であった。
 脚力のある大人の男の足なら、半刻と少しあれば村に到達することが出来るが、女子どもなら倍はかかる。三日前には、不慣れな道のうえ、利江を背負っていたので、一刻以上を要したが、昼日中に赤虎が同じ道を歩いてみると、岬に来た時の半分の時間で村に戻ることが出来た。
 村の真ん中を走る道を進むと、いつぞやと同じように、村中が森閑としていた。
 赤虎はまず杉原に会う心積りであったが、杉原が入った先の菊乃の家を知らない。
そこでひとまず村外れの家の前に立ち、案内を乞うことにした。
 「御免!誰かおらぬか」
 中には微かに人の気配がするが、返事がない。
 「おい。誰かおらぬのかと、尋ねておるのだぞ!おるなら返事をせよ」
 赤虎が声を張り上げて問うと、小さな声が聞こえた。
 「その声は、もしや赤虎様か」
 弱々しい響きである。
 赤虎は嫌な気配を感じ、家の中に上がることにした。
 板戸を開け、家の中を覗く。
 暫くの間そこに立ち、日陰に目が慣れて来ると、漕ぎ手の人足の一人が板間の奥で横になっていた。
 「どうした?具合でも悪いのか」
 「いや。少々足に怪我をして横になっているけんど、他に別段悪いところはねえです」
 しかし、その人足の顔色は極めて青ざめていた。
 「しかし、随分と顔色が悪いようだぞ。食あたりで腹を壊した時のようだ」
 「いやいや。ここはまるで極楽でがすよ。毎日新鮮な魚を鱈腹食べられるし、美人の女房が昼夜となく世話をしてくれますだで」
 「その美人の女房はどこにおるのだ?」
 「昼はどこぞへ出ております。村の女たちは、ほとんど毎朝のように、皆で入り江に仕掛けた網を見に行くようでがす。午後は畑で、戻って来るのは夕方。晩飯を一緒に食った後、おらが眠りについた後も、長らく機を織っておるのです。この島の女は働き者揃いでがすよ」
 男はここでゆっくりと起き上がり、日差しの下に出て来た。
 やはり顔色は悪く、両目の周りには隈が出来ている。
 「ぬしの目の周りは真っ黒だぞ」
 赤虎がそう指摘すると、男は「へっ」と声を出して笑った。
 「そりゃきっと、夜のお勤めのせいでがんしょ。ここの女房と来たら、あっちの方が激しいのなんので。まるで子種を搾り取られるようでがすよ。励み過ぎで腰が立たぬほどでがんす」
 嬉しそうに語るその男の顔は、しかしすっかり生気を失っていた。
 「房事に勤(いそ)しんだがために、そこまで生気を失ったとは、俄かには信じられぬな。ところで、杉原はどこにおるのだ。ぬしは存じておろう」
 「ここに来た夜に宴席が設けられましたが、その裏手の小山の上が御前様の屋敷でがす。その屋敷の少し西の坂下にあるのが菊乃様の家でがんす」
 わかったと目配せをして、赤虎はすぐさま腰を上げ、その家の外に出た。

 男に言われた家に着き、門を叩くと、直ちに小女が現れ、赤虎を中に導いた。
 廊下の角を二度曲がると、大きな部屋の前に出た。ここが常居の間である。
 杉原はその部屋の中央に座っていた。
 「来たか。赤虎」
 「うむ。おぬしの方は変わりないのか」
 「おぬしの方は、という言い回しをするのは、一体どういう所以なのだ」
 「ここに来る途中、一軒の家に寄って来たが、どうも腑に落ちぬところがあるのだ」
 杉原が視線を上げる。
 「何が腑に落ちぬと申すのだ?前に座って話せ」
 赤虎は杉原の正面に腰を下ろした。
 「ここに来る前に一人の人足の家を訪ねたが、何やら様子がおかしいのだ。生気と申すか、覇気と申すか、生きる力が抜けておるようだ」
 赤虎の真面目な顔を見て、杉原がくくと笑った。
 「それはそうだろう。『子を作れ』と、これまで会ったことのないような美女をあてがわれておるのだからな。日夜を問わず励んでいれば、精気を無くすのも致し方あるまいて」
 「しかし、ここに来てまだ五日だ。たった五日であそこまで憔悴するものだろうか。俺はこの島に、どうにも嫌な気配を感じるぞ」
 「赤虎。お前自身はどうなのだ。お前も女房をもらったのだろう」
 「俺の相方は背中を散々棒で打たれたせいで、今も伏したままだ。よって、これまで俺は小女(こおんな)と二人で、その女の世話をしていたのだ。おぬしの方はどうだ」
 「わしは船から落ちた時、右脚の付け根を痛めたので、この腫れが引くまで房事を控えることにしておる」
 「他の者たちはどうなっておるのだろう」
 「よし。一人ひとり尋ねて見ることにしよう」
 「うむ。ではすぐに行こう」
 二人は立ち上がり、廊下に出た。
 最初の角を曲がると、杉原の相方となった菊乃が、ちょうどこちらに向かって来るところだった。
 「皆様。どこぞへお出掛けですか」
 杉原が小さく首を振る。
 「いや。ちょっと外の空気を吸って来る。魚でも釣って来よう」
 「魚なら網で捕えたのが、家の裏に沢山運ばれておりますが・・・」
 「家の中にばかりいても退屈するばかりだ。釣りは建前で、気晴らしがしたいという訳だ」
 「そういうことなら、お引き止めは致しませぬ」
 菊乃は廊下の隅に体を寄せ、二人を通した。

 赤虎と杉原は、菊乃の屋敷を出ると、手近な家を訪ねた。ここには杉原の腹心が入っている筈である。
 表の戸は開いていた。
二人は声も掛けず、どんどん中に踏み入った。
 杉原の腹心、山岡仁平衛は奥の間で横になっていた。
 「山岡。変わりないか」
 山岡仁兵衛は、ゆっくりと体を起こした。
 「これは杉原様。わざわざそれがしのところにお越し下さるとは・・・」
 山岡仁兵衛の頬はげっそりとこけ、目の周りには隈が出来ていた。
 「どうしたのだ。すっかりやつれておるではないか」
 「いえいえ。それがしに何ひとつ変わりはござりませぬ。少し疲れたので、横になり休んでいただけです」
 赤虎と杉原はほとんど同時に横を向き、顔を見合わせた。
 「よし。次の家に行こう」
 
 次の家は、村長や菊乃の屋敷のある一帯を外れ、そこから東方に二丁歩いた場所にあった。ここからは島の東側の海が見える。
 「おい。誰かおらぬか」
 杉原の呼び掛けに、すぐに返事が来た。
 「はい」
 その男は、縁側に座り海を見ていた。
 杉原の船の按針を務めていた男である。
 名を角掛常左衛門と言う。
 「角掛。無事か」
 「はい?」
 赤虎も続いて問う。
 「ぬしは無事なのか」
 二人にまったく同じことを問われ、角掛という男は訝(いぶか)しげな表情に変わった。
 「何か変事がござりましたか」
 「どういう訳か皆の体が弱っておるのだ。ぬしはどうだ。具合の悪いところは無いのか」
 「何も。食って寝て、こうやって毎日、海を眺めているだけでござる」
 男の言うとおり、顔の血色は申し分なく、何ひとつ異常は見当たらない。
 「ぬし。相方と同衾したか?」
 赤虎の問いに、角掛という男が小さく首を振った。
 「ここに来て、女のことをよく見たら、何のことはない。国に残して来た妻にそっくりでござった。日頃から疎ましく思っていた妻に瓜二つなので、その気がすっかり失せました。それと・・・」
 「何だと申すのだ」
 「初めの夜は酒を飲み過ぎ、この家に入るや否や寝入ってしまいました。明け方に目覚め小便に起きたのですが、その時、たまたまそれがしの相方の寝顔を見たのです。その顔に何とも言えぬ禍々しいものを感じましたので、今は別々に寝起きしておるのです」
 この話を聞き、杉原が呟くように漏らす。
 「女子と褥(しとね)を共にした者は生気を失い、しなかった者は無事だ。他の者たちも確かめる必要があるが、もしそうならば、病の原因は女子たちだということだろう」
 これに赤虎が大きく頷く。
 「どうやら女どもに、精だけでなく生きる気力まで吸い取られておるようだ。なるべく房事を控え、ゆめゆめ油断するなと、触れを回さねばならぬようだ」
 「ここに辿り着いたのは若い者ばかりだ。斯様な美女たちに手を出すなと言われ、はいそうですかと応じるだろうか」
 「いや。御前とか申す村長や菊乃殿は、何か隠しごとをしているふしがある。それが分かるまで、こちらの腹積もりを気取られぬ方が良かろう。三日に一度、あるいは五日に一度程度に留めよ、と伝えるべきだな。それで様子を見よう」
 「よし、赤虎。皆には、何かしら言い逃れを考え、なるべく女を近づけるなと伝えよう。命に係わるようでは是非もない。とりあえずここにおる三人は無事だが、他にもおるかもしれぬ。これから総ての者を訪ね、確かめるぞ」
 「承知した」
 それから三人は、村人に覚られることの無いよう、釣り竿を抱えて家の外に出た。

 村中の家を回って見ると、他に二人が女と交わらずにいた。この二人は島に流れ着いた時に、立ち上がることが出来ぬほど重い怪我をしていた者たちであった。
 杉原がため息を吐く。
 「これでは二人が無事と言うべきか、言わざるべきか。他の八人とほとんど変わりないぞ」
 「まだどうにかなる。皆にはなるべく長く家の外におるように言い付けたわけだしな。ひとまず体を動かせる者は。島中を調べて回り、船を作る材木の当てを探そう」
 「今はここにおる三人だけでござりますな」
 角掛が苦笑を漏らした。
しかし赤虎だけは変わらず真顔のままである。
 「いや。少なくとも三人は無事でいるということだ。あと十日も気が付かずにおれば、ただの一人も起きられぬ事態となっていたやも知れぬ」
 杉原はそんな赤虎の様子に目を見張る。
 「ぬしはいつ如何(いか)なる時も、けしてへこたれん奴だな。粘り強く、実にしぶとい。わしは盗人のぬしを少し見習わねばならんな」
 「御前とかいう村長や菊乃殿の魂胆が分かるまで、総て隠密裏に運んだ方が良さそうだ」
 「それと武具だ。刀は見当たらぬが、斧や鎌なら各戸に置いてある。あるいは鉄屑があるようだから、これを集めて溶かし、段平を作れば良い。炭は社の裏の小屋に山ほど積んであった」
 「よし赤虎。そっちは委細ぬしに任す。わしと角掛は船の普請の方を考えよう。まずは島をひととおり回り、どんな物資を調達出来るかを調べることからだ」
 杉原の命に角掛が低頭する。
 「はい。畏まりました」
 赤虎は腕組みをしながら、さらに先のことを考えていた。
 「人が流れ着くのだから、船の残骸だってどこかに漂着しているだろう。海岸線をあたれば、使える材木がありそうだ。沖合で船が難破するのは珍しくないようだから、あるいは、直せば使える船だってあるかも知れぬ」
 「ではひとまず明日この三人で出発し、島の周囲をひと回り周って見るか」
 「それで良かろう」
 「はい。戻ってすぐに支度します」
 三人はここで別れ、それぞれの家に向かった。

 赤虎が北の岬に戻ると、利江は依然床の中であったが、今は半身を起こして座っていた。
 「もう起きられるようになったのか」
 「はい。大変お世話になりました」
 「では腹がすいたであろう。五日の間も飯らしい飯を食っておらぬ」
 「はい。今はとても空腹です」
 「はは。それは良い。すぐに俺が何か作ってやろう。俺は日頃から己で煮炊きをしているから、案外美味いものが作れる。少し待っておれ」
 頭を下げる利江を尻目に、赤虎は土間の竈に向かった。
 竈の前では、お花が独り箱椅子に腰掛けていた。
 お花は赤虎の姿を認めると、「これ」と板間の上り端(っぱ)を指さす。そこには、おそらく菊乃が寄越したのであろう米袋がぽつんと一つ置かれていた。
 「お花。横の畑に葱が植えてあるだろう。あれを二本採って来てくれ」
 「はい」
 お花は立ち上がり、外へ出て行く。
 赤虎が土間を見渡すと、竈の前に桶が一つあった。中を検めると、大ぶりの鯵が一本入っている。おそらくは今朝の漁で網にかかったものである。この島では、獲れた魚はどの家にも平等に配給されるしきたりとなっていた。
 「これは良いぞ」
 赤虎は飯を炊く傍ら鯵を叩き、細かく刻んだ。これにお花が採ってきた刻み葱を合わせる。飯が炊き上がったところで椀に盛り、鯵の叩きを載せ、上から熱い湯を注いだ。
 湯は海水を濾したものと真水を合わせたものであった。
 鯵粥が出来上がり、赤虎は利江の枕元まで椀を運んだ。利江は床の上に座り、じっと待っていた。
 「どれ。俺が食べさせてやろう。口を開(あ)けよ」
 赤虎は匙で粥をすくい、利江の口元に運ぼうとする。
 「いえ。いけません。独りで食べられます」
 身をすくめる利江を、赤虎が柔らかく言い含める。
 「良いのだ。ぬしは今や俺の妻ではないか」
 赤虎は半ば強引に匙を利江の口元に差し出す。
 「素直に口を開けるのだぞ」
 利江は一瞬ためらったが、しかし、ゆっくりと口を開いた。
 赤虎はその口に粥を少し含ませてやった。
 「塩加減はどうだ」
 利江は一瞬答えを躊躇した。
 「少し薄うござります」
 赤虎はすぐに立ち上がる。
 「ではもう一度直して来よう」
 赤虎は土間に歩き、別の椀で最初からやり直して、塩加減を調節した。
 再び、利江の許に戻る。
 「今度はどうだ」
 利江はこっくりと頷いた。
 「美味しい・・・」
 その利江に赤虎が再び匙を運ぶ。
 三度四度と匙を行き来させていると、急に利江が口を閉じた。
 赤虎は椀の粥を混ぜながら、利江に問う。
 「どうした。まだ足りぬであろうが」
 赤虎は椀から目を放し、利江の顔を見る。
すると、利江の両の頬にひと筋ずつの涙の跡が見えた。
 「一体どうしたのだ?」
 赤虎の声に、利江が肩を震わせて泣き始める。
 「何でもありませぬ。虎一様。もう私独りで食べさせてください。お願いです」
 利江が懇願する様子を見て、赤虎は静かに粥椀を手渡した。
 「これが終わったら、お花に替わりを持って来させよう。ゆっくり食ずるが良いぞ」
 赤虎が土間に下りると、やはり竈の前の箱椅子にお花が座っていた。
 「お花。もう暫くしたら、替わりの粥を運んでくれ。一杯では足りぬだろう。それとお花の分も用意したから、存分に食するが良い」
 「はい」
お花は立ち上がってお辞儀をした。
 赤虎は家の裏で薪でも割ろうと、裏口から外に出ようとする。
 その背中に、お花が声を掛けた。
 「旦那様」
 赤虎が振り返る。
 「旦那様。利江様は嬉しいのですよ。あの方は、これまで一度も誰かの世話になったことがないのです。利江様を気に掛けてくださったのは、旦那様が初めてだから、今は戸惑っておいでなのです」
 「そうか。よく分かった」
 赤虎はそう答えると、今度はお花自身のことを尋ねた。
 「お花。ぬしは一体幾つなのだ。見た目は子どもだが、話し振りを聞いていると、とてもそうは思えぬ」
 お花はくくと笑った。
 「幾つに見えますか?」
 「十歳かそこら。まあ十二歳くらいかな」
 これを聞き、お花が微笑む。
 「私の本当の齢は六十です。などと申し上げたら、旦那様はさぞ驚かれるでしょうね」
 「その軽口も、丸っきり大人の言い方だぞ。よし。この島では、年頃の娘なら総てを妻にして良いそうだから、ぬしも今日から俺に添い寝するが良い」
 ここで初めてお花がたじろいだ。
 「私は小女としてここに参りました故・・・」
 赤虎はお花の表情を確かめると、すぐに取りなしにかかる。
 「はは。気にするな。俺は子どもを相手にするような性癖を持ち合わせてはおらぬ。ただ余りにぬしが大人びた振る舞いをするので、からかってみたくなったのだ」
 赤虎はそう言い残すと、さっと立ち上がり家の外に出た。

 翌日、赤虎と杉原、それに按針角掛の三人は、島の探索に出掛けることにした。
 杉原の家で落ち合い、いざ出発しようとすると、背後から菊乃が声を掛けてきた。
 「どちらにお出掛けですか」
 これには杉原が答える。島にいる間は、杉原は菊乃の夫の立場である。
 「島の周りをひと回りして来るつもりだ。何日掛かるかは知らぬがな」
 「小さい島ですが、山あり谷ありです。ひと周りするなら三日は掛かりましょう」
 「そうか。では凡そ三日後に戻って参る」
 「島の西北に竜神様の祠がござりますが、そこに立ち入ってはなりませぬ」
 菊乃の顔は、先ほどまでの柔和な表情が、打って変わって強張っている。
 「竜神様?何なのだ、それは」
 「この島の守り神にござりまする。古くから、その地に立ち入ってはならぬと定められております」
 「我らにはどこか区別がつくまい」
 「結界が張ってありますので、近付けばすぐにわかります」
 「承知した。縄で囲んである所には、無闇に立ち入らないよう心掛ける」
 「はい。では行ってらっしゃいませ」
 この時の菊乃の表情は、再び柔和なものに戻っていた。
 (四)赤虎、島を探索するの巻
 第一日目。三人は一旦北上し、北の岬を訪れた。赤虎の庵では、利江が起き出して、お花と共に家の仕事に就いていた。
 赤虎が男たちを家の女に引き合わせた後、
すぐに出発する。
 三人はそこから西に回り、岩礁の上を三里(〈注〉)進んだ。
島の西北に道らしい道は無い。このため、前進にかなりの労力を要し、わずか数里の道程にほぼ半日を費やした。

弁天堂
弁天堂

 同日の夕刻になり西北端に到達した。
 この岬の先は海に半里ほど突き出している。これが潮流の流れを変えるためか、沖合には大きな渦が巻いていた。
 初日、三人はこの岬の根元で野宿をした。

 二日目。三人は岬を横断し西側に越えた。
 こちら側には、激しい潮流が抉り出した入り江があった。
 この入り江の奥には灌木が密集していたが、その灌木の陰には、さらに海水溜りが広がっていた。広さは三丁四方である。
 「内海(うちうみ)」と言うほど広くはなく、外海と繋がっているので「池」ではない。
しかし、男たちの関心はそこには無かった。
 その海水溜りの浜には、数十隻の船の残骸が打ち寄せられていたのである。
 「これは・・・。沖で難破した船だな」
 「うむ。違いない」
 「潮の流れがこの島を取り巻いておりますので、岬の突端に引っ掛かり、この浜に寄せるのでしょうな」
 「使えそうな船体が無いか調べよう」
 三人は急いで船の残骸に近づく。
 しかし、やはり大方の船は大破していた。
 「あれを見よ!」
 唐突に杉原が叫んだ。
 杉原の指さす先には、真っ二つに割れた波多田丸の船尾部分が立っていた。
 「激しい潮の流れに、ここまで流されたか」
 船は一旦海中に沈んだが、潮に押され、この岬まで流されていたのであった。
 「舵(かじ)塚が残っておるな。では何か使えそうなものがあるかも知れぬ」
 杉原は船の残骸に歩み寄ると、ひょいと上に乗った。齢の割には身軽な身のこなしである。
 「あった。あった」
 杉原が取り出して見せたのは、一本の手槍であった。
 「俺がこの柱に結わえ付けたのは、他にもある」
 縄をほどくしぐさの後、杉原は大刀一本を掲げ、赤虎に放り投げた。
 「赤虎。これはぬしが使え。海水に洗われたが、さほど錆びてはおらぬ」
 この他には、弓が二張と矢が十本、小刀が一本である。
 さらに、波打ち際には数多くの船の道具が流れ着いていた。
 「何とか恰好が付いてきたな」
 「あとは修繕の甲斐がありそうな船だ」
 「うむ」
 この時、按針の角掛が大声を発した。
 「杉原様。あれを!」
 波打ち際から五間上がったところに、船体の長さ七八間ほどの船が見えている。
 木の枝で覆われていたらしく、周囲に枝が散乱していた。船を隠していた覆いは先頃の大風で吹き飛ばされたのであろう。
 三人は急いでその船に駆け寄った。
 「修繕しようとした痕があるぞ」
 「うむ。この島には誰か他にも人がおるのだな」
 「そして、その者は我らと同様に、この島から出たがっておるということだ」
 「ではその者と力を合わせることが出来れば、この島を出られるということだ。角掛。この船を使えるように直すのに、どれくらいの日数が必要なのだ?」
 按針の角掛は、船体の周りをひと回りした。
 「七八人で掛かったとして、船体を修繕するのにひと月。外海の航行に耐え得るように調整するのに、およそ半月。潮が止まるという頃までには何とか間に合うでしょう」
 「よし。では村に戻って人を揃え、またここに来よう。良いな、赤虎」
 「異存はない。では帰路は南に向かう道を辿ろう。こちらには細道だが、道はあるようだからな。岩礁や山を越えるより、道を辿って島を半周する方が早そうだ」
 「それで行こう」
 三人は漂着物から使えそうなものを拾い終わると、この岬を後にした。

 北西の岬を出て一刻ほど南下すると、道の脇に大岩が立っていた。
 大岩には注連縄が張ってあり、その裏手の一丁先にある杉木立にも縄が張ってあるのが見えた。
 「あれが竜神の祠か」
 「あの杉木立の中に祠があるということでしょう」
 「菊江殿は『けして入ってはならぬ』と申していたな」
 ここで赤虎が二人の話に割って入る。
 「では行ってみよう」
 「何と」
 「余所(よそ)者にわざわざ『入るな』と申すのは何か知られたくない物があるからだろう。ならばそこに行けば、あの女たちが隠していることが分かる」
 「なるほど。ぬしの申す通りだ。ではあそこに行って女たちの秘密を確かめよう」
 三人は大岩を回り、杉木立の中に分け入った。

 三十本の杉の木立の奥には、菊乃の言葉の通り、小さな祠があった。
 その祠の横には、人の背丈ほどの岩があり、この岩も注連縄が巻いてある。
 岩には上から下に向かって、太い条痕が走っていた。
 「なるほど。この岩の上に付いた筋を祀っておる訳だ」
 「これなら何ひとつとして隠し立てする意味があるまい。他に何かあるのだ」
 赤虎が祠の周囲に目を配ると、後ろの方に続く道があった。
 「この後ろには何かがあるぞ」
 「よし。行ってみよう」
 細道を辿り、祠の後方へ二十間進むと、地面に端から端まで二間ほどの大穴が開いていた。
 「隠しごとはこれだな」
 「うん。違いない」
 穴は斜めに地中に繋がっている。
 「中に入ることが出来そうだ」
 「行くか」
 「松明が要るようだぞ。まずは火を熾そう」
 「皆様。あちらに蝋燭があるようです」
 穴の左横、少し離れたところに、燈明台があり、その小さな扉を開くと、火打石や松の皮、蝋燭などが置かれていた。
 「これを使えば、ここに入ったことが知れるな」
 「次に来た時に補充して置けば良いのだ。おそらく、島の者たちもそうしているのだろう」
 三人は蝋燭に火を灯し、穴の中に入った。
 「中は案外広い。しかも奥も深そうだ。この島にこんな洞窟があるとはな」
 二十間先に進んだところは、さらに広くなっている。天井まで三間、横幅が五間と、三人が横に並んで歩けるほどである。
 「気を付けたが良いぞ。この先は崖だ」
 杉原の見た通り、穴の途中で底の岩盤が消え、その先は真っ暗な闇となっている。
 「穴の中にまた穴か。どれくらいの深さでしょう」
 角掛が蝋燭の灯りを前にかざした。その隣で杉原も首を長くした。
 「底が見えることは見える。この崖は四五間ほどの高さだろう」
 ここで角掛が声を上げた。
 「杉原様!あれをご覧ください」
 角掛けの指し示す崖の下には、何やら白いものが散乱していた。
 「あれは骨だな。しかも・・・」
 赤虎は、おびただしい数の骨の中に、人の頭蓋骨を見つけていた。
 杉原も、それが人骨であると見取っている。
 「よもや、あれは人の骨ではないのか」
 この時、洞窟の中に三人とは別の声が響いた。

 「皆様・・・」
 極めて微かな声である。しかし、三人の耳には十分に届いた。
 これに杉原が叫ぶ。
 「中に誰かおるのか!おるならすぐに出て来るが良い」
 すると左手にある大岩の後ろから、返答が聞こえて来た。
 「それがしは動くことが出来ませぬ。こちらに来てくだされ」
 三人はその声に導かれ、岩の後ろに回った。
 岩の後ろには、男が一人倒れていた。
 「うう」
 呻く男に、杉原が声を掛ける。
 「ぬしは誰だ。何故ここにおるのだ」
 男が体を起こそうとするので、周囲が助け起こした。
 「それがしは下島十平衛を申します」
 赤虎が竹筒の水を男に飲ませてやる。
 「何故こんな洞窟に潜んでいたのだ?」
 「女たちに見つからぬよう隠れていたのでござる」
 「女たち?」
 「身どもがこの島に流れ着いたのは半年前のことにござる。当初は八人の仲間がござった」
 「他の仲間はどうした」
 「消えた」
 「なに?」
 「島に留まり、女たちの夫になれという申し出に従ったのだが、二月三月経つうちに、一人また一人と仲間が消えたのだ。どうも女たちが関わっているらしいと気づき、最後に残った三人で、村を逃げ出したのだが・・・」
 男はもう一度竹筒を掴み、ごくごくと音を立てて水を飲んだ。
 「やはり女どもが追い駆けて来た」
 ここで杉原が男を問い質す。
 「たかが女どもではないか。何故恐れる」
 男は大きく首を振った。
 「ただの女ではござらん。男を捕まえて殺し、その肉を食らう奴らだ」
 「何だと!」
 「それが証拠に、何百という人骨がそこにあろう。あれは女どもに食われた男たちのなれの果てなのだ」
 赤虎が二人の間に口を入れる。
 「お前は女たちから逃れるために、これまでこの洞穴に隠れていたのか」
 「そうだ。初めは山の中に潜んでいたが、ある一人の女が己の仲間を裏切り、『竜神の祠に逃れよ』と教えてくれたのだ。ここは女どもにとっては、侵犯してはならぬ地で、屍を捨てる時の他にはここには来ないのだ」
 「船を直していたのはお前か」
 「そうだ。あとひと月もあれば、この島から抜け出られたのに・・・」
 「何があったのだ」
 「食い物を探しに出た時に、兎取りの罠に引っ掛かったのだ。その罠に足首をからめ捕られる時、踵の上の腱を傷つけられたのだが、どうやら罠に毒が塗ってあったらしい。すぐに踵が腐り歩けなくなった。その罠の狙いは兎ではなく我らだったのだ」
 赤虎が男の足を確かめると、言葉通り脛から先が黒く変じていた。
 「動けなくなったところで、他の二人は女どもに捕えられた。それがしは辛うじて逃げ延びたが、しかし、もはやこれまでだ。船は貴殿らに与えるから、あれを上手く使って逃げるが良い。あの船を直し、早くこの島を逃れるのだ」
 「おい下島。しっかりしろ。船は俺たちが直してやる。お前も共にその船に乗り、国に帰るのだ」
 「いや。それがしはあと幾らももたぬ。よく聞け。船が完成するまで、けして女どもに気取られるなよ。分かったら、もう行け」
 「しかし・・・」
 杉原が男に言い返そうとするが、これを赤虎が止める。男の表情には、既に死相が現れていたのだ。
 「杉原。この男の申す通り、我らは先に進もう」
 赤虎が二人を促し、三人でその場を去ろうとする。しかし、三人が洞窟の入り口に向かい数歩歩き出した時、背後で声がした。男はまだ死んではいなかったのだ。
 「脛(すね)の周りに柴を巻き付けて歩けよ。罠は紐を足首に巻き付ける仕掛けだ。一度罠に足を踏み込むと、その勢いで紐がきゅっと締まる。その紐には鯨骨の欠片(かけら)が結んであるのだが、それで肌が傷つけられるのだ。小さいかすり傷だが、しかし、その骨には毒が塗ってあるのだ」
 下島十兵衛は、その言葉を言い残すと、がくっと頭を落とした。
 赤虎は男のところに戻り、息を確かめる。男はもはやこと切れていた。
 「この男は生きてこの島を抜け出ようとしたが、結局は果たせなかった。俺たちはその志を継ぎ、是が非でも国に帰ろうぞ」
 「うむ。承知したぞ、赤虎」
 三人は言葉少なに、その場を後にする。
 村に帰った三人は、それぞれの家に戻った。

 赤虎が北の岬に戻ると、ちょうど利江とお花が夕餉の支度をしているところであった。
 「利江。もう良いのか」
 赤虎の声に利江が振り返る。
 「はい。だいぶ良くなりました」
 利江の笑顔に、赤虎はふと下島十兵衛の言葉を思い出した。
 (あの男は「ある一人の女が仲間を裏切り、竜神の祠に逃れよと教えてくれたのだ」と申したな。)
 「利江。重ねて訊くが、ぬしは何故罰せられたのだ?」
 利江は予想外のことを唐突に問われたので、当惑した表情を露わにしつつ、ちらとお花の方を見た。
 「いや。答え難いなら、今は答えんでも良い」
 もちろん、頭の中では別のことを考えている。
 (下島十兵衛を逃がしたのは、この女子(おなご)ではないのか。この女子が罰せられたのは、そのせいではないのか。)
 そんなことを考えながら、赤虎はたらいに汲んだ水で手足を洗った。

 その夜。寝間で床を並べ、赤虎と利江が横になっていると、利江が不意に声を掛けてきた。
 「虎一様。そちらに行っても宜しいでしょうか」
 利江が天井を向いているので、赤虎はてっきり先に寝たのだと思っていたが、実際には起きていた。
 「構わぬ。参れ」
 赤虎は体を離し、利江の入る余地を与えた。
 利江は身を寄せ、赤虎の隣に入った。
 利江はすぐさま赤虎の顔に己の顔を寄せる。頬と頬がくっつきそうになる程の間合いである。 
 「虎一様。西の入り江で何か見ましたか」
 この言葉の意図を量るべく、赤虎は利江の両眼を覗き込んだ。利江は赤虎の心中を知ると、先に自らの本意を明かす。
 「下島様に会われましたか」
 これで赤虎も心を開いた。
 「会った。だが、その男はすぐに死んだ」
 「亡くなられたのですか・・・」
 薄暗がりの中でも、利江が気落ちしている様子がありありと伝わって来る。
 「あの男を逃がしたのは、ぬしなのか」
 「はい」
 「あの男はぬしの夫となっていたのか」
 「いえ。下島様は村におられました。ここへ来られたのは、この家の修繕をお願いしたからでござります」
 その時、利江は下島十兵衛と話をした。
 十兵衛は柱を直しながら、利江に己の故郷の話を語ってくれたのだ。
話し方には人柄が出る。
利江は十兵衛の口調に、裏表や駆け引きの無い実直さを感じ取った。
 下島十兵衛ら三人が女たちの村を脱したのは、それから十日後のことである。
 十兵衛は村を逃げ出すと、最初に利江の庵を訪れた。その時、利江は女たちが日ごろはけして訪れることの無い場所、すなわち「竜神の祠」を、男たちの逃げ場所として示したのだった。
 しかし、さらに二十日の後、兎罠に掛かった二人が掴まった。そして、拷問に耐えかねた男の一人が、利江の名を吐いたのであった。
 「それで、掟破りの懲罰を受けようとしていた訳だ」
 「はい」
 「ぬしはついておらんな。ぬしが関わりになる男は、いつも島の女たちには好ましゅうない男のようだぞ」
 利江は赤虎の唇をひと指し指でそっと押さえた。
 「虎一様。声が大きゅうございます。隣でお花が聞いております故・・・」
 利江はそう言うと、赤虎の左頬に己の右頬をぴたりと付けた。
 「こうすれば、お互いに口が耳の間近となり、小声でもわかります」
 互いの体を密着させる体勢である。赤虎はこの時初めて、利江を女として意識した。
 「もはや私もこの島にはおられません。虎一様が島を出られる時には、私もこの島を逃れます」
 「俺たちは船を見つけた。修繕にひと月はかかるが、これで一緒に島を出よう」
 「虎一様。まずは皆様が逃れ出ることを先にお考えください。私はこの島で生まれた者です。島のことは十分に承知しております」
「そうか。兎にも角にも船が無くては話にならんな。早速明日より修繕を始めよう」
 ここで利江は赤虎の首に両腕を回した。
 「虎一様」
 「今度は何だ」
 「私を抱いて下さりませ」
 赤虎の息が止まる。島の女を妻に迎えた男たちが、一様に生気を失ったことを思い出したのだ。
 「隣でお花が聞き耳を立てておりまする。お花は私が掟を守るかどうかを、見届けに来た者です。よって、ごまかしは利きませぬ。他の家と同じように、島の女を抱かねば、この後虎一様の命が危うくなります」
 「しかし、村の男たちは・・・」
 赤虎の唇の動きを、再び利江の人差し指が止めた。
 「大丈夫。私は虎一様の命を吸い取ったりはしませぬ」
 利江はもう一度、赤虎の体に両手を回し、力一杯抱きしめて来た。

 翌朝。朝餉の支度が整うと、赤虎は利江を卓袱台の隣に呼び寄せた。
 さらに土間にいるお花にも声を掛けた。
 「お花。ぬしもこちらに座れ」
 お花は下働きとしてこの家に来ている。このため、常時竈の近くにおり、夜も板間の隅で眠るのが当たり前である。
 赤虎はそんなお花を、家族の一員として扱おうと言うのである。
 赤虎の言い付けに、お花はおずおずと上がってきた。
 「宜しいのですか」
 「構わぬ。座れ」
 この言い付けに従い、お花が向かい側に座ると、赤虎は利江に目配せをした。
 利江は傍らの鍋から椀に粥を移し、最初にお花の前に置いた。
 「いけません。私は残り物で結構です」
 嫌々をするお花を赤虎が制する。
 「お花。ぬしは若い。ぬしの齢なら幾らでも食えるだろう。この島のしきたりのことは知らぬが、この家の中では俺の考えに従ってもらうぞ」
 これに利江も口添えをする。
 「お花。遠慮せず食べなさい。旦那様が良いと言うのだから、食べても良いのですよ」
 しかし、お花はなかなか飯に手を付けようとしない。そこで、赤虎は木皿に盛られた炙り鰹を小皿に移し、お花の目前に置いた。
 「ぬしは身寄りのない子であろう。おそらくは、これまでも下働きとして、他人の家の片隅で、肩身の狭い思いをして暮らして来た筈だ。返事を返さずとも良いぞ。俺が勝手にそう思い込んでいるだけなのだからな」
 赤虎は言葉を続けながら、野菜の煮たのをお花の前に差し出す。
 「なぜそう思うのか。それはこの俺も早くに親を亡くした者だからだ」
 最後に、赤虎はぱちんと音を立て、箸を卓袱台に置いた。
 「俺は戦災孤児だ。俺は三人兄弟の長男なのだが、俺が五歳、弟二人が三歳二歳の時に、俺たちの親は侍に殺されたのだ。寒さ厳しい北奥の地で、幼い兄弟三人が生き残るのは、どんなに辛かったことか。誰に問われても、俺はその時のことを語ったりせぬぞ」
 (そうだ。俺は己が生きるため、弟たちを生かすため、どんなことでもしてきたのだ。)
 ここで赤虎は、己が先に食って見せれば、お花も食うだろうと気づき、粥をずるずるとすすった。隣の利江に顎をしゃくると、利江もそれを悟り、食べ物を口にする。
 「それから三十年。俺たち兄弟は今までどうにか生き永らえることが出来た。だが、それと引き換えに、今は盗人を生業としている。金持ちや侍は貧乏人をだまし、戦を利用して財を貪っておる。こ奴らから奪い取り、かつての俺たち兄弟のような孤児たちに分け与えておるのだ」
 赤虎の告白に、お花が顔を上げた。
 「もちろん、今、俺が申したことは只のきれいごとだ。孤児たちに幾らか分かつ一方で、己自身は贅沢をしている。当然だろう。毎日が命懸けなのだからな。さあ食え。お花。俺も利江も腹が減っている。直ちに食わぬと、先に二人で鍋を空にするぞ」
 これでようやく、お花が箸を手に持った。
 「ぬしは今までどこの家にいたのだ?」
 お花は小さな声で答える。
 「菊乃様の家で水汲みをしていました」
 「なあ、お花。俺がこの島に来たのは、侍に捕縛されたからだ。囚人となった俺は、船の櫂を漕ぐ奴婢にされたのだ。死ぬまで働かされるところだが、幸いなことにあの嵐が来て船が沈んでくれた。さらに幸いなことに、溺れずにこの島に流れ着いたのだ」
 赤虎はここで話の間を置き、ずるずると粥をすすった。
 「俺は戦も飢饉も乗り越えた。よって、今さらこの島で死んでなどおられぬ。なるべく早く島を抜け出し、故郷に帰るつもりでおる。今は侍たちと手を結ぶが、国に帰り着いた暁には、いずれ皆殺しにしてやる。だから・・・」
 赤虎が椀から顔を上げると、正面のお花が、真ん丸な眼を見開いて赤虎を見ていた。
 「お花。俺はいずれこの島を出て行く。その時まで、けして俺の前に立ちはだかってくれるなよ。お前は俺の同類なのだから、殺すには忍びない。俺もお前も、そしてここにおる利江も、皆幼くして親を亡くした者同士ではないか」
 赤虎のこの話を、お花は神妙な面持ちで聞いていた。

 それから一カ月の間、男たちは船の修繕に掛り切りとなった。動くことが出来る者のうち五人が一組となり、四日ごとに交替で、西の入り江に赴いた。
 表向きの言い訳は山羊狩りである。島の山には野生の山羊がいたが、雌山羊を村で飼えば、乳を飲めるし、必要な時にこれを屠って肉を役立てられる。よって、山羊を生け捕りにすると申し出て、村長の許しを得たのである。
 実際、山間の数か所に罠を仕掛け、ひとつの組が帰るときには、山羊を一頭か二頭連れ戻っていた。
 船の修繕は概ね完了したが、もちろん、これで終わりではない。航海にはそれなりの準備というものがあった。
 まずは船具である。細かい道具類は、難破し流れ着いた船の残骸から拾えたが、長旅に耐え得る丈夫な櫂や帆を作らねばならない。
 次は食料や水である。村から大っぴらに樽を持ち出すことは出来ぬので、樽を作るところからである。
 船の修繕の目途が付いたところで、並行して始めていたが、如何せん隠密裏の支度なので、あと十日は掛かりそうである。
 潮流が止まるのは凡そ十三から十五日後で、ぎりぎりの日程となっている。

 潮目の変わる日まで残り十日程度となった頃、赤虎の庵に杉原がやって来た。
 「昨夜西の入り江より戻った。あと五日で出航の準備が整う。潮目が変わる時は、空の雲が渦を巻くそうだ。その印が見えたら直ちに出航する。皆にも雲が見え次第、すぐに西の入り江に迎えと伝えてある。赤虎。ぬしもそのつもりでいてくれ」
 「その機を逃したら、俺たちはこの島に骨を埋めることとなろう。好機はたった一度という訳だな」
 「そうなろう」
 ここで、杉原が赤虎の前に太い竹筒を出した。
 「酒だ。たっぷりあるから、一緒に飲もう」
 赤虎は早速注ぎ口を開け、匂いを嗅いでみる。
 「上等な酒だ。毎度ながらこれがどうにも解せん。これは米で作った酒だ。しかし、この島では米は採れん。他から運ぼうにも大型船はない。一体、女たちはどこからこの酒を出しているのだ」
 「何か秘密があるのだが、今はここを脱出することの方が先決だ。妙なところをいじくって、火種を燃え上がらせてはかなわぬから、あえて触れぬようにしておる」
 「下島によれば、この島の女たちは人を殺して食うそうだ。しかし、見た目ではそんな素振りが見えぬ。わしの相方だって、何ひとつ普通の女と変わらぬ」
 杉原の何気ない言葉に、赤虎の右の眉が上がった。
 「杉原。菊乃殿と褥を共にしたのか」
 杉原が口の端を歪めて笑みをこぼす。
 「ああ。娘の方とな。女どもに疑われぬためには、己が弱らぬ程度に相手をした方が良さそうだ。家の女の誰でも良いなら、娘をと所望したら、菊乃はあっさり承知したのだ」
 「裏の事情を心得ておれば、まあ、それも良かろう。程ほどにやってくれ。では、他の者たちはどうしておるのだ」
 この話になると、杉原は腕組みをした。
 「二人が消えた」
 「なんだと」
 「わしが西の入り江に行っている間に、こつ然と二人の姿が消えたのだ。わしの組の五人とぬしの組の五人は、交互に西の入り江に行くくらいだから大丈夫だが、残りの五人は村におる。そのうちの二人が不意にいなくなったのだ」
 「女どもは何と申しておるのだ」
 「島の南まで釣りに行ったと答えた。だが、釣りなど到底無理な話だ。それまでずっと床に臥していたのだからな」
 「そろそろ女どもが本性を露わにし始めたか」
 「この島に来てひと月半が経つが、女どもの中には子を孕んだ者もおるらしい。その二人の相方も、各々の腹に子が入っていたようだ」
 「菊乃は、『島の女に子を授けよ』と申していたが、いざ女が子を孕めば男は用済みというわけか」
 「そうかも知れぬ。もはやあと数日で出航だ。一瞬たりとも気を許すなと皆に伝えよう」
 杉原は己の用件が済むと、すぐさま腰を上げた。
 (五)赤虎、女たちの正体を知るの巻
 それから二日後の夜。杉原配下の侍の一人、山中七兵衛は相方の「しま」と夕食を食べていた。
 翌日には密かに村を脱し、西の入り江に向かう手筈であるから、これが最後の夕餉である。
 おしまは元々寡黙な性質で、日頃から口数の多い方ではない。しかし、この夜はいつもにも増して黙りこくっていた。

達谷窟  表門
達谷窟 表門

 「おしま。何かあったのか。どうしてそんなに大人しいのだ」
 おしまは整った顔立ちの女だが、表情に乏しいきらいがある。じっとしている様は。まるで能面のように見える。
 「やや子が出来ました」
 島の女はぽつんと答えた。
 「なに。いつ分かったのだ?」
 「十日前にござります」
 「何故すぐに言わぬのだ」
 「本当に子を孕んでいるか確かめる必要がござります。それに、女子には色々と用意すべきことがあります故、これまで黙っていました」
 島にいる間だけの妻である。明日、七兵衛は他の男たちと一緒にこの島を出て行くのだ。
 (杉原様は「努めて島の女に心を許さぬようにせよ」と仰せられたが、寝食を共にしていれば、やはり情も移る。子を孕んだとなれば尚更だ。)
 この妻は極めて華奢で色白である。故郷で七兵衛の帰りを待っている筈の妻女とは大違いである。
 (この、いたって無口なところが、私にとっては望ましい。何せ、元の妻の口やかましさときたら、耐え難いほどだからな。)
 七兵衛は、ほんの少しだけ、「この島で暮らすのも悪くは無いかも知れぬ」と考えた。
 目の前のおしまが不憫にも思える。
 「おしま。もし、この私が島からいなくなったら、お前はどうするのだ」
 おしまが驚いて顔を上げた。
 「旦那様。まさかこの島を出て行こうというのですか」
 出航は内密裏に進める決まりである。七兵衛は慌てておしまをとりなそうとする。
 「いや、そんなことはないぞ。子も出来ることだし、いっそのこと、私はこのまま、この島に骨を埋めようかとも考えているのだ。私がこの島にいなくなったら、とは、すなわち私が死んだら、という意味なのだ」
 おしまの整った顔に笑みが浮かんだ。
 「そうでございますよね。旦那様としまは、どちらかが死ぬまで、仲よく一緒に暮らすのですよね。先ほど、私は旦那様が他の皆様と連れ立って、島を出て行くのではないかと思い驚きました。ああ嬉しきこと」
 おしまは七兵衛の胸に身を投げ出し、抱き付いた。
 「私は旦那様のことを絶対に手放さない。死ぬまで一緒です」
 切なげな表情で見上げるおしまの眼を見て、七兵衛の心は千々に揺れた。
 「おしま。案ずるな。私はお前にとって良かれと思うことをする。顔色が悪いようだから、先に床に入りなさい」
 七兵衛はひとまず、おしまとの間に距離を置き、頭を冷やそうと考えた。
 「はい」
 おしまは傍目にも嬉しそうな顔で席を立ち、部屋を出て行った。

 七兵衛がおしまを先に寝かせたのは、もちろん、翌日の支度をするためである。
 昼前になると、村の女は一斉に姿を消し、申の刻まで戻って来ない。定置網を見に行ったり、野良仕事をしたりしているとの話だが、その実のところはよく分からない。
 だが、いずれにせよ、昼のふた時の間は、村の中にただ一人の女も見当たらぬのだ。
 よって、男たちが集結する目安は、午の刻過ぎである。
 この頃合いで出発し、西回りで移動すれば、夕方までに道程の半分は進むことが出来る。
また、夜の天候次第だが、もし晴れていれば、そのまま進行し、次の朝には西の入り江に着く段取りである。雨が降れば、夜の移動は難しいが、これは追手の方も同じなのである。
 七兵衛は当座の荷物を風呂敷に包み、勝手口の陰に置いた。さらに、素人拵えだが、屑鉄を叩き伸ばして作った段平を、納戸の奥から取り出して備えた。
 七兵衛がそんな支度を終え、寝所に入ろうとした時には、既に亥の刻を回ろうとしていた。
 寝所には小さな灯明が一つだけであるから、かなり薄暗い。
 七兵衛が床に横たわると、おしまが顔を向けた。
 「おしま。起きていたのか」
 おしまの両眼は、薄暗がりの中でもそれと分かるほど、ぬらぬらと光っていた。
 「旦那様。布を縛るきゅっという音がしました。あれは荷物をまとめる時の風呂敷の音です。旦那様は明日、この島を出て行くおつもりなのですね」
 出航のことは、一切が口外禁止である。
 七兵衛の顔が歪んだ。
 「おしま。済まぬ」
 七兵衛はついつい、おしまに詫び言を言ってしまった。
 その途端に、おしまは「ぴょん」と立ち上がり、手足を揃えて直立した。
 「やはりそうか!汝(うぬ)は私を捨てて、島を出て行こうと言うのだな」
 おしまの形相は、先ほどまでとは一変した。
 「おしま。お前・・・」
 驚いた七兵衛が見詰める前で、おしまの背がぐいぐいと伸びた。
 背丈はすぐに七尺を超え、頭が天井に着きそうになる。すると今度はみりみりと音を立て体中の筋肉が張り出した。
 「うがあ。許さぬぞ。七兵衛」
 頭部が二倍の大きさに膨れ、両方の目玉が飛び出した。口は両耳の下まで一気に裂けた。
 七兵衛は息を止め呆然と見守る。
 「うひゃあ」
 七兵衛の目の前には、巨大な鬼が立っていた。
 余りの恐ろしさに、七兵衛は慌てて逃げ出そうとしたが、腰が抜けて歩けない。
 七兵衛が鬼に背中を向け、床を這って逃げようとしたところ、不意に背後から首根っこを掴まれた。
 鬼は七兵衛の首を掴み、体ごと空中に持ち上げると、難なく胴体から首を引きちぎった。
 「わははは」
 鬼は七兵衛の首元からほとばしる血を浴びながら、長い爪を繰り出し、腹を破った。  
鬼はその穴にぐいと手を突き入れ、内臓を一気に引き出した。

 翌日の朝となった。
 いつものように、女たちの姿が村から消えると、男たちは杉原の許に集まって来た。
 辰の刻に集まることが出来たのは、結局六人だけである。
 杉原は、念のため各戸に人を送り、様子を確かめさせた。しかし、どの家も今はもぬけの殻であった。
 「昨夜のうちに皆やられたのだな。よし。赤虎と合流し、船に急ごう」
 村を出てから、真っ直ぐ北に向かうと、程なく道が二つに分かれる。右側が北の岬に行く道で、左側が西の入り江に繋がる道である。
 杉原たち六人がその道別れに着いた時、赤虎が大石に座って待っていた。
 赤虎は顎を小さく動かし、頭数を数えた。
 「これだけか?」
 「そうだ。どうやら他の者は皆殺されたようだ。あるいは、幾人かは捕えられておるのかも知れぬが・・・」
 「今は致し方あるまい。ここに来られた者だけで行こう」
 「では直ちに出発だ」
 赤虎を加えた七人で、西の入り江に向け、走り出した。

 一行が西の入り江に到着したのは、その日の夜遅くである。
 一行は道中を駆け通しで駆けて来たわけであるが、「休息するのは出航した後」と決めていたので、そのまま準備に執り掛かった。
 船の修繕は出来ている。
 長航海をするには、不十分な大きさの船ではあるが、今は贅沢を言ってはいられない。
 この船を予め入り江の隅に浮かべていたので、航海用の荷物を積み込むだけで良かった。
 出航の準備は、一時半ほどで終わろうとしていた。
 「よし。程なく夜明けだ。お天道様が少しでも顔を出したら、すぐに出航するぞ。今一度荷を結んである綱を点検するのだ」
 赤虎の声に、皆が頷く。
 「赤虎様・・・」
 声の主に皆が顔を向けると、男の一人が浜を指差している。
 浜には女が一人立っていた。船から二十間離れた位置である。
 「利江!」
 赤虎は船から飛び降りる。すぐさま女の許に駆け寄ろうとするが、途中で振り向き、男たちに叫んだ。
 「あれはこちら側の者だ。島の掟を破り、我らを逃がそうとしてくれているのだ」
 再び赤虎は前に向き直り、利江のところに走った。
 「赤虎様。今すぐ出航して下さい。程のう追手が追い付きます。皆様は後をつけられていたのです」
 「何だと」
 「船の隠し場所を探るために、あえて皆様を泳がせていたようです。私がここに来る途中、一人が村の方に走り去るのを見ました。あと一刻の猶予もありません。今すぐ出航して下さい」
 「よしわかった。ぬしも一緒にあの船に乗るのだ」
 「いえ。私はこの島に残ります」
 利江は小さく頭(かぶり)を振った。
 「何故だ。ぬしはこの俺と同行すると申したではないか」
 「ほんの少しの間、利江は夢を見たのです。でも、やはり無理です」
 「どういう訳なのだ」
 赤虎の追及に、利江の表情が曇る。
 「虎一様。この島の女たちは蟷螂の化身なのです」
 「蟷螂?かまきりのことか」
 「はい。日頃は女の形(なり)をしておりますが、時として姿を変えるのです」
 「姿を変える?」
 「はい。怒りを覚えた時や飢えた時に、鬼に変じるのです」
 「鬼・・・」
 「それと・・・」
 「まだあるのか」
 「子を孕んだ時です。赤虎様は蟷螂が子を生す時のことを知っておられますか」
 「虫は、然るべく必要な時に、相方を見つけて交わるだけだろう」
 「蟷螂は雄雌が交わり、雌が子を孕むと、その雌はつい先ほどまで交合していた雄を食うのです。島の女もそれと同じです。子を孕んだら、無性に相方を食いたくなる。それもその筈で、相方の血をすすらぬと、多く己の身ごもった赤子が雄になってしまうのです」
 「それのどこが不味いのだ」
 「この島の女の作る男児は、胎児の時から鬼の姿で育ちます。生まれついての鬼の子は、母親の腹を食い破って出て来るのです」
 赤虎は利江の話の凄まじさに、思わず腕を組んで顔をしかめた。
 「では、女たちは生き延びるために、相方を食らわねばならぬ訳か」
 「はい。この島に男が一人もおらぬのは、外から来た男は食ってしまうし、男を食えば腹の子は女子として生まれるが故にござります」
 「しかし、ぬしはどうするのだ。俺がこの島に来た時、ぬしは今にも殺されようとしていたではないか」
 利江はここで顔を上げ、赤虎を見据えた。
 「私はこの島に残り、私の母を殺した者と決着を付けます。そのことは、虎一様を逃がす好機にもなるのです」
 赤虎は利江の言った「母を殺した者」という言葉に、ぴんと閃くものがあった。
 「利江。ぬしの仇は菊乃だな」
 利江はこっくりと頷く。
 「私はこれから追手の所に戻り、仇と戦います。虎一様はその間に逃げて下さい」
 「しかし、相手は菊乃だけではない。大勢の鬼を相手にするのに、たった一人では分が悪いではないか」
 ここで初めて利江が微笑んだ。
 「利江の取り柄は足が速いこと。私はこの島で一番速く、長く走ることが出来ます。正面からでは難しくとも、脇から脅かすことは出来ます」
 「命懸けだぞ」
 赤虎の言葉に、利江は「ふふ」という含み笑いを漏らした。
 「死ねば、何百年も続くこの地獄から解き放たれます。虎一様。この利江が幾歳になるかお分かりですか」
 「いや。見た目は二十二、三歳だが」
 「利江の齢は百二十歳にござります。この島の女の寿命は凡そ三百六十年と言われているのです。外見がいかに若くとも、心の方は十分に疲れ、年老いております」
 余りにも奇怪な話である。日頃は剛の者として通る赤虎ですら、まったく言葉が出なくなった。
 「虎一様。もう行って下さい。すぐに出航し、なるべく早く島から五里離れるのです」
 「五里?」
 「はい。この島の女は、いざ鬼の姿に変じたなら、海の上を五里は走ることが出来るのです。だから、掴まらぬためには、それより外に出ることです」
 容易ならざる事態である。ここで赤虎も漸く腹を括った。
 「よし。仔細は承知した。ぬしの言葉に甘え、俺は直ちに島を出る。いつの日かまた出会うことがあったなら、この借りは必ず返す」
 しかし、利江はきっぱりとした口調で返事をする。
 「私は虎一様に何ひとつとして貸しなどござりませぬ。虎一様の方が、私の命を救って下さったのです」
 そう言うと、利江はさっさと後ろを向き、走り出した。「この島で一番」の言葉の通り、尋常ならぬ速度である。
 利江の背中は、まさに、あっという間に消えてなくなった。

 利江を見送ると、赤虎は船に駆け戻り、大声で叫んだ。
 「すぐに出航だ!追手が来るぞ。この島の女は鬼なのだ。もはや長居は無用だ。とっとと島から離れよう」
 「おうさ。皆、櫂を持て。外海に出るぞ」
 「おう」「おう」
 男たちは一斉に櫂を船の外に突出し、大慌てで漕ぎ出した。

 出航してから半時が過ぎ、島の姿が芥子粒の大きさになった。
 その島を眺めながら、杉原が赤虎に声を掛けた。
 「もはや四里は離れたな。風も出てきたようだし、そろそろ帆を張るとするか」
 「うむ。風も北に向かっている。早くここを離れよう。あの島ともこれでおさらばだ」
 赤虎は何気なく、島の方を振り向いた。
 すぐに向き直り、背中を向け舳先の方に歩き出していた杉原を呼び止める。
「杉原。奴らが来るぞ」
 杉原が赤虎の視線の先を見て、眼を見張る。
 「者ども!敵が来るぞ。皆武具を持て!」
 男たちが島の方を向くと、なんと、海の上を赤や青色の生き物がこちらに向かって来ていた。
 外見は人に似ていなくもないが、極めて巨大である。さらに、その生き物たちは、海面に叩きつけるように足を動かし、水の上を走っていた。
 「あれは何だ?」
 男たちの間から、戸惑い声が上がった。
 赤虎がここできっぱりと断じる。
 「あれは鬼だ。島の女たちは、皆男を喰らう鬼なのだ。二人は帆を張り、何としても島からあと一里遠ざかるのだ。他の者は弓で射掛け、この船に鬼を近づけるな!」
 男たちが大慌てで動き出した。
 このひと月の間、半分が船の修繕を行い、残り半分が弓矢と刀槍を作る作業を行ってきた。このため、弓は十張、矢は二百本以上を備えていた。
 鬼たちはもはや間近に迫っていた。
 姿かたちが見えるところまで近づくと、その恐ろしさが一層際立った。
「あれを見よ。目玉が三つだ」
「あの大きさときたら。九尺に届こうかという勢いではないか」
 男たちは、目前の鬼たちの姿に戦慄した。
 「ひるむな。恐怖を与えることこそが、あの鬼たちの姿かたちの狙いなのだ。十分に引き付け、心の臓を射抜け。近くに寄せた奴は、槍で貫くのだ」
 赤虎の言葉に、男たちが奮い立った。
 「よし。やってやる。ここでやられてなうものか。あいつらなど所詮は娘ではないか。嬶(かかあ)天下を敷かれるのは、本物の時だけで沢山だ」
 それを聞いた赤虎は口の端をわずかに歪めて笑った。
 (絶体絶命の窮地にしては良い冗談だ。これは、もしや生き残れるやも知れぬな。)
 赤虎には天性の勘がある。
 この時の直観は、「今ここで俺が死ぬことは無い」と伝えている。

 この時、鬼たちは船から十間のところまで到達していた。
 「よし、今だ。皆一斉に射掛けよ!」
 杉原の号令を受け、次々に矢が飛んだ。
 「どどど」と音を立て、間近の鬼たちに矢が突き刺さる。これで前衛の鬼たちが、ぐずぐずと後ろに下がった。
 「敵はざっと二十匹だ。わしたちのわずか三倍ではないか。冷静に処すれば、必ずや切り抜けられる。次も外すなよ」
 鬼の寄せ手の第二波が近づいていた。
 鬼たちは、いずれも身の毛もよだつような姿である。
 青色の鬼は、胴体から腕が六本突き出ていた。
 赤色の鬼は、いずれも顔に大きな目玉が三つか四つ付いていた。
 「あれが女たちの本性だったのか」
 ひと月程とはいえ、同じ家で暮らし、夫婦として連れ添った女の正体が、こんな悍(おぞ)ましい姿である。
 さすがの男たちもあきれ果てた。

 「来るぞ!」
 第二波の攻撃は最初の時よりも強力であった。第一波は四匹の鬼のみであったが、今度は十匹が一度に寄せて来たのである。
 五人が一斉に射掛けても、総てが当たるわけではないし、端から的にならぬ鬼もいる。たちまち三匹の鬼が、船べりに取りついた。
 「うわあ」
 男の一人が青鬼に首元を掴まれる。すかさず、赤虎がその鬼に槍を突き刺した。
 「とおりゃ!」
 槍は鬼の肩口を貫き、その鬼は海に転げ落ちた。
 間髪入れず、次の鬼が船に取りつく。
 「皆の者。槍だ。槍で鬼を突き落せ。けしてこ奴らを船に上げるでないぞ!」
 杉原の命令に、男たちは弓を置き、槍を手に取った。
 鬼は船べりに手を掛け、今にも上って来ようとする。その鬼に向け、二三人が一度に槍を突き出した。
 「顔だ。的がでかいから狙いやすいぞ。眼と言わず頬と言わず突き通すのだ」
 必死になって槍を突き出すが、しかし、戦闘にかけては鬼の方が上手である。
 波状攻撃で寄せて来る鬼に、男たちは次第に劣勢になって行く。
 「ぎゃあ!」
 男の一人が捕えられ、船の外に引きずり落とされた。
 「怯むな。突け突け」
 「おう」
 巨大な鬼が次から次へと襲い掛かってくる情勢である。
 男たちは一心不乱となり、迫り来る鬼を槍で突いた。
 二度目の攻撃をなんとか凌ぐと、鬼の姿が船の周りから急に消えた。
 「これはどうしたのだ。赤虎」
 杉原が問い掛けると、赤虎はただ一点を凝視していた。
 「あれを見よ。丸太に掴まって休んでおる」
 鬼たちとて、水上を自由に歩くことが出来るわけではない。両足を素早く交互に動かし、足先だけで泳いでいるのであった。
 このため、それ程長い間、海上にはいられないのだった。
 この時、男たちの頭上で布が張り詰める「ぱん」という音が響いた。
 「風だ。風が出て来たぞ。よし。あとたった数丁も島から離れられば、鬼たちは付いて来られなくなる。今を逃すな」
 六人は一斉に動き出し、風の向きに合わせ、北東に進路を変えた。

 帆が風を孕み、船が勢いよく前進し始めると、これを見取った鬼たちが再び、海上を駆けて来た。
 この様子を見ていた赤虎が、あることに気付いた。
 「杉原。あの鬼が親玉ではないのか」
 十匹余の鬼が船を目指して駆けていたが、そのすぐ後ろに、ひときわ巨大な緑色の鬼が立っている。鬼の目玉は四つで、頭には四本の角が生えていた。
 「あれは・・・。菊乃だな」
 姿かたちは変われど、生き物には各々の持つ気配というものがある。
 「やはりそうか。よし。あ奴を倒そう。大将を倒さば、軍はがたがたと崩れる」
 赤虎はすぐさま弓に矢を番える。
 「届くのか、赤虎。菊乃、いやあの鬼までは優に四十間はあるぞ」
 杉原のこの言葉に、赤虎は顔に笑みを浮かべた。
 「この俺は、毘沙門党の赤虎だぞ。そこで見ておれよ。お侍様」
 しゅんと音を立て、矢が放たれる。
 赤虎の放った矢は、高く宙を飛び、鬼の前衛を超えた。
 緑鬼の菊乃は、この時少し油断していた。
幾ら抵抗を試みようと、所詮は人の男であり、たかが知れている。
 これまで何十回、何百回と男を襲ったが、一度たりとも己に立ち向かった者はない。
 総ての男が、驚愕の表情を浮かべたまま、死んでいったのだ。
 人の姿をしている時の美しさと、身の毛もよだつような鬼の姿との落差が激しすぎ、男の頭を鈍らすのだ。
 余りの恐ろしさに、男は目前の鬼しか、視野に入らない。
 だが、赤虎の放った矢は、前衛の鬼たちではなく菊乃に向かっていた。
 「ぎゃあ!」
 矢は菊乃の右上の眼玉に突き刺さった。

 しかし、ちょうどこの時、三匹の鬼が船によじ登ろうとしていた。
 「突け突け。突き殺せっ」
 赤虎は船上を走り回り、上がって来ようとする鬼を盛んに突いた。
 「ぐああ」
 ついには鬼の一匹が上に上がり、即座に男の一人を掴まえた。
 「わああ」
 その男は断末魔の悲鳴を発する間もなく、頭をもぎ取られた。
 これを見た赤虎は、瞬時に駆け出し鬼に迫る。
 「とおりゃ」
 赤虎の繰り出す槍を、鬼は難なくかわし、長い鈎爪を伸ばして掴まえようとした。
 がきん。
 赤虎は鬼の鈎爪を槍で受け止める。
 鬼がそのまま押し倒そうとするのを、赤虎が踏み留まってこらえる。
 いかんせん、相手は背丈八尺に及ばんとする鬼である。赤虎はじりじりと後退した。
 「赤虎。頭を下げろ!」
 声に応じ、赤虎が首をすくめると、背後から杉原辰之丞が赤虎の頭越しに槍を繰り出した。
 この槍は一直線に鬼の肩口を貫いた。
 鬼が手を放した隙を逃さず、赤虎は相手の太腿に槍を突き立てる。
 「ぐああ」
 鬼は堪らず船底に尻餅を着いた。
 「死ね」
 赤虎が槍をかざし、鬼の胸を突こうとした時、たまたま鬼の両眼に目が行った。
 どこかで見たような眼の光である。
 赤虎は槍を突かんとする寸前に、動きを止めた。
 「お前は・・・、よもやお花なのか」
 鬼の方も動きを止め、じっと赤虎を見る。
 赤虎はその視線の中に、確実にお花の心を感じ取った。
 赤虎は油断無く鬼を凝視しつつも、ゆっくりと槍を鬼の体から遠ざけた。
 「お花。俺はけしてぬしを殺さぬ。行け。島に帰るのだ」
 赤虎の言葉に、鬼は一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに飛び上がり船の外に逃れ出た。

 「赤虎。無事だったか」
 船縁(べり)に立つ杉原が、赤虎に声を掛ける。
 この時、杉原の背後に黒い影が迫っていた。
 「杉原!後ろだ」
 杉原が振り向こうとする寸前に、鬼に二の腕を掴まれた。この鬼の右上の眼には、矢が刺さったままであった。
 「うう。菊乃か」
 杉原が呻いた。
 赤虎は杉原を救おうと考えたが、しかし、鬼は杉原の真後ろにいる。このため、槍を繰り出すには杉原が邪魔である。
 赤虎は槍を捨て、腰の刀を引き抜いた。
 すかさず鬼の真横に飛び、刀を一閃させた。
 緑色の鬼は杉原を掴んでいた手を離し、爪で刀を受け止めようとした。
 「かつん」という金属音が響く。
 この衝撃で赤虎の刀が折れた。
如何せん、鉄屑を叩いただけの鈍(なまく)ら刀である。
 しかし、何が奏功するかは分からない。
 折れた刃先は鬼の顔に飛び、頬を削ぎ右の耳を断ち切った。
 「ぐああ」
 赤虎は体を反転させ、今度は左側から折れて半分になった刀を振るった。
 鬼の四つの眼のうち一つに矢が刺さっていたが、その隣の眼を折れて半身となった刀が切り裂く。
 「ぎゃあ」
 鬼がたじろぐ隙に、杉原が鬼の下から転がり出る。
 ここで、船上にいる男の一人が叫んだ。
 「島より五里半離れました!」
 これを叫んだのは、按針の角掛である。

 その声を鬼たちも聞いていた。
 既に船上には三匹の鬼が上がっていたが、二匹の鬼が揃って、緑色の鬼の方を向いた。
 「ガヌアカゴー」
 緑色の鬼が、鬼の言葉で何事か二匹に命じると、二匹はすぐさま船から飛び降りた。
 しかし、緑色の鬼自身は、なかなか船を去らず、赤虎と杉原の二人を睨んでいる。
 元は菊乃だった四つ目の鬼が、しわがれ声で口を開く。
 「このまま逃げ果(おお)せられると思うなよ。いずれ地の果てまで追い駆け、必ずやお前たちの血をすすり骨をかじってやるからな」
 緑色の鬼はその言葉を言い終わると、「しゅん」と音を立て、七八間もの高さまで跳び上がった。
 男たちが見上げた時には、鬼ははるか後方に跳び退り、海上に「どぼん」と落ちた。
 その周囲には十数匹の鬼がいたが、鬼たちは皆、船に背中を向け、島の方向を目指し海面を走っていた。
 
 鬼が去っていく姿を確認すると、赤虎は仲間の方に向き直った。
 まずは杉原に声を掛ける。
 「怪我はないか。杉原殿」
 杉原の表情が曇っている。
 「肩を少しかじられた」
 その言葉の通り、杉原の着物には血が滲んでいた。
 「他の者は無事か。何人残っておるのだ。名を名乗れ」
 船体は八間の長さであり、航海のための荷が積んである。その荷の陰から声が響いた。
 「角掛常左衛門!」
 「津小森重吉!」
 声はこの二人だけだった。
 「生き残ったのは二人か。俺と杉原殿を加え計四人だけだが、ま、何とかなろう」
 杉原は船底に腰を下ろしていたが、急に顔を上げ赤虎に声を掛ける。
 「赤虎」
 「何だ」
 「ぬしはわしのことを、先ほど初めて殿付きで呼んだな」
 杉原の言葉に、赤虎が苦笑いを漏らした。
 「互いに助け合い、敵と戦ったその瞬間から、我らは仲間となったのだ。いかに盗人とて、その辺は心得ておる」
 「なるほど。よく分かった。では今後もこの四人で協力し、是が非でも国に帰り着こう」
 「角掛。船の具合はどうだ?」
 杉原が船尾で背中を向けて立つ男に尋ねる。角掛はこの船の按針である。この男は鬼が去ると、早くも船体の隅々まで点検していた。
 「舵を壊されております。この修復はかなりやっかいですな。いずれにせよ、この人数では櫂は使えませぬ故、しばらくは天に任せ、風を頼りに、北に流される他はござりませぬ」
 「あまり喜ばしい事態ではないが、しかし、あんな鬼たちの近くに留まるより、はるかにましだ。行く先はどこでも構わぬ。帆を張って、早くここを離れよう」
 「畏まりました」
 この時、四人の頭上で、帆が張り詰める「ぱん」という音が高らかに鳴った。

 一行は五日の間、海上を北に流された。
 荷を積み終わる前に、慌てて出航したため、水も食料も二日分しか積んでいない。
 まだ耐えられる状態ではあるが、体力の消耗を遅らせるべく、四人は船底に座っていた。四人のうち三人は無事であったが、杉原辰之丞は、鬼に捕えられ、二の腕に牙を立てられた時の傷が膿み始め、少し顔色が悪い。
 半刻に一度、交替で物見に立つが、いつも四方は須らく青い海である。
 「さすがに応えて来たな」
 「周りは水ばかりだと申すのに、飲める水が無い。海に口を付けて飲もうと思うほどだ。鬼の次は、この乾きが敵か」
 四人は同時に「ふう」と溜め息を吐いた。
 すると、そのすぐ前の船べりに、一羽の小鳥が止まった。
 津小森重吉がこれを目ざとく見つけ、小鳥に声を掛けた。
 「お前はどこから迷い込んで来たのだ」
 角掛が合いの手を入れる。
 「どこでも構わんから、水を運んで来てくれよ」
 赤虎は無言のまま、しばらくの間その小鳥を見詰めていた。
 穏やかな日差しの下、小鳥はじっとそこに止(とど)まっていた。
 すると、赤虎が唐突に笑い出した。
 「はっはっは」
 三人が赤虎に顔を向けた。
 「どうしたのだ?」
 「あの鳥は白頭(しろがしら)だ。森に棲む鳥なのだ。恐らくは鳶か鷹に追われ、仕方なく海に逃げ込んだのであろう」
 「では・・・」
 「陸はすぐそこだ。俺たちは助かったのだ」
 ほぼ同時に、他の三人もくつくつと笑い出した。
(六)赤虎、寺泊へ帰還すの巻
 船が漂流していたのは寺泊の近くで、この位置であれば、西に行ってもすぐに佐渡である。半時も経たぬうちに、難なく漁船を見つけることが出来た。
 「どうやら、干物になるのだけは免れたな」
 「やはり我らは運が強い」
 「しかし、今の我らは裸同然だ。どうやって国に帰ろうか」
 角掛も津小森も、陸の上のことは皆目分からない。
 ここで杉原が断じる。
 「まずは夏戸城に行く。そこは志駄様の居城だ。志駄様は我が殿と所縁のあるお方だから、我らをけして悪いようには扱うまい」

懸崖造りの毘沙門堂
懸崖造りの毘沙門堂

 「しかし、今は戦に明け暮れる時勢です。ただ助けてくれと申し出て、はいそうかと受け入れて貰えるものでしょうか。我々は手土産一つ持っておりません」
 赤虎はしばらくの間じっと話を聞いていたが、徐に腰に巻いていた包みを外し、三人の目前に放った。
 「これを進上品に使え」
 「これは一体何なのだ?」
 津小森が包みを開くと、その中身はまばゆいばかりの黄金二十枚であった。
 「なに。菊乃とやらの家に行った時、ちょいと納戸を引き開けてみたら、ごろごろとお宝が転がっていた。無頓着に置いてあるから、屹度無用の物とみなし、貰って来たのだ」
 「菊乃め。人を襲って手に入れたのは良いが、島では使い道がない。だから納戸に放り込んであるわけか。まあ、鬼には無用の物であることは違いない」
 杉原の隣では、角掛が「如何にも感心した」というように、幾度も頷いている。
 「しかし、あんな状況で、よくそこまで頭が回りましたな」
 「俺は盗賊だ。これくらいのことは当たり前だ。しかし、今はお前たちに義理立てするつもりはないのだぞ。俺が国に帰るには、馬が要る。その馬を調達するには、その夏戸城に行くのが手っ取り早そうだ」
 赤虎を見る杉原の眼が一瞬にして険しくなる。
 「赤虎。ぬしはその名を奥州に轟かせる盗人だ。もしや夏戸城に入った途端に城の侍に捕えられるやも知れぬ、とは考えぬのか」
 「俺はこの越後では何も悪さをしておらぬ。他国での咎で罪を問われることは無かろう」
 「そういうことなら、確かにぬしは不問だろう。面倒事にならぬよう、関わりになるのを避ける。これが野代なら話が別なのだがな。赤虎。ぬしはほとほと運の強い奴だ」
 その杉原を見て、赤虎は別のことを考えている。
 (運が良いのは貴様たちだ。俺は陸に上がったら、真っ先に貴様たちを殺そうと思っていたのだからな。だが、あの鬼たちとの死闘を経て・・・。)
 「今はそんな気も失せた」
 最後の締め括りの言葉のみ、赤虎は声に出して言っていた。

 この夏戸城の城主は、志駄修理(義秀)である。修理は突然の訪問にも関わらず、四人を快く迎え入れた。
 意外なことに、この修理は、かつて杉原の主君と会した時に、その場に控えていた杉原のことを覚えていたのである。
 城主の許可を得たので、四人は「館の小路」で半刻ほど待たされただけで、本郭への登城を許された。
「館の小路」は、左の武者溜、右の馬溜の間を長く歩くため、このように名づけられたのである。
 「なかなか立派な城ではないか」
 「防備に関しては、優れた城と言えるな」
 四人は周囲を見回しながら、本郭へ目指し坂道を上った。
 坂の中腹まで上った時である。
 背後から守衛の侍が駆け寄ってきた。
 「待たれよ!」
 四人が振り返ると、守衛一人が「はあはあ」と息を荒げながら、腰を屈めている。
 「ぬしたちの妻女がすぐ後ろに参っておる」
 果たして、その侍の十間後ろには、もう一人の侍に先導され、女たちが上がって来るところであった。
 「あ奴ら。我らを追い駆けて来たのか」
 女たちは三人。このうち赤虎が見知っているのは、中央の菊乃だけである。
 この時、菊乃は頭に布を巻いていた。

 まず杉原が菊乃を質(ただ)す。
 「菊乃。どうやって我らを追い駆けて来たのだ」
 菊乃は凄味のある表情でにたっと笑う。
 「はは。如何に足跡を消すことが出来ようと、血の匂いは消せぬ。ぬしの流す血の匂いは道中のあちこちにへばりついておる。幾ら私から逃れようとしても、それは無理な相談ぞよ」
 実に悍(おぞ)ましい声である。
 ここで赤虎が刀を抜き放ち、守衛に叫ぶ。
 「おい門番。すぐにその女たちから離れよ。そいつらは、今は人の姿をしているが、人ではない。人肉を喰らう鬼女たちだぞ」
 それを聞き、守衛は四人の男と女たちを交互に見た。
 女たちに取り立てて異常はなく、それどころか、雛にも稀な美女揃いである。
 菊乃がすぐさま口を入れる。
 「何を仰せですか。一度は夫婦となった間柄ではないですか。この女子たちは皆様の子を孕んでおります。それを打ち捨てて去るなど、あまりにも無情にござります。さあ、私どもと一緒に帰りましょう」
 ここで赤虎が杉原に囁いた。
 「どうやら、こ奴らは俺たちを食うためにここまで追い駆けて来たようだ。利江が申していた通り、子種の主を食わねば、体の血がたぎって治まらぬのだな。どうやらここで決着を付ける他は無さそうだ」
 城の守衛は、もちろんこのやり取りの意味を解さない。
 「子を孕ませておきながら、妻女を捨てるとは、あまりにも薄情だ。双方十分に話をすべきではないのか」
 守衛の言葉に耳を貸さず、赤虎一行は各々が武具を構える。
 「すぐにその女子たちから離れるのだ。そいつらは人に化けている鬼なのだぞ」
 「そうだ。早く離れろ。殺されるぞ」
 四人が交互に守衛を諭すが、この守衛の方は当惑するばかりである。
 押し問答をしているうち、四人を迎えるため、侍たちが二十人ほど坂を下りてきた。
 城下に着いた時、杉原はすぐに「献上品として黄金を持参している」と伝えていた。このため、城主は上客に非礼の無いように、わざわざ侍を差し向けたのであった。
 杉原は菊乃を見据えながら、再び問い質す。
 「菊乃。これでこちらは多勢となったぞ。わずか三匹で我らを捕えるつもりか」
 しかし、菊乃は「ほほ」とせせら笑った。
 「こんな呆けた侍なぞ、少しも恐ろしくもない。恐ろしいと申すのは、こういうことを申すのだ」
 この言葉を言い終わるや否や、女たちの背丈がにょきにょきと伸びる。
 ふた呼吸のうちに、三人の女はいずれも八尺を超える上背となった。
 「おお」
 城兵が驚いて後退(ずさ)りする。
 背丈の伸びが止まると、今度は体格の番である。女たちの体の骨はみるみるうちに太くなり、肩幅が広まり、手足の筋肉がぱんと張った。
 「ぐおおう」
 「がああ」
 喚き声とともに頭が膨れ、口が耳の下まで裂ける。眼の玉も常人の三倍の大きさに変わった。
 最もおどろおどろしい姿に変じたのは、中央に立つ菊乃である。菊乃が頭に巻いていた布が外れ地面に落ちると、その下から現れたのは、もう一組の眼であった。右の上の眼がひとつ潰れているが、元々は四つあったことが歴然である。
 体の色も極彩色に変じた。元は菊乃であった鬼は緑色に、また菊乃が供として連れて来た二匹は、それぞれ黄色、紫色に変わった。
 全身の変化が止まると、最後に両手の爪がにゅるにゅると伸び、一尺を超える長さの鈎爪となった。
 ここで赤虎が愚痴めいた呟きを漏らす。
 「いやはや。幾度拝んでも悍(あさ)ましい姿だ」
 しかし、赤虎が閉口したのも一瞬だけで、すぐに気を取り直して鬼に対峙する。
 「だが、ここは海の上とは違う。陸(おか)は俺の領分なのだからな。ぬしたちにはここで死んで貰うぞ。鬼は本来おるべき場所に戻るがよい。お前たちが戻る場所とは、すなわち地獄だ」
 赤虎は菊乃目掛けて一直線にひた走る。
 「とうりゃ!」
 赤虎は鋭い掛け声と共に跳躍し、緑の鬼に大刀を振り下ろした。
 「がきん」と音を立て、緑の鬼が己の鈎爪でその刀を受け止める。鬼はそのまま赤虎を引っ掴み、四五間先まで放り投げた。
 緑の鬼は赤虎の落ちた先を一瞥しただけで、不意に横に跳び、城の侍たちの中に飛び込んだ。
 「わあ」「おお」
 侍たちは、よもや己の方に鬼が向かって来るとは思っておらず、右に左に逃げ惑った。
 しかし、緑の鬼は次々に侍の襟首を掴んでは、その男の頭をひと口で食い千切った。
 「こりゃいかん。鉄砲隊を呼べ!」
 城侍の一人が叫んだが、その時には既に大方の仲間が殺されてしまっていた。
 
 緑鬼に放り投げられた赤虎が正気を取り戻したのは、ちょうど小半刻が過ぎた頃だった。
 「うう」
 目を覚ました赤虎は、顔を左右に動かし、周囲の様子を窺う。
 鬼三匹は依然として猛威を振るっており、後から到着した城兵を蹴散らしていた。
 杉原は角掛と共に赤鬼と戦っている。
 紫の鬼の周囲には、城兵十五人が取りついている。
 (菊乃はどこだ。)
 赤虎がさらに周囲を見回すと、緑の鬼は己に背を向け、坂の上から下りて来ようとしている鉄砲隊の方を睨んでいた。
 (今だ。今なら隙がある。)
 赤虎はすぐさま走り出し、緑の鬼に迫る。
 緑の鬼の背中まで三間の距離に迫ったところで、赤虎は長身の鬼の頭を割るべく跳躍した。
 赤虎は渾身の力を込め、空中で大刀を振り下ろす。
 しかし、刀の先が鬼の頭に届いたかと思われた瞬間、鬼は赤虎に背中を向けたまま、するっと刃先をかわした。
 緑の鬼がゆっくりと顔を赤虎の方に向けた。
 「ふん。お前の放つ殺気は、三十間離れていようと丸判(わか)りだ」
 鬼は恐ろしい勢いで赤虎に押し寄せ、長爪を次々に繰り出して来た。
 赤虎は刀で防戦するが、やはり次第に押され劣勢となる。
 じりじりと後退するうちに、赤虎は地表に出た木の根っこに足を取られ、尻餅をついてしまった。
 緑の鬼はここぞとばかりに、鈎爪を振りかざし、赤虎を突き刺そうとする。
 鬼が爪を振るおうとした、まさにその時、横から怒声が響いた。
 「菊乃!これでも喰らえ!」
 杉原が走り寄り、槍を鬼の横腹目掛けて突いた。
 槍の穂先は緑の鬼の腹をかすめ、横に一文字の傷を描いた。
 「ガサルバ。ママタイシア」
 鬼の形相がさらに醜悪なものに変わった。
 鬼は眼を大きく見開き、杉原を睨みつける。
 「ミチョグダマレオ」
 突如として緑の鬼が跳躍し、二間の高さまで上がると、杉原のすぐ目前に降り立った。
 鬼は杉原が反撃する隙を与えず、すぐさま右の腕を掴んだ。杉原は右の二の腕を負傷しており、鈎爪をかわすことが出来なかったのだ。
 「うぐぐぐ」
 杉原が呻き声を漏らす。
 赤虎は「杉原危うし」と見て走り寄る。
 「とおっ」
 赤虎は鬼の首元に刀を突き刺すべく、跳躍した。
 この時、杉原を捕えたことで、鬼に一瞬の油断が生じていたのか、赤虎の一撃が鬼の体に達した。
 刀が鬼の頬を切り裂くと、その傷から緑色の血がぱあっと宙に散る。
 屈強な鬼もさすがに杉原の体から手を離し、二三歩後退りした。
 その機を逃さず、赤虎は杉原の袖を引き、後ろに引きずり下げる。
 「ここはひとまず後ろに下がっておるのだぞ。杉原殿」
 「赤虎。こっちの槍を使え。刀では届かぬ」
 杉原は己の槍を赤虎に手渡した。
 「うむ」
 赤虎は刀を鞘に納め、この槍を受け取った。
 改めて緑の鬼に向かうと、ちょうど鬼の方も体勢を整え直したところである。
 「行くぞ。菊乃」
 赤虎が緑の鬼に向かって小走りで走る。
 「ヤーッ」
 掛け声と共に赤虎が繰り出す槍を、緑の鬼が左右の鈎爪で跳ね除ける。
 がきん、がきんという音が、五度続けて響き渡った。

 赤虎と緑の鬼が格闘を続けていると、唐突に坂の上から声が響いた。
 「構えよ!」
 赤虎と鬼の双方が、同時に声のした方に顔を向けた。
 「撃て!」
 この号令とほとんど同時に、十数発の銃声が轟いた。
 あまりの轟音に、その場にいた人も鬼も、一瞬、動きを止める。
 ひと呼吸の後、坂の上方にいた紫色の鬼が、ゆっくりと体を傾け、下の地面に崩れ落ちた。
 鉄砲を撃ったのは、急報を聞いて駆け付けた城の侍である。
 鉄砲隊は十三名で、一度に全員が発射したため、次に発射できるまでは、少しの間時間が掛かる。
 「弾込め!」
 鉄砲隊帳らしき侍が命じると、砲手たちが一斉に火薬袋の口を開けた。
 
 この様子を見た緑の鬼が、赤虎を見据えたまま何事かを言い放つ。
 「ゲナトゴボジャクライ」
 鬼はこの言葉を言い終わると、黄色の鬼向かって顎をしゃくった。
 次の瞬間、鬼二匹は恐ろしい勢いで駆け出し、一瞬にして姿を消した。

 赤虎は鬼が完全に去ったことを確かめると、背後にいた杉原の所に戻った。
 「無事か。杉原殿」
 赤虎の呼び掛けに、杉原が顔を上げる。
 「何とかな。しかし、もはや腕一本は使い物にならぬ」
 「あんな鬼を相手にしたのだ。命があるだけ儲けものだ」
 赤虎は後ろ腰から手拭いを引っ張り出し、杉原の左腕をきつく縛った。
 「他の者たちはどうしたものか」
 赤虎が立ち上がって周囲を見渡すと、参道のあちこちに侍たちが転がっていた。
 屍の数は十七人に達しており、その中に津小森重吉もいた。
 「せっかくここまで、生きて辿り着いたと申すのに。可哀そうな話だ」
 赤虎の呟きに、杉原が小さく頷いた。

 この時、城兵が突然二手に分かれた。
 左右に分かれた隊列の間を、上級侍らしき五人連れがゆっくりと降りて来た。
 侍たちは、杉原を認めると、真っ直ぐ近寄って来た。
 「あれは誰だ。杉原」
 「あれはこの城の主・志駄修理殿だ」
 二人が囁く間に、侍は目前に立っていた。

 「杉原辰之丞」
 志駄修理自らの呼び掛けに、杉原がすぐさま低頭する。
 「杉原。これは何としたことだ。我が城に斯様な化け物の類を引き入れるとはけしからぬ。見ろ、この兵たちの有り様を。今我らは織田勢とのし烈な戦の真っ最中であるのに、ぬしは一体何を考えておるのだ」
 「軍艦で航海中に大風で難破し、ある島に流れ着いたのでござりますが、そこがとんでものう鬼女の島でござりました。そこで・・・」
 「ええい。煩い。ぬしは我が陣営の者であるから此度は見逃すが、早々にこの城、いやこの国を立ち去れい。馬三頭はくれてやる。あの化け物の件を片付けぬ限り、この国に戻って来てはならぬ。良いか。分かったな」
 否も応もない剣幕である。杉原は黙って頭を下げる他はない。
 「畏まりました」
 しかし、志駄修理はいっこうに腹立ちが治まらない様子である。
 「我が家来を十六人も殺しおって。このうつけ者!」
 この時、城主の傍らにいた数人が驚きの声を上げた。
 「殿。あれをご覧ください」
 周囲では、一斉に「おお」という声が上がっている。
 
 皆の視線は、つい今しがた鉄砲で倒された黄色い色の鬼に向けられている。
 鬼の体からはしゅるしゅるという音が漏れ出ており、五体がうにうにと蠢いていた。
 「何だ。死んではおらんのか」
 「砲手、前に出よ」
 周りが慌てふためく中、島帰りの三人は至って冷静である。
 赤虎が数歩前に出て、周囲を制止した。
 「案ずるな。こ奴は既に死んでおる。死したが故に、体が元に戻ろうと縮んでいるだけのことだ」
 「ほう」
 遠巻きにしていた侍が、鬼の周りに戻って来る。
 男たちの視線の中で、紫色の鬼の体は一気に常人の大きさにまで縮んだ。
 「おお、女子だ」
 「本当だ。これは女だ。しかも妙齢の美女ではないか」
 驚いたのは後から参道を降りて来た侍たちである。この者たちは、当初、鬼三匹がこの城を女の姿で訪れたことを知らない。
 「この女子。腹ぼてだぞ」
 「先ほどの鬼が斯様な美女の変じた姿だったとはな。この世にこんな恐ろしいことがあるものか・・・」
 事態の収拾を見届けると、城主が再び断を下す。
 「杉原。あの化け物どもはぬしらを目当てに訪れたと言うではないか。それなら余計に腹立たしいぞ。直ちにこの城を立ち去れい!」
 志駄修理はこれを言い置くと、三人に背中を向け、参道を登って行った。

 城門の外で、赤虎、杉原、角掛の三人は城兵から馬を受け取った
 「赤虎。さてこれから我らはどうしたものか。今日の様子では、菊乃はまた襲って来そうな按配であったな」
 「利江が申していたところでは、あの鬼たちは臨月までに腹の子の父親を喰らわねばならんようだ。喰らわぬと子は鬼の姿で生まれようとするから、母親の腹を破ることもあるらしい。鬼の子が腹の中におるのは人の半分、ちょうど五か月という話だ」
 「あと二月半の間か。それではあ奴らも必死だな」
「違いない。必ずや再び襲って来よう」
 ここで角掛常左衛門が口を入れる。
 「では、これからどのように身を振りましょうか」
 「逆さまに言えば、奴らが臨月を迎えれば、我らは解放されるということだ。その時まで、我らは奴らから逃げ果せるか、あるいは奴らを倒すかの二つに一つしか道は無い。赤虎。お前はどう思うのだ」
 「侍が盗人に考えを求めるとはな。あの鬼と刀を交えた経験で言えば、答えはもちろん、三十六計の果てだ」
 「逃げるに如(し)かず、ということか。わしもそう思う。菊乃が化けた四つ目顔は、なるべくなら二度と見とうないからな」
 ここで赤虎はあることに気付く。
 「島の女たちは己の身を救うために、男を喰らおうとする。それは、その男が腹の子の父親となった時だ。そうなると菊乃が、杉原殿を追うのは・・・」
 赤虎の話の途中から、杉原が苦笑いを漏らしていた。
 「赤虎。ぬしは精を吸われ過ぎぬよう気を付けつつも、しかし女たちに悟られぬよう、夫として接しろと申したではないか」
 「なるほど。しかし、角掛殿は島の女を抱いてはおらぬのだから、菊乃が従えていた二匹は、単に供として連れて来た者たちなのか」
 「いや。あの三匹はいずれもわしを食いに来たのだ」
 杉原が頭を掻いている。
 「実は菊乃の娘二人にも手を付けた。精を吸い取られる虞(おそれ)はあったが、ひと度間近で匂いを嗅げば、如何せん抗し難い。何やら疑わしいとは思っても、まさか正体があの様な鬼だとは考えが及ばぬ」
 「では今日一匹は死んだから、命を狙いに参るのはあと二匹か。俺も相方と交合したが、その女は俺をあの島から逃がしてくれた。となれば、おそらく子を孕んではおるまい。しかし、まあ、事が済んだとはっきりするまでの間は、事情を知る三人が互いに近くにおる方が良さそうだ」
 ここで角掛が口を入れる。
 「あの、誠に申し上げ難いが・・・」
 「何だ」
 「それがしは妻として宛がわれた女には手を付けておりませぬ。ですが、一度だけ家の下働きの女子を抱きました」
 角掛の話に、杉原が深く頷く。
 「やはり、ぬしも女子たちの放つ雌の匂いには抗し難かったか。これで三匹から四匹の鬼が、もう一度襲って来るということだな」
 赤虎の方は依然腕組みをしたままである。
 「少なくとも、ということだろう。この一連の成り行きからすれば、この次来る時には、菊乃は護衛の者たちを連れて来るに違いない」
 「そうだな。ここはなるべく遠く離れ、時を稼ぐに限るようだ。ではこれから赴く先は北の方角だろう」
 「うむ。奥州の果てが良かろう。幸いなことに北奥は俺の根城だ。身を隠す場所なら幾らでもある」
 「しかし、盗賊団の内に身を置けば、今度は役人と鬼どもの双方から狙われることになるのではないか。いやいや、今申したことは悪気があって申しているのではないぞ。赤虎。何せ敵はあんな化け物どもだ。一筋縄では行かぬ。二段三段の構えで、敵に備えて置くに越したことはないであろう。用心が必要だと申しておるのだ」
 「杉原殿。この先々の国主に知己はおらんのか。先ほど見た通り、砲術を心得た者がおれば菊乃たちと五分に戦うことが出来る。いざという時に加勢を頼む相手がいれば心強い。この赤虎様は奥州に悪名の知れた盗賊で、侍を頼るわけには行かぬからな」
 赤虎の言葉を聞きつつ、杉原は目をつぶって考え事をしている。
その杉原が徐に口を開く。
 「奥州なら最上、大崎は避けねばならぬ。我が殿にとって今は事を起こしたくない相手だからな。仮に鬼たちに追い付かれるとするならその後だ」
 「では、斯波あたりを頼るのだな。そこの殿様は相当な物好きだと聞く。鬼の話をすれば大喜びだろう。生身の鬼をお見せすると言えば、乗って来るやも知れぬ」
 「赤虎。斯波領に達するにはひと月近く掛かる。その間に奴らが来たらどう対処するのだ」
 「米沢には俺の弟がいるから、仲間を集めさせる。ここに金があるので、鉄砲を生業とする猟師だって数人なら呼んで来られるだろう」
「よし。それで行こう。では早速出立だ」
 三人は一斉に馬に跨った。
 
 夏戸城下を脱したところで、杉原が隣の赤虎に声を掛けた。
 「赤虎。お前は何時まで盗人を続けるつもりなのだ?」
 これに赤虎は無表情に応える。
 「己で望んで決められる事ではない」
 「ぬしは今、わしが何を申しておるのかと訝っておることだろうな。今その訳を話そう」
 赤虎は杉原の顔を一瞬だけ見て、真意を量ろうとする。
 杉原は真剣な表情で前を見据えていた。
 「赤虎。わしには子がおらぬ。わしの養子になってくれぬか。年恰好で言えば、ぬし位の齢でも何らおかしなことは無い」
 「なに?」
 「これまで、四月を超え傍らでぬしを眺めていたが、ぬしの振る舞いは、盗人にして置くには惜しいのだ。ぬしならば、盗人だろうと侍だろうと、大勢の人をまとめることが出来る。わしの家臣団はわずか五百人にも満たぬが、戦がこう着状態に陥った今、これをまとめて行くのは容易なことではない。いずれ自領に帰参できた暁には、ぬしもわしに同行して欲しいのだ」
 杉原の申し出は、赤虎がまったく想定していなかった内容であった。
 「しかし、俺が率いているのは盗人だ。今さら侍の中に入るなど無理な相談だ」
 「ぬしもいずれは老いる。盗人は何時までも続けられる生業ではなかろう。それに、ぬしは己が贅沢をするために、他人の物を奪い取っているのではない。これは日頃のぬしの振る舞いを見ていれば分かる」
 「しかし・・・」
 「今は答えずとも良い。まずは鬼どもとの戦いが終わってからだ。その時までよく考えてくれ」
 赤虎はすぐに返事をせず、暫くの間、馬の背に揺られながら考えた。
 半里も進んだ頃、赤虎は杉原に己の意を伝えた。
 「杉原殿。俺には五十人を超える手下とその身内がいる。今更その者たちを放り捨てる訳には行かぬのだ」
 赤虎の話を遮り、杉原は高らかに笑った。
 「ははは。赤虎。わしは端からぬし一人を迎え入れようとは考えておらぬ。ぬしの手下全員を連れて来い。国を替え、名を改め、これからはまっとうに生きて行くのだ。侍との戦いに明け暮れるのは、この後も変わりないが、この後は堂々と道を歩くことが出来よう」
 「・・・」
 赤虎が道端の方に顔を向けると、虫たちが煩いほど鳴いていた。
 もはや秋も盛りである。
(七)赤虎、達谷窟で鬼女と戦うの巻
 馬で一日に進むことが出来るのは凡そ五十里で、これを超えると次の日には馬を休ませなくてばならない。
 また一日の移動を三十里に限っても、三日に一度は馬を休ませるか、あるいは取り替える必要があった。
 夏戸城の一件から二十四日の後。赤虎一行は奥州平泉の付近を進んでいた。
 この時には、米沢から赤虎の弟・窮奇郎とその手下が九人ほど合流し、総勢は十二人となっていた。鉄砲は二挺で、日頃は熊や鹿を狩る猟師を二人雇ってあった。
 昼頃になり、隊列の先頭を進んでいた窮奇郎が、急に馬を返し赤虎の下に近寄って来た。

毘沙門道の階段
毘沙門道の階段

 「兄者。もうじき平泉中尊寺だ。ここは西に回って、達谷窟(たっこくのいわや)に寄ろう」
 「うむ。良かろう」
 赤虎が承諾すると、窮奇郎は周囲に伝えるために馬を前に進めた。
 ここで杉原が赤虎に問う。
 「赤虎。何なのだ。達谷窟とは」
 「そこには毘沙門堂がある。我らは毘沙門天を信奉する者の集まりなのだから、ちとそこに立ち寄るぞ」
 「なるほど、ぬしの背中には毘沙門天が鎮座しているな。毘沙門党の名はそれが由縁か」
 「この先の中尊寺は、今はすっかり荒れ果てた廃墟だが、その昔は大きな寺だったそうだ。 しかし幾度も火事で焼けて、今は斯様なことになっておる。かたや達谷窟は岸壁に毘沙門堂を組んであるのだが、道筋から離れていたがために、悪人や侍どもにも荒らされず残っている。後ろの山寺には数十人の僧侶が暮らしているようだ」
 「ふむ。もはや二旬を過ぎるが、菊乃の姿は現れぬ。退屈しのぎにちょうど良さそうだ」
 道別れは三町先で、そこで一行は左に曲がり西を目指した。

 達谷窟毘沙門堂は、岸壁に開いた洞穴を利用して建てられた御堂である。
 伝説によれば、蝦夷平定のためにこの地を訪れた坂上田村麻呂が、延暦二十年に建立したとされる。
 田村麻呂は戦の勝利を祝い、また己を護ってくれた神仏に感謝の意を表すために、この洞窟に御堂を立て、鞍馬寺より毘沙門天を勧請(かんじょう)して祀(まつ)ったのだ。
 岸壁に開いた洞窟の天井は、地上から三間を超える高さである。この御堂は洞窟の天井に沿うように作られ、高床式の構造となっている。
 赤虎一行はこの毘沙門堂の手前で手足を清め、境内に進んだ。
 周囲は見渡す限り野原であるが、そんな景色にはそぐわぬ整った建物が聳えている。
御堂を前にして、杉原が誰に言うとでもなく呟いた。
 「何故このようなつくりになっておるのかの」
 この時、赤虎の末弟の窮奇郎が杉原の隣にいた。
 「洞窟の下は水が溜まりやすい。よって水気を避けるために上げてあるのだ。それと、高いところにある方が何となく有難い気がするだろう」
 ここで二人の背後から、赤虎が声を掛けて来た。
 「窮奇郎。口から出まかせを申すなよ。程なく裏の寺の僧侶が参るから、その者に確かめよ」
 「何だ。今のは独り勝手な考えだったのか。わしはこの地を訪れるのは初めてだから、危うく信じるところであったぞ」
 杉原は少々あきれたような素振りを見せるが、すぐに笑顔に戻った。
 窮奇郎の方は幾分短気な性格なのか、むっとした表情で赤虎に抗弁する。
 「いや。俺の考えだって、あながち外れてはいない。坊主が来るなら、そいつに確かめてみるが良いぞ。それが証拠に・・・」
 「分かった。分かった。ぬしの申す通りだ」
 「それはないぞ、兄者。真面目に聞いてくれよ」
 窮奇郎があまりにも真顔で語るので、赤虎は思わず笑いを漏らした。赤虎がくすくすと笑い始めると、周りからもどっと笑いが湧き上がる。

 この時、談笑する男たちをよそに、按針の角掛常左衛門は毘沙門堂に背を向け、道の方を見ていた。
 「杉原様。あれを・・・」
 角掛の張り詰めた声に、三人が同時に振り返る。
 直ちに窮奇郎が反応した。
 「何だ。ただの女子ではないか」
 窮奇郎は赤虎から鬼の話を聞いていたが、普段の姿が鬼とはかけ離れていることが、今ひとつ実感として分からない。
 「あれは・・・。利江だ」
 赤虎は、その女が島での妻であることを見取った。
 「ついに来たか。よし。皆の者。すぐさま応戦の支度をせよ!」
 杉原が声を上げると、男たちは直ちに弓や槍、鉄砲など己の武器を大急ぎで取り出そうとする。
 しかし、これを赤虎が制止した。
 「待て。あの女子は他の者とは違うのだ。ひとまず話を聞いてみよう。まだ攻撃はするなよ。支度をして、そこで待機しておるのだぞ」
 この言葉を言い残し、赤虎は利江の立つ道の方に向かって歩き出した。
 道までの距離は三十間である。間近まで女子に近づいてみると、やはりそれは利江であった。
 「虎一様・・・」
 「利江」 
 二人は互いの名を呼んだ後、暫くの間、黙って見詰め合った。
 再び口を開いたのは利江が先である。
 「虎一様。程無く菊乃様がここに来ます。私はそれを虎一様にお伝えしに参りました」
 「ぬしは無事であったのか。ぬしは俺たちが島を出る手助けをして、咎められたのではないかと思っておった」
 「あの時。私は菊乃様たちが虎一様に追い付けぬよう道の先々を倒木で塞ぎました。それでも私一人のすることですので、菊乃様を留めていられたのはわずか半時だけです。それから程無く海の上で戦いが始まりました。船が無事遠ざかるのを確かめた後は、私は龍神の祠に隠れていました。見つかれば間違いなく殺されたところですが、お花が密かに私のことを助けてくれたので、今まで生きて来られたのです」
 「お花か。あの娘には心が通じたか」
 赤虎は一瞬、船の上で見た鬼の両眼を思い浮かべたが、それはすぐに消え、竈の前に座る少女の姿に替わった。
 「虎一様。今宵には菊乃様が襲って来るでしょう。島の女は一日に三百里を駆けることが出来るのです。直ちに応戦の支度をして下さい。私は島で一番の脚を持つ者ですので、菊乃様より先にここに走り着くことが出来ましたが、それも一時ふた時の話です」
 「菊乃はどうやってここを知るのだ」
 「人の匂いを辿ります。相手が腹の子の父親なら、なおさらはっきりと嗅ぎ分けることが出来るのです」
 この話を聞き、赤虎の眉間に皺が寄った。
 「それでは、どこにも逃れられぬという訳だ。では戦うしかないな。ところで、我らを襲うのに、二十日以上も間隔が開いたのは何故なのだ。時が経てば経つほど、こちらの戦支度が整うのではないか」
 「菊乃様の眼の怪我が治るのを待っていたようです。また、御前(ごぜん)様が亡くなられましたので、その弔いをしていたようです」
 「では、今、島の長は・・・」
 「菊乃様にござります」
 「となれば、此度が正念場だな。菊乃を倒せば、我らと鬼との戦いが終わる。なら、是が非でも菊乃を倒さねばなるまい」
 「真の敵は三人です。子を孕む者は、己が生き延びるために、必死で寄せて来るでしょう。しかし、もしその三人が死んでしまえば、他の鬼たちにとっての戦いの意味が消失してしまいます。よって、その三人が倒れたなら、他の鬼たちは島に帰ることでしょう」
鬼を敵とするようになって、初めての好材料である。赤虎の眼光が鋭く光った。
 「では、その三匹、いや三人の女を倒せば良いのだな。何か目印は無いのか」
 「菊乃様はご承知の通り、緑色で眼が四つの山椒魚。その娘の楓(かえで)様は体が黄色で、背中に茶色の筋があります。楓様はその外見の通り虎のような力強い動きをします。お光(みつ)は全身珊瑚色の蝦蟇で、姿に似ずすばしこいので警戒が必要です」
 「よし。男を食い殺す事情を聞いてみると、少し可哀相な気もするが、こちらも命の懸る話だ。正面から受けて立とう」
 この時、赤虎は己を見る利江の視線が険しく変じているのに気付いた。
 「虎一様。島の女が付け狙うのは、腹の子の父親二人です。しかし、私は虎一様のことを救いに来たのです」
 「それは何故だ。どういう意味なのだ」
 「虎一様。菊乃様は、前回、己のことを傷付けた虎一様のことを恨みに思っております。お花によれば、菊乃様は虎一様の首を獲れと供の者たちに命じたとのことです。今ここに寄せて来ようとしているのは、夫を喰らおうとする三人と、虎一様お独りを殺そうとする八人なのです。私はそのことを伝えに、ここまで走って来たのです」
 赤虎の顔が著しく歪んだ。
 「くっ。俺も随分と見込まれたものだな。まあ、今に始まったことではない。どこに行こうと、真っ先にこの俺が標的になるのだからな。よし。それならそれで考えがある。利江。ぬしはここにはおらぬ方が良い。すぐに姿を隠せよ」
 赤虎は利江に目配せをして、仲間のところに戻るべく歩き始めた。
 
 赤虎が盗人と侍の混じる人の輪の中に戻ると、皆がじっと赤虎の言葉を待ち構えていた。
 「良いか。これから夜までに鬼たちが襲って来る。これは間違いない。此度の鬼の数は総勢十一匹だ」
 「お頭。たったそれだけですか。何だか拍子抜けがするなあ」 
 まだ鬼の姿を見ていない盗賊の一人が、威勢の良いことを口にした。
 しかし、杉原と按針の角掛の二人は、それがどういう意味かを熟知している。二人は真顔で顔を見合わせ、双方が眼を瞬いた。
 「だが、真の敵は三匹だけだ。人の姿をしている時には、菊乃と楓、光(みつ)という名を持つ三匹だ。そ奴らは、いざ姿を変えると、緑色をした山椒魚、黄色い虎、珊瑚色の蝦蟇の姿となる。そ奴らは、ここにいる杉原殿、角掛殿を目指して襲い掛かって来る筈だ。この三匹さえ殺してしまえば、その途端に他の鬼は自分たちの島に帰る。だから、まずはその三匹を倒すことだ。我らは十二人であるから、まずは鬼一匹に対し三人を割り当てる。誰がどの鬼に対するかは、追って杉原殿、角掛殿と相談した上で決める。ひと組は三人で、うち一人は弓、他の二人人は槍で戦うこととする」
 「お頭。それでは三人三組で九人ですが・・・」
 間に口を挟んだ手下の一人を、赤虎がぎゅっと睨みつける。
 「鉄砲の二人は、後ろの崖の上から、先ほどの三匹を狙い撃ちにせよ。これで十一人。最後に残った一人が俺だ。先ほど申した三匹の他に八匹の鬼が来るが、どうやらそいつらは、親玉の命を受け、俺一人を殺しに来るようなのだ」
これを聞き、「おお」という声が、男たちのあちこちから漏れた。
 「俺はお前たちから少し離れ、西側の磨崖仏の下で鬼を迎え撃つ。背後は岸壁だが、後ろから狙われないだけましだ」
 「お頭。たった一人で大丈夫なんですかい?」
 「はは。無事に済む訳が無い。しかし、迅速に三匹を倒すための手立ては、それしか無かろう。お前たちは岩屋の前に陣取り、出来るだけ早く、己の持ち分の鬼を倒すのだぞ。殺したら、すぐさまその鬼の名を叫べ。菊乃、楓、光の三匹だ。緑色の四つ目が菊乃。黄色が楓で、珊瑚色がお光だ。つまりは『楓を殺したぞ』などと叫び、他の鬼たちに聞かせるのだ。俺が鬼八匹を引き付けられるのは、おそらく小半刻から良いとこ半刻の間だ。その間、俺は何があってもその場に立っている。俺が倒される前に、先ほど申した三匹を是が非でも倒すのだ。もしその前に俺が倒された時は、残りの鬼はそちら側に回る。そうなれば、我らは間違いなく全滅だ。我らに勝ち目など無い」
 ここに来て、赤虎の手下も、漸く事態の深刻さに気が付いて来た。
 「お頭。その鬼女たちは、そんなに恐ろしい相手なのですかい?」
 赤虎は思わず苦笑を漏らす。
 「はは。日頃はどれもこれも絶世の美女だが、いざ鬼に化けるとなると、八尺を超える背丈になるのだ。一匹でも大変なのに、これが十一匹だ。おまけにその親玉ときたら、顔に目玉が四つ付いておる」
 「なんと。目玉が四つでがすか!」
 この場に鬼が姿を現わしてもいないのに、手下の幾人かが、早速尻込みを始めた。
 「逃げようと考えたとて、もう遅い。鬼どもは、この場に残る匂いで、お前たちを嗅ぎ分けることが出来る。後から一人でいるところを狙われるより、今日決着を付ける方がましだろう」
 赤虎が手下に言ったことは、明らかに嘘である。しかし、そうでなくとも自陣が手薄なのに、今になっては一人たりとも兵を逃がすわけには行かない。
 「お前たちが果たすべき務めは、己が割り振られた相手を倒すことだ。目の前の敵を、たった一匹殺すだけで良いのだぞ。もし首尾よくその務めを果たしたら、ここにおられる杉原殿が、お前たちを取り立ててくれる。この後は盗人として追われなくとも良くなるのだ。もちろん、俺の方もたんまり褒美をやろう。お前たちにとって、これはなかなか悪い話ではあるまい」
 「へい」「へい」
 「よし。では支度に掛かれ。鬼どもは間もなくやって来るぞ」
 「へい。お頭」

 手下たちへの指示が終わると、赤虎は再び利江の許に向かった。
 利江は先ほどと同じ場所で、赤虎を待っていた
 「利江。わざわざ報せに来てくれて、かたじけない。これこの通り、改めて礼を言わせて貰う」
 赤虎は利江に対し、深々とお辞儀をした。
 「虎一様。私も虎一様と一緒に戦います」
 利江の言葉に赤虎はすぐさま頭を上げる。
 「利江。これから俺が戦うのは、あの島の女たちなのだぞ。ぬしにとっては同族にあたるのではないか」
 利江はゆっくりと頭(かぶり)を振った。
 「虎一様。私はその仲間に殺されようとしているところを、貴方様に救って頂きました。貴方様が私を所望しなければ、掟を守らぬ者として、石礫をもってうち殺されたことでしょう。それに・・・」
 赤虎は話の成り行きを確かめるべく、利江の両眼を覗き込んだ。
 「一度は夫婦(めおと)になった間柄です。私は貴方様と運命(さだめ)を共にしてみとうございます」
 ここで赤虎は利江の腹の内を悟った。
 (この女子は、これから始まる戦いが、俺にとって極めて厳しいものと承知しておるのだ。おそらく俺は命を落とす。そうなれば、俺を逃がしたこの女子の行く末も同じこと。何処に隠れようと、探し出されて首をもぎ取られるだろう。)
 「それなら、今ここで俺の天運に賭けてみよう、ということだな」
 赤虎の言葉尻を捉え、即座に利江が頷く。
 「よし。そういうことなら、ぬしと共に戦おう。二人でこの後の人生を切り拓くのだ」
 「はい」
 「二人になっても、勝負はやはり磨崖仏の下だ。相手は八匹。後ろに回られるとやっかいだ。背中はあの仏に護ってもらうこととしよう。では参るとするか」
 「はい」
 二人は肩を並べて窟の方に歩き出した。
 「虎一様」
 「何だ?」
 「私の姿に驚かないで下さいね。鬼と戦うには、私の方も鬼の姿に変化(へんげ)せざるを得ません」
 「気にするな。もはや島の女たちの姿にも慣れた。今更何があっても驚かなくなってきた」
 「では今のうちに、もう一つお伝えしておきます」
 「今度は何だ」
 「前にもお伝えしましたが、私の齢は百二十歳なのです」
 これを聞いた赤虎が、さすがに渋い表情になる。
 「あれは真のことだったのか。見た目は二十歳かそこらだが・・・」
 「島の女の寿命は凡そ三百年。人の五倍は生きるのです」
 「なるほど。では、あのお花の齢(よわい)は、本当に六十か七十なのか」
 「はい」
 「あのお花でも俺の二倍も生きておるのか・・・」
 「外見は若々しく見えますが、心の方は、もはや生き続けるのに倦いております。何せ、島で生き続けるためには、散々ぱら人を殺さねばならないのです。毎年毎年、何十人、何百人と殺すのです」
 「ぬしが菊乃に逆らった理由はそれか」
 「はい」
 「では今宵はめいめいが己を試す格好の機だ。ぬしは死して本望だと申す。もしこの戦いを生き残れば、これまでとは違う人生が開けるだろう。それは俺も同じだ」
 利江はこっくりと頷く。
 「今は厳しい状況ですが、どことなく楽しゅうございますね。何故でしょう」
 (それは命を賭し、運命を共にしようという相方がいるからだろう。)
 赤虎は頭の中でそう思ったが、あえて口には出さなかった。

 二人連れ立って達谷窟の前に赴くと、男たちが来たるべき戦闘の支度に追われていた。
 「皆。ちょっと集まってくれ」
 赤虎の声に従い、男たちが集結する。
 「皆。もう一人、共に戦う仲間が出来た。ここにいるのは俺の妻で、あの島から来た女だ。この者は俺と共に磨崖仏の下に布陣する」
 「俺の妻」という言葉のところで、利江が赤虎の顔をちらと覗き見た。
 「お頭。島の女ということなら、この小さな女、いや、このお方も、鬼の仲間なんですかい」
 男たちは拍子抜けがしたように、利江の姿を眺めている。
 「如何にも華奢で可愛らしい女子であろう。だが、それも変化(へんげ)する前の話だ。利江。誠に済まぬが、ほんの少し、皆にあちらの姿を見せてやってくれぬか」
 赤虎が利江を促すと、利江は小さく頷いた。
 「皆。少し下がっておれ」
 赤虎自身も、利江の三間横に立ち位置を変える。
 周囲を囲む男たちの前で、利江は動きを止め、下を向いた。
 男たちが固唾を飲んで見詰める中、数呼吸の後に、利江の体がぶるぶると震え始めた。
 「おお」
 男たちが一斉に後退りする。
 利江の体からは、みりみりという音が漏れ、あちこちが膨れたり萎んだりし始めた。
 男たちの声の色が、驚きから、恐怖に満ちたものに替わった。
 男たちの視線の中、次の瞬間、利江の体が急に膨れ始めた。
 背丈がぐんぐん高くなり、骨格が横に広がる。その次の一瞬には、利江がそれまで身に着けていた着物がはらりと地面に落ちた。
 「おお。何ということだ」
 男たちがさらに後ろに下がる。 

 島の女の変化が漸く止まると、その場に立っていたのは、背丈が八尺にも達そうという、全身真っ白な金蛇であった。
 「こんなことがあるのか」
 「この眼で見ても、とても信じられぬ」
 男たちはいずれも眼を真ん丸に見開いている。
 「よし。ここまでだ。利江。もう良いぞ」
 赤虎が金蛇にそう伝えると、先ほどとは逆に、金蛇の体が急速に収縮し始めた。
 金蛇の背が人の大きさまで縮み、顔が女のそれに近くなったところで、赤虎は地面に落ちていた着物を広い、さりげなく肩に掛けてやった。
 利江が後ろを向き、着衣を直し始めると、赤虎は利江の裸身を隠すように、男たちの前に立つ。
 「皆見たであろう。これから戦うのは、斯様な者たちだ。敵はかなり手強いぞ」
 「お頭。ああいう鬼が何匹も攻めて来るって訳ですかい」
 「そうだ。狼や虎などより、はるかに恐ろしき者たちだ」
 手下たちは、人知を超える敵の襲来を前に明らかに怯んでいた。
 「これからあんな鬼の仲間を、十匹以上も倒さねばならんのか」
 「俺たちはわずか十二人と一匹。敵が十一匹なら、あらかた一人で一匹の勘定ではないか」
 この時、手下の背後から突如として声が響いた。
 「鬼と戦うのは、皆様だけではござりませぬぞ」
 落ち着き払った声である。
 男たちは「声の主は誰か」を見定めようと、一斉に後ろを振り向いた。
 するとそこには、五つの黒い人影が見えていた。

 ここで杉原が男たちに命じる。
 「皆の者。道を開(あ)けよ」
 杉原の命に従い、男たちが二手に分かれた。
 その間を先ほどの人影が歩み出る。
 篝火の灯りの下に出てみると、その五人は法衣を身にまとった僧たちであった。
 その先頭の一人が杉原に会釈をした
 「身どもは、達谷西方寺の僧でござります。皆様のお話を聞き、寺に報せた者がおります。この後、鬼が寄せて来るとか。ならば、寺を守るためにも、身どもも加勢すべく参じて参ったのです」
 その言葉の通り、僧たちは槍や長刀を携えていた。
 「僧が殺生に加わると申すのか」
 「身どもは経文を唱えるだけの僧侶ではござりませぬぞ。敵が鬼ならば、刀槍をもって地獄に送り返すまで。今はこの五人ですが、程なくあと十二人がここに駆け付けます」
 ここで赤虎が前に出る。
 「この戦に、僧兵が自ら参じてくれるというのは、誠に有難い。どうやら日頃から武術の修練を積んでおる方々のようだ。敵は手強いが、皆で力を合わせて打倒しよう」
 「おう」「おう」
 味方が二倍の兵力になったことで、男たちの間に活気が戻って来た。

 戌の刻を回り、亥の刻に至った。
 もはや秋も終りで、虫の声もわずかしか聞こえない。
 達谷窟の前には、十数個もの篝火が炊かれ、周囲を明るく照らし出していた。
 鬼たちは、窟の前の道を西からやってくる筈である。となると、鬼が攻め寄せるのは、ちょうど赤虎のいる磨崖仏のあたりからとなる。
 磨崖仏の下には二つの大きな篝火が炊かれ、赤虎はその真ん前に置かれた箱椅子に座っていた。
 赤虎の傍らには、片側の先を削り槍に見立てた木の杭が山積みにされている。鬼と戦うために、急遽僧たちが用意した武器であった。
 赤虎は眼をつぶり、じっとその時を待っていた。
 この静寂は、利江のひと声で破られた。
「もはや近くまで来ています!」
利江は岩山の上に上り、西南の方角を見張っていたのだ。
 利江の言葉の通り、はるか遠くの方から、「うおう」「うおう」という微かな唸り声が聞こえてくる。
 「来たか。あの声では、敵は凡そ一里半から二里先といったところだな。小半刻後にはここに届く」
 しかし、赤虎の予想に反し、唸り声はあっと言う間に間近まで近寄った。
 「がおう」「わおう」
 天を揺るがすような唸り声と共に、鬼たちが走る「どどどど」という地響きが窟の前に迫る。
鬼がまき散らす音の類は、窟まで一丁の距離まで近づくと、急にはたと止んだ。
 道から達谷窟に入る入り口には、篝火がこうこうと燃え盛っている。
 その光の中に、次々に人の姿が現れ出た。

 「女だ」
 「裸の女たちだ」
 男たちが見守る中、闇から現れたのは、一切の着物をまとわぬ裸の女たちであった。
 つい先ほどまで、ここに来るのは鬼だと思っていたのに、実際に姿を見せたのは裸の美女たちである。
 そのことは、男たちにとってすれば、余計に恐ろしい事態であった。
 女たちは窟の前に立つ男たちを、一人たりとも逃がすまいとするかのように、横に長く広がった。
 その十数人の女たちの中から、まずは菊乃が最前に進み出た。
 菊乃が見据える先は赤虎一人である。
 「貴様が与えた傷が癒えるのに、ひと月近く掛かった。よもや貴様もそのことを忘れてはおるまい」
 赤虎は「ふん」と鼻で答える。
 「今宵のうちにここにおる者を皆殺しにして、骨までかじってやる。その様子をじっくり貴様に見せた上で、貴様のことは最後に食ってやるのだ。ゴンサルコル。イズミヌダ。ママタイシア」
 最後の言葉は後ろの女たちへの命令だったのか、女たちが一斉に「イエエ」と叫んだ。
 赤虎は菊乃を横目で見ながら、眼中に入らぬとばかりに、男たちに号令を発する。
 「今だ!こ奴らが変化する前に一人でも多く倒すのだ。やれ!」
 赤虎が言い終わるや否や、毘沙門堂の扉が開き、五人の弓手が姿を現した。
 いずれも西方寺の僧兵である。
 弓手たちは矢継ぎ早に矢を番え、道に居並ぶ女たちに射掛け始める。
 予め道のあちこちに松明が置かれていたので、狙いを定めるのは容易である。
 僧兵の放った矢は三人の女に命中した。
 これを見た菊乃の表情が憤怒のために真っ赤に変わった。
 菊乃を始めとする女たちの体がぶるぶると震え出し、すぐさま鬼に変じた。
 いずれも極彩色の巨大な鬼ばかりである。
 「次は鬼どもを突き殺せ!」
 赤虎の号令と共に、弓手が手を止めると、間を置かず、盗賊六人が木槍を前に突進した。
 数本が鬼の足や腰に当たったが、さほどの効果は見られない。
 すぐさま鬼たちの反撃が始まった。
 予想通り、鬼は三群に分かれ、群ごとに、各々の狙う相手に突進して来た。
 接近戦では体格に勝る鬼の方が断然有利である。男たちは一人また一人と蹴散らされた。

 鬼の攻撃が最も集中したのは、磨崖仏の下の赤虎であった。赤虎の周囲には、窮奇郎の他、手下二人と僧兵三人がいたが、これとほとんど同じ数の鬼が取り付いた。
 男たちは長槍を前に揃え、防戦に努める。
 男たちは岸壁の前に密集しているため、鬼が寄せるのは前面のみである。
 前面は槍衾(ふすま)であり、鬼たちも、うかつに近寄ることが出来ない。
 さらには、一か所を攻める鬼の数が多すぎ、一度に寄せることが出来るのは二三匹だけであった。
 赤虎が考えていたことは、この場で鬼たちを倒すことではなく、ただひたすら時を稼ぐことである。
 数多くの鬼を己に引き寄せることで、杉原や角掛に回る鬼を減らそうというのが本当のねらいである。

 毘沙門堂の真下には、杉原以下五人の僧兵が布陣していた。
 この場に回ったのは、四つ目で緑の山椒魚と、虎のようなしなやかな体を持つ黄色の鬼である。
 「菊乃。やはりわしのところに来たか。まずわしを食わねば、己の命に関わるからな。ぬしの隣にいるのは楓であろう。待っておったぞ」
 己を殺しに来た相手を「待っていた」とは、不自然な話である。
 さすがに、四つ目の緑鬼(菊乃)も、その言い回しが心に引っ掛かった。
 四つ目は体の動きを止め、目玉だけを四方八方にくるくると回した。
 「コダアラ!」
 何事かに気付いた四つ目が叫び、すぐさま横っ飛びに三間跳躍した。
 それとほとんど同時に、「だあん」という銃声が轟いた。
 毘沙門堂の横に隠れていた砲手二人が、火縄を発射したのである。
 四つ目を狙った弾は、寸でのところで外れたが、黄色の鬼には命中した。
 腹を撃たれた黄色の鬼は、両手で銃弾の穴を押さえつつ、前のめりに倒れた。
 そこを逃さず、男たちが一斉に飛びかかり、槍を浴びせた。
 「楓を討ったぞ!」
 「楓の首を獲ったぞ!」
 男たちが口々に叫ぶ。
 すぐ間近でこれを見た四つ目は、わなわなと体を震わせた。
 「許さぬぞ。杉原辰之丞」
 怒りに震える四つ目の体から、数百本もの長い触手が伸び出した。
 その触手は手近にいた僧兵を掴まえると、首に巻き付き、喉の骨をぐしゃりとつぶした。

 毘沙門堂への入り口である山門付近には、角掛常左衛門が手勢鬼四人で二匹に対峙していた。
 既に盗賊の手下二人が倒され、さらに二人が傷付いている。相手の鬼も、一匹は首元に槍を受け、だらだらと血を流していた。
 角掛常左衛門は、今が勝負の勘所と考え、目前に立つ珊瑚色の鬼(光)に語り掛ける。
 「お光。ここはそれがしとぬしの勝負だ。ぬしの連れは重傷だ。もし、ぬしがそれがしを倒し、血肉を喰らったら、直ちに二人でこの場を立ち去り、島に帰れ。逆に、それがしがぬしを倒しても、ぬしの連れは見逃してやる。すなわち、勝負の結果如何に拘わらず、ぬしの連れのことを救ってやるということだ。とならば、ここはそれがしとぬしだけで決着を付けるのが筋だろう」
 珊瑚色の鬼は、角掛常左衛門の腹の内を量るべく、じっと凝視している。
 「皆は後ろに下がれ。この場はそれがしとお光の勝負だ」
 角掛は脇に立つ盗賊に槍を渡し、腰の刀を引き抜いた。
 「よし。お光。今が勝負だ。行くぞ」
 珊瑚色の鬼も、漸く今の事態を把握したと見え、もう一匹の鬼に何事かを告げた。
 片方の鬼は、即座に踵を返し、闇の中に消えた。
 角掛常左衛門と珊瑚色の鬼が向かい合って対峙したのは、ほんの一瞬である。
 双方が相手に駆け寄り、長爪と刀を同時に交差させた。
 たった一太刀の勝負であった。
 珊瑚色の鬼が地に臥すと、周囲の男たちが声を上げた。
 「光を倒したぞ!」
 「光は死んだ!」

 この声は磨崖仏の下で戦う赤虎の耳にも届いた。
 「よし。あとは菊乃だけだ」
 赤虎が毘沙門堂の前を望むと、ちょうど四つ目鬼が杉原を跳ね飛ばしているところが目に入った。
 「不味い」
 杉原を救いに行こうと考えても、目の前には鬼が群れを成している。
 「これでは如何せん動きが取れん。しくじったか」
 その時、赤虎の隣で、「すとん」という音がした。
 赤虎が横を向くと、そこに立っていたのは利江である。
 「利江。ぬしには、『よほどのことがない限り、岩山の上で戦況を眺めておれ』と申し付けたではないか」
 利江は島の女であるから、赤虎は男たちに間違って攻撃される虞(おそれ)がある。このため、「戦闘にあまり近寄るな」と命じていたのであった。
 利江は赤虎に顔を向けぬまま答えを返した。
 「今がその『よほど』の時です。虎一様はお堂下の加勢に行って下さい」
 その言葉と同時に、利江は金蛇の姿に変化を始めた。
 「利江。済まぬ」
 赤虎は利江にそう言い置くと、脱兎のごとく走り出し、お堂の下に急いだ。
 毘沙門堂の真下では、四つ目鬼が左手で杉原を持ち上げていた。
 「菊乃。死ね!」
 赤虎は携えていた槍に渾身の力を込めて、宙に放った。
 槍は長い間空中を飛び、四つ目の背中に突き刺さった。
 「ぐっ」
 四つ目が赤虎を振り返る。
 これで体が半身となったので、赤虎に四つ目の前が見えた。
 「杉原!」
 四つ目は杉原の腹に、右手の長爪を深々と差し入れていた。
 「とおっ!」
 赤虎は走りながら腰の刀を引き抜き、駆け寄りざまに、四つ目の胸に突き入れた。
 四つ目の鬼は、長い遠吠えを上げ、その場に崩れ落ちた。

 赤虎は杉原を引きずり、四つ目の傍から離した。
 「杉原殿。しっかりせよ」
 赤虎が杉原の傷を確かめると、腸が外に飛び出し、千切れていた。
 (これでは、もはや・・・。)
 杉原自身も己の最期を悟ったらしく、赤虎に向かって小さく首を振った。
 「赤虎。我が息子よ。済まぬが、ぬしとの約束は果たせず仕舞いとなりそうだ」
 「気にするな。気を確かに持つのだ。四つ目の菊乃は倒したぞ」
 その言葉が耳に届いたか、杉原はほんの少し笑みを浮かべたが、二三度体を震わせた後に、がくっと頭を落とした。
 「私の夫は死んだか・・・」
 二間先に臥していた四つ目鬼が呟いた。
 菊乃は、今まさに断末魔を迎えようとしていたが、まだ息はあったのだ。
 「赤虎。私の首を打て」 
 四つ目鬼の口から出た予想外の言葉に、赤虎は戸惑った。
 「私の首を打ち、皆の前に晒せ。さすれば、この戦いは終わり、これ以上、無用に血が流されることはない。戦いを終わらせ、娘たちを島に帰してやってくれ」
 四つ目鬼の体は、もはやその殆どが菊乃の姿に戻ろうとしていた。
 「承知した」
 赤虎は菊乃に歩み寄り、髪の毛を引き掴む。顔が上がると、菊乃は赤虎をじっと見据えた。
 「いつの日かお前も、この私のような最期を迎えることになるだろう。生き続けることの憂さや辛さを、何ひとつ知らぬ若者の手によって、そのそっ首を切り落とされるのだ。私はひと足先に地獄に行き、そこでお前を待っておるぞ。赤虎。さあ、直ちに私の首を切り落とすのだ」 
 菊乃は自ら首を長く伸ばし、切られ易くした。赤虎は無言のまま、この菊乃の首を掻き切った。

 赤虎は菊乃の頭を高くかざしながら、戦場の中心に進み出た。
 「菊乃の首は、この赤平虎一が討ち取った。もはや此度の勝敗は決したぞ。皆、無用な戦いを止めよ。女たちは直ちに島に帰るのだ!」
 赤虎の叫びに、一瞬にして皆の動きが止まった。
少しの後、状況を悟った男たちが、我がちに歓喜の叫びを上げ始める。
 「やったあ!」
 「勝ったぞ!」
 男たち全員が一斉に歓声を上げた。
この時、窟の前に残っていた鬼は、全部で五匹であった。
 鬼たちは目前の男たちが歓声を上げるのを見て、動きを止めた。
 赤虎はその様子を確認すると、最前に歩み出る。
 「おい、女たち。己の命を保つために、どうしても夫の血肉を必要とした三人は、総て死んだ。もはやぬしたちには、これ以上戦う謂れがあるまい。長居は無用だ。即刻、島に帰るが良い。我らもこの後は、ぬしたちを追い駆けたりなどせぬ」
 赤虎の目前にいた鬼は、数呼吸の間、じっとしていたが、「がは」とひと息吐いた。
 「ドラガダルナル。バイガ!」
 その鬼が背後の鬼たちに顔を向け、何事かを命じると、瞬時にして、鬼たちは闇の中に姿を消した。
(八)赤虎、島の女と別離すの巻
 こうして、毘沙門堂の前で繰り広げられた、人と鬼との凄絶な戦いは終わった。
 鬼が去った後、その場に残った者を数えてみると、この戦いで命を落としたのは、戦闘に加わった人のほぼ四分であった。
 僧侶たちが死傷者の対応に当たる中、赤虎は窟の前の道に利江の姿を認め歩み寄った。
 「利江。無事だったか」
 「はい」
 島の女は既に身づくろいを終えていた。

巌窟全景
巌窟全景

 「虎一様。これで今生のお別れです」
 赤虎は鬼女との戦いに気を取られ、その後のことを考えてはいなかった。
 「ぬしはこれからどうするのだ」
 「私はどこか人目につかぬところで、ひっそりと暮らしたいと思っています」
 「ぬし一人で平気なのか」
 赤虎が問うと、利江は赤虎から視線を外し、下を向いた。
 「独りではござりませぬ」
 利江が見ていたのは、赤虎の左腕である。
 赤虎が左腕を上げると、自分でも気づかぬうちに傷を得ていたらしく、血の筋が腕の先まで伝っていた。
 その眼の光で、赤虎は今の事態を悟った。
 「ぬしは子を孕んでいるのだな」
 利江が小さく頷く。
 (島の女は、いざ子を孕めば、子の父親の血肉を喰らう必要がある。もし食わねば、腹の子に殺されるかも知れぬのだ。)
 「ぬしは俺のことを食って、己の命を永らえようとは思わぬのか」
 「それでは、今日戦った島の女たちと同じことになります。私はそれが嫌で、皆から罰せられたのです」
 「しかし、もし腹の子が男なら、その赤子に食い殺されるかもしれぬぞ。男になるか女子になるかは半々の博打だろう」
 「臨月になってみなければ、その先どうなるかはわかりませぬ」
 心許なげな利江の様子を眺めているうちに、赤虎はあることを思い付いた。
 赤虎は怪我をした左腕の袂を捲り上げ、利江に傷を晒した。
 「利江。俺のこの傷を舐め、血をすすれ。さすれば、ぬしは死なずに済むかもしれぬ」
 「えっ?」
 利江が当惑した表情に変わる。
 赤虎は口の端をほんの少し歪め、顔に笑みを浮かべた。
 「俺はぬしとぬしの腹の子のために、この命を投げ出すつもりはない。片方の腕をくれてやる心づもりもない。だが、幾らか血を与えることは出来るのだ。もちろん、それがどれほどの効き目があるかは知らぬがな。そこから先のことは、ぬし自身の宿命によって決まるのだ。さあ血をすすれ、利江」
 赤虎は己の左腕を、利江の前にぐいっと差し出した。
 利江がその腕を一瞥すると、一瞬、ぶるぶると震え、鬼の姿に変化しそうになった。
 しかし、この島の女は全身に力を込め、己の変身を止めた。
 赤虎は再び腕を前に出す。
 「利江。俺の血を舐めるのだ。試してみる値はあるのだぞ」
 重ねて促され、利恵は漸く、赤虎の腕に唇を付けた。利江が舌で血を舐めたのは、わずか数度である。
 「もう結構です。血に何がしかの効き目があるのなら、少し舐めるだけで大丈夫」
 利江は赤虎から身を離し、黙って背中を向け、道の方に歩もうとする。
 「利江。もう行くのか。もしぬしが望むなら、俺の・・・」
 傍に居ても良いぞ、という言葉が、赤虎の口から出掛かった。
 短い間ではあるが、夫婦として共に暮らし、仲間として敵と戦ううちに、赤虎と利江との間には、何時しか絆のようなものが生まれていたのだ。
 だが、島から来た女は、赤虎の言葉を途中で遮った。
 「虎一様。私は貴方様を好いております。もし間近で貴方様を見ていれば、必ずや再び結ばれたいと思うでしょう。だから今、私は去るのです」
 利江の両眼には、決意の程がはっきりと表れていた。
 「私には程なく子が生まれます。もし、生きてこの子を育てることが出来るなら、何時の日か、父親が誰かということを教えるつもりです。構いませぬか」
 赤虎は利江に向かって頷く。
 「構わぬ。俺は盗賊ゆえ、いつ何時捕えられ首を打たれるか分からぬが、もし赤虎が生きているという噂を聞いたなら、母子で会いに来るが良いぞ」
 「はい。ではさようなら」
 この時、利江は初めて赤虎に笑顔を見せた。
 「うむ。ではひとまずはさらばだ」
 赤虎が別れの言葉を告げた時、遠方の山の間から朝日が顔を覗かせた。
 赤虎は一瞬、眼をその朝日の方に向け、瞬きを一度した。すると、そのわずかな間隙に、島の女の姿は赤虎の前から消え失せていた。

 「利江は去ったか・・・」
 ふうとため息を吐き、赤虎は近くにあった岩の上に腰を下ろした。
 朝日が上り始めると、山々の姿がゆっくりと現れて来た。
 もはや秋も終りで、木々の葉がすっかり赤く色づいていることに、赤虎はこの時初めて気が付いた。 (了)

★注釈★
○「天正」:天正年間は、西暦で一五七三年から一五九二年である(十九年間)。
○「里」:この時代の一里は、およそ七八百メートルである。
○「野代」:今の能代。
○本作は「今昔物語」巻第三十一第十二「鎮西の人、度羅の島に至りし語」を中心に、複数の説話を合わせ翻案したものである。「度羅の島」は、今の済州島を指すとみなされているが、本作では、あくまで未発見の島を想定している。
○「女護ヶ島」:女だけが住む伝説の島で、同様の話は、セイレーンを含め世界各地にある。日本においては八丈島がそれにあたるとする説がある。
○「度羅島」:原典における度羅島は、現在の済州島がこれにあたると考えられている。
○時間の単位は、原則として江戸尺に従う。すなわち、「一時(とき)」:四刻:二時間。よって「半刻(こく)」はおよそ十五分で、「小半刻」は七分強となる。
○「白頭(シロガシラ)」:ヒヨドリ科の鳥。頭頂部が白いのでこのように呼ばれる。現在では南西諸島を生息領域としている。
○「斯波氏」:高水寺斯波氏。この時の当主は斯波詮真であるが、赤虎の言う「物好き」とは、息子の斯波詮元(詮直)のことを指している。
 南部家の記したものには、斯波詮元は遊行に耽り、政を顧みなかったと書かれているが、実際には神社仏閣を手厚く保護した文人領主だったようである。
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