北奥三国物語 

公式ホームページ <『九戸戦始末記 北斗英雄伝』改め>

早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



其の六 散花(ちりばな)の章

 南部信直による九戸侵攻を撃退した後、法師岡館主・櫛引清政は自領に帰り、兄の清長にそれぞれの息子が1人ずつ戦死したことを伝える。兄弟は直ちに報復を企図し、櫛引一族だけで南弾正盛義のいる浅水城を攻めることを決めた。
 櫛引の先発隊はわずか30騎であり、浅水城の手前で南弾正の待ち伏せに遭い退却する。南弾正はすぐさま追跡を開始したが、気がついた時には櫛引領の奥深く入り込んでいた。櫛引先発隊の退却は策略であり、南弾正は弟康政とともに櫛引の本隊に囲まれ、命を落とした。
 一方、疾風は岩手郡の山館で1ヶ月にも及ぶ闘病生活の後、ようやく回復する。山桜見物に出掛けた疾風と葛姫は、岩泉の黒狼に遭遇するが、疾風がこの宿敵を倒した。狼との戦いの後、疾風の陰にお晶の存在を感じ取った葛姫は、自らの思いを告白するのであった。

其の七 雷鳴の章

 小次郎から九戸政実から登城の要請があることを聞いた疾風は、すぐに日戸郷を出発する。沼宮内では小柄な相撲取り・山の上権太夫、小鳥谷では孤児を拾っては寺に届けるお芳など、様々な人々に出会う。
 一戸の町を出たところでは、毘沙門党の赤平兄弟の妹・紅蜘蛛お蓮一味が待ち構えていたが、疾風は七八人を倒したもののお蓮は取り逃がした。
 二戸宮野城では、政実から津軽大浦城へ子どもを1人連れて行くことを依頼される。この道中に同行するのは正月に岩泉で共に狼と戦ったあの三好平八であった。
 この時、北奥の情勢はさらに緊迫しており、南部信直の手の者が各地を徘徊していた。九戸党は上方から三戸に鉄砲が届く前に、北郡の七戸家国、櫛引との連絡を確保すべく、伝法寺城、苫米地館を攻め、一戸城を無血開城することを企図していた。
 疾風は、政実から預けられた鶴次郎少年、三好平八と共に、宮野を旅立つのであった。

其の八 春時雨の章

 南部信直はうたた寝から醒めると、前年に小田原で拝謁した秀吉のことを思い出した。秀吉は大そうな勘気の持ち主で、信直の目の前で、意に添わぬ侍女を危うく絞め殺すところであった。「今のままでは秀吉の不興を買い、改易にされかねぬ」と考えた信直は、北秀愛を呼び出し、九戸党の征伐を重ねて命じた。
 一方、疾風は平八と共に、九戸政実の長男と目される鶴次郎を連れ、津軽に向う。途中、陽気な相撲取りの山ノ上権太夫が加わり、四人で鹿角に立ち寄る。そこで大湯四郎左衛門と出会い、権太夫は大湯八幡の相撲大会に出ることになった。権太夫は勝ち残り、毛馬内勢の巨漢や、大将格の浅石清四郎を倒した。
 大湯では、一族の危機を悟った四郎左衛門の計らいにより、疾風一行に長男の大湯勘左衛門夫妻らが加わった。一行は津軽に北上するが、小坂で毘沙門党の窮奇郎、紅蜘蛛が襲ってくる。疾風はこの攻撃を切り抜け、津軽大浦城に入った。
 疾風は大浦為信が課した弓の試射を難なくこなし、九戸市左衛門(鶴次郎)、大湯勘左衛門は大浦家に仕えることとなった。
 北奥の緊張は最高潮に達しており、東西の道筋には侍が溢れていた。疾風は二戸宮野城への帰路として敵陣のど真ん中を突っ切る道を選ぶのであった。

其の九 嚆矢(こうし)の章

 疾風一行は帰路、三戸の伊勢屋を訪れる。伊勢屋では疾風はお晶、平八は若菜という娘を、宮野城まで連れて行くことになった。
 出立の仕度をしているところ、伊勢屋の門前に岩泉兵部が現れる。岩泉兵部は元々、東孫六という名で、東一族の枝葉に属する。疾風は孫六と剣で立会い、勝負に勝つが、命は取らずそのまま返した。
 この勝負を見ていた口入れ屋の松の知らせにより、毘沙門党が疾風を待ち伏せる。疾風が敵に立ち向かおうとすると、先に行かせたはずの三好平八、山ノ上権太夫が助太刀をするために戻ってきた。
 宿敵である毘沙門党の窮奇郎、紅蜘蛛と対峙するが、この時、三戸の追手が何百人も現れ、取り囲む。疾風はひとまず毘沙門党と休戦し、三戸の包囲を脱し、宮野に向かった。
 一戸城では城主の一戸図書が家臣たちに、この後、政実に与することを告げ、「残る者は残り、去るべき者は去れ」と命じる。この命に応じ、城の外に出た者の中には、三戸から派遣されていた小平左近がいた。小平左近は田子に集結する三戸軍中の兄・月館隠岐に報じるべく、馬を駆る。
 北郡の七戸家国のもとには、天魔源左衛門により、政実が宣戦布告したことが報じられた。
嚆矢(開戦を告げる鏑矢)は、まさにこの時放たれたのであった。

其の十 神命(しんめい)の章

 一戸を脱した小平左近は田子にいた兄・月館隠岐に事態を報告した。隠岐は直ちに馬を駆り、三戸留ヶ崎城の南部信直の元に赴く。隠岐は一戸奪還の重要性を説き、信直から攻略軍の指揮権を与えられた。
 三月十三日には、まず七戸家国が羽立館にいた津村伝右衛門を攻め、この館を落とした。津村は伝法寺館に移り、防戦に努める。篭城のまま夜に至り、津村が城を出て血路を開こうとしたまさにその時、七戸軍は包囲を解き、撤収した。
 同日、櫛引清長は西進し、高橋館を落とし、苫米地館を包囲した。苫米地館主の苫米地因幡は降伏をせず徹底抗戦を決意する。乱戦の中、櫛引勢は突如として兵を退き、去ってゆく。
 五戸又重館には、九戸実親が騎馬二百をもって説得に赴いたが、館主の木村伊勢は政実の鎧を身に着けた実親を恐れるあまり、話し合いに応じず突如として攻撃を開始した。
 この三城攻撃の知らせが届くと、鳥海にいた三戸軍は直ちに一戸城を包囲する。
 一戸城内に手引きする者があり、城門が開かれる。城主の一戸図書は落命し、城は三戸の手中に落ちた。
 九戸政実は七戸家国に一戸奪還を命じ、自らは疾風や天魔源左衛門らを従え、密かに鳥海の南部信直の元を訪れる。自陣に政実が現れるとは思ってもみなかった信直は、心の底から仰天するのであった。

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