その近くの漁村に、捨吉という男が住んでいた。
捨吉は漁師だったが、内地で飢饉が続いたせいで海の獲物が捕れず、食うや食わずの暮らしを送っていた。
飢饉は冷害より生じる。
冷害のせいで山の緑さえ見えぬようになると、山の滋養が川に流れぬようになる。
そうなると、川が滋養を海に運ばなくなるから、海の魚も激減してしまうのだ。
仕方なく捨吉は、昆布を拾ったり、塩を作ったりして、どうにか生計を得ていた。
しかし、元が漁師であるから、魚は獲れぬと承知していても、捨吉は日に一度は必ず沖に出た。
網に幾らか小鯵が掛かることも無いわけでは無い。だが、殆どの場合、捨吉は手ぶらで岸に戻ることになった。
漁の行き帰りに、捨吉は海に沈んだ鳥居の近くを通る。鳥居が間近になると、海の安全と豊漁を祈願するため、その都度捨吉は手を合わせる。
そのまま舟を停め、波間を眺めると、鳥居の周りには数多くの魚が群れている。
「沖ではまるで獲れぬのに、ここにはこんなに魚が居るなあ」
捨吉にとっては、お宝の山である。
だがもちろん、捨吉はこの場所で網を打ったりはしない。ここは神社の境内と同じで、神の領域だからである。
「波に攫われても、あの鳥居はああやって立っている。神さまには何かお考えがあるのだ」
魚たちも、それを知ってか知らずしてか、猟師の舟が近寄っても、別段逃げもせず、ゆらゆらと泳いでいた。
そんな魚たちの中に、一尾だけ真鯛の姿が見えていた。
この近辺で、真鯛の成魚は珍しく、漁師でも滅多に見掛けることは無い。
捨吉はその真鯛の姿の美しさに見惚れ、鳥居を過ぎる時には舟を停めた。
「いつ見ても見事なものだ。おいお前。お前はけしてここから出てはいけないよ。ここに居れば、漁師に網を掛けられることは無いのだからな」
ここで捨吉は懐から、小さな鈴を取り出した。
チリンと鈴を鳴らすのが、餌の合図だ。
鈴を鳴らした後、捨吉は舟の近くに魚たちの餌を撒いた。
毎日のことで、魚たちも慣れている。
鈴が鳴るとすぐに魚たちが船の周りに集まって来た。
そんな小魚に混じり、一尺ほどの真鯛が悠々と泳ぎ、捨吉の舟に近付く。
ごく間近まで寄ったので、捨吉にはその真鯛の頭に、白い掻き傷が一本あるのが見えた。
飢饉は断続的に十年程続いたが、前の年くらいから気候が緩んできた。
いくらかではあるが、網に魚が掛かる日が増えて来た。
ある日、沖合に海鳥が集まっているのが見えたので、漁師たちは大慌てで舟を出した。
鳥たちの下には鰯や鯖の群れが泳いでいる筈だからである。
捨吉も漁師たちに混じり、自らの舟を出した。
案の定、沖合には鰊が寄せて来ていた。
波が白く立つほどの数である。
通常、鰊漁は刺し網を使い、漁師が協同で行う。しかし、今は浜に戻っている余裕は無い。
そこで、各々が自分の網を打って、鰊を掴まえることにした。
その漁は大成功で、漁師たちは舟に積み切れぬ程の鰊を引き揚げた。
捨吉が船の上で網を開くと、鰊の中に一匹だけ真鯛が混じっていた。
その真鯛を確かめると、頭の所に小さな傷が付いていた。
日頃、鳥居の近くを泳いでいた、あの鯛である。
捨吉は思わずその真鯛に声を掛けた。
「おい。どうして鳥居を離れたのだ。あそこに居れば安心だと申していただろうに」
真鯛は苦しげな表情で捨吉の顔を見る。
捨吉は日頃より、その魚に人に対するように接して来たので、どうしても不憫でならなくなった。
捨吉は真鯛を逃がしてやることにした。
捨吉は真鯛を海に放し、いつもの通りに声を掛けた。
「二度と漁師の網に掛かるなよ」
真鯛は捨吉の言葉を解するかのように、捨吉に眼を向けると、そのまま海中に姿を消した。
それからひと月後のことだ。
ある日、海が時化て、浜に荒波が押し寄せた。
捨吉は自分の舟が流されないように、浜の上に引き上げることにした。
浜に近付くと、あろうことか、沖の波間に人の姿が見える。
捨吉が目を凝らして見ると、果たしてそれは人だった。
その人は浮きつ沈みつしながら、浜に泳ごうとしている。
「あれは・・・。人だ。野辺地港とここの港を結ぶ船が難破したのだ。きっとそうに違いない」
北前船は野辺地を経由して蝦夷地に向かう。野辺地では、荷の一部を地元の船に積み替え、周辺の港に運ぶ。
その運搬船が転覆し、乗っていた人が海に投げ出されたに違いない。
捨吉はそのことを悟ると、すぐさま海に飛び込んだ。
この日は相当な荒波だった。
泳ぎの達者な漁師でも、幾度も水を飲み、波に叩き付けられた。
それでも、捨吉は溺れていた人を浜に引き上げることが出来た。
浜で相手を確かめると、溺れていたのは若い女だった。女はしたたかに水を飲んだと見え、ぐったりしている。
捨吉はその女を背負い、家に連れて帰った。
捨吉の背中から下ろされても、女は意識を失ったままだった。
「体が氷のように冷たい。濡れた着物をすぐに取り替えて、体を温めねば」
捨吉は奥の部屋に行き、箪笥を引き開けた。箪笥の底には、先年亡くなった母親が、この家に嫁に来た時の着物一式が入っている。
捨吉はその中から長襦袢を取り出し、女の許に戻った。
「今は火急の時だから、許してけろよ」
捨吉は女の濡れた着物を脱がせ、乾いたものと取り替えた。
女が正気を取り戻すまで三日掛かった。
その間、捨吉は、匙で粥を女の口に含ませたり、傷の手当をしたりと、献身的に尽くした。
眼を開くと、最初に女は捨吉にこう言った。
「ここは何処なの?わたしはどうしてここに居るの?」
船から海に落ちた時に、何処か二強かに打ちつけたらしく、女の額には打ち傷が出来ている。
頭を強く打ったせいか、女は前の記憶をすっかり失くしていた。
この女のつぶらな瞳を見て、捨吉の胸はどきりと高鳴った。
「傷が癒えて、前のことを思い出すまで、この家に居ると良いよ」
捨吉の申し出に、女はこっくりと頷いた。
それから十日の間は、女は寝たり起きたりの状態だった。
しかし、日一日と女の顔に赤味が差して来る。
捨吉が漁から戻ると、女が必ず「お帰りなさい」と迎える。その声も次第に力強くなって来た。
捨吉もそんな女を見るのが楽しい。
一人暮らしで寂寞とした家の中が、花が咲いたように明るくなった。
しかし、女は己の名を思い出せぬままだ。
このため、捨吉はひとまず女を「汐音(しおね)」と呼ぶことにした。