揺蕩(ようとう)
秋が深まり、山々が紅く色づいた頃、重清の許に吉兵衛がやって来た。
時刻は未の下刻である。この季節では昼過ぎと言うより、夕刻間近と言うべき頃合であった。
吉兵衛は大きな竹籠を背負っていた。
吉兵衛は縁側廊下の上に竹籠を置くと、そのまま籠の隣に腰を下ろした。
「長一郎。裏の山に平茸が沢山生えていたから採って来た。ひとまず漆田甚八に見て貰ってくれぬか。あの爺なら平茸と毒茸の見分けがつくじゃろう。これが平茸に相違なければ、皆で食するが良いぞ」
隠居暮らしが退屈なのか、吉兵衛は最近、薬草を集めたり、茸を取ったりと、日がな外に出歩くようになっていた。
だが、吉兵衛は野歩きを始めたばかりで、経験に乏しい。薬草や茸の知識が如何にも足りなかった。
吉兵衛が口に出した「漆田甚八」という者は、主館の厨房で働く老爺である。
野山のことはこの甚八に訊けば、まず間違いが無い。
「分かりました。これを厨房に持たせ、甚八に確かめさせましょう。おい巳之助!」
重清が呼ぶと、別の者が歩み寄って来た。
「お屋形さま。巳之助は杜鵑女さまに従って、姫神山に向かいました」
ここで重清は、数日前、杜鵑女にその申し出をされ、己が許可したことを思い出した。
それだけでなく、道中の安全のために、巳之助と侍女一人を随行させてやったのだった。
姫神山は糠部の南、岩手郡にある霊山である。この頃の姫神山は奥州有数の修験道の聖地であった。
この山の麓には奥州全域から千人に及ぶ山伏が集まり、道場で修行を行っている。
若侍は籠の中を覗き込んだ。
「ああ。これは見事な平茸でござりますな。それと隣には、木通(あけび)の実が入っております」
吉兵衛が大きく頷く。
「皮を細く刻んで水に漬けて置くと苦味が取れる。それを味噌で炒めるとなかなか美味いぞ」
これに若侍は大げさに驚いてみせた。
「木通と申せば、中の実のみを食するものだと思うておりましたが、皮も食べられるのでしょうか」
吉兵衛が笑みをこぼす。
「灰汁(あく)取りが下手だと苦うてかなわんがな。これも甚八なら上手くやれるだろう。甚八に任せよ」
「畏まりました」
若侍は吉兵衛の籠を背負い、この場を立ち去った。
今は既に米麦の収穫が終わり、蕎麦を刈り入れる時期である。これが終わると、休む間もなく、山際の開墾作業が待っていた。
秋の収穫が終わる頃には、すぐさま雪が降り始める。その間隙を縫って、一定の段階まで作業を進めねば、雨風や雪のため、せっかく切り拓いた開墾地が崩されてしまうからである。
この作業には、士農を問わず釜沢の男衆が総出で掛かる慣(なら)わしであった。
釜沢の地は山がちで、元は食物を作ることが難しかった土地だが、数十年に渡りこういった努力を惜しまなかったので、冷害の年でも餓死者を出すことが無かった。
吉兵衛がふうと溜息を吐く。
「このところ冷害の年が続いたが、今年も何とか冬を越せそうではある」
だが、重清は眉間に皺を寄せたままだ。
「米麦の収穫がこの秋ひとつ目の山でござりましょう。しかし、それだけでは冬は越せませぬ。また、秋口には栗や栃の実が拾えますが、雪が降る頃にはそれも尽きるでしょう。今年も野伏せりや食い詰め百姓どもが襲いに来るのは間違いありませぬ」
今がこんな殺伐とした世相になった理由は、冷害で充分な糧食が得られなかったことによる。食い物が無ければ、他領から奪うしか生きる道はないからだ。
「では、今年も物見を立てるのか。この周辺でも、今年の作柄は上々だと聞いておるが・・・」
「盗賊は隣近所の者だけではござりませぬ。そ奴らは山を越えてやって参ります。よって一両日中にも街道筋に守備隊を配置します」
吉兵衛は温厚な性格である。重清の渋面を見て、少しく表情を曇らせた。
「侍が侍になったのは、こういう事態が毎年のように起きるからだ。それが何百年も続いたから侍と言う生業が出来たわけだ。戦いに専従する者がおらねば、民が一年を通じて働いた成果が無駄になる。今年は騒動が起きねば良いがの」
しかし、それも僅かな希望であることを、吉兵衛も充分に知っている。
それから重清は所用のため、館より外出した。
申の中刻には戻るはずであったが、帰館した時には酉の刻を過ぎていた。
全身が埃塗(まみ)れだったので、重清は沐浴し、体の汚れを洗い流した。
重清が手水場を出て常居に入ると、そこに夕餉の支度が出来ていた。
膳の上には、雑穀粥と川魚を昆布で巻いたもの、さらに香の物と栃餅が載っていた。
館主の食事としては簡素なものである。
だが、腹を満たすだけの充分な量はある。
重清が腰を下ろすと、そこに椀が運ばれて来た。中を覗くと、そこに入っていたのは茸汁だった。
「これは平茸か。今日の午後に叔父殿が持参したものだな」
重清は最初にその茸汁をすすった。
味は悪くない。むしろ茸の味の奥深さが良く出ていた。
「なかなか美味い茸汁ではないか」
重清はずずっと一気にひと椀を食べ終わると、侍女に声を掛けた。
「この汁はなかなか美味いのう。さすが甚八爺さんは、こういうのが上手だな」
すると、その侍女は怪訝そうに首を捻った。
「はい?いえ、この汁はお峰さまが作られましたが・・・」
峰は給仕頭の侍女である。
「甚八はどうしたのだ」
「今日は法事があるとかで、漆田の本家に戻りました」
「では、茸は誰が検めたのだ?」
侍女が再び首を捻る。
「さあ、どなたでしょう」
毎年この時期には、誤って毒茸を食し、数人が食あたりを起こしている。
このため重清は日頃より、「きちんと先達に学べ」と用人たちを戒めていた。
「平茸にはよく形の似た毒茸がある。よく確かめずに調理してはならんのだぞ」
侍女が恐縮し幾度も頭を下げる。
「申し訳ございません」
「まあ良い。後でもう一杯これを持って来てくれ。持って来るのは、小半刻ほど後で良いぞ。俺の帰りが遅くなったから、皆さぞ腹が減っているであろう。お前たちも何か腹に入れよ」
用人たちが主より先に食事を取ることはない。主の帰りが遅くなると、何も食べずに控えているわけである。
重清はそんな用人たちを労おうと思ったのだ。
侍女はもう一度頭を下げると、常居から姿を消した。
その小半刻が過ぎると、重清は胸の辺りがもやもやとして来た。
最初は胃の調子が悪いのかと思ったのだが、すぐに天井が回り始めた。
「これはいかん。先ほどの茸は・・・」
立ち上がろうとするのと同時に、強烈な吐き気が来た。
重清は常居から縁側廊下に出ると、そこで我慢し切れなくなり、縁側の外に向かって嘔吐した。
平茸と思って食べた茸は、やはり毒茸だったのだ。
「おい。誰かある」
裏手に声を掛けるが、返事が返って来ない。
重清は下士下僕に「茸汁を食べるな」と命じたいのだが、この時にはもはや舌が痺れて動かなくなっていた。
重清は縁側廊下に臥し、縁から外に顔だけを出し幾度も外に吐いた。
全身の毛がそそけ立ち、わなわなと手足が震える。
体の自由が利かぬのだが、妙に耳だけは冴えている。
叢の中から虫か何かがぎりぎりと立てる声や、遠くで梟の啼く声がはっきりと聞こえた。
重清がふと気付くと、庭に誰かが立っている。
首を傾げ横目で見ると、黒い人影が立っていた。
はっきりとは判らぬが、女子の佇まいであった。
「お前は誰だ」
重清はそう訊こうとするが、口から出る声は言葉にならず、ただぐるぐると唸り声を発するだけである。
人影は一間の間合いまで近づくと、そこで口を開いた。
「長一郎さま。雪路は恨みますぞえ」
その黒影は、人質として目時館に送った正室であった。
「まさか・・・。雪路がここにおるわけがない。一体どうして・・・」
その言葉が届いたか届かぬか、黒影はじっとその場に立って重清を見下ろしていた。
妻は全身真っ黒な装束を着ており、頭巾を被っている。その頭巾の隙間から、両目だけがぎらぎらと輝いていた。
妻の視線から目を離せずにいるうちに、重清の意識は次第に遠くなって行った。
その頃、有情庵では、桔梗と侍女の二人が囲炉裏端に座っていた。
既に夕食は済ませてある。
「人質」を別棟に住まわせるのは、極力、館の内情を知られぬようにするためである。
そのため、日頃の食事も別々で、食材は館主より提供されるが、煮炊き自体は自分たちで行った。
二人には館側の用人が一人つくが、これは同時に二人の見張り役でもある。
すなわち、二人の世話をしながら、また二人が逃げ出さないように監視するのが、この用人の役目である。
この用人は五十歳台の作男で、侍ではない。
用人は日中、庵の周囲で薪割をしたり、畑の手入れなどをしているが、食事の時は用人小屋に行く。
人質の庵では食事を摂らず、用人小屋で仲間と摂るのだ。
酉の下刻には、館の総ての門が閉じるから、用人はその前に再び庵に戻り、人質の所在を確かめた後で館を退出する。
これが決まりであった。
その用人は名を茂平衛と言う。
その茂平衛が、戌の刻になっても姿を現さない。
この茂平衛は几帳面な性質で、日頃よりきちきちとに仕事をこなしていたから、如何にも奇異な事態であった。
侍女の「みち」がいち早くそのことに気付いた。
「桔梗さま。茂平衛が参りませぬな。もはや閉門の刻限を過ぎてござります」
桔梗もそのことに気付いていた。
「そうですね。いつもなら小半刻は前に必ず顔を出しますのに。何かあったのでしょうか」
普段のこの時刻なら、遠く主館の方から「からから」と戸板の閉まる音が聞こえて来る筈であるが、それも聞こえて来ない。
尋常ならぬ静まり返り方である。
ここで桔梗の頭に閃くものがあった。
「主館の方で何か起きたのかも知れませぬな」
桔梗は生来より勘の働く性質である。
「館で何かが起きた」という予感は、すぐに確信に変じた。
桔梗はすぐに立ち上がり、身支度をした。
「みち。これから館の様子を見に参りましょう。灯りを持って来ておくれ」
みちが厨房に走り、手提灯を取り出そうとするが、桔梗がそれを止めた。
「外は少し風が出ているようですから、やはり松明にしましょう」
竈の近くには、竹を細く割ったものを束ねた棒切れが置いてある。棒の先には、松脂(まつやに)を塗った布が巻きつけられているから、これに火を点せば松明になる。
「外は冷えます。みちはもう一枚、上に綿衣を着ておいで」
みちが奥に戻る間に、桔梗は自らも小袖をもう一枚重ね着した。
主館は有情庵から数丁ほど離れている。
主館に向かうには、左右を藪に挟まれた細道を上り下りする必要がある。
桔梗とみちはその細道を辿り、主館の手前二十間の位置まで近づいた。
すると、建物の方から人の呻き声が聞こえて来た
「ううう」
桔梗は声のする方に小走りで急いだ。
声が聞こえていたのは厨房の外で、そこには女が二人倒れていた。
桔梗はそのうちの一人に顔を寄せて、声を掛けた。
「これ。どうなされたのですか」
女はがたがたと身を震わせ、口から泡を吹いていた。
「茸。茸・・・」
その様子から、すぐに桔梗は館で起きた事態を悟った。
「毒茸を食したのですね。他の人たちはどうなったのですか」
女は答えず、ただ震えるばかりである。
それを見て、桔梗は直ちにみちに命じた。
「みち。この者たちの面倒を見てあげるのですよ。微温湯を飲ませ、極力、胃の中のものを吐き出させるのです。私は中の様子を確かめて来ます」
今は平時であるから、夕刻に釜沢館内に留まっている者はそれほど多くない。
家来衆が三四人と用人が十名に満たない程度であろう。
逆にそうであれば、皆が夕食に同じ物を食した可能性の方が高くなる。
「もしや淡路さまも食されたのではないか」
桔梗は厨房から本殿への連絡廊下を通り、常居に向かった。
常居の中には誰もいなかったが、食膳がそのまま残っていた。中腰になり膳を検めると、まだ食事の中途だった様子である。
「やはり淡路さまも毒茸を食べられたのだ」
食事の途中であるから、重清は寝殿には入っていない筈である。
必ずこの近くに館の主はいる。
桔梗は腰を上げ、周囲を見回した。
「淡路さま。何処におわしますか」
声を掛けても返事はない。
森閑としたままである。
「奥にいないのなら、きっと外だ」
桔梗はそう気付き、縁側廊下のほうに向かった。
廊下に立ってみると、思った通り、庭の方に人の気配があった。
「淡路さま。ご無事ですか」
桔梗は縁側から踏み石を伝って庭に下り、人の気配のする方に歩み寄った。
目を凝らして暗闇の中を見ると、庭に人が倒れていた。
倒れていたのは男で、男は素裸になっていた。
「よほど苦しかったのですね」
おそらくは、度々嘔吐をし、また下痢もしているのだろう。重清は苦痛のため、着物を脱ぎ捨て、下帯さえも取り去ったのだ。
「淡路さま。中に戻りましょう」
桔梗が声を掛けると、ひとまずその声が届いたらしい。重清は顔を少し上げ、桔梗のことを仰ぎ見た。
しかし、重清はすぐさま下を向き、胃の内容物を外に吐き戻した。
桔梗は吐瀉物が喉に詰まらぬように重清の背中をさする。
「存分にお出しなされ。淡路さま。出しておしまいになれば、少しは楽になりまするぞ」
この時、侍女のみちが常居に入って来た。
桔梗は侍女の姿を見付けると、直ちに声を掛けた。
「みち。ここにも微温湯を持って来ておくれ。それが済んだら、淡路さまが羽織るものを何か見繕って来て頂戴」
みちはこっくりと頷くと、踵を返し厨房に戻った。
程なくみちが鉢を捧げて引き返して来た。
桔梗はみちからその鉢を受け取ると、重清の口許に寄せた。
「淡路さま。これを飲んで、また吐き戻して下さい。胃の中の毒を出し切ってしまいましょう」
重清は意識が朦朧としているようだが、漸く半身を起こし、鉢に口をつけて湯を飲んだ。
ほとんど間を置かず、飲んだものを吐き出す。
「さあ、もう一度です」
桔梗は再び鉢を差し出した。
ここでみちが夜着を抱えて戻って来た。
桔梗はそれで重清の肩を覆った。
数度、湯呑みと嘔吐を繰り返すと、重清は次第に落ち着いて来た。
そこで、桔梗とみちが二人で重清の両側を支えて立ち上がらせ、館の中に入らせた。
桔梗は重清を奥の間に連れて行くと、敷物の上に寝かせた。
その上に夜着を重ねて掛け、重清が体を冷やさぬようにした。
「みち。桶を持って来ておくれ。この先、まだ幾度もお戻しになる筈だからね」
「はい」
みちが再び、厨房に向かう。
桔梗はここでこの館に起きた事態を確信した。
「館主が斯様に倒れているというのに、誰も来ぬ。ということは、他の者たちも一様に茸の毒に当たっているということです」
これは由々しい事態だ。
「まずは淡路さまを介抱し、その後で用人共の世話をしなくては」
侍共は夕方には退出するから、館内で夕食を摂るのはごく僅かであろう。
用人のうち、館の中で夜を越すのは七八人。そうなると、都合十人前後が館内で倒れていることになる。
しかも皆が命に関わるような重病人ばかりである。
「これは私が何とかしないと」
桔梗は腰紐を一本外し、背中で襷(たすき)に結んで、着物の袂(たもと)を括った。
桔梗が総ての病人たちの処置を終えた頃には、既に子の刻を過ぎていた。
家来三名は控の間に寝かせ、用人七名については用人部屋に収容してある。
いずれも重症で、これから一両日が山となる。
桔梗が奥の間に入った時には、重清は昏々と眠っていた。
「ひとまず落ち着かれたようですね。でも、まだ安心は出来ませぬな」
毒茸の中毒では、二三日経ってから容態が悪化する例がある。
桔梗は重清の隣に控えて、この夜を越すことにした。
翌朝、卯の刻に桔梗は目覚め、病人たちのために薄粥を作った。
中毒患者は吐瀉したり、下痢をするので、体から水分が抜ける。これを補うため、水を充分に摂取する必要があったのだ。
桔梗はこの椀を捧げ持ち、重清の床に向かった。
「薄粥をお持ちしました」
そう言って、桔梗が重清を起こすと、重清はゆっくりと目を開いた。
「桔梗殿か。用人共はどうしたのだ」
「毒茸に当たり、皆寝込んでおりまする」
この時、重清の視線は依然としてあらぬ方に向いていた。
「うう。天井が回る。気分が悪い」
いまだ重清の体の中では毒が回っているのだ。
「淡路さま。今はゆっくりとお休みなされ。まずは少しだけでも粥を口に」
桔梗が匙を重清の口許に運ぶと、重清は素直に口を開く。
だが、数口だけ粥を飲むと、重清は再び眠りに落ちた。
程なく館に家来や用人共が出仕して来た。
桔梗は病人たちの世話をその者たちに委ねたが、館主の重清だけはそのまま桔梗が世話をすることにした。
重清は幾度と無く吐瀉や下痢を繰り返しているから、体や夜着が汚れている。
そこで暖かい昼のうちに、夜着を取り替え、体を清拭(せいしき)する必要があった。
桔梗は熱めの湯を沸かし、これを盥(たらい)に入れて、重清の床に運んだ。
桔梗の祖父母が病床にあった時に、身内が交替で病人の世話をしたので、桔梗は清拭には慣れていた。
桔梗は部屋を充分に暖めた上で、まずは手拭で重清の顔を拭いた。これが終わると、次が手足、その次が胴体である。
手慣れているだけに、桔梗はほとんど意識することなく作業を進められる。
桔梗が何気なく重清の夜着を開くと、そこには男盛りの筋骨逞しい胸があった。
ここで桔梗は思わず手を止めた。
「力強い肉(しし)だこと」
布巾を隔てているが、重清の筋肉の硬さは桔梗の掌に如実に伝わった。
桔梗の夫・目時筑前は高齢で、しかも病弱である。夫とはいえ、褥を共にしたことは幾らもない。
「筑前さまの老いさらばえた、がりがりの体と比べれば、淡路さまは鋼(はがね)のようだ」
広い胸を拭き、腹筋の割れた腹を済ませて、背中に移る。
重清は体の総ての筋肉がかちかちだった。
思わず溜息が出る。
そして、夜着の下半身をはだけ、下腹部を拭こうとしたところで、桔梗は愕然とした。
「何とまあ、ご立派な」
重清の陽物は、その筋骨逞しい体にふさわしい猛々しさを供えていた。
桔梗の息が止まる。
桔梗が手を止めて、じっとそのものを眺めていると、重清が「うう」と微かに呻いた。
清拭の刺激によって、重清は目を覚まそうとしているのだ。
ここで桔梗は固く目を瞑り、重清の下腹部を見ぬようにしながら、丁寧に重清の局所を拭いた。
清拭が終わると、重清はさっぱりしたのか、再び深い眠りに落ちて行った。
桔梗が盥を持って、奥の間を出ると、そこに侍女のみちがいた。
みちは桔梗の顔をを見るなり、咄嗟に口を開いた。
「桔梗さま。お顔が赤うござりますよ。風邪でも召されたのではござりませぬか」
桔梗は慌てて首を横に振る。
「いえ。大丈夫ですよ。忙しく働いているからでしょう」
桔梗が上気した理由は明らかだった。
桔梗の掌には、重清の体の感触がいまだ鮮烈に残っていた。
毒茸を食してから三日目が来ると、重清は漸く体を起こすことが出来るようになった。
幸いなことに、あの茸中毒では、館内から一人の死人も出なかった。
当日の処置が適切だったからである。
この時、桔梗らは有情庵に戻っていたが、夕刻前に重清によって呼び戻された。
桔梗が常居に入ると、重清は部屋の中央に座り、桔梗を手招きで迎え入れた。
「この度はたいそう桔梗殿の世話になった。桔梗殿がかいがいしく病人を介抱してくれた故、我が家来・用人から一人の死者も出さずに済んだ。これはひとえに桔梗殿のお陰でござろう」
「いえ。今は同じ館の中にいるのですから、当然のことです」
これに重清が首を力強く横に振る。
「いや。迅速に手当てを行わねば、茸の毒が体に回ってしまっていた。もしそうなると、一命を取り止めるのは難しくなる。我らが生き残れたのは桔梗殿のお陰でござる。そこで・・・」
「はい?」
「桔梗殿にはこの主館に移って頂こうと思うておる」
重清の申し出は意外なものだった。
人質はあくまで敵方の者である。
このため、通常、館の者が同じ棟の中で人質と寝食を共にすることはない。
「有情庵は手狭なことに加え、冬を越すには寒すぎる。ここには客間が二つござるから、そのうちの一つを使って下され。桐の間ではどうだろうか。そこなら北風が吹き込むこともござらん」
重清の言葉の意味は、この後は桔梗を人質ではなく客人として扱うという申し出であった。
実際、重清には他意はなさそうで、心よりの礼のつもりなのだろう。
それなら桔梗がこれを断る理由は無かった。
「畏まりました」
「侍女は館内の用人部屋で寝起きさせると良かろう。桔梗殿はそれで良いな」
「はい」
このとき、桔梗は胸の内で少しどきりとした。
今、重清の正室は目時館にいるし、側室二人は別館で暮らしている。
すなわち、夜になれば、この主館には重清と桔梗、それと下士・侍女数人だけしかいないことになってしまうからだ。
用人たちはこの館の裏手の方にいるから、主館の中心部には重清と桔梗二人だけになる。
ここで桔梗の掌に、あの時の重清の体の感触が蘇って来た。
重清の腕や胸の逞しい筋肉。そして・・・。
(いけない。こんなことに思いを巡らせてはならないわ。)
桔梗は急いで板間に手を付き、額が床に届きそうになるほど深く抵頭した。
それから十日が過ぎ、日一日と秋が深まって来た。紅葉は終盤に達し、山ではばらばらと木の葉が舞っている。
館の屋根には、どこからか飛んで来た落ち葉が積み重なり、かさこそと音を立てていた。
重清が常居で書き物をしていると、庭の方で物音が響いた。
落ち葉が擦れる音とは違い、はっきりとした擦過音である。
「獣でも入り込んだか」
重清は席を立ち、縁側まで見に行った。
あの音の感じでは、狸か狐が藪の中に潜んでいるかも知れぬと考えたのである。
時刻はちょうど午の刻である。
重清は縁側廊下に立ち、庭を眺めた。
庭の向こう側には辺り一面、笹薮が生えていた。
すると、その笹薮の中に誰か人が立っているのが見える。
笹薮の中であるから、それが誰かは判然とせぬが、重清はその相手がじっと重清のことを凝視しているのを悟った。
「おい。誰かそこにいるのか」
重清が声を掛けても、その人物はじっとしたままであった。
「この館の用人ではないのだな。侵入者なのか」
重清は即座に常居に赴き、大刀を携えて庭に降り立った。
「事と次第によっては捨て置かぬぞ。そこから出て来い」
ゆっくりと笹薮に向かう。
相手は笹薮の向こうにいるため、重清からは人の頭があることしか判らない。
「素直に出て来ぬと、こちらからそこに赴き貴様を斬る」
重清は大刀を引き抜くと、何時でも振り下ろせるように上段に構えた。
すると、笹薮を掻き分けて、その相手がゆっくりと前に出て来た。
「やや。お前は・・・」
重清の前に立ったその者は、黒い外套を頭から被っていた。
全身黒尽くめの姿で、外套の隙間から、ふたつの眼(まなこ)だけが覗いている。
重清が見紛(まご)う筈も無い。
それは、紛れもなく重清の正室の雪路であった。
その影のような黒い塊は、重清に手が届きそうになる程の距離まで近付くと、徐に口を開いた。
「長一郎殿。恨みますぞえ」
両目がぎらぎらと光っているのが見える。
「雪路。お前は何故ここにおるのだ」
重清が声を掛けると、一瞬にして妻の姿は消滅した。
周囲は笹薮だから、音を立てずにこの場を去ることは出来ない。
先ほどは確かにそこに立っていたのに、それは忽然と姿を消していた。
「今のは一体何なのだ」
しかし、あれは夢でも幻でもない。
重清にはあれが実際にそこに居たという確信がある。
釈然とせぬ気持ちを抱え、重清は館の方に踵を返した。
ちょうどその頃、釜沢館の入り口に杜鵑女の一行が到着した。杜鵑女は巳之助と侍女一人を従え、山篭りの修行に行っていたが、この日、釜沢に戻って来たのである。
搦手門を潜り、館の中に足を踏み入れたところで、杜鵑女はこの場に従前とは異なる気配が生じていることに気が付いた。
「何やら気が乱れておるな」
杜鵑女は一旦そこで足を止め、館内の気配を確かめようとした。
だが、杜鵑女はその異変の正体をはっきりとは掴めなかった。
「杜鵑女さま。中に入りましょう」
山篭りは凡そひと月に及んだから、巳之助の方は中で休みたくて仕方が無い。
そこで巳之助は性急に杜鵑女を促そうとするのだ。
そこで杜鵑女はひとまず南館の自室に入ることにした。
巳之助は真っ先に主館に入り、重清に帰館を報せた。
重清は常居の囲炉裏端に座り、火掻き棒で炭を掻き立てていた。
「お屋形さま。ただ今戻りました」
その言葉を聞き、重清は巳之助に顔を向けずに答える。
「足労であった。では杜鵑も戻ったわけだな」
「はい」
「それではこれから杜鵑に会いに行こう」
「では、私が杜鵑女さまをここまで呼んで参りますが・・・」
これには重清が首を振る。
「いや。俺が参った方が早い。俺は杜鵑にちと尋ねたいことがあるのだ。ぬしは家に下がってゆっくりと休むが良い。修行の供でさぞ疲れただろうからな」
「はい。有難うござります」
ここで重清は腰を上げ、早速、南館に足を向けることにした。
重清が南館に赴くと、杜鵑女はまだ旅姿のままだった。
「杜鵑。着いて早々だが、ぬしに尋ねたいことがある」
「はい。ではそちらにお座り下さい」
杜鵑女は重清を祈祷台の前方に座らせ、自らは台の後ろに正座して座った。
重清はすぐさま己に起きていることを語り始める。
「杜鵑。ぬしがおらぬ間に、この館では様々なことが起きた。毒茸を食し、皆が苦しんだりもしたが、そんなことはどうでも良い。俺が聞きたいのは奥のことだ」
「奥方さまのことでござりますか?」
「そうだ。俺の前に雪路が現れたのだ。最初は毒茸に当たって苦しんでいた時のことだ」
「奥方さまは目時館におられるのではありませぬか」
「その筈だ。この館内におろう筈がない。だが現れたのだ。茸の毒で幻覚を見たのかと思うたのだが、それは違う。何故なら、つい半刻前にも庭で雪路に会った」
この話を聞いて、杜鵑女はゆっくりと両目を瞑った。
「奥方さまは嫉妬深い方でおられましたか」
「うむ。まあそうだ。奥は側室二人を主館に置くことを許さず、南館に離させた。それと・・・」
この妻は側室たちの流産に関わっていたようなふしもある。だが、それはあくまで重清の目の前にいる杜鵑女の見立てであった。
ふた呼吸の後、杜鵑女が口を開いた。
「判りました」
「あれは一体どういうことなのだ」
「お屋形さまの前に現れたのは、奥方さまの生霊にござりましょう。きっかけは茸毒による幻覚でしょうが、それより前に奥方さまより生霊が放たれていたのです」
「生霊とな。話には聞くが、それは如何なるものなのだ」
杜鵑女が小さく頷き返す。
「生霊は生きた霊と書きますが、霊体ではなく情念から生じるものです。すなわち魂(こん)の類となります」
「生ける者が発する念だと申すのか」
「はい。元々はそれです。ですが、ひと度生じてしまうと、当人からは分離し、当人の意図や心持とは関わりなく勝手に動き回るのです」
「雪路の邪心から生まれたものなのか」
その問いに杜鵑女は答えず、錫(しゃく)を取り出すと、それを重清の体に近づけ「チリン」と鳴らした。
どうやら杜鵑女の見込んだ反応は出なかった。そんな素振りが覗える。
杜鵑女は重清に最終的な診断を伝える。
「やはり悪霊や物の怪の類ではござりませぬな。悪霊は相手の身近な者の姿かたちに化けて悪心を吹き込むことがござりますが、それとは違います。奥方さまがお屋形さまを愛する心が執着心となり、異様な嫉妬心を生じさせた。それがこの度、人質として目時に差し出されることとなり、恨みの念に変じたのでござりましょう」
重清には幾つか思い当たることがあった。
妻は当初より嫉妬深く、事あるごとに重清のことを疑った。
領内の見回りに出たときでさえ、「他の女子と密会してきたのではないか」と重清を詰(なじ)った。
この妻は独占心が異様に強いのだ。
重清の官職名が「淡路」で、皆が「淡路殿」「淡路殿」と呼ぶのを聞くと、妻は己の名を「雪枝」から「雪路」と変えもした。
そういったことも、妻の執着心の表れであろう。
「生霊は死霊悪霊とどのように違うのだ。ぬしの力でうち祓うことは出来ぬのか」
これに杜鵑女はゆっくりと首を横に振った。
「死霊ならば祓うことが出来まする。ですが生霊を止めることは不可能です。生霊は生ける者の情念から生まれますので、当人が心を改めぬ限り、幾度でも沸いて出るのです」
重清が溜息を吐く。
これから先もあの黒い人影に付きまとわれては堪らぬ。重清はそう思ったのだ。
「ですが、少し遠ざけることは可能です。まずは神棚に小刀を捧げ、充分に祈祷を行ってご神刀に換えます。その小刀で生霊を袈裟懸けに切れば、生霊は消えます。もちろん、それはあくまでその場凌ぎで、生霊は再び姿を現すことでしょう」
「根絶は出来ぬのだな」
「はい。奥方さまが生きておられる限り、現れます」
再び重清が深く溜息を吐く。
「奥が生きておる限り、とな」
「一度生霊を生み出してしまわれたのなら、この先奥方さまが存命の限り、それは続きまする。奥方さまがお亡くなりになられた時には、生霊は消えますが、今度は死霊となられる場合もござります。まあ、死霊を祓うのはそれほど難しくはござりませぬ。あ、これは失礼しました。奥方さまがお亡くなりになられたら、などと不吉なことを申しましたが、他意はござりませぬ、生霊なるものについてご説明しようとしただけですので、ご無礼はお許し下さい」
重清の方は、あの禍々しい姿を直に見ているので、今はそれほど気にはならない。
亡霊のような顔で「恨みます」と繰り返し言われたら、さすがに妻を思う気持ちも萎えて来る。
雪路は病気がちで、胸骨が浮き出るほど痩せ細っている。頬がこけ、顎も尖っている。今やまるで幽鬼のような佇まいである。
そんな女が、側室を流産させ、さらに生霊まで放ったとなれば、重清の心は、いっそう妻から離れて行く。
「雪路が執着心を捨てるか死なぬ限り、あれは消え去らぬのか。実に厄介な話だ。仕方ない。とりあえず、ぬしの申す通り、ご神刀を用意し、身に付けることと致そう。あとは、あ奴が現れる度に、その都度ぬしに見て貰う。それで良いか」
「はい。宜しゅうござります」
話が済むと、重清はすぐさま腰を上げ、南館を出て行った。
重清が去った後、杜鵑女は旅装を解き、日頃の巫女衣に着替えた。
旅の直後でもあり、生霊の話に気を取られていたが、ここで漸く頭が切り替わった。
「この館に足を踏み入れた時、私は異様な気の乱れを感じ取った。あれは、淡路さまの前に現れたという生霊のせいだったのか。それとも何か別の・・・」
杜鵑女は両目を瞑り、小首を傾げて、周囲の気配を掴もうと試みる。
しかし、そこで杜鵑女は己を納得させるように首を横に振った。
「いや止めて置こう。細かいことまでいちいち気を遣い出したら、とてもこの身が持たぬ。今は戦のことに専念すべきだ」
姫神山での修行中に、杜鵑女が予見したものは、来るべき騒乱の兆しであった。
「この地では程のう合戦が起きる。それもこの北奥のみならず奥州全域が戦場となるような大きな戦いだ。私は淡路殿にその戦乱を生き延び、勝ち残って貰わねばならぬ。柊女さま。これは私と貴女さまの戦いでもござりますぞ」
杜鵑女は師の柊女により破門され、追放された身である。
今の杜鵑女は奥州一の巫女・柊女に対する対抗心や敵愾心を己の胸に抱えている。
もちろん、それは一門から放り出されたことへの「恨み」などではない。
この日の夜のこと。桔梗は桐の間で寝ていたが、小さな物音を聞き付け目を覚ました。
それは、ごく小さな「みし」という廊下の軋み音であった。
「もしや」
桔梗は思わずその身を固くした。
部屋の外に重清が立ち、今まさに中に入って来ようとしている。
音が聞こえた刹那、桔梗は瞬時にそのことを想像した。
きっとその音だ。
桔梗は息を止め、暫し成り行きを見守った。
しかし、幾ら待っても、板戸は開かない。
結局、小半刻が経ったが、部屋には誰も入って来なかった。
床板が軋む音も、それきり聞こえては来ない。
桔梗はここで真実に行き当たった。
「この部屋の外には誰もいない。このところめっきり冷えて来たから、木が乾燥して軋(きし)むのだわ」
そのことに気付き、桔梗は安堵すると共に、もう一つのことに気が付いた。
「何ということでしょう。私はあの方がこの部屋に入って来るのを待ち望んでいるのだわ」
ひと度己の気持ちを受け入れてしまえば、もはやそれを留めることは難しくなる。
桔梗の掌に重清の腕の固さ、胸や腹の逞しさが蘇る。そして・・・。
桔梗は両の太股で夜着を挟み、ぎゅっと締め付けた。
重清の顔を思い浮かべるだけで、桔梗の心は千々に乱れる。
夫・目時筑前とは夜の営みがほとんどなく、一年のうちに僅か数度だけである。
しかも筑前は病気がちであるから、睦みの行為もおざなりだった。
「ああ。私はこのまま皺々に老いさらばえて行くのだろうか」
とても耐えられない。
女盛りを迎え、桔梗はどうにも堪え切れなくなっていた。
桔梗の想像の中、重清はその逞しい腕で桔梗を褥(しとね)に誘(いざな)う。
重清は桔梗の着物の襟を掴むと、力強く左右に押し開くのだ。
そんな想像をしながら、桔梗は己の胸元に右手を差し入れた。
すると、桔梗の乳房はこれまでに無いほど硬く、乳首が鋭く尖っていた。
「はああ」
重清が己のことを組み敷き、深く貫くさまを思い描き、桔梗は激しく欲情した。(この章終わり)