(一)赤虎、侍に捕縛されるの巻
時は天正の初め頃の話である。
ある年の夏に、北奥の各地を荒らしていた男が、ふとしたことで捕縛された。
その男は赤平虎一という名で、世人は男の名を短く詰め「赤虎」と呼んだ。
赤虎はまだ三十を幾つか過ぎたばかりであったが、既に数十人の盗賊団を率いる首領であった。
この時、盗賊の赤虎は戦闘で受けた傷を癒すために、出羽の湯治場に長逗留をしていた。
湯治場に十日も滞在すれば、米や魚菜も乏しくなってくる。そこで赤虎は食物を買い足すために湯治場の外に出た。
湯治場から最も近い村へは、ほぼ三里の道程であった。
その村に向かう道の中頃には、幅十間ほどの川がある。その川を渡るために、丸太を三本縛っただけの細い橋が川向こうまで渡してあった。
赤虎がその橋の上をゆっくりと歩いている時、たまたま向こう岸で遊んでいた五歳くらいの女児が、ふとしたはずみに川に落ちた。
山間(やまあい)に流れる急流である。女児は瞬く間に流されようとした。
傍にいた子どもたちが声を上げると、川で野菜を洗っていた女たちが四五人走り寄ってきた。しかし、激しい流れを前にすると、皆が尻込みをして、岸であれあれと叫ぶばかりである。
女児は浮きつ沈みつしながら、下流の方に流されて行く。
「これはいかん。溺れてしまう」
咄嗟のことで、赤虎は着物を脱ぐ間もなく、そのまま川の中に飛び込んだ。
赤虎が二十間ほど下流に泳いだところで、女児があっぷあっぷしながら流れているのを見つけた。
赤虎はその女児の首根っこを掴まえると、すぐさま胸に抱き上げる。赤虎は女児を抱えたまま上向きで泳ぎ、程なく岸に辿り着いた。
その女児を土地の女たちに渡した後、赤虎は、川原の草叢にごろりと横になった。
背丈が六尺に達し、極めて頑丈な肉体を持つ赤虎であったが、泳ぎはさほど得意ではなかった。赤虎はしばらくの間天を見上げ、はあはあと息を弾ませた。
もはや初夏の候とはいえ、濡れたままの着物を着たままでは風邪を引く。そう考えた赤虎は、半身を起こし着物を脱いだ。
立ち上がって両手で着物を絞る。
赤虎は着物が含んでいた水を切ると、傍らの潅木の上にそれを載せた。
この赤虎の背中一面には、毘沙門天の刺青が施されている。その色鮮やかな絵柄は、濡れそぼつ大男の背で、ひときわ異彩を放っていた。
「おお」「何と見事な」
後ろで見ていた見物人の間から、溜め息のような歓声が上がった。
その見物人の間から、一人の女が駆け寄る。女は齢四十くらいの年恰好であった。
「おらほの娘の命を救って下さり、有難うござります」
女は先ほど溺れかかった女児の母親で、娘を救った男のために、体を拭く手拭を届けに来たのである。
赤虎は黙ってこれを受け取ると、頭髪を拭き始めた。
「茣蓙(ござ)も携えて来ましたので、これに座って休んでくなんさい」
女は土手の上に茣蓙を敷くと、その中央に赤虎を座らせた。
「すぐに酒と肴をお届けします。このままここで待っていてくなされよ」
そう言い残すと、女は再び小走りで村の方に去って行った。
赤虎は茣蓙の上で横になり、手足を広げた。天を見上げると、お天道様がちょうど真上にいる。
「今日はよく晴れておる」
赤虎は一つ伸びをして両眼を閉じた。
そのまま小半刻もうたた寝をしていると、その赤虎に声を掛ける者があった。
「おい男。起きろ」
赤虎が眼を開くと、己の首元に槍の穂先が光っていた。
何ごとかと槍の主を見ると、己のすぐ傍らに立ち、槍を構えていたのは、壮年の侍であった。さらに、その周囲にはその侍の家来と思しき男たちが五六人も控えている。
「おい。貴様は北奥に名高い盗賊の一人であろう。確か赤虎とか言うごろつきの筈だ。汝(うぬ)の背中の刺青がその証拠だろう。言い逃れは許さぬぞ、赤虎。そのままゆっくりとうつ伏せになれ。わしの言われた通りにせねば、今直ちに汝を突き殺す」
赤虎は言われるがまま体を反転させ、茣蓙の上に腹這いとなった。
「両手を後ろに回せ」
赤虎が言われるまま左右の手を腰の後ろに回すと、侍の家来が赤虎を縄で縛った。
侍は油断無く赤虎を見張りながら、話を続ける。
「橋の袂(たもと)に近付いたら、たまたま子どもが溺れているのを、汝が助け上げるところだった。なかなか感心な奴だと思い、そのまま眺めていたが、つい先ほど汝の背中を見てしまった。わしの立場上、ひと度ぬしを毘沙門党の首領と認めてしまったのなら、このまま見過ごすわけにはいかぬのだ。よし、立て!」
「なるほど。溺れた子を助け上げるなど、盗賊らしからぬ振る舞いをしたことが、此度(こたび)のしくじりの元か」
赤虎はゆっくりと立ち上がった。
「立っているところを見ると、噂に違わぬ大男だな。さすが奥州にその名を轟かせた盗賊だ」
「ふん。この俺をどこに連れて行こうというのだ」
「貴様は何十人もの人を殺めてきた悪党だ。今直ちに殺したところで、誰も異を唱えはすまい。だが、今のわしは海に出て京に向かおうとしておるところだ。ひとまず港まで貴様を連れて行き、当地の地侍に引き渡すなり、その場で磔(はりつけ)にするなり、そこで決める事にする。よし、わしの馬の前を歩け」
侍が顎をしゃくると、直ちに馬の口を引いた家来が駆け寄り、主にその手綱を渡した。
ここで侍が出立を宣言する。
「我らには必ず果たさねばならぬ務めがある。さあ出発だ」
「はい」「はい」
家来たちの返事が響く。
赤虎が後ろを振り返ると、その侍の率いる家臣団は総勢三十数名であった。
一行が野代港に着いたのは、その翌日である。船着場に降り、海の方を向くと、港の沖には、遠目にも巨大な安宅(あたか)船が停泊していた。その船は二百人も乗り込めそうな、まさに城のような軍艦であった。
赤虎を捕えた侍は杉原辰之丞という名である。杉原は北奥・出羽の各地から、武器と馬具火薬を買い入れ、自領に運ぼうとしていたのだ。
輸送隊の総勢は二百三十人で、うち漕ぎ手の人足は八十八人であった。
「おい。盗人」
赤虎は岸壁に立つ艫(とも)綱を繋ぐ柱に縛られていたが、背後から響く杉原の声に顔を上げた。
赤虎は返事をせず、侍の方に向き直る。
侍は赤虎のことを見据えたまま、この後の赤虎に対する処遇を告げた。
「赤虎。貴様は我が軍艦に乗り、櫂を漕ぐのだ。ぬしの体躯は、ただ殺してしまうには惜しい。よってその体を、わしのために使わせてもらうことにした。この先、ぬしの一生は船の上だ。だが、今この港で首を斬られるよりは、はるかにましな扱いだろう」
否が応もない。赤虎はただ従うしかなかった。
赤虎が押し込まれるように安宅船の底に入ると、ずらりと居並んだ男たちが一斉に見上げて来た。船には左右両側に四十人ずつの漕ぎ手がそれぞれの腰掛に座っている。
いずれも、ひと癖もふた癖もありそうな面構えであった。
ここで、下役の侍の一人が、赤虎を舳先(へさき)側の右の三列目に座らせた。
「ここが汝(うぬ)の座る場所だ。気を入れて漕ぐのだぞ」
侍は、まず腰掛用の丸太に赤虎の左足を鎖で繋いだ。その次に赤虎を縛っていた縄を解く。これで赤虎が動けるのは、四方に一歩ずつとなった。
「これから汝らが生きていくのはこの場所だ。力を加減したり、気を抜いた者には鞭が飛ぶぞ。もちろん、そんな奴には飯も与えない。生き永らえたくば、我らに命じられた通りひたすら櫂を漕ぐのだ」
侍は一方的に言い残すと、すぐさま背を向けて立ち去った。
赤虎が何気なく右を向くと、櫂の差し出し口の隙間から、僅かに海が見えた。その隙間からは、涼しげな潮風が吹き込んで来てもいた。
今は初夏である。赤虎は身につけていた着物一枚を脱ぎ、褌一丁の姿になった。
「おお」
「あれは・・・」
「なんと見事な色合いだ」
赤虎の背中には、衆目を集めずには置かぬ、色鮮やかな毘沙門天の刺青があった。
「毘沙門の刺青とあれば、噂に聞く盗賊の赤虎ではないか」
「あの盗人が遂に捕まったのか」
間を置かず、男たちの間から声が上がった。
「赤虎。わしらを救ってくれ」
「そうだ。お前なら、きっと今の境遇を打ち破ることが出来るだろう。どうかわしらを、もう一度陸(おか)に上がらせてくれ」
「そうだ。もしわしらを解き放ってくれるなら、その後わしらは皆、お前の、いやお前様の手下となろう。下僕でも、奴婢でもなんでもよい。一切文句を言わず、お前様に付いていく」
「そうだ。お頭。是非ともわしらを解放してくれ」
男たちが口々に喚くのを、赤虎はしばらくの間黙って聞いていたが、歓声が少し静まった頃を見計らい、徐に口を開いた。
「お前たち。まずはこの俺を確(しか)と見ろ。今の境遇は、俺もぬしたちも何ひとつ変わらぬ。足を鎖で繋がれて身動きが取れぬ。今ここでどうにかせよと言われても、何とも答えようがない」
この赤虎の答えを聞くと、一瞬にして、周囲の熱気が鎮まった。
人足たちは皆罪人か奴隷である。これまで長い間ずっと、船底で艪を漕ぐ毎日を送ってきた。このため、その場の嘘でも構わぬから「俺に任せて置け」というひと言を望んでいたのだ。
落胆を表わす溜め息が四方から漏れた。
男たちが従前の通り下を向く。
「だが」
再び赤虎が口を開くと、周囲の顔が一斉に上を向いた。
「希望を捨てぬ限り、いずれ好機は来る。たとえどんな境遇にあっても、いずれは己の力で己自身を救い上げようという気概を持つことだ。ぬしたちを解き放つのは、この俺ではなく、ぬしたち自身の不屈の志なのだ」
赤虎はごく当たり前のことを口にしたのだが、盗賊としてこれまで踏み越えてきた修羅場の数々が、周囲を圧倒する力強さを生んでいた。
赤虎のこの言葉で、男達の眼の色が変わった。
「はい」
「はい、お頭」
この時、甲板から銅鑼(どら)の音が響いた。
出航の時が来たのである。
「櫂を外に出せ!」
階段の上から、侍の命じる声が響いた。
軍艦は野代港を出ると、沖合で帆を張り、南下航路を辿った。
最初の寄港地は加賀である。軍艦は加賀に寄港すると、そこで一旦、奥州から運んだ積荷を下ろした。
すると、休む間もなく再び出航となった。
加賀沖で帆を張ると、杉原辰之丞が甲板から下りて来た。
「ようやく船が港に着いたと思ったら、再び出航だ。さぞ、これから一体どこへ行くのかと思うたことであろう。良いか、者共。この艦の名は波多田丸と言う。すなわち、次に赴く地は西海ということだ。陸では今まさに我が殿が合戦を始めようとしておる。我らが休むのは、織田弾正との戦に勝利した時のことだ。その時まで、我らは我が殿のために、東だろうと西だろうと、資材の調達に回るのだ」
この言葉を聞き、赤虎は、この軍艦が何のために奥州から西海までを航行しているのかを理解した。
(なるほど。後方から支援物資を国に送ろうとしているわけだな。織田勢と戦っているのなら、さしづめこ奴らは甲斐の者たちか。あるいは越後の上杉か)
この視線に、杉原が気づいた。
杉原は赤虎が己のことをじっと見ているのを悟り、ぎゅっと眉間に皺を寄せ睨み返して来た。
船はそのまま西に向かった。
異変が起こったのは、船が隠岐島を過ぎた辺りである。
急に空が真っ暗となり、強風が吹き荒れ始めた。
「なんだこれは。秋でもないのに大風とは」
杉原は直ちに家来に命じ、帆を下させた。
しかし、風は益々強まり、波が荒れ狂う。
「荷をきつく縛るのだ!」
杉原が叫ぶが、船は風に舞う木の葉のように、波に揺さぶられた。
「これはいかん。この船は外海を航海するようには作られておらぬ。このまま海が荒れたままなら、あるいは・・・」
杉原は梯子を駆け下りた。
「お前たち。櫂を外に出せ!東の方角に向け、ひたすら漕いで、漕いで、漕ぎまくれ。陸は東だ」
人足たちが、大慌てで櫓を船の外に出した。
杉原は再び梯子を上ろうとしたが、その途中で赤虎に目を止めた。
(そう言えば、こ奴は子の命を救ったことがあったな。)
杉原は家来の一人を呼びつけた。
「この者の足枷を外してやれ」
杉原がひと言言い捨てて、船底を立ち去ろうとするのを、赤虎が呼び止める。
「おい。どうせ外すなら、この俺だけでなく、ここにいる者総ての足枷を外してやれば良いではないか。ここは海の上だ。ましてやこんな嵐の中を、どこへ逃げるでもあるまい。相手は人ではなく天だ。船の行く末など、人知の及ぶところではあるまい」
杉原は振り返って、赤虎の顔を見た。
その杉原から視線を外すことなく、赤虎が言葉を続ける。
「たとえ船が転覆したとしても、残った者が手を取り合えば、生き残る者が何人か増えよう。船とともにこの者たちが沈んでしまえば、その機は総て失せるのだ」
赤虎は確信に満ちた表情をしている。
杉原はほんの少し思案したが、すぐさま顎をしゃくった。
「よし。ぬしの申す通りにしよう」
船は上下左右に揺れていた。
杉原はよろけそうになりながら、配下の侍に命じた。
「こ奴らの足枷を外してやれ!」
命じ終わると、すぐさま杉原は梯子に向かった。
船はそれから一刻ももたず転覆した。
横波を食らった船が裏返しとなり、舳先のほうから海中に沈み始めたのだ。
資材を山ほど積んでいた船は、自らの重みに耐え切れず、半分が海中に没しようとした時に、真っ二つに折れた。
しかし、何が幸いするかはわからない。
船体が二つに割れたがために、中にいた男たちは、一気に外に放り出された。
赤虎も海の中にドボンと落ちたが、浮かび上がってみると、折れた帆柱が近くにあった。
ひとまずはこれに掴まり、周囲を見渡すと、十五間先には大波にもまれる黒い頭がいくつも見えていた。
「おおい。すぐ後ろに帆柱が浮かんでいるぞ。皆こっちに戻ってこれに掴まれ!」
暴風雨の最中である。赤虎の声は雨風に遮られ、男たちには届かない。
赤虎が横を向くと、すぐ近くに杉原の頭が浮いていた。海に放り出された時に頭を打ったらしく、杉原はすっかり気を失っている。
赤虎は丸太に掴りながら、片手で水を掻き杉原に近寄った。
「杉原。まだ生きておるのか。返事をしろ」
杉原の頭は水面を上下していたが、赤虎が首根っこを掴んで引き寄せると、その拍子に「うっ」と声を漏らし、息を吐いた。
「生きていたか。ならこれに掴まれ。杉原辰之丞」
赤虎は杉原の腕を引き寄せ、腋の下に丸太が入るように抱き付かせた。さらにこの侍の着物の袖を破り取り、侍の体を丸太に固く縛りつけた。
波がうねり、赤虎たちは五間以上の高さから、何度も波の底に叩き付けられた。
その度に全身が強く打ちつけられる。
赤虎は幾度となくその衝撃に耐えていたが、いつしか気を失っていた。