平成25年3月21日(報道向け)
「奥州人にとっての戦国」 早坂昇龍&蒼龍舎
1. 「九戸戦始末記 北斗英雄伝」について
早坂昇龍筆「九戸戦始末記 北斗英雄伝」は、平成20年から23年5月までの3年間に渡り、「盛岡タイムス」紙上で連載された「北斗英雄伝」を、書籍として取りまとめたものです(全五巻)。
著者の病気療養により一時中断していましたが、24年秋より作業を再開し、現在は第3巻まで刊行済みとなっております(構成は別紙の通り)。
原則として、連載時のままの内容で取りまとめ、本年夏までに全巻を刊行する予定です。
2. 九戸戦に関する数々の謎
九戸戦には、直接的当事者とも言える南部や津軽・八戸に伝えられる伝承の他に数々の異説が存在します。例えば、代表的な謎には次のようなものがあります。
1) 宮野(九戸)城の開城の前夜、九戸政実が密かに浅野長吉(政)、蒲生氏郷の許を訪れた。
政実が開城の第一条件として二人に伝えたのは、「南部大膳(信直)の領知安堵」であった(浅野家家伝)。
九戸政実にとって、南部信直は不倶戴天の敵です。しかし、政実が条件として申し出たのは、自分ではなく敵の身分保全でした。浅野長吉は、南部や九戸とは利害関係の無い立場ですので、どちらかに肩入れすることは考え難いところです。
2)九戸戦では、「開城の後、九戸勢は武士・領民とも、総て殺され、宮野城は焼かれた」とされています。ところが、出羽には九戸方を出自とする家系が一千五百から二千家族存在しており、また津軽でも大浦(津軽)為信が、九戸方武将の親族家来を多数引き取った(数は不詳)と伝えられます。さらに、開城の前夜には、「岩谷橋から逃れ出る者多数」という伝説もあります。「総て殺され」とは相容れない話です。
3)「九戸戦の頃、沼宮内城に上方軍五万騎が入城し、そこで軍議を開いた。これを出迎えたのは、南部利直(信直の息子)である」とされていますが、沼宮内城には別の言い伝えが残っています。こちらによると、「九戸戦の折、沼宮内城は九戸党に支配されていた」とあります。
沼宮内城は数千人も入らぬような小さな山城です。わざわざこの小城に上方軍が駐留したのが事実なら、これは何故でしょうか。また、戦時に九戸党の支配下にあったことを、盛岡藩の作成した記録には一切書かれていません。
この他、天正十八年から十九年に関わる北奥の出来事には、数々の正反対の記録が伝えられています。さらに、当時、天下を手中に収めつつあった羽柴(豊臣)秀吉や、伊達政宗ら奥州全体に関する異説・異聞も存在しています。
4)羽柴秀吉には、両眼の眸(ひとみ)が二つずつあった(岩手地方の伝説)。
豊臣秀吉の手指が六本ずつあったことは、前田利家の書いた書状により事実として確認されていますが、「眸が二つずつ」は公には語られなかった口承伝説です。
このことは筆者も玉山地域の古老より聞いたことがあります。
これらの戦国異聞がもし事実であったなら、当時の人々はどのように動いていたのか。
また事実でないなら、どのような経緯を辿って、その口承伝説が形成されるに至ったか。
本作は小説の形を取っていますが、その実は戦国の終焉ともいえる「九戸の戦」に散見される異説を題材とし、その謎解き試みるものです。
3. 秀吉の天下統一
戦国史で多く語られてきたのは、「天正十八年の小田原攻めをもって、羽柴秀吉の天下統一がほぼ完成した」ということでした。
しかし、それはあくまで「ほぼ」であって、「総て」ではありません。
小田原戦の後、秀吉は即座に「小田原攻めに参陣したか、しなかったか」という判断基準をもって、奥州の地侍を仕分けします。これが「奥州仕置き」で、沢山の地侍が領地を没収されることになりました。当然、反抗する者が沢山出ますが、秀吉は仕置き令に従わなかった者を総て「なで切り」にせよと家臣に命じます。これを直接伝えるため、上方軍は奥州各地に遠征しました。
この年の秋冬になり、奥州各地では一揆が発生します。葛西・大崎、和賀・稗貫などでは、秀吉に派遣された上方侍が追放され、かつての地侍や領民が旧領を支配しました。
当時、出羽米沢を本拠としていた伊達政宗は、大崎一揆を陰で煽動していたようですが、秀吉にこれを疑われ直接詰問されます。政宗はその場を何とか言い逃れますが、しばらく後に、その大崎への領地替えを命じられます。一揆勢の支配する地を与えられるということは、それを平定しろという意味ですので、伊達政宗はその地を手に入れ、首謀者の口を封じるために、一揆勢を皆殺しにするのです。
この時点で、東日本を地盤とした秀吉の配下は、浅野長吉、蒲生氏郷であり、徳川家康でした。
天正十九年には、一揆勢討伐のため、第二次奥州仕置きが発令され、蒲生氏郷を主力とする討伐(仕置き)軍が編成されました。
5〜6万騎で構成された仕置き軍は、奥州各地の一揆勢の拠点を攻略し、抵抗勢力を皆殺しにしました。小田原以後の「太閤記」は、単なる殺戮の記録で、語り伝える口(者)のない陰の歴史となっています。
4. 奥州人にとっての戦国
奥州人にとっての戦国時代は、羽柴秀吉による容赦のない収奪と殺戮で終わります。その最後を締め括るのは、九戸の戦いとなります。
圧倒的に不利な形勢にありまがら、九戸政実はなぜ戦ったのか。
また、政実が籠城戦を終える条件として、敵の保護を求めたのはなぜなのか。
筆者はそこに、「不屈」と「再生」に向けての志を見ました。
力を背景に、民の生死までも、己の意のままに支配しようという秀吉の考え方に、九戸政実は絶対に屈しません。
ひと度戦えば、上方軍に敗れるのは必至で、実際に奥州各地で多くの民が殺されていました。このため、上方に対し「盲目的に隷従することはない」という意思を示しつつも、しかし、民を殺されずに済むような道を探した結論が、「南部大膳の領知安堵」だったということです。
上方の奴隷にはならないことと、敵対者として殺されずに、多くの民を残すこと。
九戸の戦いは、奥州を再生させようとした試みだったと見なせば、異聞異説の根源を理解することが出来るのです。 (平成25年3月17日記)