馬継所を指す言葉がすなわち「馬場」ということであるが、いつの間にかこの呼び名がそのまま地名になったのである。
この地は、奥州道から姫神山に向かう西の入り口であったから、ひとまずは交通の拠点でもあった。姫神山は、中世には山岳信仰の一大拠点であり、かなり下火になったとはいえ、麓にはまだ山伏たちが何十人か修行していた。
馬場街の南端は、南部藩を流れる最大の河川である北上川と、姫神山麓から流れ下りて来る沢目川との合流点となっている。この合流地付近一帯を芦名沢と言い、この沢に掛けられた橋のことを芦名橋と呼んだ。
沢目川は、普段の川幅がようやく一間半あるかどうかの小さな渓流である。ところが、ひと度雨が降ると山麓の水の集結によって瞬く間に四、五倍も増水し、周囲の土地を水浸しにした。
このため、水系が開いたわずかな平地を開墾して田畑を拵えても、そこで育てた作物は梅雨の季節には大方のところ根腐れてしまうか、畑全体が流されてしまうのだった。
しかし、姫神山麓の豊富な森林から流れ降りてくる水が滋養豊かでないはずはなく、芦名沢一帯は耕作地として必ずや利用できよう。このように考えた百姓が幾人もこの地の開墾に挑んだが、水際の整地は結局のところ誰一人としてものにできず打ち捨てられてしまっていた。
この小川の治水を工夫し、曲がりなりにも少々の耕作を可能にしたのは、隣村に住む別当の息子の利助という男である。利助はこの近くに住む親戚のつてを頼り、村役に沢目川の治水工事を進言したのである。
利助は兄弟たちの助けを借り、旧暦九月初めの比較的乾燥した時節を狙い、川沿いに次々に杭を打った。それから、川岸の杭の外側を土塁で一気に固めてしまった。
その後、周辺の土地が完全に乾かぬうちに、潅木を刈り、根を掘り起こして、草を焼き払った。
こうやってできたのは、せいぜい三、四町に届くかどうかの細長い畑であったが、村うちに出来た新しい耕作地であることは違いない。
荒地を開墾した功により、利助は分家独立と同時にこの地に住むことを認めてもらえることとなった。利助は元の家を出て、芦名橋の傍らに藁葺きの小さな小屋を建て、そこで暮らすようになった。