北奥三国物語 

公式ホームページ <『九戸戦始末記 北斗英雄伝』改め>

早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



北奥三国物語 鬼灯の城  

第6章 陰謀

陰謀
 天正十九年の年が明けた。
 一月二日になり、重清は主館大広間で、年賀式を開いた。
小笠原一族の主たる者三十余名が一同に会していたが、これは丁度一年ぶりである。
 重清は場内を見回すと、開口一番に宣言した。
 「明日三日は宮野、八日は三戸で年賀式が開かれる。俺はその双方に出る」
 重清の右隣には小笠原十蔵が座っている。
 十蔵は川中の戦いの戦功により、一族での序列が三番目に上がっていた。
 「お屋形さま。両方の式にお屋形さまご自身がお出になるということですか」
 「うむ。俺と叔父殿で出る」
 「お屋形さま。今やお屋形さまを殺(あや)めたいと思う者は、九戸三戸の双方におります。道中お命が狙われるやも知れませぬぞ」 
 そんな十蔵の懸念を、重清が笑って受け流した。
 「十蔵。俺の身を案じてくれるのは有難いが、此度は無用だろう。今は年賀式に参ろうという話だ。もし誰かがそこに向かう者を襲えば、式の主催者の顔を潰すことになる。すなわち、一人を狙うことは、その式の参列者全員を敵に回すことと同じだ。そういう関わりが生じるから、晴(はれ)の日に凶事を企てることを、人はなるべく避けるものなのだ」
 「果たしてそうでござりましょうか。お言葉ですが、それがしはそうは思いませぬ。今はどこもかしこも不作に苦しんでおりまする。人はいざ腹が減れば、道理など顧みなくなるものでござる。川中の合戦以後、もはや我が方に米穀の備蓄があることが知れ渡っております。これはまさに飢えた犬の前に肉が投じられるのと同じでござる。、犬は後先顧みず食い付くことは必定。他の者のことなど一顧だにしませぬ」
 川中の戦いの後、重清は百姓たちを受け入れ、食料を与えた。そのことは、瞬く間に北奥全域に知れ渡っていた。
 「今はお屋形さまに遺恨を持つ者もござりまする。さらに加えて、そういう者がお屋形さまを倒してくれれば、己にとって好都合だと考える者もおるのです」
 敢えて名は挙げぬが、十蔵の言わんとする相手は、前段が四戸、後段が目時である。
 うち目時は小領ながら、三戸の家士である。宿敵ながら、そうそう簡単に事を構える訳には行かない。だから、十蔵も敢えて名を出さなかったのだ。
 十蔵の主張ももっともである。
 「では、護衛を幾人か連れて行こう。だが年賀式に参ろうと申すのに、武装した兵士を連れて行くわけには行かぬ。ものものしくならぬ程度にするのだぞ」
 「畏まりました。ではそれがしともう一名が従います。他の者は道中半ばまでの送り迎えに留めます」

 この日は昼過ぎから雪が降り始めたのだが、この降雪は夜通しで続いた。翌三日の朝には、視界の総てが雪で覆われた。
 このため、重清は農耕用の力馬を引き出させ、後ろに橇を付けた。
雪は膝丈を越える深さで、これを掻き分けて進まねばならない。そうなると、馬が足を取られた拍子に乗り手が馬から落ちる危険性がある。
 そうなると、馬に跨るより、馬に橇を引かせる方が安全なのである。
 平時であれば、馬の足なら一時(とき)も掛からずに宮野に着く筈だが、しかしこの雪だ。
 「これではふた時から三(み)時掛かるかも知れぬな」
 重清一行は空を見上げ、揃って溜め息を吐いた。

 同じように空を見上げている者たちが、重清の他にもいた。
 四戸と釜沢の北の領堺では、馬渕川の際(きわ)に山裾が迫っている。その山際にある大岩の後ろに、十三人の侍が潜んでいた。
 「この雪で、果たして淡路めが参るであろうか。我らとて、ここまで来るのに雪を掻き分け掻き分け、やっと辿り着いた程だ」
 「焚き火を焚いて暖を取る訳にもいかんだろう。何せ、我らは刺客なのだからな」
 「これ。言葉に出すな。誰かに聞かれでもしたら困る」
 「おい。こんな雪の中で、誰が聞き耳を立てると申すのだ。隠れる場所など無いではないか」
 侍たちは少しでも暖を取るために、身を寄せ合うように一箇所に集まった。

 この頃、二戸宮野城では、九戸政実が空を見上げていた。
 「この雪では、昼までにここに着けぬ者もあろう。半数は登城を諦めるであろうな」
 遠隔地の侍たちは、既に前日から城下に入り、町屋に宿を取っている。
 これらの者は朝から続々と入城していた。
 しかし、近在の侍たちは話が別だ。
 平常であれば、宮野城に近い地侍は、当日の朝早く出発すれば、昼には登城出来る筈であった。
 しかし、唐突な降雪により、そんな侍たちの方が逆に登城が難しくなっていた。
 「果たしてこの雪で、釜沢淡州が参るであろうか」
 昨夜まで政実は「釜沢淡州は必ず来る」と考えていた。
 また、同時にそれは、政実が強く望んでいることでもあった。
 (あの小笠原淡路は、理詰めで物を考える気性の男だ。わしが今の時局を乗り切ったら、必ずやあの男が必要になる。)
 今の政実には、一戸実富という有能な執事がいるが、それに加えて重清が己を補佐してくれれば申し分ない。
 山を開墾し、田畑を作る。小笠原一族はひと一倍その技に長けている。
 「わしの許に参れ。釜沢淡州」
 九戸と三戸との軋轢は、今や最高潮に達しようとしている。こういう時期に、年賀式に馳せ参じることは、己が九戸寄りであることを世に示す振る舞いである。
 いずれ程なく九戸と三戸は雌雄を決することになろうが、その後を見据えた時、政実にとっての重清は、己の傍に欠かせぬ存在のように思える。
 この時、政実の頭に、不意に四戸宗春の顔が浮かんで来た。
 四戸宗春は油断のならない男で、己の得になると考えれば、どうにでも転ぶ。
 宗春は己の策略が裏目に出て、重清の手で一族の者の首を落とされただけでなく、重要な領地を奪われる羽目になった。
 今の宗春の腹の内は憤懣で一杯に違いない。
 さらに元々、宗春は後先考えぬ類の男でもある。
 「あやつ。まさか登城途上の釜沢淡州を襲ったりせぬだろうな」
ひと度そう考えると、如何にも四戸宗春が事を起こしそうな気分になって来る。

 そこで政実は重清に迎えを出すことにした。
 「おい。誰か工藤右馬之助を呼んで参れ」
 工藤右馬之助ならば、前の月に重清に会ったばかりである。けして重清を見誤る事は無いだろう。
 間を置かず右馬之助が常居の敷居を跨いで、中に入って来た。
 右馬之助は座礼をしようとしたが、政実が右手を少し上げてそれを留めた。
 「右馬之助。北に行き、様子を見て来てくれ。釜沢淡州が無事にこの城に着けるようにな。良からぬことを考える者が、間者、刺客を貼り付けておるやも知れぬ。もしおれば・・・」
 「蹴散らせ。そういうことでござりますな」
 「うむ。この雪だから淡州は来られぬかもしれんが、ひとまず念のためだ。いずれにせよ、この日に事を構えようと思う者は、手厳しく躾ける必要があろう」
 「畏まりました。では鉄砲隊十二名を率いて参りまする」
 「雪で馬が足を取られよう。橇で行く方が良かろう」
 「はい」
 右馬之助はすぐさま踵を返し、常居から出て行った。

 右馬之助は九戸鉄砲隊の軍監である。
 日一日と緊張を増す昨今の世情を鑑みて、右馬之助は武者溜に配下の隊員を控えさせていた。これらは各地から集められた総勢三十余名の若武者たちから成る。
 武者溜に着くと、右馬之助は直ちに板戸を引き開け、兵たちに命じた。
 「砲手六名、控え六名。この俺に尾(つ)いて来い。直ちに出陣する。仔細は途中で説明する故、装備を整えよ。二頭引きの橇二台に各々六名ずつが分乗する。俺は前の橇に乗る」
 鉄砲を撃つ者が六名で、その後ろに付き、弾込などの補佐をする者が六名の構成である。
 日頃より、いざという時の出撃順も定められているから、この日当番に当たっている隊員たちが即座に立ち上がった。
 「よし。まずは武器庫だ」
 皆がきびきびと行動し、出撃体勢を整え始めた。

 鉄砲隊が出発したのは、それから半刻(こく)の後である。
 宮野城から四戸までは平地が多く、難所らしい難所はないから、馬橇はひと時も要さぬ内に、郷境に到達した。
 雪で真っ白な平野の先に、山裾が迫っていたが、その先端に大岩が見える。
 そして、その岩の陰に十数人が隠れているのが確認出来た。周囲が雪で覆われ、白く変じていたから、黒っぽい外套を着た侍たちの姿は容易く確認できる。
 おまけに、あまりの寒さに耐えかねたのか、その者たちは岩の後ろで焚火をしていた。
 枯れ木が殆ど無かったのか、生木を燃やしたので煙が立ち、後ろに人が居るのが丸分かりであった。
 そこは陸奥(陸羽)道から、わずか一丁の距離である。

 ここで右馬之助は背後の隊員に指示を出した。
 「皆身を屈め、荷台の底に伏せよ。ぎりぎりまで姿を隠しておるのだぞ」
 右馬之助の馬橇は、いざ道を外れると、一直線に大岩の所まで進んだ。
 すぐに大岩の前に着く。
 何処かに身を隠そうにも、周囲は城一色で、隠れる場所が無い。侍たちはそのままその場に佇んで、馬橇が近寄るのを眺めていた。
 馬橇が止まり、先に右馬之助の方が侍たちに声を掛けた。
 「それがしは工藤右馬之助と申す。つかぬことを尋ねるが、貴殿らはここで何をしているのだ?」
 すると、侍の一人が進み出た。この者が差配の者である。
 「我らは、鹿狩りを試みているところでござる」
しかし、侍は名を名乗ろうとはしない。
 「この雪中で鹿を狩るのか。しかもその装束。一見すると猟師の風体だが、しかし侍であることは一目瞭然だ」
 男たちは一様に山人(やまびと)が着るような獣の皮の外套を羽織っていたが、腰の刀は山刀ではなく武士の持ち物であった。
 「左様。貴殿の言われる通り、我らは侍だ。周りは真っ白だから、獲物を見つけ易い上に、鹿の方も雪に足を取られて動きが遅くなる。こういう日は獲物を狙い易くなるのでな。装束の方は寒さから身を守るためであって、他意はない」
 その返答を聞き、右馬之助は大仰な身振りで頷いた。
 「そうか。それなら良かった。それがしは、新年早々騒ぎを起こす者がおると聞いて、見回りに参ったところだ。それが貴殿らでなくて幸いだな。今日は年賀式の日だと申すのに、鉄砲でドンパチやりたくはないからなあ」
 右馬之助が後ろを振り返ると、それに呼応するように、馬車の荷台で鉄砲隊員が体を起こした。
 前の隊員はいずれも火縄に火を灯したばかりの鉄砲を構えていた。
 侍たちが眼を大きく見開いた。
 「こ、これは・・・」
 ここで右馬之助は大欠伸(あくび)をひとつし、面倒臭げな態度で刺客たちに告げる。
 「こんな雪の中をあちこち見回りをさせられるのは堪らんでな。貴殿らも今日は鹿狩を諦めてくれぬか。さすれば我らも早々に城に戻る事が出来る。どちらのご家中の方かは知らぬが、そこはお互い様だろう。そうは思わぬか」
 刺客の差配は眉間に皺を寄せて、これを聞いていたが、勝ち目はないと悟ったらしい。すぐに素面に戻った。
 「承知した。まあ、こんな天気だから、猟は期待薄だろう。この辺で引き上げることにしよう」
 「こんな雪の中をどうやって参ったのだ。我らの橇でお送り致そうか」
 「いや結構だ。我らも山陰に馬橇を置いている。それで帰る」
 「そうか。それなら気を付けて帰ってくれ」
 侍たちが焚き火を消し、そそくさとその場を去る。
 右馬之助らは暫くその場に留まり、侍の橇が充分に遠ざかるまで監視した。

 橇が遠ざかると、隊員の一人が右馬之助に声を掛けて来た。
 「工藤さま。あやつらはこのまま大人しく帰るものでしょうか」
 右馬之助は両眼を細めて、北の方角を望んだ。
 「この先は四戸領で、さらに僅か数里で目時領だ。その目時は三戸の家士だから、目時領至近で事を起こせば、我らは迂闊に手を出せぬ。目時が黙って眺めてはおらんだろうからな。その辺りまでは、元は四戸領だったが、今は釜沢の持ち物だ。ならば、ここから先は我々ではなく、釜沢淡州自身の持分(もちぶん)だろう」
 右馬之助の隊は橇を逆方向に向け直し、宮野城に向かって出発した。

 雪が深々と降り積もる中、重清は漸く馬渕川の渡しを越えると、南を目指した。
 川面に雪が浮いていたため、思うように渡しが進まなかったのだ。
 すぐ東は目時領であるが、陸奥道を進む限りにおいては、何ら問題は無い。
 この雪であるし、目時の物見も遠くまでは見回りに出てこられぬ筈である。
 また、目時と釜沢とは人質を交わした間柄であるから、その場の思い付きで騒動を起こすことも無い。
 「目時がいずれ俺を倒しに出て来るとしても、それは今日のことではない」
 重清にはその確信がある。

 しかし、この日の敵は目時ではなかった。
 工藤右馬之助により追われた四戸の刺客たちが、一旦帰城すると見せかけて置き、また戻っていたのだ。
 四戸の刺客は、釜沢と四戸の境にある村の百姓家に押し入り、重清らが登城するのを待ち構えていた。
 この村は、戸数十軒ほどの小さな村であったが、北と南にはそれぞれ数軒の旅籠を供えていた。この地は北や西に向かう分岐点だったわけである。
 刺客の差配は小保内惣次郎という名で、四戸宗春の下士の中で重い地位に就いている一人である。
 小保内らは村外れの百姓家を訪れると、その家の主人を脅し、道に面した納屋に身を潜ませた。
 家の前を重清一行が通り掛かったら、すかさずそれを囲んで切り掛かろうという算段である。
 隣家は小さい旅籠だが、正月三日でもあり、旅人は僅かである。
さらにこの雪だ。往来は森閑としており、人の気配はない。
 「淡州めは恐らくごく数人の供だけを連れていることだろう。必ずや首級を獲り、主の許にお届けしよう。皆、分かったな」
 「はい」「はい」
 「お屋形さまの指示で釜沢淡州を襲ったことが知れると不味い。ここは盗人のふりをしよう」
 「盗人が侍を襲うのですか」
 「盛んに侍や商人を襲っている輩がおるだろう。ほれ」
 「毘沙門党ですな」
 「そう、その毘沙門党だ。良いか。これから我等は毘沙門党だぞ」
 「畏まりました」
 「盗人は弓矢を用いたりせぬ。だから、此度の得物は槍と刀だ。それで襲うのだ」
 「はい」
 刺客十三人は格子窓に取り付いて、道の様子を覗き見ている。

 巳の下刻になり、重清は漸く野々上の外れに差し掛かった。この地を越えるとそこからは四戸領に入る。
 雪は腰の高さに達しており、如何に馬橇といえども、普段の半分も進めない。
 陸奥道に戻ると、幾らかましになって来て、雪の深さも膝丈程になった。
 村に差し掛かると、村人が雪を払っていたのか、道の上が幾らか通りやすくなっていた。
 重清の橇が最初の百姓家に近付く。
すると、ばらばらと男たちが走り出て来た。
 「釜沢淡州だな」
 男らは一見して猟師の風体をしていたが、しかしそうではないことが歴然である。
 重清は馬橇の荷台から、ゆっくりと雪道に降り立った。
 「大体、ぬしらがどのような素性の者かはひと目で分かる。まあ、猟師ではなかろうな。だが、ひとまずぬしらに問おう。ぬしらは何者で、俺に何の用があるのだ」
 男たちは橇二台を遠巻きに囲んだ。
 その中から頭領と思しき男が進み出て、重清ではなく人家の方に向かって叫んだ。
 頭は小保内惣次郎である。
 「我等は毘沙門党だ。お前たちの持ち物を貰おう。それから馬と橇も貰う」
 惣次郎が長い刀を引き抜く。
 重清が盗人の頭に対峙する。
 「欲しいのはそれだけではあるまい。俺の首を持ち帰りたいのだろう」
 重清の言葉を受け、後ろの橇から小笠原十蔵が走り出る。
 「お屋形さま。それがしの後ろに」
 十蔵は重清の前に立ち、両腕を左右に拡げ大小の刀を大きく横に構えた。
 重清の手勢は、己自身と十蔵、およびもう一人の随身である。他に叔父の吉兵衛と御者がいるが、これは戦力とはならない。
 事実上、三人が主力であった。
 それに対し、毘沙門党を自称する相手は十三人で、少し分が悪かった。

 「十蔵。俺のことはよいから、叔父殿の身を守れ。どうやら、こやつらは、俺の武術の腕を知らんらしい」
 重清は小笠原十蔵を押しのけるように前に出ると、腰の刀を抜いた。
 重清の刀は、三尺に届かんとする備前刀である。
 この刀を青眼に構え、重清は小保内惣次郎にじりじりと詰め寄った。
 「毘沙門党とやら。ぬしらは悪徳商人や非道を行う侍を襲う者たちだと聞く。それなのに何故に我らを襲わんとするのだ。釜沢の者は誰に謗られる謂れを持たぬ。金品も携えてはおらぬ。となると、ぬしらが毘沙門党だというのは疑わしい。狙いはただ一つ、俺の首だ。それしかない。金次郎殿の指示か。いやそうではあるまい。もしあの戦場におれば、暫くの間は、到底その気にならんだろう。となると、中務殿の差し金だな」
 これが図星だったらしい。頭領の顔色が見る見るうちに赤くなった。
 「しち臭い。者共。こやつを討ち取れ」
 すかさず小保内惣次郎の右脇から、一人の手下が切り込んで来る。
 重清はこれを難なく凌ぎ、さらに刺客の頭にじり寄る。
 「今日は年賀式の日だ。その日にことを起こせば、いかなる結果を招くか。ぬしらも重々承知しておろう。それでも、まだ続けるか」
 ここで別の手下が飛び込んで来た。
 「シャア」
 重清はこれを交わし、間髪入れず相手の肩口に突きを入れた。
 サクッという軽い音が響き、男の肩から血が噴出す。
 「こやつはもう戦えぬ。残りはあと十二人だぞ」
 その言葉を合図に、周囲で決闘が始まった。
 重清の前には四人。十蔵ともう一人の随身には三人ずつ。吉兵衛と御者には二人が取り付いている。

 この時、往来での戦闘の音を聞きつけたのか、周囲の家々の戸が開いた。
 何が起きているのかを確かめるために、村人たちがほんの少し戸を開き覗き見ているのだ。
 最初の家のすぐ隣は旅籠だったが、この二階の窓も次々に開いた。
 誰も泊まってはいないような風情だったが、その実、客が部屋を取っていたらしい。
 窓の隙間からは、幾つかの視線がじっと決闘を見詰めていた。
 
 決闘は長く続いたが、次第に重清の側が劣勢になってきた。人数が少ないうえに、二人はほとんど戦力にならないからである。
 重清の随身一人が斃され、また吉兵衛を守ろうとした御者が深手を負った。
 重清と十蔵は二人を倒したが、敵はまだ十人残っている。
 重清、十蔵と吉兵衛はひとつ箇所にまとまり、敵に背中を向けぬ陣を取った。
 小保内惣次郎が重清の前に立ち、ほくそ笑む。
 「淡州。そろそろ命を貰うぞ」

 その時のことだ。侍たちの後方で、金属を叩く音がけたたましく鳴った。
 侍たちが音のした方向を見ると、道の上に女が一人、銅鑼を持って立っていた。
 この女が銅鑼を叩いたのだ。
 女は男装束を身に纏(まと)い、腰に二本の細刀を差している。
 女が口を開く。
 「年が明けたから、久々にゆっくりしようと宿を取っていたが、外で愚か者どもが騒いでおる。煩(うるそ)うて横になっておれん。しかも、片方の側は己らが毘沙門党だと申しておるではないか。窓から眺めてみれば、はてな。毘沙門党の面々なら、私はよく存じておるが、その私が一度も顔を見たことがない者たちだ。そこで何事かと思うて外に出てみたのだ」
 小保内惣次郎が女に叫ぶ。
 「女。引っ込んでおれ。ぬしの出る幕ではない」
 すると、女が目を細めて笑った。
 見た者の背筋を寒くするような、殊に冷たい微笑だった。
 その表情を見て、重清は昨月のことを思い出した。
 「あやつは・・・。紅蜘蛛ではないか」
 その女は疑いなく、伊勢屋の向かいで会った男女二人組の女の方だった。
 女はちらと重清に視線を送ったが、すぐに惣次郎に向き直った。
 「私は世間では紅蜘蛛と呼ばれておる。お前たちはこの私が紅蜘蛛だと知って、まだ己らが毘沙門党だと言い張るのか。まあ、そんな者はおらぬな。それなら、ここでもし、お前たちが頭を下げ、私共は貴女さまの名を騙りましたと、持ち物総てを置いて行けば、許してやらぬこともない。命だけは助けてやろう」
 惣次郎がいきり立つ。
 「何をしゃらくさい。女子(おなご)一人の分際で偉そうなことを申すな。者共。こやつも始末してしまえ」
 これを受け、侍の一人が紅蜘蛛の許に走り寄る。
 紅蜘蛛は銅鑼を放り捨てると、腰に左手をやった。すると眼にも留まらぬ速さで縄が前に飛び、侍の足に絡みついた。
 侍がその場に転倒すると、紅蜘蛛はしゅんと刀を一閃し、侍の首の筋を断った。
 一瞬の後に傷が口を開け、血がぴゅうと噴き出す。
 恐ろしい程の早業である。
 重清には、紅蜘蛛が左手で縄を使うのは見えたが、いつ何時、右手で刀を抜いていたのかが分からなかった。
 女が四戸侍に言い放つ。
 「返事は貰った。ではぬしとぬしの手下は皆殺しだ」
 すると、それを合図に、旅籠の陰から男たちが走り出て来た。装束を見れば一目瞭然で、総勢三十人に及ばんとする盗賊たちである。
 「な。何だ」
 惣次郎の両目が丸く開かれる。
 それを尻目に、今度は女が重清に顔を向け、穏やかな口調で語り掛けて来た。
 「釜沢淡州とやら。汝(うぬ)はどうするのだ。侍としてこやつらと共に私らと戦うか、それとも」
 すぐさま重清が答える。答はもちろん一つだ。
 「いや。こやつらは俺の命を狙って来た輩だ。敵の敵は味方だと申すだろう。ならば、今日のぬしは俺の敵ではない」
 紅蜘蛛は「合点が行った」とばかりに、重清に頷き返した。
 「では、汝(うぬ)らはこの場には関わらず、後ろに下がっておれ」
 「承知した」
 そこで重清は己の刀を鞘に収めると、紅蜘蛛に背中を向け、さっさと歩き出した。
 重清は歩きながら、周囲の刺客たちに声を掛けた。
 「おい、四戸侍。戦う相手が替ったぞ。もし、ぬしらがこの場を生き残ることが出来たなら、いずれまた相手をしてやろう」
 刺客たちは呆気に取られ、重清が自分たちのすぐ脇を通って歩き去るのを、ただ黙って眺めていた。

 背後で戦闘が再開される中、重清は橇に随身と御者の躯(むくろ)を乗せた。
 重清と吉兵衛が一台目に乗り、二台目は十蔵が手綱を取ることとした。
 「十蔵。長居は無用だ。紅蜘蛛の気が変わらぬ内に、早く立ち去ろう」
 「お屋形さま。どちらに向かいますか」
 「我が館だ。もはや宮野へは登城出来まい。我らと四戸侍が争ったことは、すぐに知れる。ここで城に顔を出すことは、我らにとっても、もはや九戸殿にとっても面倒ごとを増やすだけだろう」
 重清が馬に気合を入れ、橇二台は元来た道を戻り出した。

 その様子を、物陰から一人の男が見ていた。
 その男はこの村に入り込み、旅籠の下働きとして働いていた者だが、その実は目時の間者である。この地は三つの領地の境にあるので、この間者は旅籠で見聞きしたことを、物見に伝えるのを務めとしていた。
 間者はすかさず足にかんじきを穿き、目時領境の物見のところに走った。
 話を聞いた物見はすぐさま目時館に戻り、目時筑前にこの日の出来事を報告した。
 「小笠原淡路が盗賊に身を窶(やつ)した侍十数人と斬り合っておりました」
 筑前の眼光が鋭く光る。筑前は六十に届こうという年齢だが、三戸南部家の家士として、いまだその地位を堅持している。
 筑前の外見は実の年齢よりも年老いており、髪は白髪となり痩せて皺だらけである。
 内勤であるが故に、侍としての地位は高くない。だが、南部家を切り盛りする上で、筑前は重要な役職に就いている。
 そういう自負心もあって、筑前の物腰には人を圧倒する迫力があった。

 「では相手は四戸だな」
 「そやつらは当初、毘沙門党を名乗っておりましたが、すぐ後ろの旅籠に当の盗賊たちが伏せっておったのです。本物の盗賊共が現われ、四戸方の侍を悉く討ち果たしました」
 筑前が思わず身を乗り出す。
 「淡州めはどうなった」
 「戦闘が始まると、淡路は即座に橇に乗り、館に逃げ帰りました」
 その答に筑前は喜び、己の膝をぽんと打った。
 「それは良い。これで九戸と釜沢の間に溝が出来た。もはや九戸は淡州を自陣に組み入れようとはすまい。よし。すぐに倅(せがれ)をここに呼べ」
 直ちに近習が走り、離屋(はなれ)にいた孫左衛門を連れて来た。この孫左衛門は、最初の正室の子で、現在の妻・桔梗とは従姉弟の関係となる。
 「孫左。ここに直れ。話がある」
 孫左衛門が筑前の前に腰を下ろす。
 「孫左。我が父・津島肥前がこの地を賜った時より、これまで長らく釜沢一族とは軋轢が耐えなかった。だがそれも当月で終わりだ。漸く好機が参ったのだ」
目時一族の本来の名は津島で、目時の地を授かったので、この地名を自称するようになったのだ。
 この時、孫左衛門は齢二十七歳で、侍として一人前に近付いた年頃である。
 「はい」
 「淡州が九戸と袂を分かったぞ。今、我が方が釜沢を攻めたとしても、淡州に九戸方の援軍は来ぬ」
 この筑前の言葉に、孫左衛門は驚いた。
 「しかし、釜沢とは不可侵の取り決めを交わし、互いに人質も差し出しておりますが」
 筑前は皺だらけの顔を一層くしゃくしゃにしてせせら笑った。
 「なあに。女子を取り交わしたのは、こういう時の為だ。もしぬしを釜沢に送っていたなら、彼奴と一戦交えることなど到底無理だ。失うものが大きいからな。だが、人質は女子一人だ。我が領と女子一人を秤に掛ければ、答は自ずと一つに納まる」
 しかし、孫左衛門にとってすれば、桔梗は従姉で幼馴染である。しかも、子どもの頃には、机を並べ、共に文字を学んだ仲でもある。
 「父上。桔梗さまは二重の意味でそれがしの身内でござります。それがしにとっては義母であり、また従姉でもあるのです」
 「勿論、桔梗の命は極力救うように取り計らう。これから四日以内に、双方の人質を戻すよう、淡州に使者を送るのだ」
 「四日以内でござりますか。随分と性急でござりますな」
 「八日には三戸の年賀式が開かれる。その前に人質の返還を行わねばならぬのだ。もし淡州がその日に三戸に現われるのであれば、大膳さまに臣従するという意思を示したことになる。そうなると、わしとて手を出し辛くなる。同じ主君を仰ぐ者同志になるということだからな。だから、この件は八日より前に片付けねばならぬのだ」
 「なるほど。では人質を互いに返した後で・・・」
 ここで筑前が片膝を立てる。
 筑前は膝が悪く、同じ姿勢で長く座ってはいられなかった。
 「その場で淡州を殺める、宴を催し、それが終わる頃に彼奴を仕留めるのだ。淡州は九戸との間に溝が出来たから、この後の仲間が必要だと思うておる筈だ。釜沢の家来だけでは、あの地を奪おうと攻め入って来る敵を防ぎきれんからな。現に四戸が侵入したではないか。だから、わしが大膳さまに顔を繋ごうと申し出れば、彼奴は必ず応じる」
 この数年、筑前は釜沢との争いを小休止し、極力、距離を置いて来た。しかし、腹の内では、常に釜沢を奪い取る方法を思案していたのだ。
 孫左衛門は筑前の変貌ぶりに、改めて驚いた。
 眠っていた野心が目を覚ましたせいか、筑前はつい今朝方の筑前とは別人のように見えたのだ。
 「ぬしは兵を整え、その日を待て。このことは家来共にも極力秘し、当日の朝に伝えるのだぞ。密かに伝令を出し、遠方の親族からも兵を送って貰え。総勢三百では足りぬ。その倍は入り用だぞ。淡州がこの策略に気付けば、釜沢も兵を出す。いざとなれば五六百は集められるだろうが、態勢が整う前に彼奴を殺してしまえば、どうと言うこともない。段取りはこうだぞ。いずれか領境の寺か村長の家を借り、淡州をそこに呼び寄せる。目的は和睦だから、双方小人数を出し、宴を催そうと申せば、淡州も気を許すだろう。何なら場所は彼奴に選ばせよう。そうすれば、彼奴とて気を許す」
 「その実は兵を伏せて置くのですね」
 「簡単な策略だが、窮しておる者には周りがよく見えぬ。淡州は四戸と戦ったばかりで、内心では狼狽しておることだろう、必ず話に乗って来る。己の妻を帰して貰うためではなく、大膳さまに近付くためだ」
 孫左衛門は内心でほっとした。父親が思い付きで行動しようとしているのではなく、入念に策を練っていることを知ったからだ。
 孫左衛門は桔梗と仲が良く、幼き頃には恋心めいた思いを抱いていたこともある。
 その桔梗を父が見捨てるつもりが無いのであれば、孫左衛門にも異論はない。

 「ところで、釜沢の奥は名を何と申したか。そう、雪路だ。このところ見掛けぬが、その雪路はどうしておるのだ。病がちだと聞くが、まだ立って歩けるだろうな」
 雪路はこの館の離屋に幽閉されている。
 先ほど、孫左衛門は人質の様子を見に行ったばかりだった。
 「部屋の隅で、壁を見詰めながら、何やらぶつぶつと呟いております。どうやら、淡州への恨み言を申しておるらしいですな。体も痩せ細り、まるで幽鬼のようで、えろう薄気味悪うござります」
 これで筑前の眉間に少し皺が寄った。
 「妻が愚痴愚痴と恨み言を申すのに、夫は余程我慢させられるものだ。今の様子を知れば、淡州は己の奥を見捨てるかも知れんな。慎重にことを運ばねならぬぞ。その女のことは丁重に扱い、誰彼構わず褒めちぎれ。さすがは釜沢の奥方さまだと、皆で持ち上げるのだ。もちろん、淡州のことも、心を込めて褒めよ。さすれば、その奥も淡州も気を良くする。気分が良くなっておる者を篭絡(ろうらく)するのはそれ程難しくない」
 己の父ながら悪賢い。
孫左衛門は父筑前の悪巧みに舌を巻いた。
 (だが、こうやって、父はこの乱世を生き抜いて来たのだ。)
 父は桔梗の命を軽んじるようなきらいがある。それなら、己の手で必ずや桔梗のことを守ろう。
 孫左衛門はそう心に決めた。

 翌日の午後、釜沢に目時の書状が届いた。
 その書状に目を通すと、重清は十蔵と杜鵑女を主館に呼んだ。
 「筑前は三日の後に人質を返すと申しておる。性急な話だが、三戸で南部大膳殿に取り継ぐから、事前の申し合わせを致したいと書いてある。直接、大膳に顔を繋いでくれようという申し出だ」
 十蔵が左の頬をほんの少し歪めた。
 「昨日の一件を知ったということでしょうか」
 「そのことも書いてある。昨日の一件を存じておるそうだ。はは。随分と対応が早いことだな。俺が九戸に与(くみ)する気持ちが無いようだから、俺自身の身を守るためにも、三戸に近付くべきだと申しておる」
 重清は南部家の年賀式にこれまで出たことが無い。家格の面で何ら劣るところが無い上に、一族が過去に南部家の世話になったことなど一度たりとも無かったからだ。
 叔父の吉兵衛は、人付き合いが好きだから、あちこちの年賀式に顔を出す。しかし、吉兵衛は、先々代の南部晴政と交わっていた経緯があるから、三戸では片隅に身を置く立場である。
 「積年の恨みを水に流し、和睦しよう。南部家にも己が顔を通そう。そんな内容の書状になっておるわけだ」
 目の前の十蔵がくつくつと笑い出す。
 「都合が良すぎますな。あの筑前がこれほど親切だとは、到底信じられませぬ」
 目時が隣領に来てから、釜沢は幾年にも及ぶ争いを繰り広げて来た。重清はその当事者だから、勿論、筑前の言葉を鵜呑みには出来ない。
 「裏があるのだろう。それはどんな腹積もりなのか」
 ここで重清が杜鵑女の顔を見る。
 杜鵑女は眉一つ動かさずに、重清を見返した。
 「淡路さまは、九戸一派には加わりませんでした。となると、今は周囲から孤立した状態にござります。もし誰かがこの釜沢を奪い取ろうとしても、援軍は誰一人として駆け付けてくれませぬ。よくてご親族方だけですな。目時にとってはそこが狙いでござります。己が三戸に顔を繋ごうと申せば、必ず淡路さまが応じる。そこを狙えば、容易く淡路さまの首を手中に出来まする」
 「筑前がもし十日後にと申せば、その言葉に裏は無いだろう。三戸の年賀式の後の話だからな。しかし、俺が八日の年賀式に、たとえ末席であっても座って見せれば、己は大膳に従うという意思を公に示したことになる。そうなった後では釜沢を攻められぬから、この数日の内にと申しておるのだ」
 「となれば、これは目時が単独で行う謀でござりましょう。与(くみ)する仲間はおりませぬ。目時筑前は和睦の席で淡路さまを殺める算段でござります」
 杜鵑女の見解は、重清とまったく同じだった。重清が困っているだろうから、その機に乗じて虚を突こう。筑前のそんな考えが透けて見える。
 「だが、和睦を申し込んで参ったとなれば、それを断る謂(いわ)れが無い。単に双方の人質を戻し、さらには三戸にも顔を通してくれるという話だからな」
杜鵑女は背筋をぴんと伸ばしたまま、重清と向き合う。こういう時の杜鵑女のしぐさは、まさしく神に仕える巫女そのものである。
 「ここは腹を括るしかござりませぬ。釜沢と目時の間には、幾年にも及ぶ相克がござります。それゆえ、他の者か誰一人介入しない決着であれば、言い訳が立ちまする。あくまで家と家、一族と一族の揉め事だと称すのです。目時を倒し、それはそれとして、堂々と三戸に出向いて申し開きをすればよろしい。もし今のうちに筑前を除かねば、筑前は、この後淡路さまが三戸に近付くのを阻止しようと、あれこれ手を打って来ることでしょう。九戸三戸には、付かず離れずにおることが無難で、そのためには、今の内に目時筑前を倒す必要があるのです」
 重清が杜鵑女に頷き返す。
 「分かった。筑前が悪巧みを仕掛けてくれるのは、我が方にとっても好都合だということだな。この後、如何様な結果が生じようとも、言い訳がつく。仮に目時を倒したことで、三戸との関わりが険悪になったとしても、それは九戸殿に対して、この重清が敵ではないと示すことにもなる」
 「淡路さま。ここはあらゆる意味で、常に双方と一定の間を置くことが肝要にござりますぞ。そのことをお忘れなきように」
 ここで重清は小笠原十蔵に向き直った。
 「十蔵。今、俺が申した通りだ。すぐに返事を出し、三日後に目時と和議を結ぶ手筈とする。恐らくその時に、目時は兵を寄せて来る。ならば我が方は二倍の兵力を備え、筑前を迎え撃つのだ」
 「目時はせいぜい三百石扶持。我が方はざっと見積もっても、優にその二倍を超えておりまする。我が方では二日で三百、三日なら五百を超える兵を揃えることが可能です」
 「では、今日より直ちに支度に取り掛かれ。和議を結ぶ地はこちらで決める。領境の村長の家とするが、これは前日まで先方には知らせぬ。十蔵は先回りして、村長の周囲の家に兵を貼り付けるのだ。当日の夕刻には宴を開くが、目時勢は午後には移動して参る。この雪だし、兵が動けばそれが丸見えになる」
 「目時に悟られぬように、罠を仕掛けて置くのでござりますな」
 「そうだ。あやつらとて陸奥道(むつみち)を堂々と進軍して来るほど愚かではあるまい。山道や裏道をやって参ろう。しかし、今はこの雪だ。雪のお陰で色んな仕掛けが出来る」
 「獣罠でござりますな」
 「敵がうんざりするほどの罠を仕掛け、敵の足が止まったところを急襲するのだ。倒す必要は無い。そのまま足止めをしてくれれば、俺がその間に筑前を殺す。ぬしは待ち伏せの兵を率いよ。兵を取りまとめ、即刻仕掛けに入るのだぞ」
 十蔵の目が光る。この男は根っから侍が性に合うらしい。合戦の話になると背筋が伸びる。
 ここで重清は十蔵に釘を刺す。
 「十蔵。けしてこの話を外に漏らすなよ。筑前の気が変わったら、この策が崩れる。兵士たちにも厳しく緘口令を布(し)くのだ」
 「はい。心得てござります」

 この時、主従の話に杜鵑女が割って入った。
 「考えるべきことがもうひとつござります。仮に筑前がもし本当に和議を望んでいたなら、どうなされますか」
 重清が双眸に力を込め、杜鵑女を睨み返す。
「確かに、筑前は南部家の家士で、城中をやりくりするのが務めだ。それ故けして表には立たぬ。俺を倒して釜沢を手に入れようなどという野心など持たぬ者かもしれぬ」
 重清は十蔵の方に視線を向ける。
 「もし筑前が兵を出さぬのなら、彼奴の言葉に裏が無かったことになる。だが、疑いのう、彼奴の腹には何かしら魂胆がある。彼奴は必ず兵を出す。十蔵」
 「はい」
 「このことは、けして口外してはならぬ。身内の者にも語ってはならぬぞ。ごく近しき兵士にのみ指示を出して置け」
 「畏まりました」
 「では直ちに仕度に取り掛かれ」
 「はい」
 十蔵は腰を上げ、部屋から出て行った。

 十蔵が去ったので、杜鵑女も立ち上がろうとしたが、重清の視線が己に向いたままであることに気付き、一旦浮かし掛けた腰を下ろした。
 「杜鵑。ぬしは今この時、廊下に人が立っておるのを感じ取れるか」
 「いえ」
 ここで杜鵑女は、しばらく前に重清が話していたことを思い出した。
 「女子の影でござりますか」
 重清が頷く。
 杜鵑女は前にも、重清に付きまとう女の生霊の話を聞いたことがある。
 「淡路さま。生霊は死霊とは異なり、ひとの禍々しい思いが、その者から別れ出たものにござります。よって、正確には霊ではなく念にござります。死霊悪霊を祓うことは出来ても、念を祓うことは出来ぬのです」
 重清がほんの少し表情を歪める。
 「前にも尋ねたと思うが、改めて訊こう。どうすればその生霊を消すことが出来るのだ」
 「本人から別れ出た生霊は、生霊の根源である本人でももはや止めることが出来なくなります。まったく別の存在となるのです。このため、その主が邪な思いを捨てても、生霊は消えません」
 「では処置無しか」
 ここは杜鵑女にも容易に想像がつく。
 重清自身は詳細を語らぬが、重清に取り憑く生霊とは、恐らく奥方さまだ。
 「淡路さま。邪な念が一人歩きを始めたなら、もはやそれを止めることは叶いませぬ。ですが」
 「何だ」
 「生霊を生み出した、その源が死ねば、生霊も消えまする。そのふたつはもはや別々の存在ですが、しかし繋がってもおるのです」
 杜鵑女の言葉に、重清が一瞬息を止めた。
 しかし、重清はすぐに視線を外に向け、杜鵑女に答えた。
 「そうか。分かった。ぬしも下がってよいぞ」
 そこで杜鵑女は重清に座礼をして、部屋から下がった。
 杜鵑女が板戸を閉め、廊下を歩き出すと、背後の隅から「みし」という小さな音が響いた。
 「あれは・・・」
 重清が言ったように、確かに人の気配がする。誰かが床の上に蹲(うずくま)っているような感触があるのだ。
 杜鵑女は一瞬足を止めかけたが、しかし、再び歩き出した。

 その日の夜。
 重清は桔梗と褥(しとね)を共にしていた。
 双方の息遣いが静まったところで、重清は桔梗に告げた。
 「三日の後、目時との間で和議を結ぶことになった」
 桔梗は驚いて体を起こした。
 「ならば私はどうなるのです。まさか長一郎さまは私を目時に戻すお積りではござりますまいな」
 胸元の襟が左右に開き、その間にむっちりとした柔肌が覗いている。
 重清は桔梗を抱き寄せ、着物の襟を合わせてやった。
 「風邪を引くであろう。確りと夜着を纏(まと)うのだぞ」
 桔梗は首を激しく横に振る。
 「嫌です。今すぐお答えを下さりませ。貴方さまはこの私を目時に戻すお積りなのですか」
 桔梗は眦を決し、重ねて重清を問い詰めた。
 「桔梗。今となっては、俺がぬしを筑前に渡す筈など無かろうぞ」
 「嘘。私を目時に返さねば、目時との間に軋轢が生じます。和議を結ぶことは出来ませぬ。あちらに何と申して、私をここに留めるのですか」
 「桔梗。ぬしはあまり心配するな。その辺はきちんと俺が取り計らう。ぬしはこの後、ずっとこの館で暮らすのだ」
 しかし、桔梗は重ねて首を横に振った。
 「もし私を手元に置こうとすれば、和議を結ぶことなど出来ませぬ。人質を取った側が当の人質と懇ろの仲になることが許されぬからです。和議と私は並び立たぬのです。和議は領主と領主の間の取り決めごと。これが為されるとなれば、人質の私は用無しとなり、元の館に戻されるのが必定でござりましょう。殿方は女子より政の方に重きを置くものです。すなわち貴方さまは私を目時に返すお積りなのです」
 女子は気持ちを損ねると、頑として言うことを聞かなくなる。
 重清は極力柔らかな口調でこの後の成り行きを説明することにした。
 「桔梗。俺がぬしを放り出すと思うてか。俺たち二人は、もはや切っても切れぬ仲ではないか。今は仔細を語ることが出来ぬのだが、ぬしを目時に返すことは無い」
 「でも、それならどうやって和議を結ぼうと申すのですか」
 重清は思わず、「その和議の席で筑前を暗殺するからだ」と口にしそうになった。
 しかし、仮にもしその策謀が外に漏れれば、企みが成功することは無い。
 この館には、目時から来ている従者がいるし、出入りする者の中には先方の息の掛かった者もいるだろう。
 さらに加えて、万に一つだが、筑前が本当に和議を結ぼうと考えている場合も無いことではない。
 魂胆を持たぬ者を暗殺すれば、風評が立つ。九戸と距離が出来た今となっては、あからさまに三戸を敵に回す愚を冒すわけには行かなかった。
 十蔵や杜鵑女の前で、重清は「必ず筑前が釜沢を攻める」と語ったが、その確証はない。
その実、重清は和議の話が真実だった時の対処法を考えていなかった。
 「心配するな。俺はぬしをこのままこの館に置く。今はそのための算段をしているのだ」
 桔梗は機嫌を損ねたままなのか、重清に背中を向け、返事をしない。
 仕方なく、重清は桔梗の背中から手を回し、強く抱き締めた。
 「桔梗。ぬしは俺にとって最高の宝だ。もう一生ぬしを手放すことは無い。共に白髪が生え、腰が曲がるまで手を取り合って暮らそうぞ」
 これに桔梗がそっぽを向いたまま答える。
 「本当?」
 「ああ。本心からの言葉だとも」
 重清は桔梗に話を蒸し返されることが無いように、再び桔梗の体をまさぐり始めた。

 翌朝。桔梗が目覚めると、隣には重清がいなかった。まだ早朝であるが、暗いうちからすることがあったらしい。
 桔梗は半身を起こし、昨夜のことを思い起こしてみた。
 「どうしても腑に落ちませぬ」
 桔梗は目時筑前の正室である。
 もし桔梗の身を返さねば、釜沢と目時の関係は決裂する。
 それなのに、「和議を結ぶ」と言うことは・・・。
 和議は双方が納得の行くかたちで行われねばならない。そうなると、ひとまずは原状に戻すことが原則だろう。
 「長一郎さまは私を手元に置くと申されたが・・・。しかし、これを安易に信じるわけには行きませぬ」
 今は乱世で、皆が領地を奪ったり奪われたりしている。そんな中で最も虐げられるのは女子たちだ。
 戦になれば、敵の兵隊共が侵入し、婦女子を襲う。
 このため、女子は戦の度に山に分け入り、戦が終わるまで隠れねばならぬ。
 無事、こちら側が勝てば良いのだが、もし負けると女子は敵方の侍の持ち物になる。
 器量の良い娘は慰み者となり、他は奴隷同然の扱いだ。領主や家来の屋敷で、下働きのまま一生を終えることになる。
 女子は何とも悲しい生き物だ。
 「私は嫌だ。黙って男共の言うなりになっていて堪(たま)るものですか」
 それから、桔梗は小半刻の間思案して、腹を決めた。
 「よし。私は私の手で運命を切り開くのです。私は私自身の手で筑前殿を殺めて見せます」
 和議の席で筑前が死んだのなら、この話がまとまることはない。
 釜沢と目時が決裂すれば、桔梗は今のまま釜沢に残ることが出来る。
 「そうすれば、私は長一郎さまと一緒にいられます」

 いざ思い立ったら、じっとしてはいられない。
 桔梗は身支度をして、鶏が鳴くのを待った。一番鶏が鳴き、二番鶏が鳴き、そして三番鶏が鳴く。
 その三番目の鶏が声を上げると、桔梗はすぐさま主館の外に出て北館に向かった。
 行き先は、勿論、杜鵑女の居室・鴇の間である。
 祈祷師の朝の勤行は三番鶏の鳴き声と共に始まるから、桔梗は杜鵑女が起き出すまで待ったのだった。
 戸板を叩くと、やはり杜鵑女は勤行を始めたところだった。
 「杜鵑女さま」
 「誰じゃ」
 杜鵑女の問いには答えず、桔梗は戸板を引き開けた。部屋の上座に祭壇があり、その前に祈祷師姿の女が座っていた。
 既に対面を済ませていたので、桔梗は杜鵑女の顔を見憶えている。
 「杜鵑女さま。私は桔梗でござります」
 杜鵑女が怪訝そうな視線を向ける。
 「こんな早うに何用でござりましょう」
 桔梗は部屋の中に入り、祭壇の前に座る杜鵑女の前まで歩み寄った。
 「杜鵑女さま。杜鵑女さまは薬の調合にも通じておると聞き及んでおります」
 「どこか体の具合が悪いのですか」 
 「いえ。病ではござりませぬ。鼠のことでござります」
 「鼠。主館の方に鼠が出るのですか」
 「はい。食べ物は食い荒らすわ、柱は齧るわで難儀しております。何か鼠退治の薬を調合しては貰えないでしょうか」
 桔梗は目を伏せ、用件だけを簡潔に伝えた。
 「鼠退治には石見銀山を用います」
 「石見銀山?」
 「その銀山で採れる砒素毒のことです。これを鼠の好む食べ物に混ぜ、食べさせますれば、たちどころに退治することが出来ましょう」
 「その薬の調合をお願い出来ますでしょうか」
 「ええ。構いません。百姓共のために時々作っておりまする故、難無きことです」
 「では、その調合には幾日掛かりますか」
 桔梗がその毒を入り用としているのは、僅か二日後である。もし間に合わぬとならば、今日明日中に別の手立てを考えねばならない。
 「なに。備えがありますので、今日一日でお渡し可能です」
 その答えを聞いて、桔梗は深い息を吐き出した。
 「そうですか。それではその薬をお願いします。鼠にはほとほと困り果ててござります。故に、早急に対処する必要があるのです」
 「ひとまず二三十匹ほど殺せる量をお渡ししましょう。また夕刻に参られませ。その時にお渡しします」

 この時、杜鵑女は桔梗が己に対し、まったく目を合わせぬことに気が付いていた。
 (この女。何か魂胆でもあるのか。)
 「ただ、扱いには十分にお気を付け下さい。石見銀山は人をも容易く殺せるほどの・・・」
 杜鵑女はここで言葉を切り、桔梗の胸元を注視した。
 襟の合間から、ちろちろと炎が出ているのを見取ったのだ。
 もちろん、実際に出ているものではない。
 霊力のある杜鵑女だからこそ見ることの出来る炎である。
 襟の合わせ目から噴き出した炎は、瞬く間に大火炎となり、桔梗の体を取り巻いた。
(これは・・・。疑いのう、地獄に由来する炎だ。こやつはこの地に大災禍をもたらす者に違いない。)
 杜鵑女が話を止めたので、桔梗が視線を上げた。この時、初めて両者の視線がぶつかった。
 杜鵑女は桔梗の表情を見ながら、毒の話を続けた。
 「桔梗さま。石見銀山はかなりの強毒です。直接触ることなどもっての外ですぞ。匂いを嗅いでもなりませぬ。お渡しする毒を触る時は、必ず匙を使い、口と鼻を覆った上で行うように。使い終わった容器や匙は焼き捨てて下され」
 「はい。充分に心して置きます」
 地獄の炎は桔梗を中心として、渦を巻くように回っている。杜鵑女をして、思わず後ろに退かせるほどの勢いである。
 (成る程。こやつが殺そうとしておるのは鼠では無いのだな。となると、恐らく・・・。)

 ここで杜鵑女は話を変えた。
 「ところで、近々に釜沢目時の間で和議が為されますな。桔梗さまも漸く人質の身から解放され、目時にお戻りになられまする。此度はおめでとうござりました」
 杜鵑女は未だ三日後の和議のことを聞き及んでいない。しかし、桔梗の振る舞いから察するに、今起こりつつある事態は明らかだった。
 (この者は淡路さまと懇(ねんご)ろの仲だ。夜毎に睦み合っておるに違いない。淡路さまもこの女には気を許しておる。となれば、この女はその和議の席で毒を使うつもりなのだろう。相手はふた通り考えられる。もしこの女が目時の間者で、淡路さまを倒す為に送り込まれた者だとすると、殺す相手は淡路さま。だがこれは無い。淡路さまを殺める好機はこれまで幾らでもあったから、わざわざ和議の席を利用する筈が無い。)
 「答えはひとつだな」
 「はい?」
 杜鵑女が結論を口に出していたので、桔梗が問い返した。
 「何の答えでござりましょう」
 「いや何でもない。ではご所望の件は承知しましたので、また夕刻に。その時に取扱い方をもお話しします」 
 「はい。宜しくお願い致します」
 桔梗は床に手を付き、深々と座礼をすると、祈祷所を退出した。

 杜鵑女は独り部屋に残り、桔梗の企てについて思案した。
 「あの女子は、己の夫を殺すつもりなのだ。それは、ただ淡路さまと共に暮らしたいという浅はかな欲望からだ」
 杜鵑女は館門で見たあの大火炎や、この日の火炎の凄まじさを思い返した。
 「たった一人の女子の欲情が淡路さまの命運を壊し、この地を焼け野原にする。そして、その災禍はこの私にまで及ぶのだ」
 杜鵑女の目前には、護摩壇の火が燃え盛っている。盛んに燃え盛る炎は、しかし、桔梗が発する業火の勢いには、到底及ばない。
 杜鵑女は暫くの間、その炎を見詰めていたが、遂に腹を決めた。
 「よし。あの女子が和議の席で良からぬことを企んでおるのなら、それはむしろ好都合だ。私はあの女子が使おうとする毒を以て、あの女子自身を始末しよう」
 杜鵑女は立ち上がり、長廊下の端まで歩き、控えの間の前に立った。
 北館には側室二人と杜鵑女が住んでいるから、必ず近習一人と用人一人がそれぞれの部屋に控えている。
 昨夜の当番は、杜鵑女付きでもある巳之助である。 
 「巳之助。起きておるか」
 板戸の向こうで、身動(みじろ)ぎをする音が聞こえる。巳之助はまだ眠っていたのだ。
 「はい。ただ今」
 「直ちに私の部屋まで参れ」
 杜鵑女は板戸越しに声を掛けると、そのまま祈祷所に引き返した。
 凡そ小半刻の後、祈祷所に巳之助が現れた。急場の言い付けでもあり、袴を穿かずに着物一枚のみの出で立ちだった。
 杜鵑女は巳之助の顔を見ると、言下に命じた。
 「巳之助。すぐに沐浴をし、身を清めて参れ」
 巳之助は命じられるまま、手水場に行き、手拭いで体を拭いて戻って来た。
 「寒かったろう。少し火に当たるが良い」
 巳之助は部屋の中央にある囲炉裏の傍まで来て、炭火に手をかざした。
 巳之助の体が温まった頃合いを見て、杜鵑女が次の命令を出した。
 「巳之助。そこに敷物があるだろう。その上に横になれ」
 「何をするのですか」
 「質問は許さぬ。私の命じるままに動くのだ」
 主の重清から、きつく「仕えよ」と命じられているため、巳之助は杜鵑女の言う通りに敷物の上に横になった。
 「仰向けになり目を瞑るのだ。けして開けてはならぬぞ」
 巳之助が仰向けになり目を閉じた。
 すると、杜鵑女は傍に腰を下ろし、巳之助の着物の帯に手を伸ばした。
 「杜鵑女さま。何をなされるのですか」
 巳之助が驚き、体を杜鵑女から離そうする。
 「動いてはならぬ。これは修業だ。ぬしはただ耐えて、屹度動かずにおれ。ひたすら我慢するのだぞ」
 杜鵑女は巳之助の背中に手を伸ばし、帯の結び目を解いた。それから着物の前を開き、肌を露わにした。
 若者らしい引き締まった胸や腹が、緊張のせいで張り詰める。
 杜鵑女はその肌に手を滑らせ、ゆっくりと撫で回した。
 「ああ」
 巳之助が呻く。
 「我慢しろと申したではないか。動いても声を出してもならぬ」
 杜鵑女の命に、巳之助は歯を食いしばって耐える。
 「巳之助。ぬしは幾つだったか。十七か十八か。もはや女子の手解きは受けておろうが、それが何たるかまでは承知しておるまい。それはこれから私がぬしに教えよう」
 杜鵑女は男を快楽に導く術を知っている。
 杜鵑女には野心があり、巫女や祈祷師で終わるつもりは無かったから、男を誑(たら)し込む術の修練も積んでいたのだ。
 いつかは大名に取り付き、思うがままに国を支配しよう。
 常日頃から杜鵑女はそんな風に考えていたのだ。
 柊女の祈祷所には、様々な女たちが訪れた。その中には色事に長けた者もいる。
 娼館の女主たちである。
 そこで杜鵑女はそんな女が来ると、男あしらいの術を訊き、それを男たちに試していた。
 そのことがいつしか柊女に知れ、杜鵑女は破門になったのだった。

 長い愛撫の果てに、杜鵑女は漸く巳之助の褌に手を掛けた。
 するするとそれを解くと、巳之助の股間には力が漲り、男の一物が猛々しく天を向いていた。
 「巳之助。これを触って欲しいか」
 「・・・」
 「返事をせよ。答えが無ければここで終いにする。ぬしは触って欲しいのか」
 「はい」
 杜鵑女は巳之助の股間に手を伸ばす。
 「すぐに果てるでないぞ。ひたすら我慢するのだ。さすれば、もっと快楽が大きくなる。分かったな」
 「はい」
 しかし、杜鵑女が幾らも擦らぬうちに、巳之助はあっさりと果てた。

 巳之助の射精後の快感の波が収まるのを待ち、杜鵑女は巳之助に告げた。
 「巳之助。私はぬしに頼みたいことがある。なあに、ごく些細なことだ。もしぬしが私の頼みごとを聞いてくれるなら、次はもっと多くのことを教えてやろう。年増の女中どもが到底知り得ぬことだ」
 「はい」
 「二日の後に、淡路さまは目時筑前と和議の席を設けられる。その支度をするのは、この釜沢の者だ。誓紙を取り交わした後、その場で会食となるが、その時にぬしにやって欲しいことがある。粗相の無き用に作法通り食膳を揃えるだけだから、問題は無いのだが、念には念を入れて、ということだ」
 「何をすればよいのですか」
 「食膳に備えて欲しい品がある。厳粛な式だから、必ずや守らねばならぬしきたりがあるのだ。これは淡路さまの行く末にも関わって来る」
 「縁起を良くする供物を備えれば宜しいのですか」
 「まあ、そうだ」
 「それでしたら容易い御用でございます」
 「よし。仔細は今宵のうちに伝える。夕餉の後で、またここに参るがよい」
 ここで杜鵑女は巳之助の視線に気が付いた。杜鵑女は下を向いて巳之助の体を擦っていたので、少しく着物の襟が割れ、胸元が覗いていたのだ。
 巳之助はその肌に目を奪われていた。
 それを知り、杜鵑女は腹の内でほくそ笑んだ。
 (術は成った。これでこの若者は、私の思うがままだ。)
 「巳之助。この館では私はまだ新参者です。お前だけが私の頼りですからね」
 杜鵑女は巳之助の左手を取り、自らの胸元に導いた。杜鵑女の首の下辺り、乳房に届かぬ位置の肌に手が触れると、巳之助の息が止まった。
 杜鵑女は日毎夜毎に水垢離を行っていたから、肌が引き締まり滑らかである。
 杜鵑女が見ているその前で、巳之助の一物が再び起き上がった。
 それを一瞥すると、杜鵑女は相手の手を離し、普段の厳しい口調に戻って巳之助に命じた。
 「巳之助。ではお前はお前の勤めに戻りなさい。私には私の勤行があるから、今日は決して人を近付けぬようにするのですよ。分かりましたか」
 巳之助は急いで着物の前をかき合わせた。
 「はい。畏まりました」
 「では直ちに行きなさい」
 杜鵑女が背中を向け、祭壇の前に座ったので、巳之助は大慌てで着物を着て部屋を出て行った。

 杜鵑女は祭壇の前でこの先のことを思案した。とりわけ桔梗のことが杜鵑女の頭から離れない。
 「おのれ女狐め。殊勝な顔をしておるが、その実は悪の塊だ。あやつはこの私が必ずや倒してみせよう」
 杜鵑女は、来たるべき災禍から重清を守ろうという気持ちが、いつしか桔梗に対する憎悪に変わっていることに、未だ気が付いていなかった。

 その頃、目時館では、目時筑前が床の中で目を開いていた。
 気持ちが高ぶり、よく眠れなかったのだ。
 「二日後には必ず淡州めを倒す。それで、このわしを軽んじる者共を見返してやることが出来る」
 筑前は城詰めの家士であるから、南部家の中でさほど地位は高くない。
 留ヶ崎の城詰めの立場であることで、筑前をあからさまに軽視する者もいる。
 「合戦に出ぬことで、わしのことを戦が出来ぬ者と思い為しておるのだろうが、いざとなればわしは存分に戦える。そのことを世に知らしめてやろう」
 筑前が釜沢攻めを決意したのは、功名心からと言うより、自負心からである。
 このため、筑前は他の誰にも加勢を頼んではいなかった。
 しかし、もし筑前が有力な地侍の誰かに加勢を頼んでいれば、その者は即座に「今は慎め」と答えたであろう。
 南部大膳信直は、丁度今、九戸政実の一派を打ち崩すための謀を準備していたのだ。
 そのことは、南部一門のごく近しき者にのみ伝えられていたから、家士である目時筑前は知る由もない。

 この時、桔梗は奥の間に戻り、夜着の中に入っていた。
 朝まで眠らずにおり、杜鵑女の許に赴いたわけだが、上手く頼みごとを伝えられたので、今は安堵していた。
 「少し眠ろう。来たるべき時に備え、常に集中出来るようにして置かねば」
 目を瞑ってはみるが、しかしやはりよく眠れない。
 「長一郎さま。私は身も心も総て貴方さまに捧げます」
 重清のことを考えただけで、桔梗の乳首がつんと立ち上がる。
 桔梗は己の重清に対する愛情が、多く肉欲によるものだとは、考えてもみなかった。
 ただ、ひたすら重清と一緒にいたい、離れたくないという思いだけが、桔梗の頭の中にあったのだ。

 一方、重清は主館の大広間の外側にある縁側廊下にいた。
 桔梗との房事の後、一旦は眠ろうとしたが、よく寝つけぬ。そこで、自身の刀を研ぎ、それが終わると、今度はその刀を振り下ろす鍛錬をしていたのだった。
 重清の頭には、幾度となく桔梗の声が響いていた。
 「目時筑前を殺めて下さい。それだけが私と貴方さまが一緒にいられる手立てなのです」
 夜毎の荒淫で、もはや重清の股間は幾らか疼痛を感じる程になっている。
 重清は首を振って、ひとまず桔梗のことを頭から追い出した。
 「もし筑前が兵を寄せて来ぬとしても・・・」
 結論は明らかだった。
 「やはり筑前を倒さねばならぬな」
 和議を成立させ、双方の人質を元に戻したとする。
 近しき者には、桔梗が男と通じていたことが知れる。そして、その相手は、疑いなく重清である。人質に容易に近付ける立場の者は、釜沢館の中でただ一人、この重清だけであるからだ。
 そうなると、目時筑前は、不貞を働いた咎で桔梗の首を刎ねるだろう。
 そして、そこで目時が釜沢を攻める大義名分が生じる。
 妻を寝取られた恨みでは、いささか心許ない「大義」だが、言い掛かりの種としては十分である。
 曲がりなりにも大義名分があれば、三戸に与する地侍の中には、釜沢攻めに賛同する者も出て来る。
 もちろん、「己も分け前に与(あずか)ろう」という算段からだ。
 川中の戦いで、重清は少数で多数の敵を討ち破ったが、それはあくまで重清が幸運だったということに過ぎない。
 重清もそのことを重々承知している。
 「ならば、この機を逃さず筑前を殺し、まずは目の前の危機を先延ばしにする他は無い。話はそれからだ」
 家門と家門、個別の争いに留めて置けば、言い訳が通らぬとも限らない。
 事実、津島肥前がこの地に来て目時を称するようになってから、まだ左程の年数が経過していない。
 そういう状況も相まって、これまで釜沢や四戸との間で軋轢が絶えなかった。
 これは周囲の地侍の間でも、ごく普通に起きている事態であった。
 例えば、八戸政栄と櫛引清長・清政兄弟の間には、元々親族の繋がりがあり、長らく親交を保って来た。
それが今では、互いに血で血を洗う争いを繰り広げている。
 しかし、周囲の者からは、この相克はあくまで身内同士の争いと見なされている。
よって他家の者は一切口を挟まぬし、どちらかに加勢をすることもないのだ。

 重清は刀を振るう手を止め、独りごちる。
 「足利一族が幕府の実権を握っていた頃から、侍の間では『喧嘩両成敗』が旨とされておるからな。私怨による争いは、当事者同士で解決すべきことは、改めて申すまでもない」
 しかし、重清が一方的に目時を倒したのでは、やはり何かと物議を醸す。
 重清にとっては、なるべく前回と同じような構図が欲しかった。
 すなわちそれは、「目時が軍勢を立て、釜沢に侵入した」という筋書きで、すなわち釜沢側にとっての大義名分だ。
 「筑前。兵を立てよ。必ずこちらに攻め入るのだぞ」
 目時筑前は、さしたる戦功を立てたことが無い。父肥前の代には、合戦の毎に活躍した。それが基となり肥前は目時の地を得たわけだが、子の筑前の方は専ら内務めばかりである。
 そんな経験に乏しい者が自ら兵を興せば、結果は目に見えている。
 重清が幾度となく起こり得る事態を想定しても、行き着くところは、常に己が圧勝するさまだった。
 それしか思い描けぬのだ。
 物事の良し悪しを量る時には、様々な角度から眺め返さねばならぬのだが、今の重清にはそういう視点が欠落していた。

 腹が据わったところで、重清は刀を鞘に収め、縁側に腰を下ろした。
 重清の体からは大量の汗が吹き出し、血がどくどくと全身を回っている。
 重清が息をする度に、股間の一物がずきずきと疼いた。
 「ちと桔梗との交情が過ぎたか。まあ、これだけ交合っておれば、じきに飽きるだろう」
 縁側の外に目を遣ると、中庭から周囲の山々まで総てが雪に覆われている。
 重清の脳裏には、ほんの一瞬、この雪のごとく真っ白な桔梗の裸身が浮かんだ。
 暦の上では春となったが、今季の雪は降り始めたばかりだ。まだ暫くの間は、厳しい寒さが続く。

 小笠原重清、目時筑前、桔梗、そして杜鵑女は、四者四様の謀を企てている。
 四人はそれぞれの願望を達成すべく、二日後となる和議の場を見据えていた。(この章終わり)

ギャラリー

寺舘山
寺舘山

坂下を奥州道(陸奥道)
坂下を奥州道(陸奥道)

城の下(釜沢用水)
城の下(釜沢用水)

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