時は天正の末、季節は晩秋の頃のことである。
 日戸(ひのと)佐助は配下二人を連れ、奥州鳥谷(とや)ヶ崎(花巻)城から岩手郡に戻ろうとしていた。
 佐助は岩手郡日戸郷の地侍、日戸内膳の三男である。その頃、佐助は鳥谷(とや)ヶ崎城代である北左衛門佐の許に出仕していたのだが、墓参のため一時帰郷を許されたのである。
 三人は岩手郡に入り、日戸郷まで残り二十里に満たぬ所まで届いていた。そこで佐助は馬を休ませるために道を外れ、十五間ほど離れた小川の辺(ほとり)に降りた。
 三人は思い思いの場所に腰を下ろし、長旅に疲れた体を労わった。
 間もなく、上の道の方から人の声が聞こえて来た。小川は人の背丈の高さほど道から下がった場所にあるから、先方からはこちらの姿は見えぬ。しかし、佐助の側からは、首を少し上に伸ばせば相手のことがよく見えた。
 道を行こうとしているのは、男二人女二人からなる四騎の一団だった。
 その中の一人の大男が主と思しき女に向かって、何やら声高に話し掛けている。
 「お蓮さま。先ほど空の上を飛んでいたあの丸い光が船だというのは、真(まこと)のことですか」
 大男らしく如何にも武骨な声である。
 これに女主(あるじ)が周囲によく響く声で答えた。
 「ああその通りだ。わたしは前にもあれを見たことがある」 
 夕日を浴びながら、四騎は小川のすぐ上の道を通ろうとする。
 一行は佐助からほんの十間先である。
 佐助は四人の顔をはっきりと見取ることが出来た。
 「あ。あの女は…」
 佐助には女主の顔に見覚えがあった。
 「あれは紅蜘蛛ではないか」
 紅蜘蛛は、奥州に名高い極悪人の一人だった。
 佐助が女を見間違える筈が無い。
 何故なら、佐助はかつて、この紅蜘蛛が瞬時にして二人の侍を斬り捨てるのを、直(じか)に目の当たりにしたことがあったのだ。
 紅蜘蛛はこの辺りではけして見られぬほどの美貌の持ち主だ。しかし、男心をとろけさすような美しい外面(そとづら)の下には、人殺しを何とも思わぬ残忍な心が隠されているのだった。
 「これは捨て置けぬ」
 ここで佐助は瞬時に腹を決め、手招きで従者二人を呼び寄せた。
 そこで佐助は、声が上の道に届かぬよう、小声で命を授けた。
 「一人は直ちに仁王郷まで戻り、『女盗賊の紅蜘蛛がいる』と不来方城に報せよ。そしてすぐにありったけの手勢を連れて戻って来い。そうだな。小六、お前が行け。わたしと嘉兵衛は、このままやつらの後を尾(つ)ける。今宵は大捕り物になるぞ」
 従者二人が揃って小さく頷く。
 「あやつらは町屋には向かうまい。あの様子ではおそらく新庄だろう。道別れまで追い、もし別の方角に向かうようなら、嘉兵衛。ぬしがその場に留まり、きゃつらの行く先を捕り手に報(しら)せるのだ」
 「はい。畏まりました」
 「小六。音を立てぬように行けよ。あやつらは極悪人だから、手勢は三十や四十は要る。福士殿にそう申し伝えよ」
 佐藤小六がすぐさま立ち上がり、馬を引いて脇道に向かった。
 思いも寄らぬ成り行きに、佐助は独り言を呟いた。
 「しかし、紅蜘蛛ともあろう者が、あのような軽装で出掛けようとはな。小ぶりの刀一本しか身に着けておらぬではないか」
 盗賊団はいずれも小袖と奴袴(ぬばかま)の上に薄い上掛けを羽織っただけで、如何にも「大慌てで出て来た」という風情だった。
 「ともあれ、敵に気(け)取られぬように、少し間を置いて後を尾(つ)けよう」
 佐助が推し計った通り、盗賊は道別れに来ると、山道の方に足を転じた。
 「やはり新庄の方角だ。一体、何をしに行くのだろう」
 盗賊たちの意図は分からぬが、ひとまず黙って尾(つ)いて行くしかない。
 そのまましばらく進むと、盗賊たちが向かった先は、ある山の中腹だった。
 その山の正しい名は定かではないが、通称では「薄山」と呼ばれている山だ。
 佐助は一定の距離を保ち、紅蜘蛛一行の後を追った。
 程なく盗賊たちが足を止めた。
 そこで佐助の方も草叢に潜んで様子を見ることにした。
 木々の向こう側に、何かは分からぬが白く光る大きな物体が見えている。
 「あれは一体何だろう」
 佐助が気配を消しつつ近くに寄って見ると、その物体は丸いかたちをしていた。
 「まるで、とてつもなく大きな鳥の卵のような姿だな」
 佐助が木陰から注視する中、盗賊たちはその大卵の真ん前に立っていた。
 ここで盗賊の一人が話し始める。
 「お頭。このことですかい」
 「そうだ」
 「この大きな卵みたいなやつが船だと言うんですか」
 「ああ。この中に鬼が乗るのだ」
 「鬼ですかい。そりゃまた。へへ」
 手下は顔に薄ら笑いを浮かべている。
 女主の話を本気にしていないのだ。
 紅蜘蛛はその男には構わず、さらに卵に近付いた。
 佐助からは遠すぎるため、卵の全貌を掴むことは出来ぬ。それでも、およそ縦径二十間はあろうかという大きな卵形であることは間違いない。
 「盗賊どもめ。あれを見に来たのか」
 佐助は背後の嘉兵衛を呼び、新たな命を伝えた。
 「よし。この下の道まで降り、捕り手をここまで案内(あない)せよ。きゃつらに気取られぬよう、けして物音を立てるなよ」
 この時、紅蜘蛛は大卵に手が触れられるほど近くに寄っていた。
 「やはりな。これはあの時の船と同じだ」
 それはこれより六年ほど前のことだった。
 紅蜘蛛は盗賊団の首領を迎えるため米沢に向かった。その首領とは紅蜘蛛の義兄・赤平虎一のことである。
 紅蜘蛛は米沢で義兄と合流し、その帰路、三匹の鬼と遭遇した。
 そして、兄妹で力を合わせ、その悍(おぞ)ましい鬼に立ち向かったのだ。
 紅蜘蛛はその時のことを、今も鮮明に記憶している。
 「あれは、まこと怖ろしい鬼だった。人を食って、その者の姿に化けるのだからな」
 義兄二人と紅蜘蛛は死闘の末に二匹を倒しが、鬼は全部で三匹いた。
 残り一匹の鬼は、大きな卵形の船に乗って、空に飛び去ったのだった。
 今この時、紅蜘蛛の眼の前には、あの時の船とまったく同じかたちの大卵が鎮座していた。
 
 紅蜘蛛は無意識のうちに深い溜め息を吐いた。
 「またあの鬼が現れたのか。これは厄介なことになるぞ」
 紅蜘蛛が最も頼りとする長兄は、既にこの世を去っている。あの時、共に鬼と戦った次兄の窮奇郎も今はいない。
 「お頭。卵が口を開けていますぜ」
 手下の一人が大卵の横に回って見ていたが、何かを発見したらしい。
 その手下は紅蜘蛛を手招きで呼び寄せた。
 紅蜘蛛がそこに向かうと、大卵の片隅に大きな丸い穴が開いていた。
 ちょうど人ひとりが通れるくらいの穴だ。
 「鬼め。どうやら中にはおらぬようだな。どこかに出掛けているのか」
 もはや夕暮れが迫り、辺りは次第に暗さを増している。
 「よし。まずは松明(たいまつ)に火を灯せ。この中を見てみよう」
 すぐさま手下たちが火を熾(おこ)した。
 紅蜘蛛は松明に火を灯し、それを高く掲げて、舟の中に入った。
 しかし、一行が中を見ようとするのに、松明の灯りなど不要だった。
 紅蜘蛛が足を踏み入れると同時に、卵船の中にパッと灯りが点いたからだ。
 この時、佐助は十数間離れた斜面の上にいたが、盗賊たちの動きはよく見えていた。
 「一体、あれは何なのだ。船だとか鬼だとか。あやつらは何の話をしておるのだ」
 盗賊たちが船内に姿を消したので、佐助はゆっくりと船に近寄った。
 そこでしばらくの間中の気配を伺っていると、この場に不来方城の侍たちが到着した。
 皆、二丁手前で馬を下り、徒歩でこの場所に上って来ていた。
 そのことを見取り、佐助はその一行に対し労いの言葉を掛けた。
 「よし。皆よくこの場を心得ておる。物音ひとつ聞こえなかったぞ」
 この言葉を聞き留め、佐藤小六は誇らしげな顔で微笑んだ。
 ここで佐助がその小六に確かめる。
 「小六。手勢を幾人引き連れて来たのだ」
 「三十六名にござります」
 「よし。相手は僅か四人だけだ。いかに紅蜘蛛といえども、相手は僅(わず)かに四人。こちらの方がはるかに有利だろう」