北奥三国物語 

公式ホームページ <『九戸戦始末記 北斗英雄伝』改め>

早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



北奥三国物語 鬼灯の城  

第5章 業火

業火(ごうか)
 あの川中の戦いから半月が過ぎた。
 釜沢館では年越しの支度が始まり、用人たちが慌しく働いていた。
 そんなある日のこと。
 主館の重清の許に、巳之助が駆け込んできた。
 「お屋形さま。門前に侍が二人参っております」
 この時、重清は文机(ふづくえ)で書き物をしていたので、顔も向けずに答えた。
 「断れ。どうせ己(おのれ)を雇ってくれという売込みだろう」
 あの川中での重清の戦いぶりは、たちまち北奥中に鳴り響いた。
 噂とは恐ろしいものだ。
 あの戦いは、「重清が僅か数十騎の戦力で、一千に及ばんとする九戸党を打ち破った」という話に膨れ上がっている。
 敵の総人数はそれほど違ってはいないのだが、実際のところは、その半数近くが百姓たちであった。
 しかし、重清が兵力何倍かの敵を打ち破ったことには変わりない。このため、その噂を聞き付けた浪人たちが、仕官の道を求めて、館門の扉を叩くようになっていたのだ。
 初めのうち、重清はそんな侍たちを中に通し、きちんと面談をして、こう伝えていた。
 「この釜沢の地に必要な者は、労苦を厭わず田畑を耕そうという志のある者だけだ。戦闘だけが取り得の者には、ここに居場所はない。扶持(ふち)が欲しければ、自ら開墾して手に入れよ。その気持ちがあるのなら、一定の広さの原野を割り当てる。それがしは今、そういう入植者のみを受け入れておる」
 重清がそれを告げると、ほとんどの侍が去って行く。顔を赤くして、重清のことを罵りながら門を出る者も少なくない。
 毎日がその繰り返しであったから、もはや重清は侍たちに会わなくなっていた。

 ここで巳之助が顔を上げる。
 「ですが、此度の者共は食い詰め浪人とは違うようです。名は名乗らず、ただ『遠縁の者が会いに来たと伝えよ』と申しております」
 重清は机の書面から目を上げた。
 何となく頭に閃くものがあったのだ。
 「その者たちはどんななりをしておるのだ」 
 「二人ともやたら背が高うござります。あれは優に六尺を超えてござりますな。二人とも長い外套ですっぽりと体を包んでおりまする」 
 「そやつは親戚の者だと申したのだな」
 「はい」
 「ではこの主館の大広間に通せ」
 「畏まりました」
 訪問者はその上背で、「遠縁の者だ」と自称しているという。
 「それなら、あの男かも知れぬ」
 重清にはその男に心当たりがあった。
 程なく廊下が軋む足音が響き始め、その足音が広間の方に向かった。
 客たちが腰を下ろした頃合を見て、重清は立ち上がった。

 重清が広間の板戸を開くと、中には男が二人座っていた。
 一人は五十過ぎの壮齢の男で、こちらが主(あるじ)である。長身のうえ、着物の上からでもそれと分かる頑健な体躯を持っている。
 首の上には、頑丈な体に相応しい精悍な顔が載っていた。
 重清は確かにこの男の顔に覚えがあった。
 そこで、まず主の男に一礼をした。
 「これはこれは。やはり九戸さまでござりましたか」
 男は九戸政実であった。
 政実は北奥の有力な地侍の一人で、今は近隣諸侯を束ね、その盟主になりつつある。
 「うむ。無沙汰しておったな。淡州殿」
 政実の呼ぶ「淡州」は「淡路守」の略称である。
 かたや傍らの一人は四十歳頃と思しき随身の者で、これは重清の知らぬ男だ。
 この男も主に劣らぬ上背の高さである。

 この時、重清は頭の中でくるくると考えを巡らせていた。
 わざわざ九戸政実本人が釜沢に出向いたとなれは、その用件は、先だっての戦いのことに他ならない。
 恐らく、あの時の当事者、すなわち四戸か下斗米、福田のいずれかが宮野城に赴き、政実に讒言(ざんげん)したのだろう。
 あの戦いの後、結果的に重清は野々上一帯を併合し、自領を広げた。このため、その者たちは「釜沢が侵略して、領地を奪い取った」などと告げた筈である。
 しかし、その話の中心には四戸宗春が座っている。四戸は九戸の姻戚ではあるが、政実がけして心を許さぬ人物である。
 このため、恐らく政実はその話をまともには受け取らなかった。ひとまず政実は重清本人に直接、事の次第を問い質(ただ)すべく、ここに来たのだ。
 (それに違いない。)
 その考えに行き着き、重清は腹の中で唸った。
 (今やこの北奥のあちこちで小競り合いが起きている。その核心に据わる人物が、僅か一人の供だけを連れて現れようとはな。)
 釜沢は三戸にも近い。目と鼻の先の蓑ヶ坂には、東信義配下の兵馬が詰めている。
 もし、重清に叛意があり、かつ功名心があれば、政実はたちまち殺されてしまうだろう。
 (果たしてこの男は豪胆なのか、あるいは無謀なのか。)
 そんなことを考えながら、重清は政実の瞳を見据えた。

 政実は顎をしゃくって、隣の男を示した。
 「わしの隣におるのは、工藤右馬之助だ」
 これで重清の疑問が氷解した。
 工藤右馬之助は稲富流砲術の使い手として、奥州全域にその名が響き渡っている。
 「なるほど。鉄砲の名手をお連れでしたか」
 この男が脇に控えていれば、政実に危害を加えようとする者など、現れようが無い。
もし、そんなことをすれば、如何に大勢で囲もうにも、この工藤右馬之助が真っ先に相手の大将を仕留めるだろう。
 重清が視線を前に戻すと、政実がじっと己の顔を見ていた。
 「人の口ではのう、淡州殿本人から話を聞こうと思うてな」 
 やはり政実の用件は、あの川中の戦いのことである。
 重清はひとまず惚(とぼ)けることにした。
 「誰かは分かりませぬが、我が領に侵入しようとする者がおりましたので、これを撃退しました。このところ、食を求めて狼藉を働く者が後を絶ちませぬでな」
 これに政実が軽く顎をしゃくる。
 「数十騎で戦ったそうだな。どうやって十倍の敵を倒したのだ」
 「なに。敵が渡河して来るところを狙い討っただけでござる。数の不利を補うためには、地の利を利用する他に手はござらん」
 「馬渕川は流れが急だ。しかも今は冬だ。凍てつく水は人や獣の足を止める。寄せた敵が立ち止ったところを狙ったか」
 「左様でござる」
 ここで政実は工藤右馬之助に目配せを送った。
 「右馬之助。聞いたか。越境したのは、やはり釜沢ではのう四戸勢だ。こちらの話の方が筋が通っておる」
 右馬之助が頷く。
 「辻褄が合いまするな」
 この男も、政実に負けず劣らず精悍な顔つきをしている。

 重清にとって幸いしたのは、政実への讒言が「小笠原重清が東や目時ら三戸侍と手を組んだ」という筋書きになっていなかったことである。
 もちろん、そんな話は作れない。
 釜沢と目時が組むことなど有り得ないからだ。
 隣領である釜沢と目時の関係が険悪であることは、北奥に知れ渡っていた。
重清は現に目時と人質を交換し、不可侵の取り決めを交わしている。そのことは、双方が互いに相手を警戒していることを示している。
 このため、四戸宗春らは、重清が三戸方と共謀したとする絵図を描けなかったのだ。
 重清の心中は穏やかではなかったが、しかし同時に、政実が己を責めることは無いだろうという確信もあった。
 釜沢は三戸九戸のほぼ中間で、双方からさほど遠くない。
もし、重清が三戸方に与(くみ)したという話になれば、九戸政実が直々に征伐に乗り出して来る筈である。
 九戸が本腰を入れて動き出せば、釜沢などひとたまりも無い。一日も持たず館は陥落するであろう。
 当世風の数え方で言えば、釜沢は高々六百石に過ぎず、かたや九戸は一万石を優に超える石高なのである。兵力自体、二十倍を超えている。
 それだけ実力差は歴然であった。
 だが、重清が政実と争おうとする構図は何処にも存在しない。
 そういう意味で、讒言の筋書きが重清にとって「幸いした」と言うのだ。

 小笠原一族は、三戸、九戸、八戸といった有力な地侍に対し、これまで一度も臣従したことが無い。
 これは父・伊勢より前からのことである。
 そもそも力関係が無いのだから、例え相手が九戸政実であっても、重清が頭(こうべ)を垂れる必要は無い。
 重清は胸を張って、政実の顔を正視した。
 「侍とは愚かなもので、領民を守ることを標榜しつつ、日々、武芸のみを修練しております。その労力を農耕に向ければ、多くの者が飢えずに済むのにも関わらず、そうしておるのでござる。しかし、食を増やす努力を怠っておれば、自然と蓄えが細くなりまする。いざ飢饉が来れば、ひとたまりもござらぬ。そういう時、侍はどうするか。答えはただ一つ。侍はその武芸の技をもって他領に侵入し、米を奪おうとするのでござる。民を守るためのものであった筈の武術が、民を殺すためのものに成り果てる。これが愚かでなくて、何でござろうか」
 これは重清の正直な気持ちであり、見解だった。
 釜沢では重清の父の代より、身分の別無く開墾に参加させている。その結果、この十数年で、米麦雑穀の収量を二倍に増やすことに成功していた。
 寺館山の周囲には、手付かずの山林が沢山ある。そこで、当初は山の斜面を伐採し、蕎麦を植えた。
 蕎麦は短期間で育ち、手が掛からない。
 蕎麦を含め、雑穀類に一定の収穫が見込まれるようになれば、安心して他の作物にも取り組める。
 今、重清は開拓民であれば、委細問わずに受け入れることにしている。これは従来と変わりない。
 今回、野々上を併合し、その地の百姓たちに米穀を分け与えたことが広まった。
そうなると、いずれ他領の百姓たちがそれを聞き付け、釜沢館の扉を叩く筈である。

 政実は背筋をぴんと立てたまま、前を向いて、重清の話を聴いていた。
 この館に入るまで、政実の心の内には一抹の疑念があった筈だが、それも重清の物腰を見た瞬間に雲散霧消したらしい。
 「淡州殿。貴殿の申される通り、食が滞りなく民に行き渡れば、他領のものを強奪せずとも良くなる。物盗りや人殺しが減り、安楽に暮らすことが出来ようぞ。開墾の策はお父上の伊勢殿が着想したことで、それを引き継いで、数十年に渡り継続して来たということでござろう。さすれば、釜沢は我らよりも、はるかに先を進んでおる。国づくりにかけては、この釜沢が奥州で最も先んじておろうぞ」
 政実からの褒め言葉に、重清は恐縮し、深く低頭した。
 「滅相もござりませぬ。我らは何も考えず、日々、畑を耕しておるだけでござる」
 「淡州殿のような御仁がこの奥州に増えれば、争いごとが減る。それは疑いない。だが、既に始まっておることは変えられぬ。もはや止められぬのだ。まるで大風に吹かれる木の葉のように、為すがままに身を任す他は無い。それを人の力でどこまで止められるものなのか・・・」
重清の前で、「ふう」という溜め息の音が響く。
 重清が頭を上げると、政実の顔には微かに笑みが浮かんでいた。
 「さて、淡州殿。我が城では、年明けに例年通り年賀式を開く。もし淡州殿が参られるのであれば、我が方は席を空けてお待ち致す」
 ここで再び、重清の頭の中で、くるくると思考が回り始める。
 宮野城での年賀式には、例年、叔父の吉右衛門が出ていた。
 吉右衛門は話好きで顔が広い。場を和ませ、人を容易く笑わせることが出来た。
 かたや、父伊勢や重清は、あまり人付き合いが上手な方ではない。
 その上、今はあの戦いの直後である。
 その当事者たちが集まっている所に、重清がのこのこと出掛けていけば、どうなるか。
 たとえ九戸政実が禁じても、四戸や福田は黙ってはいない筈である。
そうなると、往復の道中で命を狙われかねない。
 とりわけ四戸は、重清によって一族のひとりの首を落とされているし、その他にも多数が負傷している。
 (はて。どうしたものか。)
 咄嗟には判断しかねる申し出だった。

 重清の複雑な表情を見取り、政実が言葉を続けた。
 「まあ、極力、面倒ごとを避けたいということであれば、別に構わん。是非にとは申さぬ」
 この政実の言葉は、正直、本心なのであろう。
 釜沢が三戸と組んで九戸党に敵対する意思の無いことは分かった。しかし、かと言って、親族を殺された者の気持ちを宥(なだ)めるのは容易ではない。
 「よし。伝えたいことは、これで総て伝えた。右馬之助。では帰ろうか」
 「はい。畏まりました」 
 二人は揃って腰を上げようとする。
 重清は慌ててそれを押し留めた。
 「お待ち下され。まだここにいらしたばかりではござりませぬか。すぐに酒を届けさせますので、しばらくこの場にてお待ち下さい」
 しかし、二人は重清の制止を聞かずに、立ち上がった。
 「なに。今日は淡州殿の顔を見に参っただけだ。この数日は多忙でな。父の菩提寺にも参らねばならんし、所用が詰まっておるのだ」
 挨拶もそこそこに政実は廊下に出たが、そこで足を止めた。
 「そうだ。馬に土産をつけていた。反物が二匹だけだが、受け取ってくれ。郎等に、ここの者に渡すよう命じて置く」
 「これはかたじけのうござります」
 重清の返礼を聞き流し、政実はどんどん先に進み、館の外に出て行った。

 政実を見送るために、重清が館の外に出ると、用人たちが挙って客人を見守っていた。
 皆、「あの九戸将監が来た」という話を聞き付け、ひと目見ようと出張って来たのだ。
 侍女たちまでが、館の陰から顔を出し、様子を見ている。
 重清は己の傍らに巳之助が立っているのを認め、呟くように言った。
 「皆、物珍しそうに見ているな。女共まで外に出ておる」
 これに巳之助が笑みをこぼした。
 巳之助は好青年で、笑うと実の齢よりもさらに三つ四つ幼く見える。
 「女たちは、工藤右馬之助さまをひと目見ようと出て参ったのでござります。何せ、工藤さまと申せば、この北奥に住む女子たちの憧れの殿であられますから」
 「そうなのか。ふうむ。けして色男風ではないのだがな。あの男は見るからに実直そうだ」
 すると、巳之助は大仰な仕草で頭を振った。
 「いやいや。その実直さの中にもそこはかとのう男の色気が薫っておりまする。男の私でもそれは感じます」
 重清がもう一度視線を戻すと、宮野から来た客人二人は、ちょうど馬に跨ったところだった。
 馬上の政実が重清に別れを告げる。
 「また会おう。釜沢淡州」
 二騎は馬を駆り颯爽と門外に姿を消した。

 九戸政実を見送った後、重清はその足で北館に立ち寄った。
 館内では、いつも通り、杜鵑女が祝詞を上げる声が響いている。
 祈祷場の前に立つと、重清は廊下から中に声を掛けた。
 「杜鵑。入るぞ」
 杜鵑女は祭壇に向かっていたが、重清の声に気付き、振り返った。
 「これは淡路さま」
 重清はつかつかと部屋の中に足を踏み入れる。
 「これから三戸に参る。杜鵑。ぬしも連れて行くから、直ちに支度をせよ」 
 杜鵑女はまったく表情を変えずに頷いた。
 「畏まりました」
 「何故とか、何用でなどとは問わぬのか」
 「この年の瀬に町場に出るのは、年越しの支度をするためでござります。これはごく当たり前。私を帯同するのは、新年用の用具を揃えさせるためでござりますが、他にも見せたいものがござるのですな。物ではのう、人に会わせたいというお積りです」
 重清が「ふう」と息を吐く。
 「やはり説明は要らぬようだの。では半刻後に主館の前で落ち合うことにしよう」

 半刻の後、重清が館の外に出ると、杜鵑女は既に馬に跨っていた。
 全身を茶の外套ですっぽりと包んでおり、頭には頭巾を被っている。
 おそらく外套の中は、小袖を重ね着し、奴袴を穿いているのだろう。
 合戦の時とは異なり、世間の女子と同じ装束だ。
 「杜鵑。常日頃、ぬしは巫女姿をしており、俺はそれに見慣れておる。だから、ぬしがそういうなりをすると、まるで別人のように見える」
 頭巾から覗く杜鵑女の目が細くなった。
 笑みを浮かべているのだ。
 「あれから部屋に戻る途中で気が付きました。淡路さまは私を休ませてやろうとのお考えでござりますね」
 「このところ、ぬしは勤行と祭事に打ち込む日々を送っておる。だが、巫女であると同時に、ぬしは年頃の女子でもある。神に仕えるばかりでは身が持たぬ。女子としての暮らしもあろうから、息を抜かせてやろうと思うたのだ」
 穏やかな口調である。
 つい先頃、敵将の首を一刀で切り落とした男と、目の前の重清が、とても同一人とは思えない。
 (おそらく本心から、斯様に思われておられるのだ。私はこの人を武骨な方とみなしていたが、けしてそうではない。)
 杜鵑女は改めて重清の頭から爪先までを眺め渡した。
 そこには、身の丈こそ六尺に近い偉丈夫ながら、「ごく普通の壮齢の男」が立っていた。
 最初に会った時と違い、今の重清は顎から頬一帯が鬚で覆われている。その髭のおかげで武骨さが前面に押し出されている。
 しかし、その合間から覗く眼の光は至極柔らかなものだった。
 この時、杜鵑女はこの館に入って、初めて、重清を男として意識した。
 心なしか、重清の襟足の辺りから、男の匂いが香って来る。
 その匂いを嗅ぎ、杜鵑女は己の眉間にちりちりとむず痒さが走るのを感じた。

 そんな杜鵑女の心の内を知ってか知らずしてか、重清が言葉を続ける。
 「これから出掛けるのだから、今宵は泊まりになる。三戸では伊勢屋に寄るが、そこは米問屋だけでなく、旅籠もやっておるそうだ。そこに部屋を取るから、ぬしはゆっくりと熱い風呂にでも入ると良かろう。ぬしはいつも水垢離(ごり)だけで、熱い湯など久しく入っておらぬだろうからな」
 杜鵑女は馬上ながら出来るだけ腰を屈め、重清に拝礼した。
 「お心遣いを頂き、真に有難うございます」
 頭を下げつつ、杜鵑女は考える。
 (どうやら、この館に私の居場所が出来たようだ。後ろ盾となる人がこういう方であるなら、長く仕えることも難しくは無さそうだ。)

 重清が己の馬に跨る。二人がいざ出発しようとすると、その場に駆け寄って来る者たちがいた。
 一人目は巳之助である。日頃から杜鵑女の世話係をしているので、確認に来たのだ。
 「私は同行せずとも宜しいのですか。すぐに支度出来ますが・・・」
ここに二人目が追い付いた。 
こちらは小笠原十蔵である。
 「お屋形さま。この間の一件もござります。何処ぞで狙われぬとも限りませぬ故、警護の者をお連れ下さい」
 しかし、重清は二人に向かって言下に言い渡した。
 「この淡路が三戸の町に現れるなどと、一体誰が考えよう。例えて言えば、燭台の真下と同じだ。そこの様子は、離れていてこそ見えるのだ。灯りの近くに立っておれば、燭台の下は余計に暗くて見えはせぬ。もっと分かりやすく言えばこうだ。野原に一人で立っていれば他の者に見つかり易い。日頃、そこには人など居らぬからな。しかし、大勢の人の間に紛れれば、直ちにそれが誰とは気付かぬものだ。それと同じことだ。案ずることはない」
 杜鵑女は重清の話を隣で聞き、二度頷いた。

 ここで重清は十蔵に命じた。
 「明朝、人を伊勢屋に送ってくれ。明日は持ち帰るべき荷物があるからな。今年は雪が殆ど降らぬから、二三人で良いだろう。伊勢屋に言い付けて置くから、引き取りに来るのだ」
 「承知しました」
 十蔵と巳之助が頭を並べて拝礼すると、すかさず重清が馬に気合を入れ、二騎は館を後にした。

 夏の短い年に限って、冬は暖かいものだ。
この年もそういう年で、五月の末まで霙が降り、六月七月になっても降雨曇天ばかりで、肌寒い日が続いた。
ところが、晩秋に至ると言うのに、そのままだ。今度は冷気がやって来ない。
冬に入っても生暖かい日が続き、ほとんど雪が降らないのだ。
 異様な気象は十二月の終わりまで続き、今も尚、茶色の枯れ草が風に揺れている。
 そんな景色を眺めながら、重清が呟くように語った。
 「杜鵑。ぬしら呪(まじな)い師たちは人事のことを知り得ても、天のことは語らぬな。天候の良し悪しを教えてくれれば、それこそ人を救うことが出来るのにのう」
 「天候を読むのは、八卦読みの務めにござります。私らのような祈祷師は神の言葉を導くのが本領でござります」
 ここで重清が鬚面を杜鵑女に向ける。
 「ところで、ぬしは時々、想像もつかぬことを言い当てる。一体、あれはどういう仕掛けなのだ」
 頭巾から覗く杜鵑女の瞳がきらりと光った。
 「目の前で起きているかのように、その情景が浮かぶのでござります。ですが、それが過去に起きたことなのか、これから起きることなのかは分かりませぬ。それは、頭で考えて判断することです」
 「では、あの川中の戦いの時も、結末は見えたのか」
 「はい。あの時、私はかなり後ろに控えていましたが、勝利を確信していました。淡路さまが敵将の首を掴み、高く掲げているところを、その時既に見ておったからです」
 重清がここで目を見開いた。
 「俺は侍一人の首を打ったが、高く掲げてはおらぬぞ」
 「私が見たのは象徴にござります。逐一その通りになるわけではござりませぬが、概ね意味は同じです。これを見せているのは霊界の波動で、それを魂が感じ取っておるのです」
 「こと細かに一致するわけではないのか」
 「はい。事実と須(すべか)らく一致することはござりません。ぴたりと合うのは四分か三分まででしょう」
 三分四分では先読みなどできぬ筈だ。
 重清はそう考えた。
 「それでは、当てにならぬではないか」
 「はい。そこはただの波動です。ひたひたと寄せる力、あるいは気を感じ取るだけで、あやふやなものです。ですが、見えるものはひとつ二つだけです。それなら、それに従うか従わぬかを選ぶだけで済みます。言葉を替えれば、己にとって望ましいことを思い描き、自らの意思で選ぶことが出来るようになるのです。ただ徒(いたずら)に運命に流されるだけではござりませぬ」
 「霊視により幾つかの道別れを示すことは出来るが、その先は己で決めよ。言わんとするのは、そんなところか」
 「まさしくその通りでござります。霊視した状況を、生かすも殺すも本人次第なのです」
 杜鵑女の話にはまだ先がある。だが、敢えてそこで口を閉じた。
 重清はしかし、すぐにそれを感じ取っていた。
 「杜鵑。何か俺に申すべきことがあるのか。あるなら遠慮なく申せ。今ここには俺とぬししかおらぬ」
 すると、杜鵑女は頭巾の口の部分を引き下げ、己の顔を露にした。
 「淡路さま。夕月さまが懐妊なされました」
 夕月は淡路の側室の一人で、北館の一室で暮らしている。
 「何故それを知った。それもぬしの霊視によるものなのか?」
 杜鵑女はゆっくりと首を横に振った。
 「いえ、違います。私も北館の鴇(とき)の間におりますので、たまに館内で夕月さまをお見掛けします。私も女子ですから、女子がやや子を孕んだかどうかは、お姿を見れば分かります」
 ここで重清は、三月前に夕月と褥を共にしたことを思い出した。
 「そうか。あの時か」
 確かに思い当たることはある。
 何時ものように正室の雪路と些細な諍いをして、その夜は、夕月の部屋に向かったのだ。
 「淡路さま。此度はまことにお目出とうござります。この世の者総てにとって子は宝です。斯様な慶事を迎えるに当たり、私は淡路さまに、さらにご提案したきことがござります」
 「何だ」
 「淡路さまには、男のお子が居られぬ。前に私はそう承っています。ですが、本当はお一人居られますね」
 杜鵑女の言う通り、正しく申せば、重清には男児が一人いた。
 重清が若い頃、遠縁の者から妻を向かえ、早速その妻が子を生した。ところが、その妻の父が良からぬ謀を巡らせたので、その妻を離縁し、子を廃嫡としたのだ。
 その男児は、名を清太郎と言う。
 清太郎は、今では十五歳に達している筈である。
 「確かにその通りだ。誰に聞いたのだ」
 黒い頭巾が横に動いた。
 「いえ。こちらは霊視にござります。淡路さまが、大手門の前でお子を迎え入れるさまが見えました」
 「ひと度、縁を切った者だぞ。それにあの舅はまだ生きておろう。再び同じことになるのではないか」
 重清の問いに、馬上の杜鵑女が体を曲げて向き直った。
 「その舅殿は程なく死にまする。淡路さまの懸念は無くなります」
 重清の頭に、その男の顔が思い浮かんだ。
 その舅は、あろうことか、重清を廃し、釜沢を乗っ取ろうとしたのだ。
 「あの舅が死ぬのか」
 「はい。疑いなく。嫡男さまを手の内に戻し、さらに生まれて来る赤子が男なれば、小笠原一族の血はいっそう隆盛に向かうことでしょう」
 「ではひとまず考えては置く。答は三戸から帰ってからだ」
 「畏まりました」
 
 二人が三戸に着いた時は、既に未の下刻に達していた。
 日は殆ど落ちていたが、街中には提灯の火がそこここに点っており、道は明るかった。
 伊勢屋は三戸城下の中心部にある。
 二人が店の前に着くと、ちょうど番頭らしき用人が門扉を閉めようとするところだった。
 男の齢の頃は三十を少し超えたところで、如何にも気の利きそうな顔をしていた。
 重清はその用人に声を掛けた。
 「それがしは小笠原淡路だ。主人に『釜沢淡州が参った』と伝えよ」
 重清は九戸政実が己を呼んだ「釜沢淡州」という呼び方が気に入り、自身でも使うことにした。
 用人が中に入ると、すぐさま、女将が顔を出した。
 「これはこれは。小笠原さまではござりませぬか。よくいらして下さいました」
 「女将。小笠原さまとは如何にも他人行儀だ。俺のことは長一郎という呼び方で良い。我らは兄妹なのだからな。俺の方もぬしのことは吉乃と呼ぶ。それとも、この店での呼び方に致そうか」
 女将はすこぶる恐縮して頭を下げる。
 「いえ。それでは淡路さまと呼ばせて頂きます」
 「主人は居られぬのか」
 「伊勢屋は別棟に参っております。この店では穀物を商っておりますが、他に旅籠や飯屋、間貸し等もやっています」
 「間貸し?娼館もやっておるのか」
間貸しとは、部屋と食事を提供する生業だが、客に求められれば酌婦も出す商いのことである。
 「まあ、料理を出すのが主業です。主人は夕刻になると、概ねそちらにいます」
 ここで重清は懐から書付を取り出した。
 「今日は年を越す支度で参ったのだ。入り用な物を記して参ったから、取り揃えて欲しいのだが」
 女将は書付を受け取り、内容に目を通した。
 「畏まりました。総て我が方で揃います。明朝、辰の刻にはご用意します」
 「代金には永銭を持参致した。これより入り用な分を取ってくれ」
 重清は腰に巻き付けた布から、紐通しの銭を取り出した。永楽通宝銅銭を六百枚ほど括ったものだ。
 「不足であれば、これとは別に銀を渡す」
 女将が再び恐縮する。
 「いえ。この品書きであれば、これで充分でござります」
 「それとは別に、今宵の宿も頼む。そちらは改めて代金を払う故」
 ここで女将は杜鵑女に視線を向けた。
 そこで杜鵑女は頭巾を脱ぎ、女将に会釈をした。
 女将が重清に向き直る。
 「お部屋はひと間でござりますか。それとも・・・」
 女将は杜鵑女のことを重清の側女の一人だと見なしたのだ。側女であれば部屋はひとつで済む。
 「いや。ふた間頼もう。風呂が付いておればなお良い。ゆっくりと湯船に浸れば、日頃の疲れも取れようからな」 
 女将はそれを聞いて、ほんの少し小首を傾げた。
 「では、当家には離れがありますので、それをお貸ししましょう。お部屋の御用意が出来るまで暫く掛かります故、それまで、向かいの茶屋でお待ち下さい。その茶屋は亀屋と申しますが、この伊勢屋の縁者がやっておる店です。酒と少々気の利いたつまみを出します。部屋の支度が終わった頃には、主人も戻っております」
 「なるほど。まだ伊勢屋殿には会っていなかったな。伊勢屋殿と言えば、北奥で盛んに商いを行っておる大商人だ。是非一度話を聞いてみたいものだ」

 重清は館を構える地侍で、しかも女将にとっては実の兄だ。そのためもあってか、一般の客よりかなり上客の扱いとなっていた。
番頭に先導され、二人は道向かいの茶屋に向かった。
 戸を開くと、店の中心には二十畳を超える板間がある。その中に卓が六つ置かれ、各々を数人が囲んでいる。
客の総数は十五人ほどである。
 「この年の瀬、この時刻に、随分と客が入っておるな」
 重清の呟きが届いたようで、すぐに店主が近寄って来た。
 「茶屋の後ろが宿屋になっておるのです。この皆さまは、大半がその宿屋のお客さんです」
 ここで番頭が店主にこそこそと何かを告げる。おそらく「伊勢屋の客だから宜しく頼む」などと伝えたのであろう。
 店主が重清に向き直る。
 「では上座に座って頂きます。上座はあちらの少し高くなっているところです」
 店主が指し示したのは、元は床の間の一部だった場所で、周囲より一段高くなっている。
 重清は杜鵑女を従え、その上座に進んで腰を下ろした。
 杜鵑女はこれまでこのような茶屋に入ったことがない。このため、如何にも物珍しそうに周囲を眺め渡した。
 「なるほど。ぬしは斯様な場所に入ったことがあるまいな」
 杜鵑女は幼女時代から巫女として育てられて来たのだから、やはり世間のことに疎かった。

 ここに酒が運ばれて来る。
 重清は杯を杜鵑女に手渡した。
 「杜鵑。ぬしは酒が飲めるだろう。今宵は好きなだけ飲むが良い。それで羽を伸ばせ」
 ここで杜鵑女は再び客たちの顔を眺め始めた。
 この店の客は、商人あり、旅の者ありと、実に様々である。
 この年の最後の仕事を終え、様々な地から帰って来たのであろう。明日には家に着く筈で、皆がほっとした表情を見せている。
 酒の力によって饒舌になり、声高に話し込んでいる者もいる。
 杜鵑女から一間半ほど下に座っている者は、明らかに旅装である。
 男二人と女一人の組み合わせであるが、皆親族であるらしい。
 その者たちの話が聞こえて来た。
 「やはり柊女(しゅうじょ)さまは只者ではなかったな。あの方は、私の伯父の死に方まで言い当てた。あの方の申されたことを守れば、きっと母の病気も良くなるに違いない」
「まったくだ。奥州随一の霊媒との噂通りだな」
 杜鵑女の体が強張る。
 (こ奴ら。柊女の所に参っておったのか。)
 柊女は杜鵑女の師であり、また弟子の自分を放逐した者だ。
 (両親に手を引かれ、私が柊女の所に連れて行かれたのは、まだ四歳の時だ。以来、長らく柊女に仕えて来たと申すのに、あ奴はこの私のことをいとも簡単に放り出した。) 
 「断じて許せぬ」
 杜鵑女はこれを口に出して言っていた。
 それを重清が聞きつけた。
 「杜鵑。どうしたのだ。険しい表情をしておるぞ。何か気に入らぬことでもあるのか」
 杜鵑女が向き直る。
 「いえ。少し昔のことを思い出しただけです」
 「ぬしが今の道に入ったのは何歳の時からだ?」
 「まだ五つにもならぬ頃にござります」
 「巫女となり、いずれは祈祷師になる。そのためには、そんな幼き頃より修行の道に入らねばならぬのか」
 「はい。祈祷所には八人の巫女、および見習いがおりましたが、いずれも四つ五つの頃より柊女さまに師事しておりました」

 この時、重清は別の方向を見ていた。
 入り口の辺りに二人が座っていたのだが、 その二人のことが気になったのだ。
 一人は頑丈な大男で、もう一人は若い女。そんな組み合わせである。
 (あの男。立ち上がれば、上背はおそらく六尺を超えるであろうな。)
 男の齢は五十歳くらいで、頭が薄くなって来たのか、髪を辮髪(べんぱつ)にまとめていた。
 (一体、どんな生業をしているのか。)
 黒い色の小袖を重ね着して、陣羽織風の上掛けを着ている。下は奴袴だ。
 侍ではなく商人でもない。しかし、狩人のような粗野な感じも乏しかった。
 男の正体がどうにも分からない。
 女の方に目を向けると、女はまだ二十台の半ば程である。
 男の着るような茶色の着物を着て、やはり奴袴を穿いている。ひと言で言えば、男のなりをしていた。
 長い髪を束ね、背中に垂らしている。
 女は一瞥で人の目を引くような美形で、とりわけ目元がすっきりと涼やかだった。
(あの男にこの女。親子ではあらぬし、男女の交わりからかもし出される濃密な気も漂っては来ぬ。)
 店のその一角だけに、どこか禍々(まがまが)しい雰囲気が漂っていた。
 店の入り口を客が出入りすると、二人はすぐさま戸口の外に目を向ける。
 二人の度重なるその仕草を見ているうちに、重清はうっすらと気付いた。
 (道の向こうは伊勢屋だ。こやつらは伊勢屋を見張っておるのだ。)
 してみると、この二人は伊勢屋に対し、何か良からぬことを考えているのに違いなかった。

 それから小半刻の後、二人が立ち上がった。男の背は、やはり六尺を優に超えている。
 男は帳場に近付くと、小さな木札を渡した。札は刀を預けた証で、すぐに店主が刀を運んで来た。
 野太い直刀で、まさに大段平である。
 女の方も小振りの細刀を二本手渡されている。
 (間違いない。あれは夜盗の類だ。伊勢屋を襲うつもりで、下見に参ったのだ。)
 二人が店の外に出た。
 「杜鵑。ちと厠(かわや)に行って来る。ぬしはこのままここで待っておれ」
 重清は帳場に行き、刀を貰うと、二人の後を追って外に出た。
 するとその二人は店の横にある馬溜で、各々の馬に乗ろうとするところだった。
やはり二人は裏の宿屋に部屋を取ってはいなかったのだ。
 重清は馬の脇に立つ男の背中に声を掛けた。
 「おい」
 大男がゆっくりと振り返る。
 重清も上背はほぼ六尺だ。大男二人が間合い一間の位置で対峙した。
 「きさまは百姓ではなく、商人でもない。侍でも坊主でもない。となると、俺にはひとつの答えしか思い浮かばぬ」
 大男の向こうで、女が上衣の裾を払い、刀に手を掛けるのが見えた。
 大男が口を開く。
 「なら何だと申すのだ。はっきりと言え」
 ここで重清は己の刀を握る左手を少し外に向けた。こうすれば、女が切り込んで来ても受けられるからだ。
 「道向かいにある伊勢屋は、俺の近しき者がやっておる店だ。もしその店に不埒な行いを為す者があれば、俺が一族を挙げて阻止する。そのことを心して置け」
 その途端、大男の両目がかっと開き、重清を睨み付ける。
 「伊勢屋は侍と結託して、この北奥の商いを牛耳っておる。今や伊勢屋の顔色を覗わねば、米麦雑穀の商いが成り立たぬほどだ。これが正しい有りさまか」
 大男からは今にも飛び掛って来そうな気配が滲み出ていた。
 「だからと言って、強奪して良いわけはないではないか。きさまの体からは血の匂いがぷんぷんと漂って来る。きさまは盗むだけではなく、押し込みに入った店の者を殺しておるのだろう。その振る舞いは、けして正義を世に示すことではあるまい」
 重清は右手を刀の柄に手を置き、何時でも戦える体勢を取った。
 武芸者の力量は、構えに如実に表れる。
 大男はこの侍が極めて「ややこしい相手」だということに気が付いた。
 「お前。お前は何者だ」
 重清は半身の体勢になり、大男に告げる。
 「それがしは小笠原淡路と申す者だ。人はそれがしのことを釜沢淡州と呼ぶがな」
 その途端に、大男がほんの少し顰め面を見せた。
 「釜沢淡州だと。何故に侍が商人と関わりを持つのだ。己の身内でもあるまいに」
 「いや。その店の女将は俺の妹だ。ひと度、その妹を襲えば、ぬしは釜沢の者総てを敵に回すことになる」
 重清の名を聞き、大男がふっと力を抜いた。
 あの川中の戦の噂は、北奥全域で鳴り響いていたらしい。
 「ふん。きさまがあの噂の主か」
 ほんの一瞬だけ思案すると、大男は腹を決め、後ろの女に告げた。
 「蓮。引き上げるぞ」
 女は大男の顔を一瞥すると、すぐさま馬に跨る。
 店の前には篝(かがり)火(び)が置いてあったが、その火の灯りで女の横顔が照らし出された。
 (研ぎ澄まされたような整った顔立ちだ。氷のごとき美しさを持ち合わせておる。)
 女に続き大男が馬に跨る。それを見て、重清は漸く警戒を解き、刀から右手を離した。
 二騎が重清に背を向けて、立ち去ろうとするところに、重清が声を掛けた。
 「おい大男。ぬしは何という名だ」
 辮髪の大男は後ろを振り返り、重清に告げる。
 「愚かな。見ての通り俺は盗人だ。お尋ね者が己の名を名乗る筈も無かろうが。今宵はこれで帰るが、次に会(お)うたら、きさまの命は無い。二度と俺に出会わぬことを願え」
 馬の尻に鞭が入り、二騎は蹄の音高くその場から去った。

 重清が店に戻ると、杜鵑女が居ずまいを正して待っていた。
 「ご無事でしたか」
 店の外のただならぬ気配は、中にも届いていたのだ。
 重清は己の席に尻を下ろした。
 「やはり盗人の類だった。伊勢屋を襲おうと考え、下見に来たらしい」
 「申し訳ござりませぬ。先ほど私は他のことに気を取られておりました」
 実際、杜鵑女は柊女の話に耳を奪われていた。
 「なあに。祈祷師とは言え、何から何までを見通せと申すのは無理な話だ」
「そう申されますと、却(かえ)って恐縮してしまいます」
 ここで重清は、客たちの視線を感じた。
 外の話が店内に届き、重清の素性が客たちにも幾らか知れていたものと見える。
 店主が近寄って来て、酒器ひとつを卓上に置いた。
 「これは店からでござります」
 「これは済まぬな。ところで、先ほどあちらに座っていた二人組のことだが、あれは如何なる奴らなのだ」
 「いえ。存じ上げませぬ」
 しかし、重清は店主の素振りに違和感を覚えた。
 「本当のことを申せ。あ奴らは盗人だ。ぬしは伊勢屋の縁者であろう。あ奴らは伊勢屋を狙っておったのだぞ」
 店主が震え上がる。
 「え。まさかそんな・・・。真(まこと)でございますか」
 この話を隣の客が聞いていた。
 その客が重清と店主の話に割って入る。
 「あれは赤虎だ。毘沙門党の親玉だ。毘沙門党は盗人の集まりだが、侍や悪徳商人しか狙わぬ。それどころか、貧しき者に食い物を配ってくれる。だから、誰一人として赤虎のことを役人に告げ口にする者はおらぬ。たとえ何処(どこ)ぞで見掛けることがあっても、見て見ぬ振りをするのだ」
 「そやつは義賊を気取っておるのか」
 「いや。獲物の半分は己のものにするのだから、到底、義賊などではあるまい。だが、下々のものにとっては、命を救ってくれる者であることも、また間違いではない」
 この客の風体を見ると、明らかに薬売りであった。各地を回って実際に見聞きしているから、話に信憑性がある。
 「傍に女子がいたであろう、あれが紅蜘蛛で、赤虎の妹だ」
 「随分と齢が離れておるな」
 「赤虎の養女だったのだが、余りに腕が立つので妹にしたとの噂だ。あれほどの美人なのに、気性が激しくて、これまで何十人も殺しているらしい。赤虎はともかく、妹の方は皆に恐れられておる」
 確かに、あの女の全身からは、何ともいえぬ猛々(たけだけ)しさが醸(かも)し出されていた。
 「あれが紅蜘蛛か」
 ここに伊勢屋の番頭が入って来た。
 「ご用意が出来ました。どうぞいらして下さい」
 重清は腰を上げ、杜鵑女を従え、再び伊勢屋に戻った。

 二人が通されたのは、問屋から一丁離れたところにある間貸しだった。建前は文字通り、 「部屋を貸す」生業だが、その部屋で料理も出せば、酌婦も提供する。
 上客には、店ではなく別棟を貸すのだが、重清が通されたのは、その別棟の庵だった。
 庵の中に入ると、座敷の板戸が開いている。その中には男が一人座っていた。
 これが主人の伊勢屋であろう。
 伊勢屋は重清を認めると、床に手を付いて座礼をした。
 「初めてお目にかかります。私が伊勢屋にござります」
 「それがしは釜沢淡州にござる。どうかお顔を上げて下され」
 伊勢屋が体を起こす。齢の頃は六十くらいで、痩せ型の男である。
 その伊勢屋の顔がパッと明るくなった。
 「なるほど。貴方さまは愚妻に生き写しでおられます。貴方さまと愚妻が兄妹というのは、微塵も疑いござりませぬな」
 「ここにおる祈祷師が言い当てたのだ。まだ若いのだが、霊視の力には確かなものがある。何十年も修行を積んだ修験者や高僧にもひけを取らぬ」
 「ほう。霊視でござりますか。卜占とは如何様に異なるのでしょうか」
 「いや。この者には、昔のことやこれから先のことが、目の前でそれが起きているかのように見えるようだ。神仏の助けを借りて、普通の者には見えぬものを見るらしい。こ奴は聞く側が恐ろしくなるほど、物事を言い当てる」
 「では先だっての戦でも・・・」 
 重清が頷く。
 「うむ。この者の助言により、敵を倒すことが出来た」
 重清が横目で杜鵑女を見ると、杜鵑女は無表情に伊勢屋を見詰めていた。
 杜鵑女の心はもはや別の所にいるのだ。
 それに気付いたか気付かずしてか、伊勢屋は饒舌に語り始める。
 元々、話好きの男であるらしい。
 「またあちこちで小競り合いが起きてござりまする。小競り合いならともかく、大きな戦に発展するやも知れませぬ。この秋には、上方より使いが参り、『この後は関白に従うべし。従わぬ者は斬る』との書状をもたらしたとのこと。実際、上方軍は奥州まで軍を進め、不服従の者を滅ぼしております。これまでとは、また別の筋書きが生まれておるのです」
 伊勢屋は北奥全域で商いを繰り広げているため、各地の情勢を熟知していた。
 「それが今の混乱の源なのだ。小田原攻めに際し、羽柴秀吉は各地の大名に参陣を命じた。 その際、南部大膳は周囲の地侍に『事情がある者は参陣せずとも構わぬ』と触れ回った。しかし、その一方で、大膳自身は小田原に参ったのだ。それで、いざ帰参すると、今度は『北奥七郡は、関白さまより己が領に定められた』と言いよった。これでは、北奥の者にとってすれば、抜け駆けと申すか、騙まし討ちのようなものだ。糠部郡ひとつ手中に出来ぬ者が、いきなり七郡の主とは笑わせる。多くの者がそう思うておるだろう。だから事あるごとに諍いになるのだ」 
 伊勢屋の目がきらりと光る。
 「では、淡州さまもそのようにお考えなのですか」
 「少なくとも、その者たちの心持は分かる。本を糺(ただ)せば、いずれも甲州より下ってきた者同士だ。いずれが上位下位だのという格式など無かったのだからな。戦に負けたのなら致し方ないが、こんな騙まし討ち同然の扱いでは腹が立つだろう。僅か数か月の内に、既に幾人も改易となっておる。そういう者は腹の虫が収まらぬ。ならば、いずれ大きな合戦に発展するだろうことは疑いない」
 伊勢屋が酒器を差し出す。重清はそれを受け取り、酒を注いで貰った。
 「此(こぞ)年、関白は自ら黒川まで参った。関白は不参の者の所領を取り上げ、直参の者たちに分け与えるつもりなのだろう。今は蒲生忠三郎(氏郷)がそこにおる。奥州諸侯の動静を見守り、牽制するためだな。そうなると、小田原に行かなかった者は、首元が薄ら寒い。しかし、そんなくだらぬ名分で自領を失うのなら、いっそ戦って死ぬ方がましだ。そこで今の世情は、合戦へ合戦へと向かっておるのだ」
 「では、淡州さまご自身は、この後どうなさるお積りでござりますか」
 「どうするも何もないだろう。釜沢はごくちっぽけな郷だ。強き者に逆らおうとて一日も持たぬ。北奥の大将が決まれば、それに従う他はないではないか」
 伊勢屋は酒器を傾ける手を止めて、じっと重清を見詰めた。
 「ここにおる杜鵑女は、『大身の者たちには等しく近しく、また等しく間を置け』、と申しておる」
 先んじて動き、徒党を組めば、その勢力と運命を共にすることになる。
 大勢が判明するまで、模様を眺めている方が無難だ。それは祈祷師でなくとも分かる。
 「それは賢明でござりますな。誰かに敵と認識されるのを、極力遅らせることが出来まするでな。気のごとく水のごとく、極力色を消しておる方が宜しいでしょう」
 「その辺、商人は良い。どちらの味方、どちらの敵と色を付けられる事がないからな。商人の頭には、それが商いにとって有利か不利かということだけで良い。今は何をするにも金が要る。戦をするにも戦費が必要だ。戦の度に、侍は商人に金を借りねばならぬ程だ。それこそ、合戦をする相手同士が、同じ商人に金を借りていても不思議ではない。となれば、必ず生き残るのは商人で、我ら侍ではない」 
 その言葉に、伊勢屋は大仰に仰け反り、右手を左右に振った。
 「滅相もござりませぬ。私ら商人は、ただ命じられるまま従うだけでござりまするよ」
 「ふふ。果たしてそうかな」
 「最も強(したた)かな者とは、侍でなく商人でもなく、百姓でござりましょう。侍も商人も大地から米を産み出すことは出来ませぬから。さて」
 風向きがおかしくなって来たと思ったのか、伊勢屋が今思い出したように話を変えた。
 「この離れには、大釜の風呂がござります。既にお湯も張ってござります故、ごゆるりとお入り下さい。この家には床の間が三つござりますが、この隣の間に夜着を敷き、火鉢を置いて温めております。小女を一人、用人部屋に置きますので、ご用があればその者にお申し付け下さい」
 伊勢屋はそれを言い置くように立ち上がり、部屋を退出した。

 程なく、重清が湯浴みのために部屋を出て、この部屋には、杜鵑女一人が残された。
 杜鵑女はこの日のことを思い返してみた。
 「淡路さまは私に『体を休めて貰う』と申されたが・・・」
 杜鵑女はたかが食客の一人で、もてなしを受けるべき立場ではない。
 ここで杜鵑女は立ち上がって、隣室との仕切戸を開いてみた。
 すると、そこには夜着が二人分用意されていた。
 「これは・・・」
 ここで杜鵑女は合点が行った。
 「淡路さまは、やはりこの私をご所望なのだ」 
 祈祷師が提供出来るのは予見と安心だが、しかし、それはただの言葉だ。
 予見が当たらず、主によって力量不足とみなされると、すぐさま放り出されてしまう。
 そこで、女祈祷師の中には、夜をひさぐことで、その不足を埋める者もいるのだ。
 杜鵑女はまだ若く、通りすがる者たちが思わず振り返る程の容貌を持ち合わせている。
だから、重清が女人として興味を持ったとしても不思議なことではない。
杜鵑女は釜沢館に召し抱えられることになった時から、「いずれ重清に夜伽(よとぎ)を命じられることがあるかも知れぬ」と覚悟していた。
 むしろ、館における己の地位を固めるためには、その方が望ましいかも知れぬ。
 「あの方は、将来この北奥を支配する器の主なのだし」
 その支配者を支える祈祷師、もしくは軍師としての地位を築けば、杜鵑女の将来も安泰である。
 そうすれば、いずれは柊女を凌ぐ祈祷師となり、師を見返してやれる。
 「そのためなら、この体を差し出すことなど、容易いものだ」
 杜鵑女はそう決意し、この夜だけは女人として振る舞うことにした。

 程なく重清が湯浴みを済ませ、部屋に戻って来た。それと入れ替わるように、杜鵑女は湯浴みに向かった。
 湯に浸り、丁寧に体を清め終わると、杜鵑女は火鉢の炭に香を散らし、着物や体に十分に香の匂いを染み着かせた。
 身なりを整え、再び最初の部屋に向かう。
 杜鵑女が板戸を開くと、重清は再び酒を飲んでいた。
 「どうだ。さっぱりしたであろう」
 「はい。この家は何処もかしこも贅沢なつくりになってござりますね」
 「今の世で、最も贅を尽くした暮らしをしておるのは、これこの通り商人だ。いずれは、大金を扱う商人が政(まつりごと)を動かすような世の中になるやも知れぬな。まあよい。杜鵑。今宵はぬしもここに座り、一緒に酒を飲め」
 重清は既に赤ら顔である。
 杜鵑女の入浴中に、酒をしこたま飲んでいたと見える。
 杜鵑女は腹を決め、重清のすぐ隣に腰を下ろした。すぐさま重清は杜鵑女に盃を持たせ、それに酒を注いだ。
 杜鵑女は言われるままに盃を口に付け、ひと息にそれを飲み干す。
 杜鵑女が顔を下げ、重清に向き直ると、隣の寝間の仕切り戸が開いていた。
 寝間の中の様子が杜鵑女の眼に入る。
 すると、先程は夜着が二人分敷かれていたのに、今は一人分に減っていた。
(あれは・・・。)
 視線を前に戻すと、重清の眼(まなこ)が待っていた。
 「別の部屋にと申し伝えたのに、小女が誤ってひとつ部屋を用意していた。そこで、支度をやり直させたのだ」
 「では・・・」
 重清の顔に苦笑いが浮かぶ。
 「俺がぬしに夜伽を命じると思うたか。安心せよ。俺はぬしを側女の扱いとはせぬ。何故か分かるか。当ててみよ」
 杜鵑女はふた呼吸の間考え、重清の投げかけた謎を解いた。
 「貴方さまがお考えになられたことは、もし私を抱けば、女子の性が目覚め、霊力が上手く働かなくなる。そういうことです」
 「そうだ。ぬしは力のある霊媒であり呪い師だが、女子の悦びを覚えたなら、必ずやそれが勝るようになる。もしくは、無意識に主である俺の気に入るような答えを口にするようになるだろう」
 杜鵑女は、我知らず首を横に振っていた。
 「そのようなことはござりませぬ。私が己の肉欲に負けるようなことなど、絶対に・・・」
 杜鵑女は一旦、重清に言い返そうとしたが、しかしそこで止めた。
 ここで「そんなことはない」と申し出ることは、すなわち「己のことを抱いてくれ」と言うことと同じであるからだ。
 「杜鵑。ぬしが今為すべきことは、祈祷師として、この俺のことを支えることだ。また、ぬしは薬師でもあるのだから、その技を釜沢の者たちのために施してくれ。この隣の部屋はぬしが使うが良い。俺は奥の間の方で休むことにする」
 川中の戦い以後、どうやら重清は杜鵑女のことを、よりいっそう重要視するようになっている。
 少なくともそれは疑いのない事実だった。
 「はい。畏まりました。では私も存分に酒を頂きとうござります」
 「そうか。それは良い。では幾らでも飲め。飽きるまでのむが良いぞ」
 重清は己の脇にある酒甕を持ち上げ、杜鵑女の隣に置いた。
 杜鵑女は柄杓を取り、手ずから酒を酒器に移した。
 それから、その酒器をそのまま持ち上げ、こくこくと酒を飲んだ。
 (どうやら私の地盤は確実に前より固くなっているようだ。だが、可笑しなことに何故か物足りぬ。その実、私が心の内で、淡路さまに抱かれることを望んでいたと申すのか。解せぬ。他人の心は読めても、己の本当の心は分からぬものだ。)
 この杜鵑女の引き攣り笑いを、重清は見逃さない。
 「何だ、杜鵑。もう酒が回ったのか。ぬしは金の掛からぬ女子だのう」
 芝居じみた台詞に、すかさず杜鵑女は小芝居で返した。
 「惚れた男に見捨てられ、わちきは悲しゅうござります」
 さめざめと泣く振りをする。
 「はは。それは何と申したか、芝居の一節だな。さて、あれは何だったか。まあよい。夜は長いぞ。これから飽きるまで酒を腹に入れるからな」
 「はい。せいぜいお供させて頂きます」
 杜鵑女は再び柄杓を手元に引き寄せた。

 翌日。重清と杜鵑女は昼前に三戸の町を出発した。町外れに出ると、空から小雪がちらほらと落ちて来る。
 「此年はほとんど雪が降らなんだが、どうやらこれからのようだな」
 「程なく本降りになりまする。急ぎ戻りましょう」
 馬の尻に鞭を入れ、道を急ぐ。
 道の途中で周囲の景色が白く変わったが、二人はふた時半で釜沢館に帰り着いた。
 坂を上り、大手門の前に差し掛かると、中から老爺が小走りで走り出て来る。
 二人はそこで馬を下り、老爺に馬の口を渡した。
 そこで杜鵑女が何気なく主館の方向に目を遣ると、館前にひとりの女が立っていた。
 (あれは・・・。そうか。あれが話に聞く目時の人質か。)
 人質と同じ館内で暮らしてはいるが、杜鵑女はいつも北館の中にいて、ほとんど外に出ることが無い。
 杜鵑女が人質の女を見るのは、これが初めてだった。
 二人が主館の前に近付くと、その女人がいそいそと歩み寄って来た。
 女は真っ直ぐに重清の間近に体を寄せる。
 「淡路さま。お帰りでしたか」
 「外で待っておったのか。風邪を引くぞ」
 二人の声が柔らかい。とても館主と人質の間柄とは思えない。
 「いえ。たまたま雪を見に出たところです」
 それが嘘であることは、杜鵑女には分かる。女は半刻以上前から、今か今かと重清の戻りを待っていたのであろう。
 (もちろん、淡路さまもそれを察しているに違いない。となると・・・。)
 二人は、必ずや男と女の仲に違いない。
 杜鵑女は己の右の眉が痙攣を起こしたかのようにひりひりと痺れるのを感じた。

 「では私は北館の方に参ります」
 重清に一礼をして、杜鵑女は二人と別れ、北館の方に足を向けた。
 五歩十歩と離れた時、杜鵑女は何かが焦げたような匂いを鼻に感じ取った。
 「これは何だ」
 思わず後ろを振り返る。
 すると、真っ先に目に映ったのは、重清と人質が二人並んで背中を向け、主館に入ろうとする姿だった。
 「ああっ」
 この時、杜鵑女は驚きの余り、大きな叫び声を上げた。
 何故なら、その二人の周りを、ぼうぼうと燃え盛る炎が取り巻いていたからだ。
もちろん、その炎は実在しないのだが、杜鵑女の目にはそう映った。
 杜鵑女の目の前で、火炎が勢いよく女の体から噴出し、女のみならず重清をも囲むように渦巻いている。
 「何ということだ」
 これで、杜鵑女は、昨夜何故重清が己のことを抱こうとしなかったのか、その真相を把握した。
 重清はあの女の虜(とりこ)になっているのだ。
 だから杜鵑女には手を出そうとしなかった。
 「しかも、あの女子は淡路さまを地獄に導こうとしておる」
 あたかも地獄の釜の蓋が開き、そこから噴き出したかのように、業火が二人を包もうとしていた。
 「これは不味い。何とか致さねば」
 釜沢淡州は北奥の命運を変えるだけの器だ。それを女子一人の手で潰されかねぬとは・・・。
 「これは見過ごせぬ。けして許すわけには行かぬ」
 杜鵑女は、祈祷師として、また女人として、己が踏みにじられたような気がした。
 「あの女子。早々に排除してくれようぞ」
 杜鵑女は己の腹の底から、どす黒い憎しみの念がふつふつと湧き上がって来るのを感じた。

 その頃、重清と桔梗は奥の間に入っていた。
 重清の着替えなどは、総てこの部屋に仕舞ってあるからだ。
 奥の間には、囲炉裏の蓋が開けられ、炭火が熾っている。上下の座には、各々一つずつ火鉢が置かれていた。
 「雪が落ちて来ましたから、さぞお体が冷えてござりましょう。温めて差し上げようとご用意してお待ちしておりました」
 おそらく昼過ぎには戻るだろうと考え、桔梗はそれに合わせて部屋を暖めていたのだ。
 重清が旅装を解き始めると、桔梗がすぐに身を寄せ、甲斐甲斐しく着物を取り替えさせた。
 「雪が吹き込まぬように、戸板を立てますね」
 桔梗は縁側に向かい、外側の戸板を総て閉じた。
 これで部屋に差し込む光が消え、灯りは炭火の赤い火の色だけになった。
 「すぐに灯明に火をお入れします」
 そう言って桔梗が外へ出ようとするのを、重清が制止した。
 「いや、これで良い。ここに来て、俺の隣に座ってくれ」
 その言葉に、桔梗が囲炉裏端に戻り、重清の隣に腰を下ろす。
 重清が火箸で炭を掻くと、炎が燃え立ち、その赤い光に二人の顔が照らし出された。
 その火を見詰めながら、桔梗が呟く。
 「何だか、随分とお久しぶりにお会いするような気が致します」
 「俺もそう思うのだが、実際に不在だったのはたったひと晩だけだ。そこが不思議での」
 「僅かひと晩でしたか。でも、私にはなるで半年一年の間のような気がしました」
 桔梗が身を寄せ、重清の顔を見上げる。
 炎の灯りに照らし出された桔梗の二つの眼は、濡れたように光っている。
 重清は桔梗の頬に手を当て、顔を引き寄せて口を吸った。
 「あ」と桔梗が息を漏らす。
 重清は桔梗の着物の裾を割り、太腿に手を這わせた。
桔梗が「ああ」と呻き、重清に縋(すが)り付く。
 重清は桔梗を抱きすくめ、ゆっくりと後ろの床に横たえた。
 「毎夜毎夜、俺はぬしを抱き、幾度も交合(まぐお)うておる。だが、それでもまだ足りぬ。汲めども汲めども水が湧いて出る泉のように、ぬしに対する欲情が止めどなく溢れ出て来るのだ」
 重清のその言葉が、いっそう桔梗の胸を焦がした。
 「私も同じでござります。貴方さまを愛しく思う気持ちが、いつ何時でも滾々(こんこん)と湧いて参るのです」
 桔梗が重清の手を取り、自らの股間に導く。そこは桔梗の言葉の通り、充分過ぎるほど溢れていた。
 「先ほど外で貴方さまをお見かけした、その瞬間から、既に私はこんな具合です」
 桔梗の熱い息が重清の頬に当たる。
 重清は桔梗の耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。
 「それでは俺は抗えぬ。それに、先ほどぬしが戸板を閉じたのは、このためであろう。こうしてくれと乞うていたのだ。俺には分かっていた」
 ここで重清は桔梗の着物の裾を大きく引き開けた。
 「ああっ」
 桔梗が声を上げて叫ぶ。
 毎夜の交情の果てに、桔梗は周囲を憚らず喘ぎ声を上げるようになっている。

 その声を廊下の片隅にいた侍女が耳に留めた。侍女は桔梗が目時から連れて来た、あの「みち」である。
 みちは床の間の前まで来ると、中に向かって声を掛けた。
 「桔梗さま。どうかなされましたか」
 その声に、桔梗が喘ぎ声を堪(こら)える。
 「何でもありません。貴女は外の薪小屋から薪を運んで下さい。それが終わったら、夕餉の支度をしますから、お湯を沸かすのですよ。そしてそのまま竈(かまど)の前に居て下さい。あ」
 桔梗が思わず声を漏らす。
 桔梗がみちに指図する間も、重清は桔梗の太腿を撫でる手を休めなかったのだ。
 「意地悪」
 桔梗は唇を噛みしめて耐える。
 侍女の足音が遠ざかったのを確かめると、桔梗は思いのたけの喘ぎ声を張り上げた。

 重清と桔梗はその時二度交情した。
 それから、常居で簡単な夕餉を済ませた後、直ちに床の間に戻り、またもや重ねて交合った。
 疲れ果てた二人が眠りに落ちたのは、もはや夜半過ぎだった。
 ひと眠りした後、重清は物音を聞き付け、目を覚ました。
 しくしくと誰かが泣く声が聞こえたのだ。
 目を開いたが、部屋の中は真っ暗である。
 明り取りの小窓からも、まったく灯りが差して来ぬ。まだ朝には遠い時刻である。
 よく確かめると、泣き声は重清の隣から聞こえていた。
 「桔梗。どうしたのだ。一体何故に泣いておるのだ」
 そこで桔梗が顔を向けた。
 重清が桔梗の頬に手を触れてみると、やはりそこは涙で濡れていた。
 「長一郎さま」
 「どうしたのだ。その涙の訳を申せ」
 桔梗がわなわなと体を震わせる。
 「私は人質です。このままでは、いずれ目時に戻されてしまいます。でも、私はもう、あの館には戻りたくないのです。私は貴方さまと共に暮らしたい。どんな境遇でも構いませんから、私をここに置いて下さい。側女でも侍女・下女でも構いません。この館で、貴方さまと共に暮らさせて下さい」
 重清と桔梗は夜毎に情を通じているのだから、いずれこういう話が出るのは、重清も承知していた。
 しかし、これまで、重清が何気にその話を避けて来たことも事実である。
 その辺り、重清は一城の主である。
 男女の心情だけを優先させる訳には行かなかった。
 「ぬしは本当にそう思うておるのか」
 「はい。どうか私をお側に置き、末永く可愛がって下さい」
 重清はここで半身を起こし、座り直して腕組みをした。
 「ぬしがそう申すのであれば、俺も考えよう。どうやってぬしを手元に留めようか」
 即座に桔梗が答える。
 「話は簡単でござります」
 はっきりとした桔梗の口調に、重清は桔梗の両眼(まなこ)を凝視した。

 桔梗は確(しっか)りと重清の双眸(そうぼう)を見据え、高らかに言い放った。
 「すこぶる簡単な話です。貴方さまが目時筑前を殺(あや)めて下されば良いのです」
 釜沢と目時は元々が敵(かたき)同士であるから、目時を倒し、桔梗共々一切を手に入れるという手段はある。
 しかし、目時は三戸南部の重臣であった。
 目時を倒すことは、三戸全体を敵に回すことになるやも知れぬ。
 重清が即答出来ずにいると、桔梗が重ねて断言した。
 「長一郎さま。目時筑前を殺して下さい。それが私と長一郎さまが共に暮らすことの出来る唯一の方法なのです」
 この時、重清の目には、腹を括った女の情念が、桔梗の全身からびゅうびゅうと流れ出ているように映った。 (この章終り)

◆注記◆
「石」:石田三成が指揮した太閤検地で始められた秤量単位である。この時期にはまだ浸透していない。それまでは「貫」(容積として)が用いられた。

ギャラリー

寺舘山
寺舘山

坂下を奥州道(陸奥道)
坂下を奥州道(陸奥道)

城の下(釜沢用水)
城の下(釜沢用水)

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