無情の雨 ─盗賊の赤虎が地獄を訪れる話─ 早坂昇龍
本作は平成23年9月14日より11月30日まで盛岡タイムス紙にて連載に掲載された中編小説である。
赤虎は『島の女』では鬼女、『峡谷の怪物』では鬼(宇宙人)と戦った。この話は峡谷の鬼を倒した後のエピソードとなる。
ふとしたことから地獄の釜の蓋が開き、赤虎はこれを閉じるために怖谷に向かうことになった。
赤虎の心を駆り立てたのは、「七海」への断ち難い思慕であった。死んだ七海に会うために、再び赤虎は死地に赴く。
遠征隊に参加したのは、赤虎と柊女、山伏の清雲と頑慶。儀式を支える巫女として、お玉とお藤の姉妹。道具を運ぶ人足十二人に、周辺の村々から集められた若い女が十八人で、ここまでで三十六人である。これに、紅蜘蛛お蓮を含む毘沙門党の盗賊十四人が加わり、総勢五十人に達した。
『無情の雨─盗賊の赤虎が地獄を訪れる話─』
赤虎遠征隊の進行方向(推定)
昼過ぎから降り出した雨は、瞬く間に本降りとなり、半刻後には道の上に漣(さざなみ)が立つ程の勢いとなった。
この時、一人の男が馬で陸奥道を北に向かっていた。男は赤平虎一という名で、通称を赤虎と言う、北奥を縄張りとする盗賊である。
赤虎は、蓑が全く役に立たぬ程の土砂降りを受け、ひとまず己の身の隠し場所を探すことにした。
「つい先程までは、雲ひとつ見えぬ青空だったのにな」
赤虎は激しい雨粒に打たれ、独り愚痴をこぼした。
しかし、天のすることに不平を唱えても、詮無きことである。赤虎は道の脇の林の中に馬を導き、そこで雨をしのぐことに決めた。
林の中には柏の大木があった。
赤虎はその木の葉陰に入り、雨が静まるのを待っていたが、雨は一向に止む気配が無い。
「まだ秋口だが、このまま雨に打たれていては体が冷えてしまう。ここはどうしたものか」
赤虎が少しく思案していると、右側に垂れ下がっている柏の太い枝が、雨風で大きく揺れた。
すると、その林の外、一丁半くらい先の所に、何やら家屋のような物が微かに見える。
「はて。こんなところに家などあっただろうか」
この先二里の所には地侍が設けた柵がある。そこで捕り手の侍が、己を捕まえるべく待ち構えているという噂を聞き、この日赤虎は山ひとつ隔てた側道を通っていた。
しかし、日頃は通らぬ道とはいえ、閉伊、糠部、岩手の三郡なら、赤虎にとっては庭のようなものである。赤虎自身、その隅々まで熟知しているつもりであった。しかし赤虎は、この道の両側に見える景色にはまったく覚えが無い。
赤虎は少なからず不審に思ったが、今はあまりにも酷い雨で、思案している場合では無かった。
赤虎はその家を目指し、藪の中に薄っすらと見える小道を進むことにした。
赤虎が林を抜け出ると、向こう側は崖で先には行けなかった。その崖っぷちに立ち下を覗くと、そこは高さが十間程の切り立った断崖で、下には名も知らぬ川が流れていた。
赤虎が左右を見渡すと、川上の方に回り道があったので、その道を辿り、漸く家の入り口に立った。
「もおし」
赤虎は戸板に向かって声を掛けてみた。
雨音でかき消され、声が通らない。
そこで赤虎は、力任せに戸板をどんどんと叩き、再び大声で呼び掛けた。
今度は中にも聞こえたのか、戸板の向こうから「はい」という返事が届いた。
それから暫らくすると、中からこの家の主らしき老爺が出て来た。
「この雨で難儀して居る。暫し軒先を借りても宜しいか」
赤虎のこの問いに、老爺が無表情に答える。
「仮にこの雨が止んでも、この先は道がぬかるんでおり、一里と進めぬでしょう。ここにお泊りになれば宜しゅうござります」
老爺が目配せをした先には、「めし」「宿」と書かれた、古びた看板が見えている。
「泊まりは幾らだ」
「飯代を含め、泊まりは永銭八文、鐚(びた)なら十五文。米なら五合、雑穀で七合。馬の飼葉が要るなら、その御代は別です」
飯を入れてその値段なら、今どきの相場からみればかなり安い。
赤虎は少し不審に思ったが、他所者への扱いの習いで、これとは別に、あれやこれやと足される代金があるのだろうと考え直した。
老爺に案内され二階の部屋に入る。
赤虎は鴨居に棹を渡して貰い、濡れた着物をそこに掛けた。
赤虎は体を拭き、乾いた衣に着替え、少しの間じっと座っていたが、すぐに眠くなり、そのままそこで眠り込んでいた。
宮野(九戸)城 供養塔
深い眠りの渕に浮かび上がると同時に、タントンという太鼓の音が聞こえて来た。
この音で赤虎は目覚め、音のする方を確かめようと、窓に近寄った。
窓を引き開けると、外はもはや夕暮れとなっていた。あれ程激しく降っていた雨は、今はすっかり上がっている。
今度ははっきりと太鼓の音が聞こえ、音のする方角も知れた。
赤虎のいる部屋は、この宿の後ろ側を向いている。目前には林があり、その林の向こう、五十間程先に灯りが幾つも点っている。音はそこから聞こえて来るのだった。
その灯りの下には、鮮やかな色の浴衣を着た男女の姿が、何十人も見えている。
「まだ盂蘭盆会(うらぼんえ)までは日があるのだがな」
眼を凝らして見ると、人々のいる所は、林の中にぽっかりと開いた空き地である。
中央に大鼓叩きがいて、その周りには、老若男女が百人も集まって、踊りを踊っているのであった。
「何か祭りがあるのだな」
赤虎は独り納得し、灯りのある方を眺め続けた。
タントン、タントンと太鼓の音が響く。
ふと気がつくと、その人集まりの中、ひとりの若い女が赤虎の方を向いていた。
まだうら若い二十歳過ぎの娘である。
娘は赤虎の視線を知ると、にこと微笑んで、隣にいた別の女に何ごとか囁いている。
声を掛けられた女の方も、宿の二階にいる赤虎を見て、また前の女と同じように微笑んだ。
いずれもかなりの美女である。
女たちは同じように周囲の仲間に囁き、赤虎を指差した。こうしているうちに、赤虎を見る若者が七、八人に増えていた。
「あれあれ、あそこに」
そんな声も聞こえてくる。
赤虎が黙っていると、最初の娘が赤虎のいる窓に近付いて来た。
娘は窓の程近くまで歩み寄り、上を見上げ赤虎を誘う。
「あなたさまも、わたくし共と一緒に踊りませぬか」
端正な顔立ちの娘である。夕闇の中、白い肌に真っ赤な唇が浮かんで見える。
その娘はほんの少し、七海に似ていた。
七海とは、一年前、赤虎が寺泊に滞在中に、ただ一人心を許した女子である。互いに憎からず思っていたが、その情を伝える前にその女は病に倒れた。
結局、赤虎は女と連れ添うには至らず、幼子を一人残し早死にした女の墓を作ることになった。
七海は、もし生きていれば、赤虎にとって生涯最後の女になった筈の女子であった。
(しかし、その七海の忘れ形見を、俺は守り切れなかったのだ。)
七海が死んだわずかひと月後、七海の残した子の雪は、故里に向かう旅の途中で鬼に殺されていた。
赤虎はその時の痛恨の思いを、いまだに引き摺っている。
(俺を許してくれ。七海。)
赤虎には、眼下に立つ娘が、あたかも己を迎えに来た七海のように思える。
(七海。すぐに行くぞ。)
赤虎はすぐさま衣を着替え、下に降りようと考えた。
その時、背後から赤虎を留める声が響いた。
「なりませぬぞ!」
その声に振り向くと、赤虎の背後に、この宿の主人が立っていた。
「山に棲む魔物共に見込まれたようですな。あれはこの世に生きる者たちではござりませぬ。この世に未練を残して死んだ魂たちが年を経て魔物となり、まだ生きている者をあの世に引きずり込もうとしているのです」
「そんな馬鹿な。悪霊や化け物の類には見えぬ」
再び階下を見下ろすと、先ほど娘のいた辺りには、五六人の人影が並び立っていた。
その人影は、一様にゆらゆらと体を揺らし、ぶつぶつと何事かを呟いている。
「はやく来う。お前が来ぬなら、そこまで迎えに行くぞ」
先ほどまでとは一変し、今はこの世のものとは思われぬ、おどろおどろしい声である。
「まさか、女に欲心を感じられたわけではないでしょうな。見たところ、妻子のある御仁とお見受けしましたので、この山に棲む魔物のことはお話しませんでしたが」
「いや。あの中に、俺の知る女によく似た者が居ったのだ」
赤虎は少したじろぎながら、己が娘に興味を持ったことを正直に伝えた。
「それはいけませぬ。あの魔物は欲の匂いにひきつけられるのでございます。あなたさまは、あ奴らに見込まれたようですな。ではすぐに荷物を取りまとめて、ここからお逃げなさい。勝手口から出て川筋を少し下ると、吊り橋がありまする。それを渡って、街道に出て、できるだけ遠くに逃げるのです」
この時突然、窓の下で馬の悲鳴が聞こえた。
二人が外を見下ろすと、赤虎が乗って来た馬が、今まさに引き倒されようとしていた。
「これはいかん。相手が生きた者なら刀で立ち向かえようが、怨霊や魔物の類では、ちと分が悪いぞ」
赤虎は去年、出羽の峡谷で遭遇した鬼のことをまざまざと思い出した。あの鬼のお陰で、それまで命知らずだった盗賊の心には、人知を超えるものに対する恐怖心が芽生えていたのだ。
しかも、此度の魔物は、優に百を超える数である。
「ひとまず、この場は退散した方が良さそうだ」
赤虎は取るものもとりあえず、荷物を引っ掴み、宿の勝手口から走り出た。
赤虎が三十間ばかり走ると、後ろの方でおぞましい声が負い掛けて来る。
「おおう。どこへ行った~」
地獄の釜の中から響いてくるような魔物の声が、交互に赤虎を追い駆けて来る。
流石の赤虎も生きた心地がせず、ただ一目散に闇の中を走った。
三四丁も走ると、夕闇の向こうに、吊り橋の影がうっすらと見えた。
「あの橋を越えさえすれば助かる」
赤虎は吊り橋の入り口に辿り着き、橋を渡り始めようとした。
ふうと息をひとつ吐き、後ろを振り返る。
(どうやら魔物は振り切ったようだ。)
赤虎は前を向き直り、橋の向こう側を見る。すると、そこにひとりの女が立っていた。
女は男に向かって両手を広げ、険しい表情で男を押し留めようとしている。
「あれは・・・。七海ではないか」
赤虎はそこで立ち止まり、眼を凝らし暗がりの向こうを見た。
やはりそれは紛れも無く七海である。
赤虎はもう一度眼を凝らして七海を見た。
「ここを渡るなとはどういうことだ」
赤虎は少しく前に進み、吊り橋の綱に右手を掛けようとした。しかし手は宙を掴み、思わず前のめりに倒れそうになる。
そこは何もない虚空であった。
そこにあると思った橋は幻で、赤虎は寸での所で崖から落ちる所であった。
赤虎が体勢を整え、下を覗いて見ると、そこは底が見えぬほどの断崖である。はるか下には、微かに渓流が流れる音がしている。
「あの爺は俺をたばかったのだ。さては魔物の一味だったのか」
まさに間一髪である。もしあと一歩踏み出していれば、赤虎は谷底に落ちていたのだ。
赤虎の背筋に「ぞぞ」と怖気が走った。
「七海は?」
再び川の向こう岸を望んだが、そこには誰もいない。
「あの女子は俺を助けてくれたのだ」
赤虎はその場所から川岸を半里下り、吊り橋を渡って陸奥道に戻った。
闇の中を一里歩くと、漸く二十軒程の集落が見えて来た。
赤虎は最初の家の前に立ち、戸板を叩いた。
ドンドン。
しかし、返事は無い。
もう一度戸板を叩くが、やはり中からは何の音も聞こえてこなかった。
赤虎は仕方なく、先の家に向かう。
二番目の家も、戸板がきっちり閉じられて居り、中に人のいる気配は無い。
「一体どうなって居るのだ?」
次々に家々を回ってみるが、どの家も同じである。
しかし、村の中程まで進むと、ただ一軒だけ灯りの点いている家があった。
赤虎はひとまずその家に向かった。
近寄って見ると、灯りの源は提灯だった。
その家は、この村に一軒だけある宿屋であった。
赤虎は玄関の前に立ってみた。
正面の戸は開いたままで、つい先程まで中に人がいたような気配がある。
赤虎はその宿屋の中に入り、板間の上がり端に腰掛けた。
すぐ先には、食べ掛けの食膳が置かれている。酒徳利にはまだ半分ほど酒が残っていた。
赤虎はその徳利に口を付け、ごくごくと酒を飲んだ。
酒を飲み終わり、赤虎は徳利を台の上に「とん」と置いた。
すると、廊下の先の納戸の中で、ほんの少し人の動く気配があった。
(誰か隠れているのだな。)
赤虎は音を立てぬように廊下を歩き、納戸の前まで進んだ。
「エイッ!」
掛け声と共に、一気に戸を引き開ける。
すると、赤虎の思った通り、納戸の中には人が一人隠れていた。
「ひゃあ」
中にいたのは、まだ十三四歳の小娘である。
「何故こんなところに隠れて居る。どうしてこの村には誰も居らぬのだ?」
赤虎が詰問すると、娘は両眼を真ん丸に見開き、奥の方にじりじりと後ずさりした。
そこで赤虎は娘を安心させるために、わざと大仰に身をすくめて見せた。
「心配するな。この俺も逃げて来たところだ。怖がることはないぞ。恐ろしゅうて堪らぬから、ぬしと仲間になりたいのだ」
娘は納戸の隅に固まり、赤虎を凝視していたが、この大男が何もしないことを悟ると、漸く外に出てきた。
娘はこの宿で働く小女であった。
この日の夕方、いつものように店を閉めようとしていると、入り口の前に男児が一人現れたのだと言う。
年の頃は五六歳で、娘はその男児の顔に覚えがあった。その男児は、三年前に水死した筈の、この宿の主人の息子である。
小女は驚いて主人を呼んだ。
主人が小走りで店の前に出て来る。
主人が男児に事の次第を訊くと、男児は「おらには何もわからない。腹が減ったから、飯を食わせてけろ」とだけ言う。
そこで、主人が山盛りの飯を出した。
男児はぺろりとそれを平らげる。
「まだ足りねえ。もっとけろ」
男児が茶碗を突き出すので、主人はもう一度飯を盛ってやる。
男児はやはりこれも一気に食べ、もう一度茶碗を差し出す。
五度同じことを繰り返した後、主人も流石に不審に思った。
「そんなに食って、お前は大丈夫か?」
すると男児は、父親のことを上目遣いでじろりと睨んだ。
「まだまだ足りねえ。もっと食わせろ」
「そんなことを言っても、それ以上食ったら、腹を壊すだろ。お前の腹はもうそんなに膨れているじゃないか」
主人が顎で示した先は、息子の太鼓腹である。
主人が飯のお替りを出さぬのを知ると、男児の顔はみるみる紅潮した。
「おらはもう長いこと、何も食ってねえ。すぐに飯を出さねば、お前を食うぞ」
これを言い終わった瞬間に、男児の形相が急変した。
頬がこけ、手足が骨のように細くなり、眼窩が黒く窪んだ。それでいて、腹だけは太鼓のように膨れている。
「きゃあ!」
男児が化け物に変わるのを見て、小女が大声で叫んだ。
隣に立つ主人は一歩二歩と下がる。
「お前は我が息子では無いな!何奴だ」
すると、つい先ほどまでこの家の息子の姿をしていた男児の顔が、年寄りのように皺々に変じた。
「そんなことはどうでも良い。早く食い物を出せえ~」
その姿は、紛れも無く地獄の餓鬼であった。餓鬼は突然飛び上がると、主人の首元に齧りついた。
「ああっ」
悲鳴を上げながら、主人が床に倒れた。
餓鬼は、その主人の上に乗り、首をがりがりと齧り始めた。
その様子を見た小女は仰天し、助けを呼びに店の前の道に走り出た。
すると、通りに面したあちこちの家から、「ぎゃあ」「ひゃあ」という悲鳴が聞こえた。
(これは、この家だけでなく、どこの家でも同じようなことが起きているのだ。)
小女はそれを知り、再び勝手口から家の中に戻り、納戸の中に隠れたという次第であった。
赤虎は改めてその娘に確かめる。
「しかし、村の者が皆、その餓鬼どもに食い尽くされたわけではあるまい。皆は何処へ行ったのだ」
赤虎の問いに、娘が首を捻る。
「何処か逃げるところ・・・。この近くなら、村の中ほどに熊野権現がありますだ。そこには山伏が十数人居りますだで、もし頼るならそこに行くのでねえべか」
赤虎はその返事を聞くと、直ちに立ち上がった。
「よし。ではそこに行こう。ぬしも一緒に連れて行くから心配すな」
娘を安心させるため、赤虎は左手を差し出した。
二人で家を出て、手を繋いだまま百間先に進んだ。すると、そこには娘の言う通り、赤い鳥居があった。
その鳥居を潜ると、百段もあろうかという長い階段が上の方に続いている。
赤虎は娘と一緒に一段ずつこの階段を上った。
階段を上がり切ろうとした時、境内の灯りが見えてきた。神社の境内には、あちらこちらに松明が焚かれていたのだ。
階段の上に立つと、そこは神社の境内である。広さは五十間四方で、百二三十人ほどの村人が座っていた。
村人たちの真ん中には、祭壇が設けられており、大きな火が焚かれている。
その祭壇の前には、白装束の巫女が一人で座り、何事か祈祷を行っていた。
赤虎は今の事態を確かめるために、五歩十歩と前に進んだ。
巫女は背中を向けたまま、赤虎に告げる。
「漸く参ったか。妾(わらわ)は三日前からこの地に来て、お前を待っていたのだぞ」
赤虎はそこで小女の手を放し、一人で祭壇に近付いた。
赤虎が巫女の後ろ、二間の所まで近付くと、それまで背中を向けていた巫女が振り返った。
年の頃は恐らく四十幾つであろう。この巫女は長い総髪を背中でひとつに結んでいた。
巫女が顔を上げると、直ちに祭壇の脇から山伏が二人現れ、左右に控える。
最初に右側の男が歩み出て、赤虎を牽制した。
「下郎控えよ。この方は江刺家大滝に棲まわれる柊女(しゅうじょ)さまである」
如何に世情を顧みぬ盗賊の赤虎でも、「柊女」という名は聞いたことがあった。
江刺家はこの辺りから二十数里ほど北にある。そこには幾つか滝が落ちているが、その最も大きな滝の近くに庵を結び、巫女が棲んでいるという話である。
その巫女は、昔のことや、これから起こることを悉く言い当てるので、世人の評判となっていたのだ。
その巫女が口を開いた。
「ぬしがここに参ることは、前もって定められて居るのだ。待っていたぞ、恐れを知らぬ男よ」
巫女の言葉を聞き、赤虎の眉間に皺が寄った。
「柊女とやら。今は一体何が起きているのだ。宿屋の小女の話では、地獄に居るべき餓鬼が、この世に現れたらしいぞ。かたや俺の方は、化け物の策略によって、あの世に引き摺り込まれそうになった」
柊女はまったく表情を変えず、赤虎を見据えている。その顔は例えようもないほど白く、唇が真赤である。
「今、地獄の蓋が開き、そこから亡者が逃げ出して居るのだ。このままにして置けば、現世(うつしよ)と地獄との境目が無くなり繋がってしまう。誰かが蓋を閉じに行かねばならぬ。それは、恐れを知らず、何ものにも怯まぬ男。すなわち、お前が果たすべき務めなのだ」
柊女の一方的な物言いに、流石の赤虎もかっと来た。
「明応や文亀の昔ならいざ知らず、今はそれから百年以上も経った天正の御世だ。この世にそんな馬鹿げたことがあるものか。恐らく一年前の俺なら、間違い無くそのように申したであろう。だが、今の俺は違う。己のこの眼で確と見たのだからな。しかし、地獄の蓋を閉じに行くのが、他の誰でも無く俺の務めだと申すのは、どうにも解せぬ。ここには屈強な山伏が仰山居るではないか」
赤虎は、祭壇の周りに立つ山伏たちを顎で示した。
巫女は、赤虎の言葉を聞いたか聞かずしてか、くくと鼻を鳴らし、赤虎の匂いを嗅いだ。
「やはり、ぬしの体は血の匂いがする。間違いは無い。神は妾に『恐れを知らぬ男が現れ、この世を救う』と告げた。その恐れを知らぬ男とは、紛れも無くお前のことだ。よいか、男。神や仏に仕える者には出来ぬことがあるのだ。それは、他の誰でも無く、お前が為さねばならぬ」
「地獄の入り口に赴くということは、命の懸る所為であろう。俺にとって、それが何の得になると申すのだ」
この赤虎の言葉に、巫女はふっと笑う。
「男。ぬしの名は何と申すのだ?」
「赤平虎一。皆は赤虎と呼ぶから赤虎で良い」
「では赤虎。地獄の蓋を閉じる為には、三途の川まで行かねばならぬ。この世とあの世を隔てるその川は、その双方に流れて居るのだ。人が死ぬと、あの世に流れる川を渡るが、その直前に、それまで抱えてきた欲望を総て投げ捨てねばならぬ。よって、三途の川には、金銀財宝の類が山ほど沈んでいる」
「あの世に流れる川なら、底に沈んだお宝を拾うことは出来まい」
「先ほど妾(わらわ)は、三途の川はこの世とあの世の双方に流れていると申したであろう。現世の川とあの世の川は、重なっているのだ。ひと度その川に入り、再びこの世に戻って来る者は、どんなものでも持ち帰ることが出来るのだ」
「俺の生業は盗人だ。金や財宝が欲しければ、どこからか奪ってくれば事足りる」
ここで、巫女の柊女は眼を細め、赤虎のことをじっと見た。
「盗人の赤虎よ。お前には、心ならずも生死で別たれた者で、誰か会いたい者は居らぬのか。もし、その三途の川に近付けば、その者に、今一度会えるかも知れぬぞ」
柊女のこの言葉は、赤虎の胸をぐさりと抉った。
この時、赤虎の脳裏には、去年の夏七海が口にした言葉が蘇った。
「虎一さま。わたしはこの後ずっと、虎一さまと共に暮らしても良いぞ」
そう言って、七海は屈託の無い笑顔を赤虎に見せた。
しかし、赤虎が返事をする前に、七海は熱病でこの世を去ったのだ。
柊女が言葉を続ける。
「赤虎。お前には誰か会いたい者が居るのだな。もし、その者がこの世に未練を残して死んだのなら、今だ川の辺に留まって居るやも知れぬぞ。その者が極楽に旅立った後なら、もはやお前の望みは叶わぬ。だが、その場に留まって居れば、お前が川を渡りさえすれば、その者に会えるのだ」
今度は赤虎が眼を細めた。
「それはまことか。本当に、死んだ者に会うことが出来ると申すのか」
「まことのことだ。ただ、今申した通り、極楽に行った後では、もはやそこには居らぬ。それとは逆に、その者が行った先が地獄でも会えぬのだが、今は蓋が開いて居る故、ぬしの望みは叶うだろう。要は、極楽にさえ旅立って居らぬのなら、お前はその者に再び会えるのだ」
柊女の話が真実なら、赤虎は七海に会えることになる。
この時、赤虎の頭の中では、「今も七海は川の近くにじっと留まっているだろう」という直感が閃いた。
(七海は娘の雪のことを案じていただろうからな。)
赤虎はここで腹を括った。
「承知した。この俺が地獄の蓋を閉めに行こう。直ちに手筈を申せ」
柊女は赤虎の両眼を見据えたまま、ひと言ひと言を噛んで含めるように、話し始める。
「既に手筈は整えて居る。これから妾とぬしは、共に怖谷(おそれだに)に向かう。怖谷はここから北へ百五十里(注:ほぼ九十~百キロ)だから、馬なら三四日で行ける。しかし、此度は牛車で荷を運ぶため、一日に進めるのは、せいぜい二十里だろう。怖谷までは屹度七日掛かる。谷に着いたら祭壇を拵えるのだが、これに二日だ。ぎりぎりだな」
「何がぎりぎりなのだ?」
「地獄の蓋が完全に開いてしまい、閉じられなくなるのが、ちょうどその頃だ。地獄の穴が最初に開いたのがこの村だが、いずれ二つ目、三つ目の穴が開く。十日も経てば、そんな穴がそこいら中に出来てしまい、もはやそれを塞ぐことは敵わぬ。この世と地獄との境目が無くなってしまうという訳だ」
「怖谷に着き、祭壇を拵えた後はどうするのだ」
「あの世に繋がる祭壇を作ったら、そこである儀式を行う。ぬしにはそこで、ぬしにしか出来ぬ務めを果たして貰おう。何をして貰うかは、その時に妾が言い渡す」
ここで赤虎は、それまで組んでいた両腕を解いた。
「なんだ。その程度のことなら、容易い話ではないか。俺でなくてはならんのか」
「いや。そうは容易(たやす)く行かぬぞ。地獄から飛び出た亡者や鬼を呼び返すには、周り中に欲の匂いを撒き散らさねばならぬ。よって、祭壇の前では豪勢な宴を開く。谷に運ぶ荷と申すのは、祭壇に用いる木材に加え、大量の食い物や酒、それと若い女たちだ」
「そんなことなら、どんな奴でも喜んで随行しようぞ」
「ぬしの出番はその後だ。その段になったら、ぬしにしか出来ぬことが待って居る」
「ふん。盗賊の俺さまにしか出来ぬこととは、一体どんなことなのだろうな」
柊女はこれには答えず、眉をほんの少し顰めただけである。
「地獄から逃れ出た者を集めるには、人の欲望を掻き立てることが必要だ。その気配が、亡者や鬼たちにも通じる。そ奴らが我らの後を追い駆けて来るように仕向けねばならぬのだ。しかし、そのことは、同時にこの世の者共の耳目を集めることにもなる。悪党共が、我らを目指して群がることになる。これからの七日間は、生きた悪党、死せる亡者、地獄の鬼という三者三様の敵を相手とする戦いになるぞ」
「なんだ。やはり命懸けではないか。結局は割りの合わぬ仕事ではないのか」
赤虎の渋面を見て、柊女が再び笑みを浮かべる。
「ぬしがやらねば、この世は地獄と化す。衆生を救い、財宝を手に入れよ。さらには、この機を得て、今は亡き女に思いのたけを告げるが良いぞ。それがお前に与えられた運命(さだめ)なのだ。今さら何を迷うことがあろう」
「まあ良かろう。俺は先程『承知した』と申した。悪人に二言は無い」
「既に荷は用意してある。明日にはここを発つ」
ここで柊女は祭壇の後ろの方に声を掛けた。
「清雲(しょううん)。頑慶(がんけい)!」
その声に応じ、二人の山伏が目前に姿を現した。
「はい」「はい」
「赤虎。この二人は妾の供だ。怖谷に着いたら、この二人が祭壇を組む。さらに・・・」
柊女は七八歩東に進むと、神社の横を指し示す。
「閉蓋の儀式を執り行う為に、あの女子二人を連れて行く」
神殿の陰には、白い巫女装束を身に着けた若い女二人と、恐らくは二人の父母であろう壮齢の男女が立っている。
宮野(九戸)城石沢館
父母は娘たちの手を握り、何ごとかを話していた。来るべき別れを惜しんでいるのか、父母が手の甲で涙を拭っているのが見て取れる。
ここで柊女が赤虎に向き直った。
「赤虎。あの二人は神に選ばれし巫女たちだ。何があっても、あの二人を怖谷まで連れて行くぞ。道中、危急が生じても、必ずあの二人を死守するのだぞ」
「我ら一行の中で最も大きな務めを果たすのは、あの女子二人ということか。分かった。俺が常に傍に付き、あの者たちを守ろう」
「此度の仲間は、妾とこの山伏二人。ぬし。あの女子二人。牛車五台に馬車一台の御者・人足が十二人で、ここまでで十八人だ。さらに途中の村々で女子を二十人程集める」
「それでは、餓鬼や鬼から身を守れまい。俺の根城はここから遠くないから、誰か使いの者をやり、手下を呼び寄せよう。明後日には合流出来るだろう」
「では、早速村の者を使いとして送ろう。さて、これから朝まで休み、明るくなり次第にここを発つ」
「村には地獄の餓鬼がうろついているが、これはどうする」
「今はまだ、僅か五六匹なのだから捨て置け。食い物を漁るくらいで、左程の害は無い」
「成る程。承知した。俺はどこで寝れば良いのだ?」
「あちらで休むが良い」
柊女の指し示す先には、社務所がある。赤虎はその建物に向かって、ゆっくりと歩き出した。
第一日目の朝。
赤虎の跨る馬を先頭に、総勢十八人からなる遠征隊が村を出発した。
赤虎の後ろには、柊女と他二人の巫女の乗る馬車が続く。この馬者を御するのは山伏の清雲である。さらにその後ろには、木材や穀物・酒を満載した牛車が五台続く。
山伏のもう一人、頑慶の方は、騎馬で最後尾に付いていた。
牛の歩みは遅い。赤虎と馬車一台は、ついつい牛車を置き去りにして、前に進んでしまう。このため、赤虎は時々立ち止まり、牛車の列が追いつくのを待った。
この間は馬に草を食わせ、水を飲ませたりもしている訳だが、人の方は手持ち無沙汰であるから、無駄話をして過ごすことになる。
そんな時、赤虎はすぐ後ろにいる柊女と話をした。
「柊女。人は死んだらどうなるのだ。坊主共は極楽と地獄があるというが、本当の所は何処に行くのだ」
「赤虎。ぬしは前世のことを憶えて居らぬのか」
「はは。前世だと。前世を憶えて居ると言う者の話など、俺は今まで聞いた事がない」
赤虎は手近に下がっていた木の枝を折り取り、葉をむしった。虻を追い払うための棒にするのである。
柊女は赤虎が作業を終えるのを見届けてから、質問の答を返した。
「良いか、赤虎。人は三途の川を渡る時に、今生で得た総ての物をその場に捨てる。だから、前の人生の記憶を持つ者はほとんど居らぬ。たまに憶えている者も居るのだが、それは欲望とは無縁の思い出の欠けらだけだ」
柊女は紫の着物を着て、白い頭巾を被っていたが、赤虎と話がしやすいように頭巾の口布を外した。
「ふん」
「生まれたり死んだりすることで、人は頭と体を新しいものと取り替える。ただそれだけの違いで、実は魂のあり方はこの世もあの世も大した違いは無い」
「よく分からぬな。もっと分かりやすく話せ」
「では、今のぬしが死んだ時の話にしよう。もし、ぬしが死んだら、その先はどうなるかということだ」
「そうそう。その話で良いぞ」
「死んだ後、ぬしが気が付くと、そこは暗い穴の中だ。洞窟のような穴で、周りにはまったく灯りが無い」
「そこまでは、たまに話に聞く。死人がその穴を通り抜けると、地獄の入り口に達し、閻魔大王に引き会わされると、坊主共は言うな」
「はは。それは人が作り上げた絵空事だ。だが似ている所もある。何時の間にか、洞窟の先に光が見えて来るのだが、そっちに向かって進むと、程無く穴を出られるのだ。外は明るくて・・・」
「目の前に川が見える、という話か」
「そうだ。それがあの世に流れる三途の川だ。その川は深さが胸までのごく浅い川だ。だが荷物を持っていては渡れない。死人は川の辺で、生きていた時に抱いていた一切の執着心を捨てねばならぬ。それが出来る者だけが川を渡れる。それが出来ぬ者は川を渡れず、こちら側に留まる。それが世に言う幽霊というものだ」
「この世に執着し、あの世に渡れぬ者ということか」
「そうだ。あの世に渡った者は生前に持っていた一切のこだわりを失う。仏道ではそれを成仏と言う。我らは神の領域に入ると見なすわけだが、意味は同じだ」
「では、生きている者の前に姿を現す幽霊とは、死した後、三途の川を渡って居らぬ者ということなのだな」
「うむ。この世に未練を残し、執着心を持つ者だ。死んだ後、初めは暗い洞穴の中で目覚めると申したが、その闇とは、死んだ者が自ら作り出した執着心そのものなのだ」
「死ぬ時に、強欲であったり、恨みを残したりした者は、暗い穴に入る訳だな」
「その通りだ。その闇こそが地獄なのだ」
「だが、餓鬼や鬼の類は現に居るではないか。俺はそのいずれも己の眼で見た」
「地獄には閻魔大王は居らぬ。だが、邪な欲望や執着心が渦巻いて居る。地獄に住む餓鬼や鬼の類は、根は人の霊なのだが、長い間そのままでいたために、さらに邪(よこしま)なものに変わったのだ」
「元は人なのか」
「一人ではないぞ。幾つもの邪念が凝り固まって、化け物と化したのだ」
「そんなものがこの世に出て来て居るのか。目の前に現れたら、どうやって倒すのだ」
「今はまだ、この世とあの世とは隔てられて居る。よって、武具を以て切り殺せば、生きて居る者と同様に死ぬ。しかし、命を持たぬ者故、すぐさまあの世で再生する」
「何度でも生き返るのか」
「境目を閉じぬ限り、幾度でもだ」
赤虎と柊女が長話を続けているうちに、ようやく後続の牛車が追い着いた。
「ああ。来た来た」
柊女の後ろに座っていた娘の一人が声を上げた。
言葉を発したのは、娘二人の姉のお玉である。お玉は目鼻立ちのすっきりした娘で、かなりの器量良しである。
「腹が減って困っていた所だ。確か握り飯が残っていた筈だ。あれを貰うことにしよう」
妹のお藤がこれを聞き留め、すぐさま姉を諭す。
「姉さん。止めて下さい。さっき食べたばかりではありませぬか。握り飯は、昼に食べられなかった人足たちのために作ったのですよ。それを取り上げることなど、絶対に駄目です!」
「何を言っているのだ。わたしたちは、いつ何時、何を飲み食いしても構わぬという約束じゃ。わたしは腹が減ってひもじいのだ。早く食い物を寄こせえ!」
姉のお玉は、牛車の上で手足をばたばたさせながら、前に座る柊女の顔を覗き見る。
柊女は顔色ひとつ変えず、赤虎に向かって命じた。
「赤虎。この娘に何か食う物を与えてくれ」
赤虎がお玉を見ると、この娘は己の言い分が通るのを見越して、早くも薄ら笑いを浮かべていた。
この姉に較べ、妹のお藤の方は地味な顔立ちである。その見てくれの通り、お藤は心根の穏やかな娘であるらしい。我が侭を並べ立てる姉のことを、お藤はほとほと困り果てた表情で見詰めている。
(愚姉賢妹の姉妹のようだな。日頃からこの姉は、妹を困らせているのだろう。)
そんなことを考えながら、赤虎は背嚢に手を伸ばし、その口を開いた。
「昼頃に俺は、道の先へ物見に出ていたから、まだ握り飯を食っては居らぬ。おぬしにはひとまずこれをやろう」
「赤虎さま。いけませぬ。姉が我慢すれば良いのです。お姉さま、いい加減にして下さい」
お玉は妹の言葉などまったく意に介さず、赤虎から笹の包みを受け取った。
「喉も渇いた。酒は持っては居らぬのか」
「姉さん!」と、お藤が叫ぶ。
赤虎は馬の鞍に結び付けていた瓢箪の紐を解き、お玉に投げ渡した。
この日は北に二十二里進んだ。夕方に差し掛かった頃、一行はある村に達した。
その村の中央には、大人数でも上がれそうな金持ちの家があった。予め人を送り、その家に頼んであったので、一行はすぐさま母屋に招き入れられた。
江刺家の柊女は、北奥では名の通った巫女である。その巫女の頼みだと聞けば、断る者は居らぬのだ。
牛馬の世話が終わると、夕餉の仕度が始まった。酒や食い物は牛車に山ほど積んで来ていたが、この家の主が大半を提供したので、積み荷を解かずに済んだ。
酉の刻になると、食事の仕度がほぼ整ったが、丁度その頃に、女たちが現れた。
先に使いに来た者が、近在の村々を訪れ、「一緒に来れば、美味い飯が食いたい放題で、帰る時にはお宝の分け前に預かれる」と触れ回ったのである。
この辺りは作物の乏しい地域であるが、しかし人の口は多い。とりわけ、女子は余る程いたので、娘十八人が喜んで付いて来たのだった。
娘たちが腰を下ろす間もなく、さらに一団の男たちが姿を現した。
門から入って来る馬上の男たちは、いずれもいかつい顔をした、如何にも悪人といった風体である。
家の中にいた者たちは、そんな男たちを見て大いに緊張した。
頼りとするのは、赤虎一人であるから、皆が赤虎の方を向く。
赤虎は家の玄関に歩み出て、たった一人で男たちを迎えた。
すると、大男たちを分けて、一騎が前に出てくる。その馬に跨っていたのは、意外にも女だった。
赤虎よりも先に、その女が口を開いた。
「虎兄(とらにい)。報せを聞いて、すぐ来たぞ」
赤虎は女の顔を一瞥して、にやりと笑った。
「蓮。随分と早かったな。ぬしたちが来るのは、早くとも明日になろうと思うて居った」
蓮と呼ばれた女は、これを聞き、「ふっ」と息を吐いた。
「虎兄。今朝早く使いの者が来たので、すぐさま出立して来たのだ。一気に五十里を駆けて来たから、尻が痛くなった」
女は言葉を吐きつつも、周りを囲む人々を見回した。眼の大きな女子で、氷のように研ぎ澄まされた表情をしている。
この女の様子を認め、周囲からひそひそと声が上がる。
「あれは、もしや毘沙門党の紅蜘蛛ではないか」
「盗賊団を率いる稀代の悪女だと聞くが、あれがその紅蜘蛛か」
この声は、赤虎の耳にも届いた。
「蓮。どうやらお前は、上方の役者並みに人気者らしいな。俺のことは、誰一人として赤虎だとは気づかぬが、蓮のことはひと目でそれと知れる」
女の方はまったく表情を変えず、白面のままである。
「虎兄。虎兄が我らを呼び付けるのは珍しいな。一体何があったのだ。わたしらが聞いてきたのは、虎兄が呼んで居るということと、お宝が手に入るという話だけだ」
「窮奇郎や熊三はどうしたのだ?」
「窮奇郎さまは米沢に戻った。熊兄は何時もの通り、何処ぞへ行ったか誰も知らぬ。まっこと気まぐれな人だからな」
「では、何人で来たのだ」
「十四人。この頭数では足りぬか」
「いや、構わん。皆厩に馬を繋ぎ、ひとっ風呂浴びて、道中の埃を落とせ。飯の仕度は出来て居る。酒もあるし、女子も仰山居るぞ」
男たちの間から「おお」という喚声が上がった。役人の眼に止まらぬよう、日頃は町に出向くのにも、小人数だけで努めて目立たぬように心掛けている。
大勢で宴を開くこと自体が珍しい上に、若い女子が酌までしてくれるとは、まさに願ったり叶ったりである。
男たちは喜び勇んで馬を下りた。
一刻の後、この家の常居には総勢五十人が座っていた。大きな家であるが、戸板が取り外され、控えの間や縁側にも人が座っている。
準備が整った頃を見計らい、赤虎が声を発した。
「皆凡(おおよ)その話は聞いて居ろうが、今一度この先の手筈を言おう。我らはこれから北に向かい、六日後には怖谷に入る。そこで巫女の柊女が祈祷を行うことになっている。これが終わったら、積めるだけのお宝を積んで、それぞれの家に帰れるぞ。それまでは、毎日鱈腹食って、飲みたいだけ酒を飲むが良い。だが度を越すなよ。飲み過ぎて付いて来られぬ者は、その場に置いてゆくからな」
「おう」「おう」
赤虎の合図で酒宴が始まった。
赤虎のすぐ隣には、紅蜘蛛お蓮が座っている。お蓮が目前の椀を手に取り、酒を注ぐと、すぐに赤虎が制止した。
「蓮。その酒は止めて置け。俺の徳利のほうを飲むが良い」
「何故だ」
「女がそれを飲むと、体が火照ってもやもやして来るのだ。気を確かに持ち、周りを見張る者が要るから、それを飲んではならぬ」
「媚薬入りの酒という訳か」
「そうだ。此度の旅は亡者や鬼を地獄に連れ戻すのが、本当の狙いなのだ。柊女によれば、そ奴らを惹き付けるには、人の欲を掻き立てることが必要らしい。その匂いを感じ取り、そ奴らが集まるという話だ」
「鬼か。また去年(こぞとし)のようなことになるのか」
紅蜘蛛がふうっと溜め息を吐いた。
「追々、この一行の周りには、悪霊や鬼の類が群がって来るぞ。命懸けの旅になる」
「では、言葉通りお宝を貰わぬと割が合わぬぞ。使いの者が申していた、『山ほどの宝がある』という話は本当なのか」
「うむ。ありとあらゆる宝が眠って居るらしい。だが、それも生きて帰ることが出来た時の話だ」
「容易ならざる旅になる訳だな」
お蓮はここで木椀を口に運ぶ。
「虎兄」
「何だ」
「今宵は幼き頃のように隣で寝ても良いか。この家は夜じゅう煩くなりそうだ」
二人の周囲では、歌う者あり、踊りを踊る者ありの大宴会が始まっている。隅の方では、早くも痴態を繰り広げている男女も見える。
赤虎はその様子を横目で見ながら、義妹に答える。
「良いぞ。この旅が終わるまで、ぬしは俺の傍に居るが良い」
孤児だったお蓮が、赤虎に拾われてから、十二年の月日が経つ。
赤虎はお蓮が初めて己の前に立った日のことを思い出した。十歳のお蓮は、餓死寸前の妹の命を救うため、赤虎の前に立ち、「わたしのことを買うてくれ」と申し出たのだった。
赤虎はこの気丈な女児を気に入ったので、それからは実の妹同然に扱い、育てて来た。
今では、赤虎は齢四十の半ばを過ぎ、お蓮は二十三歳になろうとしていた。
二日目。この日は朝から深い霧が立ち込め、十間先をも見通せぬ有りさまであった。
「秋とはいえ、陽気はまだ夏の筈だ。ここまで霧が出るとはな」
お蓮の呟きを、柊女が耳に留めた。柊女は、牛車の前を進む赤虎の背中に声を投げ掛ける。
「この世の有りさまが大きく変わりつつあるのだ。もしこの世と地獄が繋がってしまえば、一切合財が闇の中に墜ちるだろう。赤虎。どうやら今日から始まるぞ」
宮野(九戸)城大手門
赤虎が振り返る。
「ぬしは、あの世に繋がる穴が次々出来ると申していた。そんな穴の傍に近寄ると周りの気配も変わるのか」
この赤虎の問いに柊女が頷いた。
「そうだ。その穴から地獄の気が流れ出して来るのだ」
「では、却って分かり良い。薄気味悪い所では、周りに気をつけろということだ」
「ここからさらに進んで、怖谷に近付けば近付くほど、地獄の様相に近くなる筈だ」
「いやはや、だいぶ駄賃が高くつきそうだ」
「僅か二日で嫌気が差したか」
「いや。このまま放って置けば、いずれあの世もこの世も無くなると申すのなら、今さら否も応もあるまい」
赤虎は直ちに、手下の数人を呼び寄せる。
「おい。隊列の周りを囲むように散開しろ。努々(ゆめゆめ)油断するなよ」
「はい」「はい」
手下たちは馬を返し、前後左右で隊列を囲んだ。
一行は霧の中をゆっくりと進んだ。元々、この隊の中核は牛車であるから、幾ら急ごうとしても出来ない相談であった。
この日の昼前に、一行は湖の近くを通り掛かった。
この時には、霧は一層深くなり、三間先の見通しも利かぬようになった。
僅かに薄っすらと水際が見える。一行は、道を踏み外して湖水に落ちぬよう、注意しながら先に進んだ。
日の光が遮られているため薄暗く、間近は前後左右とも真っ白な霧の壁となっている。
その霧の壁の向こうから、「かかかか」と、得体の知れぬ鳥のような啼き声が聞こえる。
何やら、濃霧の向こうに、幾つもの影が見える。
一行は、周囲のあまりの不気味さに、寄り集まって、そろそろと前進した。
「虎兄。何だか、周りを囲まれているようだぞ」
お蓮に言われるまでも無く、赤虎も同じことを感じ取っている。
霧の中からは、人の走る足音がぱたぱたと聞こえていた。
「どのくらいの数だろう」
「五十人か百人か。あるいは、もっと居るやも知れぬな」
道の両脇には木立が並んでいる筈である。しかし、その木立の間には霧が充満し、その中を無数の人影が蠢いていた。
「皆近くに集まれ!手を伸ばせば届く間合いで、互いに寄り固まって進むのだ」
赤虎の号令で、さらに隊列が小さくまとまった。
赤虎は柊女の牛車に近寄り、判断を仰ぐ。
「柊女。どうすれば良いのだ」
柊女は身動ぎもせず座ったまま、霧の中をじっと凝視していた。
「赤虎。これは亡者共だな。地獄に棲む者が抜け出て来たのだ」
「今にも襲って来そうな気配だぞ。魔除けの真言とか、効き目のありそうな方法は無いのか」
「赤虎。死してもなお現世に留まる怨霊ならば、悪霊祓いが通用しよう。だが、こ奴らは既に地獄に落ちた者共ゆえ、生者とはかけ離れて居るのだ。呪詛真言の類は役に立たん」
「ううむ。ではどうすれば良いのだ」
「斬り捨てよ」
「え?」
「突然この世に放り出され、面喰って居るのは、むしろ、そ奴らの方だろう。既に地獄に居り、永劫に死なぬ者たちだが、今はまだこの世に入り込んで居る状態だ。この世の者と同じような形を取っている。よって、叩かれれば痛むし、斬られれば死ぬ」
「先程、亡者は二度と死なぬと申したではないか」
「ここは現世だから死ぬ。しかし、すぐに地獄の底で生き返るのだ」
「では、蓋を閉じねば、幾度と無く生き返るのか。成る程、是が非でも閉じに行かねばならぬ訳だ。よし」
赤虎は隊列の中程まで馬を下げ、全員に届くように命令する。
「おい。皆、刀を抜け。あ奴らが取り憑こうとする気配を見せたら、容赦なく斬り殺せよ。どうやら刀や槍で倒せる者のようだ」
「へい」「へい、お頭」
盗賊たちの表情が一変して明るくなった。
人と同じような相手なら、争いごとには慣れている生業の者たちである。
盗人たちが一斉に刀を抜く音が、霧の壁に当たり大きく木魂した。
白い霧はさらに深まり、その中で蠢く者たちの気配も、刻一刻と数を増した。
「この峠を回り切って仕舞えば東を向く。そっちは風通しが良くなっているから、霧も程無く治まるぞ。休まず進め」
赤虎の号令に、隊列の歩みが速まった。
すると、人影が集まり、左右に立つ霧の壁に凝集した。
左右の双壁に浮かび上がったのは、無数の人の顔である。
亡者の顔が、霧の中から浮かび上がっては消え、再び浮かび上がる。
霧の中には、恐ろしい程の数多の顔が潜んでいたのだった。
亡者は霧の表面に浮かび上がると、各々が口を開き何ごとか恨み言を呟いている。
お蓮の真横では、一人の男の顔が浮き出ていた。
「俺のせいじゃない。そんなつもりはなかったのだ」
その男の顔が消えると、次は女の顔が現れた。
「助けて。ここは寒くて暗い。家に帰りたいよ」
水面に浮いたり沈んだりするように、霧の壁の表に交互に顔が現れては、すぐに消えた。
嘆き悲しむ女の顔のすぐ隣には、新たに子どもの顔が浮かんだ。
「母ちゃん。何処?」
泣き叫ぶ子の顔を見て、お蓮の表情が歪んだ。
「虎兄。これでは・・・」
亡者共を斬り倒して進むことなど、出来はしない。
赤虎の目前でも同じ事が起こっていた。
地獄の亡者たちは、悪意を持って近寄って来た者たちではなく、助けを求め、すがりに来た者たちであった。
遠征隊は、何千何万もの浮かばれぬ魂に囲まれていたのである。
「今は耳を塞ぎ、ひたすら前に進め。我らには何ひとつとして、こ奴らにしてやれることは無いのだ」
柊女の声が凛と響き渡った。
赤虎がこれを受け、手下に命じる。
「聞いたか。『己はお前らとは一切関わりを持たぬ』とひたすら心に念じ、真っ直ぐ前に進むのだ」
「へい」「へい」
牛の尻に鞭が入り、隊列の進む速度がさらに増した。
遠征隊が霧の壁の間を疾走すると、道の先の方に薄っすらと明かりが見えてきた。
「晴れ間が見えるぞ。皆急げ」
赤虎の声が周囲に響き渡る。
すると、それに呼応するように、霧の間から無数の手が伸びて来た。
「待てえ。わしも連れて行けえ」
「わたしを助けて」
「待てと申したら待たぬかあ」
そんな声と一緒に、数え切れぬ程の白い手が隊列を追い駆けてくる。
「行け行け!立ち止まるな」
赤虎は皆を叱咤すると、馬を下げ隊列の末尾まで下がった。あと一丁も進めば、霧の晴れ間に出る。一行を守るため、赤虎は隊の後ろに備えるつもりである。
赤虎は最後尾に達すると、刀を抜き亡者たちの方を向いた。
「ここまでだ。お前たちはお前たちの居るべき所に帰れ」
すぐ背後まで追いすがって来た手や顔が、赤虎の目前でぴたりと止まった。
「うおう」「うおう」と、亡者が嘆き悲しむ声が乱れ飛んだ。
四方の霧が動き、赤虎の目前で凝集し始める。
その霧の固まりは、瞬く間に人の顔に変貌した。それは、縦に二間もありそうな大きな禿頭の坊主であった。
その大頭は、赤虎をじっと見据え、言葉を発した。
「わしは例えようのない長い間、闇の中にいた。それは果たしてどれ程の年月か。今となっては、考えることも覚束ぬ程だ。そんなわしの前に、初めて現れた光明がお前たちなのだ」
「・・・」
「この闇を抜け出ることを、ひたすら乞い願って来たが、どうすれば良いのかが皆目分からぬ。わしが見えるのは、お前たちが放つ僅かな光だけだ。今を置いてわしがこの闇を抜け出る機は無かろう。だから、わしのことを連れて行け。わしのことを、この暗闇から救ってくれ」
赤虎は何ら表情を変えること無く、大頭を睨み返している。
「坊主。どんな因縁でぬしがそうなったのか、俺は一切知らぬ。だが、ぬしは死に、己の欲や邪念に囚われてそこに居るのだ。よって、ぬしを救えるのはぬしだけだ。他の者には救えぬ」
これを聞き、大頭の顔つきが険しくなる。
「嘘を申すな!」
「嘘では無い。ぬしを取り囲む闇は、ぬしが自ら作り出したものなのだ。ぬしが作ったものなら、ぬしでなくては消すことは出来まい」
「・・・」
「我らにぬしを救う事は出来ぬ。ぬしの近くに居る、他の多くの者たちもだ」
「他の多くの者だと?この闇の中に、他の者も居るのか?」
「ぬしと同じように救われぬ魂共が、同じ所で何万と蠢いて居る」
「すると、ここは地獄なのか。わしは地獄に居るのか」
大頭が眼を伏せ、己の思いに入り込む。
赤虎は頃合を見計らい、大頭に最後の言葉を告げる。
「思い出せることを可能な限り思い出せ。良きこと悪しきことを悉く思い出し、総てを受け入れよ。己の抱え込んでいる総ての妄執を捨て、己自身を許すことが出来れば、何時しか闇も晴れる事だろう。さて、俺はもう行くぞ」
「・・・」
赤虎が馬を返すのと同時に、再び周囲の霧がぐるぐると回り始めた。
一瞬の後、霧が止まると、周囲の山や湖には、人の形をした水煙が数え切れぬ程立っていた
赤虎はちらと脇見をしたが、まったく意に介さず捨て置いた。
去っていく赤虎の背後で、幾万もの亡者たちが、一斉に「うおう」「うおう」と、泣き叫んだ。
嘆き悲しむ声の中には、先程の大頭の声も混じっている。
「いずれお前もここに来る。地獄の底で待って居るぞう」
その声を最後に、呻き声がぱたりと止んだ。
赤虎は馬を駆り隊列に合流した。僅か二丁先のその場所では、先程までの濃霧が嘘のように、周囲が晴れ渡っている。
赤虎が先頭に戻ると、柊女が先に声を掛けた。
「赤虎。お前は声の大きな男よの。ここに参る途中で、お前の話がよく聞こえた」
これに赤虎は横目で柊女を一瞥するだけである。しかし、珍しく柊女は己の方から話を続けた。
「先ほどお前が申していた事は正しい。お前はそこいらの僧侶より説法が上手だな」
「柊女よ。昨日ぬしが俺に申したことで、少し悟った事がある。ま、俺とていざ死んだなら、間違いなく地獄行きの口だ。予め用意して置くに越した事はなかろう」
「成る程な。お前なりに行く末を考えて居るという事か」
「人として生まれ、百人のうち百人が必ず到達するのは老病死だ。そんなもの坊主でなくとも承知して居る。問題はその先どうなるかだ」
人は必ず死ぬ。だが死後の魂がどうなるか、はっきりとは分からない。
赤虎は、生きるためとは言え、この世の悪事の限りを尽くして来た。数多の人の命も奪って来たのだ。
(この後、俺が幸福な余生を送る事も、また、死して魂の平穏を得る事も無いだろう。)
盗賊の赤虎は、赤虎なりの諦観を持っていたのだった。
三日目の朝。
前夜、遠征隊の一行は、当地の地侍の屋敷に泊まった。大半が用人部屋で寝たが、柊女だけは別格なので、来客用の棟に滞在していた。
その別棟に、巫女二人の妹、お藤が駆け込んで来た。
「柊女さま。お玉姉さんの姿が見えません」
お藤が目を醒ますと、姉の姿が消えていたと言うのだった。
柊女は、すぐさま廊下に控えていた山伏たちを呼び付けた。
「清雲。すぐに赤虎を呼びなさい。頑慶はお玉の他に消えた者が居らぬか、直ちに確かめるのです」
「はい」「はい」
山伏二人は直ちに腰を上げ、館の外に出て行った。
左程の間を置かず、清雲と赤虎が連れ立って現れ、すぐ後に頑慶が戻って来た。
最初に、頑慶が今の事態を報告する。
「お玉は、人足の一人と示し合わせ、早朝の内に逃げたようです。荷車の前を馬に付け替え、金や米を持てるだけ持って行った模様です」
ここに赤虎が口を入れる。
「初日の夜から、早速男を取っ替え引っ替えしていたようだが、まさに欲の塊のような女子だな。己のためなら実の妹をも捨てようとするとは、まこと呆れ果てる」
赤虎のこの言葉に、妹のお藤がひれ伏し、両手を揃え、額を床に擦り付ける。
「申し訳ござりません。姉は恐らく、昨日の亡者たちの姿を見て、胆を潰したのでござりましょう。どうかお許し下さい」
赤虎はお藤をちらと見た後、判断を仰ぐように柊女の方を向いた。閉蓋の儀式は、専ら柊女が取り仕切るべき筋のものである。
柊女は赤虎に小さく頷き、ゆっくりと口を開いた。
「どうやら、お玉が逃げたのは間違いないようだ。赤虎。人足はともかく、お玉の方は是が非でも連れ戻さねばならぬぞ。お玉が居らずば、式を行う事が出来ぬ」
「女子なら他にも沢山居るぞ。閉蓋の儀式とやらをやるには、お玉でなくてはならぬのか?」
「そうだ。儀式にはお玉とお菊の姉妹二人が要ると、神託に定められて居るのだ」
赤虎は少し渋い表情になる。
「なら致し方あるまい。連れ戻しに行くとするか。盗人の心持ちは、盗人ならば十分に承知して居る。蓮。二人で追い駆けるぞ」
紅蜘蛛お蓮は、丁度館の中に入って来た所であったが、赤虎に向かって顎をしゃくると、そのまま踵を返し、先に館外に出て行った。
赤虎も直ちに立ち上がり、お蓮の後を追った。
赤虎とお蓮の二人は、館を出ると一路西に向かった。西に向かう道は平坦で、遠くまで見通しが利く。
ほぼ一刻走った所で、馬に水を飲ませるため、二人は小川の辺で小休止した。
「虎兄。何故この方角だと思うのだ?」
お蓮の問いに、赤虎が単直に答える。
「北は我らの進む道で、そっちに逃げる者は居らぬ。南に向かえば、昨日の亡者の所へ戻る。東は山越えの道ゆえ、馬車では難儀する。よって、この地から迅速に逃れるためには、西に向かうしかないのだ」
「人の少ない山を越えようとするかも知れぬではないか」
「ひと度あの亡者たちの姿を見れば、あまりに恐ろしゅうて、人気のある里の近くを進もうとするのが人の心だ」
「成る程。では近くに居るな」
「うむ。もはやこの近くに居る」
再び馬を発すると、三里も行かぬうちに、高さが三十間程のなだらかな峠道に差し掛かった。
その中腹まで上ってみると、案の定、一台の馬車が立ち止っていた。
「あれだな」
「うむ。あれだ」
二人は馬車に馬を寄せた。間近で荷台を覗き込んでみたが、しかし馬車の上には誰も乗っていなかった。
馬車の周囲にも人影は見当たらない。
ぐるりと遠くを見渡すと、斜面を切り崩した道の先に、杉の木立が見える。
「あの林の奥に赤い物が見えるような気がするが、蓮はどうだ」
「うむ。わたしにも見える。あれは女子の着る襦袢の裾だろう」
「よし行こう。ヤーッ」
馬を駆り二人は木立に近付く。
木立の奥には、坂の斜面にもたれ掛かるように女が独りで座っていた。
女は林の先をじっと見詰め、わなわなと震えている。
「お玉。どうしたのだ。人足はどこだ」
赤虎の問いに、お玉は言葉を返す事が出来ず、震える指で前を指差す。
すると、十間先の茂みの向こうで、がさがさと何かが動く気配があった。
「蓮。馬を下りろ。俺が確かめるから、ぬしは後ろを見張って居れ」
「分かった」
二人はすぐに下馬し、それぞれ刀を引き抜いた。
赤虎が前に立ち、その赤虎をお蓮が背後で見守りながら、二人はゆっくりと前進した。
赤虎が茂みの横を回り、前に回ってみると、そこには老婆が一人、赤虎に背中を向けてしゃがんでいた。
その老婆から二間先には、子どもが二人ぽつんぽつんと離れて座っている。いずれも背中を向け、忘我の域に入っている。
赤虎がさらに老婆に近付くと、老婆が前に抱えているのは、紛れも無く人の胴体であった。
一心不乱に骨を齧る音が、がりがりと周りに響いた。
老婆は人の体を食らっていたのである。
「蓮。こ奴らは地獄の鬼だ。お前はそっちの餓鬼共を斬れ。俺はこの鬼女を殺す」
背後の声に老婆が振り向くが、それはもはや赤虎が大刀を振り下ろす寸前であった。
一瞬、老婆は両眼を丸くしたが、丁度その眼の間を、赤虎が太刀で両断した。
「ぐええ!」
老婆は頭を二つに割られ崩れ落ちる。
片やお蓮の方は、赤虎にと命じられると即座に走り出し、二匹の餓鬼を次々袈裟懸けに斬り捨てていた。
木立の間に、餓鬼たちによる「ぎゃあ」「ぎゃあ」という断末魔の声が響いた。
鬼退治が終わり、紅蜘蛛が赤虎に歩み寄った。
「虎兄。こ奴らは何だ。とても人とは思えぬ」
「はるか昔は人だったかも知れぬが、今は邪念が凝り固まり鬼に変じて居る。こっちの鬼婆の方は、坊主共が羅刹女(らせつじょ)と呼ぶ奴だろう。そっちの小さいのは、地獄に棲む餓鬼という奴だ」
「何やら浅ましい生き物だな」
「本来命を持たぬ者たちだ。しかし、今はこの世に這い出て居るゆえ、斯様に殺すことが出来る」
「もし、このまま地獄と繋がったままなら、いずれ死なぬ者に戻る訳か」
「そうだ。この世もあの世の区別も無く、総てが地獄となるのだ。これでは、どうあっても、我らは務めを全うせずには居れぬ訳だ」
赤虎の言葉を受け、お蓮は表情を険しくしながら頷く。
二人は刀を収め、逃げた女の所に戻った。
赤虎はお玉に向かい、穏やかな口調で諭し始める。
「お玉。ぬしもその眼で見たであろう。今、この世は地獄と繋がり始めて居る。これを放置すれば、我らは生きながら地獄の底に落ちる。何としても蓋を閉じねばならぬのだ」
お玉は依然として言葉が出ない。己の目前で、共に逃げた男が食い殺されたのだから、無理も無い話である。
「ぬしはなかなか運が良い。ここで出会ったのが、羅刹女でなく淫鬼だったのなら、ぬしの腸が破れるまで犯され続けたことだろう。また俺たちの来るのが半刻遅かったら、ぬしはもはや食われていた」
「ひいい!」
お玉は恐れおののき、全身を縮こまらせた。
「よし、お玉。この後は逃げるなよ。次からは助けには来ぬぞ。さあ早く馬車に戻るのだ。もたもたすれば、ぬしの事はここに置いてゆく」
お玉はすぐさま立ち上がり、馬車に向かって転がるように走った。
その日の夜。
一行はこの地の村長(むらおさ)の家に立ち寄っている。道の先々に報せが届いて居り、どの村でも、遠征隊を迎え入れるための仕度が出来ていた。
宴の席では、この数日と同じように酒が振る舞われ、皆が同じように酔っていた。
「虎兄。日頃は思いも寄らぬ事が、今は日毎に起きている。それなのに、こんな風に皆が平気で酒を飲んで居るというのは、わたしにはどうにも解せぬ」
お蓮は不審げな顔つきで皆を見渡している。
赤虎はそのお蓮に、手ずから徳利を向けた。
「亡者だの鬼だのを直に眼にして居るのだ。酒でも飲まずば、気を確かに保てまい。逃れようにも逃れられぬのだからな。我を忘れる程酒を飲まぬなら、けして眠れぬ。幾ら酔い潰れた所で、朝になればその日出会う鬼共に思いを巡らせ、すぐさま酔いが冷め、頭が凍りつく事だろうて」
ここでお蓮が何かに気づいた。
「あれ。あのお玉とか申す女。昼に己の色を食い殺されたばかりだと申すのに、もう別の男とくっ付いて居る」
部屋の隅の方では、盗賊の一人とお玉が、辺りをまったく憚らず、あられもない痴態を繰り広げていた。
「あれは怖れがそうさせて居るのだ。もちろん、元々あの女は好色な性質(たち)なのだがな。さらには酒と薬が、一層そ奴の尻を叩いて居るのだろう」
「まったく、欲の塊のような女だ」
ちっと舌打ちをして、お蓮は盃を口に運んだ。
「蓮。お前には誰か好いた男は居らぬのか。この後、事態はどんどん悪くなる。あれから何年経つのだ。そろそろ、ぬしも新しい男を作っても良い頃だろう」
お蓮はこれに答えず、目の前の床に視線を落とした。
かつてお蓮には、互いに惚れ合った男がいた。だが、その男は捕り手に囲まれた時、赤虎や蓮を救うため、独り踏み止まって命を落としたのだった。
赤虎の方では、お蓮の男をその場に置いて先に逃げた事が、今も負い目になっている。
盗賊の末路は知れている。女子のお蓮は、早々にこんな生業から足を洗って、惚れた男と所帯を持つのが望ましい。
そんな赤虎に、お蓮の方は何ら表情を変えず返事をした。
「わたしに男は要らぬ」
お蓮は赤虎に答え、再び盃をあおる。
お蓮の心中には、「虎兄が傍にいてくれるだけで十分だ」という続きの言葉がある。
お蓮は、己を育ててくれた赤虎に対し、まるで父親のような、兄のような、さらに幾らかは伴侶に対するような気持ちを抱いていたのである。
もちろん、お蓮は赤虎に対するそんな気持ちを、これ迄ただのひと言も口に出した事は無い。
賑やかな宴が続く中、赤虎の前に、巫女となるべき姉妹の妹、お藤が現れた。
お菊は両手を床に付き、深々と頭を下げた。
「今日は姉を救って頂き、有難うございました」
お藤が顔を上げる。地味な顔立ちに、誠実そうな人柄が表れていた。
「柊女によると、是が非でも、ぬしたち姉妹に立ち会って貰わねばならぬそうだ。この世を救うためと申すのは、ちと大それた話のような気がするが、我らにはそういう使命があるとの話だ」
実際に、亡者や鬼に遭遇している訳であるが、その恐ろしさを間近で見ても、今もどこか現実感に乏しかった。
赤虎にしてみれば、盗人として気侭に生きて来た己が、「この世を救う」とは、流石におこがましいような心持ちがする。
「柊女は別として、他の者は夕餉を共にする決まりだが、ぬしの姿は見えなんだ。夜は何処に居るのだ?」
赤虎の問いに、お藤は僅かに微笑んだ。
「厨房(くりや)で食事の仕度や後片付けを手伝って居ります」
「我らはこの世を救うための遠征隊だ。余程必要の無い限り、雑用は他の者に任せて置くが良い」
「でも、わたくしは人が沢山いる所が苦手なのです。それにあんなご馳走は勿体無くて食べられません。菜っ葉のお雑炊を少し頂ければ、それで結構です」
ここで紅蜘蛛お蓮が「ふん」と鼻を鳴らした。
「ええい。食って良いと言われて居るのだから、遠慮なく食って置けば良いのだ。鼠のように自ら隅に隠れていようとするな。貧乏臭くて苛々する」
世人に「紅蜘蛛」と呼ばれる、お蓮の持って生まれた気性の激しさが、ここで顔を覗かせた。
そんな二人の間に赤虎が口を入れる。
「ところで、お玉とぬしの姉妹はどういう経緯(いきさつ)で巫女となることになったのだ。柊女は神託があったと申していたが・・・」
お藤は眼を伏せ、暫らくの間押し黙っていたが、決心したように重い口を開く。
「わたしたちは売られる所だったのです」
思いがけぬお藤の言葉に、紅蜘蛛の右の眉毛が少し上がった。
「何だと」
「この数年、米どころか麦も粟も、まともに実りませぬ。わたしたち姉妹は、十日後に人買いの手に委ねられる所でした」
紅蜘蛛が「けっ」と息を吐き出す。
「ふん。何処にでもある話だ。米が実らぬ時には、余計に侍共の取立てが厳しくなる。己の食い扶持を取られてしまえば、売れる物を売る他は無い。それが例え実の娘でもだ」
紅蜘蛛は子どもの頃に親を殺され、妹と二人、殆ど餓死寸前になるまで困窮した経験がある。
「父母の他、弟妹がまだ四人います。わたしたちが出て行けば、皆が救われるのです」
「けっ。嫌な話だ」
紅蜘蛛は吐き捨てるように言った。
ここで赤虎がゆっくりと頷く。
「そこに柊女が参ったのか」
「はい。柊女さまは、双子の姉妹がいるという話を聞き付け、我が家を訪ねて来られたのです」
「ぬしたちは双子の姉妹だったのか。見た目も気立ても、あまり似て居らぬな」
ここで紅蜘蛛がくくと笑った。
「妹の前で言うのも何だが、あのお玉という女子は、淫乱で欲深で、おまけに嫉妬深そうだ。女子の悪い所を総て持ち合わせて居るようだぞ。見ているだけで腹が立つ」
「姉はあんな人ですが、けして悪人ではござりません。幼き頃から長く続く苦労が、姉をああいう風にしたのです」
お藤は一瞬身をすくめたが、再び先程の続きを話し出す。
「柊女さまは、わたしたちを引取る替わりに、父母に五つの山を与えると仰せになりました。その時一緒に来られた別当さまが、必ず柊女さまの言質を守ると確約してくれましたので、巫女として同行する事になったのです。何処か遠くの地で、遊び女として一生を終えるよりは、はるかにましです。また、そうすれば、この先ずっと、姉と一緒にいられます」
「成る程な。誰でもそう考えるだろう」
遠くの方からは、お玉の嬌声がここまで聞こえて来ていた。
三人はお玉のいる方を同時に見た。赤虎は前に向き直ると、再びお藤に聞く。
「山五つか。この世が終わりになるかも知れぬと思えば、それを止める代賃としてはけして高くは無い。だが、巫女三人で行う儀式とは、一体どんなものなのだ。ぬしは柊女に何か聞いて居るのか」
お藤は首を横に振った。
「いえ。祈祷であることは承知して居りますが、どんな儀式かは知らされて居りませぬ」
「ふむ。柊女は俺にも、『怖谷に着いてから話す』と申して居った。地獄の蓋が開いたと柊女は申したが、どうやらそれは現に起こって居る事のようだ。我らはこの眼で確と見たからな。これから先、死ぬまでずっとこの世で亡者や鬼と同居するのは敵わぬ。俺など、いざ死ねば間違いのう、あ奴らの世界の住人だろう。なら、せめて命のある間は見たくないぞ。そうなると、この使命は何としてもやり遂げねばならんな」
「はい」
「ぬしたち姉妹が成否の鍵を握っているらしい。心して掛かれよ。俺はぬしたちを守り、必ずや怖谷に送り届ける」
勿論、赤虎の心中では別の思惑がある。
(そうしなくては、七海に会えぬからな。)
お藤はそんな赤虎の本音を知ってか知らずしてか、殊勝に頭を下げている。
「はい。畏まりました」
お藤は赤虎の話が終わると、そこで立ち上がり、厨房の方に歩み去った。
その姿が見えなくなると、紅蜘蛛が独り言のような口ぶりで呟く。
「姉は癖の悪い女だが、妹は姉には似ず気立ての良い娘だ。まるで、何処かに居る姉妹とそっくりだ」
紅蜘蛛にしては珍しく自嘲気味である。
「そんな事を申すな。ぬしは立派に妹のお芳を守り通したではないか。自らを卑下する事は無い」
赤虎は無骨者なりに、義妹の気持ちを和らげようとしていた。
第四日目。昼過ぎになり一行は山間の村に差し掛かった。
直前では、ぽつんぽつんと家々が点在する程度であったが、いざ村の中心部に入ってみると、意外に広い平地が開けて居り、三十軒を超える家が立ち並んでいた。
山に隠れるように建てられたのか、家々は表の道からは見えないようになっていた。
遠征隊の一行は、表道を進むより、直接北上することが可能な道筋を選択し、この村に入った。
宮野(九戸)城 本丸追手門跡
赤虎を先頭に、油断無く周囲を見張りながら、一行は村の中程に進んだ。
赤虎の背中に、柊女が声を掛ける。
「赤虎。この辺りは恐らく御灯明(みあかし)村という所だろう。隠れ里の一つだ」
「確かにそのようだ。俺はこの北奥の隅々まで知って居るつもりだったが、ここには来た事が無い」
村の中央には、他の村々と同じように鎮守の御山がある。
山の下には神社の赤い鳥居が見えているが、鳥居の周りには大勢の人が集まっているのが見て取れた。
赤虎はその様子を眺め、思わず独り言を呟く。
「ざっと五百人は居る。こんな山の中のどこに隠れていたのだろう」
「この村だけではなく、周囲の山中に隠れ住む者たちが、挙(こぞ)って集まっているのだろう」
「今も続々と人が到着して居る。一体何のために集まって居るのだ」
ここに隊列の後ろから、男装束の女子が馬を前に進めて来た。紅蜘蛛お蓮である。
「虎兄。直にあそこへ行って見れば分かるさ。近くに行って見てみよう」
「よし。皆はここで休め。俺と蓮の二人で見て来る」
二人は三丁先に見える小山を目指し、馬を駆った。
赤虎とお蓮は、小山の脇で馬を下り、人集まりの方に近付いた。
道の両側には一丁も前から縄が渡してあるが、人々はその縄の後ろに控え、何かを待っている風情である。
お蓮がその中の一人の肩を叩く。
「済まぬが、ちょっと教えてくれ。お前たちは、一体何を待って居るのだ」
声を掛けられた男が振り向いた。年の頃が四十前後の痩せた男である。
男は己に声を掛けたのが、男の装束を身に着た女子だと知り、三呼吸の間、黙って見ていたが、漸く口を開く。
「これから御柱(おんばしら)さまが通るのだよ。だから皆で待って居るのだ」
「御柱さま?何だそれは」
「我らをお守り下さる尊いお方だよ」
「尊いお方だと?」
「生き神さまと申し上げても良い。衆生を救うため、御柱さまは二十年ぶりに降りて来られたのだ」
沿道の人の数はざっと一千人を超えていた。すると、この時急に道の先の方で「おお」というどよめき声が上がった。
「来た」「来たぞ」
「遂にいらした」
しかし、人垣の先で何が起こっているのかは、二人にはなかなか見えて来ない。
暫らくの間、その場に留まり待っていると、道の先に一台の山車が見えて来た。
山車の上には左右に人が一人ずつ立ち、小脇に抱えた籠の中から、色鮮やかな花びらのような物を撒いていた。
山車の周囲には沢山の人が集まり、争うようにその花びらを拾っていた。
その二人の間、山車の中央には、巨大な置物が鎮座していた。
「あれは・・・。あれでも人なのか」
眼を凝らしてよくよく見ると、その置物が人であることが分かる。
「虎兄。まるで蝦蟇蛙の化け物のような奴だな」
この紅蜘蛛の呟きが耳に入ったのか、前の数人が後ろを向き、きっと睨んだ。
その視線を一身に浴び、紅蜘蛛は、ひゅっと肩をすくめた。
この時、隣に立つ赤虎も、興味深く山車を眺めていた。
「百貫とは言わぬまでも、八十貫はありそうな体だ。あれでは、あの男は己一人で寝返りを打つ事も敵わぬ。日頃どうやって暮らしているものやら」
山車はゆっくりと鳥居の方に近付いて来る。
その朱塗りの山車が、鳥居から半丁まで寄ると、何かの拍子に周囲の人垣がどっと崩れ、群衆が山車に向かって殺到した。
「御柱さまあ」
「御柱さま。お手を下さい」
老若男女が山車を取り囲み、その巨大な男に向かい、精一杯伸び上がって、己の手を差し伸ばしていた。
「やったやった。お手に触れたあ!」
「お召し物に触ったあ!」
目的を達成した者たちは、喜色満面の笑みを浮かべ、山車から次々離れている。
「あれは何だ。あの者に触れる事に、何か特別な意味があるのか」
赤虎は傍らに立つ老人に問い掛けた。
その老人は既に「御柱さま」に触って来たと見え、かなりの上機嫌である。
「あれはなあ。神さまから選ばれたお人なのだよ。三十年に一度、民の中から選ばれ、この祭の施主となるのだ」
「神に選ばれる?」
「決められた年の春、御柱さまになられるお方の家には、名前の書かれた札が貼られるのだ。それが神に選ばれたという印じゃ。選ばれた御柱さまは、それから三ヶ月の内に七つの儀式を経て、今日この日を迎えるのじゃ。その間に元は二十貫だった目方が、三倍四倍に大きくなる」
「僅か三ヶ月でそこまで目方が増えるものなのか」
老人は、大男の赤虎が驚きに眼を見張っているのを見て、呵々と笑った。
「御柱さまは世人の苦しみを吸い取り、救って下さる。この祭で社に納まるまで、この世の苦難を一身に集めて下さるのだ。その代り、御身はあのように変わってしまうのだ。お前さまがここに居合わせたのも何かの縁じゃ。すぐに山車の所まで行き、災いをお渡しして来るが良い」
老人は独りふんふんと頷くと、柔やかな表情のままその場を離れた。
赤虎とお蓮は互いに顔を見合わせる。
「俄かには信じ難いが、あの体はまこと尋常な物では無いな」
「虎兄。あそこに行って触ってみるか。肩が上がるようになるかも知れぬぞ」
去年、赤虎が海で怪我をした時、左の脚と肩の二箇所に大きな傷を負ったのだが、その傷が今だ癒えていなかった。とりわけ赤虎の左腕は、肩の高さより上に上げるのもままならず、あまり力が入らない。
「いや。今はこれに関わっている暇は無いだろう。道が開くのを待ち、早々に立ち去ろう」
この時、鳥居の周囲には二千人をも超えようという群集が集まっていた。
「これでは、埒が明かぬな」
「もうじき、あの御柱さまとやらが階段を上るだろう。そうすれば、いずれ前も開く。暫らくここで待とう」
「うん」
赤虎とお蓮は、人混みを掻き分け、十間移動し、鳥居の横の方に立ち位置を替えた。
暫らくすると、山車が鳥居の前までやって来た。鳥居の後ろは傾斜の急な階段で、そのままでは上がれない。
すると、周囲の従者たちが、「御柱さま」の載る山車の上の部分を持ち上げた。
こうすると、台は輿となり、人が十数人掛かって手で支え、階段を上に上る事が出来るようになる。
従者たちは、輿を掲げたまま、ゆっくりと階段に近付いた。
しかし、階段を十段も上がった所で輿が立ち止まる。
百貫近い「御柱さま」と、木組みの輿の重量に、下側の数人が持ち堪えられなくなったのだ。
「ああ、これはいかん」
周りの数人が手を伸ばし、助勢しようとするが、如何せん足場が悪かった。
誰かが輿の真下に入り、支え直す必要があるのは明らかであった。
「おおい。誰か手を貸してくれい!」
従者が叫ぶ。
その声に応じ、皆が周りを見渡すと、鳥居の陰に大男が一人立っていた。
「あんた。ちょっと手を貸してくれ」
声を掛けられたのは赤虎である。
「ああ」
がくんと輿が傾き、「御柱さま」が転げ落ちそうになる。
赤虎はすかさず走り寄り、「御柱さま」の真下の枠木に右肩を入れ、輿を支える。
それと同時に、輿からはみ出した「御柱さま」の体を左手で押し上げた。
「つうう!」
赤虎が唸り声を上げながら輿を支えるのを見て、すぐに両脇に従者が何人か入り、漸く輿の傾きを直した。
「御柱さま」を載せた輿は、山頂にある神社の方に向かった。
階段を上り切ると、二十五間四方の平地となっている。ここで赤虎は輿の下から外れた。
境内の端は、輿に続いて階段を上ってきた人たちが、人垣を作っていた。
その中に、お蓮がいるのを認め、赤虎はゆっくりと歩み寄った。
赤虎が間近に近寄ると、お蓮の方が先に口を開いた。
「虎兄。ご苦労な事だったな」
「ふむ」
赤虎は群衆の中の一人に戻り、前を向き直る。
境内の中央には、あたかも櫓のように木が組み上げてあった。組み木の高さは凡そ二十尺程である。
「御柱さま」を載せた輿は、その組み木櫓の前に到達すると、静かに地に下ろされた。
「櫓の上に載せるつもりだろうが、流石にあの櫓では、輿のままで上に上げられぬという事だな」
櫓の横には、七八段の台座が置かれていた。従者が左右で体を支え、その台座を登ると、 「御柱さま」は櫓の中央に一人で座った。
「虎兄。ここからはどうするつもりなのだろう。何か儀式でも執り行うという事か」
お蓮の言葉に、赤虎の後ろから声が帰る。
「火を点けるのじゃよ」
赤虎とお蓮が声のした方を向くと、そこにいたのは先程の老人である。何時の間にか、二人の傍に来ていたのだ。
「ご老人。火を点けたら、あの御柱さまとやらは、死んでしまうではないか」
老人は顔色を変えず平然と答える。
「この世の災いを一身に集めたのだから、焼いてしまわねばならぬのだ」
「人殺しになるではないか。それが神事か」
ここで老人がからからと哄笑した。
「御柱さまに選ばれるのは幸運の極みなのじゃよ。ここで焼かれても、すぐに生まれ替わる事になって居るのだ。次に生まれる先も決まって居るぞ。ほれ、あそこを見れ」
老人が指差す先には、白布を敷いた台座の上に、腹の大きい妊婦が一人で座っていた。
「御柱さまを出した家も、また次に生まれ替わる先の家も、この後は大いに栄える事になろう。これまでは皆そうだったのだ。だから、御柱さまに選ばれる事を拒む者は一人も居らぬ。一族上げて大喜びなのだ」
「そんなものなのか」
「そんなものじゃよ」
この時、ぼんと音を立て、櫓の方で火の手が上がった。櫓の下に置かれた薪には、松根油がふんだんに撒いてあったのだ。
火は瞬く間に櫓全体に燃え移り、「御柱さま」の体を包んで行く。
「ああっ」
櫓の上の巨大な男が、呻き声を上げ、身をよじった。
周囲の群衆は、一斉に地面に膝を付き、両手を擦り合わせ、「御柱さま」を拝み始めた。
「虎兄。目の前で人が焼かれるのは、気色悪いものだな。肉の焦げる匂いが、ここまで漂ってくる」
お蓮は思い切り顔をしかめている。
赤虎とお蓮は、神社から下り、仲間が待機する場所に戻った。
赤虎は、柊女に向かい、村での出来事を報告する。
「神社で祭を行っていた。だが、それは人殺しの祭だ。災いを一人の男に集め、焼き殺すのだそうだ。現に、男が一人境内で焼かれるのを見て来た」
珍しく柊女の右眉が上がる。
「数十年に一度、神に人身御供を捧げる祭があるとは聞いていたが、それはこの村であったか。恐らく他言無用を守り通してきたのであろうな」
「一千人を優に超える人が出ていたぞ」
「四方に見える六つの山々に住む者を、総て合わせればそれくらいの数だろう」
「焼け死んでも、すぐに生まれ替わるという話だ」
「この北奥には、飢饉にも戦乱にも縁の無い隠れ里があるとは聞いていた。それがここなのだろう。確かにここに来る途中では、禍々しい気配に満ちていたのに、ここでは鬼や亡者の出る気配がまったく無い。だがそれは、この地に住む者だけへの神からの恩恵だろう。しかし、そんなことは我らには関わりが無い。我らは我らなりの道を進まねばならぬのだ。さあ行こう、赤虎。今日の内にあと十里は進むのだ」
「よし。承知した。皆それぞれの重い尻を持ち上げよ。我らは出発するぞ!」
遠征隊の全員が慌しく立ち上がり、出発の準備を始めた。
紅蜘蛛お蓮は、隊列の前に馬を留め、前方の様子を見ていた。
そこに背後から、赤虎が近寄って来た。
「蓮」
赤虎が呼ぶ声に、お蓮が振り向く。
「蓮。どうした事か、俺の肩が治って居る」
赤虎はお蓮の前で、左の腕をぐるぐると回して見せた。
「それだけでなく、体中の古い矢傷刀傷や、骨の折れた跡の痛みが、まるで無くなって居るのだ」
「あの御柱とやら。本物なのか」
「どうやらそのようだ。まあ、亡者たちや羅刹女をこの眼で見て居るのだ。何が起こっても驚く程のことはない」
二人は、ここで殆ど同時に「ふう」と溜め息を吐いた。
第五日目。この日の内に山道を抜け出ると、その後は怖谷の直前に至るまで海沿いの道が続く。
一行は、昼過ぎに「両山」の狭間に差し掛かった。「両」は二つという意味で、その名の通り、左右に一つずつ、ほぼ同じ高さの山が聳える地である。この狭間を抜け出ると、すぐに浜に出られる筈であった。
しかし、狭間の直前になり、急に柊女が赤虎を引き留めた。
「いかんな。この先に禍々しい気配を感じる。どうやら我らを待ち構えている者が居るようだ」
「しかし、ここはこの道一本しか無い。迂回するには半日分戻り、西回りで進む他は無い。さすれば丸一日余計に掛かり、明後日までに着けなくなるぞ。このまま進もう」
「これまでの相手とは違うようだぞ」
柊女の懸念を、赤虎が笑い飛ばす。
「柊女。俺たちは盗賊だ。命を掛けて敵と対峙しなくてはならぬのは、何時もの事だ。あと二日進めば、お宝が待って居る。今さら後戻りなど出来るか。そうだろう、皆!」
「へい」「へい」
赤虎が再び柊女の方に向き直ると、その巫女は小さく頷いた。
「青雲、頑慶。柊女殿の牛車を、隊列の中程まで下げるのだ。ぬしたちは、巫女三人を守り通すのだぞ。他にもう二人、俺の手下を付けてやる」
「承知した」
赤虎はすかさず一行の中程まで馬を下げ、全体に聞こえるように声を張り上げる。
「よく聞け。今日がこの旅で最も厳しい難所だぞ。この先、我らは待ち伏せに遭うだろう。だが心配するな。我ら毘沙門党が、命に替えてもぬしたちを守り通す!女共は御神木の上に乗れ」
女たちが次々牛車の上に乗ろうとする間に、赤虎は手下を呼び寄せた。
赤虎は居並ぶ盗賊たちの顔を見渡すと、にやりと笑った。
「今日と明日が、この旅の山場だぞ。鬼か亡者かは分からぬが、この先必ず襲って来る」
盗賊の顔が急に険しくなった。
これを見た赤虎の口調が、ここで急に柔らかくなる。
「だが、俺たちは実に運が強い。もし戦いになり敵に殺されたら、普通の奴はそのままあの世行きだ。だが俺たちは違う」
「お頭。どういう事ですか」
「俺たちは悪人だ。死して極楽に行く事は無い。そこが運の強い所だと申すのだ」
盗賊たちは、この言葉を聞くと、いよいよ不審げな表情になる。そこで赤虎はにっと笑い、己の手下に話の続きを聞かせた。
「これまで悪事を働いて来た俺やお前たちの行く末は、必ずや地獄だ。死ねば地獄行きが必定なのだ。だが、今はこの世と地獄とが繋がって居る。巫女の柊女によれば、今なら例え命を落としても、すぐに地獄で蘇るそうだ。その地獄の出入り口が、これから行く怖谷だ。要は、地獄の釜の蓋を閉じぬ限り、そこから何度でも出て来られるという事だ」
盗賊たちの顔が、一時(いちどき)にぱっと明るくなる。
「お頭、わしらは、この先、万が一鬼に殺される事があっても、またすぐに生き返る事が出来るって事ですかい」
「そうだ。今や俺たちは不死身なのだ」
「じゃあ、この先何が起こっても平気じゃねえですかい」
「そうそう。そして谷を出る時、俺たちは抱え切れぬ程のお宝を抱えて居るだろう」
盗賊たちはいよいよ色めき立つ。
「よおし。あと二日でお宝の山に行き着くとなれば、是が非でも頑張ろう。お頭、わしらに任せて下さい。よし、皆。何があっても怖谷に行き着くぞ!」
「おう」「おう」
掛け声を合図に、盗賊たちの馬は、隊列の前後に分かれた。
一行が両山の入り口に差し掛かると、空が急にごろごろと鳴った。それと同時に、山の陰から黒雲が湧き出て、空を覆い始める。
「そろそろお出ましらしいな。虎兄」
先頭の赤虎の隣には、紅蜘蛛お蓮が控えている。
「うむ。気を許すなよ」
その赤虎に、お蓮は言葉の代わりに顎をしゃくって答えた。
間髪入れず、左右の山で唸り声が轟いた。
「ぐおう」「ぐおう」
一行は一斉に刀や槍を構える。
「来るぞ!」
盗賊の一人が叫ぶや否や、「どどどど」という地響きが駆け下りて来た。
左右の斜面を駆け下りて来たのは、全身が青や赤一色の巨大な化け物たちである。
最初に道に下り立ったのは、頭が牛で体が人の、全身赤い肌をした鬼二匹である。身の丈は、それぞれ七八尺に達する高さで、眼の醒めるような青い褌だけを腰に纏い、長い鉄の棒を右手に持っていた。
次に下りて来たのは、頭が馬の青鬼二匹である。この鬼たちは、輿に赤い褌を締め、手には刺叉を握っていた。
先頭の赤虎が、鬼たちを見据えたまま、大声で叫ぶ。
「こ奴らは、地獄に棲む牛頭(ごず)馬頭(めず)という鬼共だ。見た目は恐ろしいが、昔は人に過ぎぬ。けして恐れるな」
しかし、赤虎の跨っている馬は、鬼に恐れをなし、じりじりと後退りを始めていた。
すぐ後ろの手下を見ると、その者の馬も同じである。
「皆馬を下りよ!すっかり怖気づいて役には立たぬ」
赤虎の叫びに、盗賊たちはすぐさま下馬し、馬を後ろに放つ。
「地獄の中とは違い、この世では、こ奴らは獣に近い生き物だ。倒せるぞ。皆掛かれい!」
号令と共に、赤虎は刀を構え、目前の牛頭鬼ににじり寄った。
牛頭鬼(ごずき)は「ぶふん」と音を立て鼻息を吐くと、手に持つ鉄の棒を大きく振り被り、赤虎目掛けて振り下ろした。
赤虎はこの一撃を刀で受けたが、あまりの鬼の力に、左側に吹っ飛ばされた。
赤虎の体は勢いよくごろごろと転がり、坂の一番下に落ちていた岩にぶち当たった。
「お頭。危ない」
盗賊の一人が、赤虎を窮地から救おうと、牛頭鬼の後ろから切り掛かる。
すると牛頭鬼は、その刃を難なく避け、背後にいた盗賊の腰に鉄棒を喰らわせた。
「ぐうっ」
盗賊は、たったその一撃で地面に膝を落とした。
そこへ牛頭鬼がすぐさま躍り掛かる。
牛頭鬼が、その盗賊の頭に鉄棒を振り下ろすと、盗賊の頭が「ぐしゃり」と音を立て、半分に潰れた。
赤虎は岩に体を打ち当て、少しく呻いていたが、ここで起き上がった。
右手の刀はと見ると、先程の牛頭鬼の一撃で、真ん中から二つに折れていた。
「おい皆!刀では駄目だ。槍を使え。弓を持つ者は両脇の坂の上から狙い撃て!」
叫ぶや否や、赤虎は牛頭鬼に背を向け、走り出した。刀の代わりとなる槍を、牛車に取りに行こうとしたのである。
「お頭。ここは俺らに任して、早く行ってけろ!」
手下の一人が槍を伸ばし、牛頭鬼を牽制する隙に、赤虎は先頭の牛車に到達した。
そこで、赤虎は荷の間に入れてあった槍を素早く引き抜く。
その時、槍を持つ赤虎の眼には、一頭の馬頭鬼が女たちの牛車に取り付いているのが見えた。
女たちは口々に叫びながら、必死で応戦していた。
「この化け物!」
「お前なんかに殺されて堪るか!」
女たちは牛車に山と積まれた神木の木材の上に乗り、下から手を伸ばして来る馬頭鬼に立ち向かっている。
女たちが武器としていたのは、長めの木材であるが、五人一斉に力を合わせ、鬼に打ち掛かったので、流石の鬼も少し手古摺っている。
(これは不味い。早く救いに行かねば。)
赤虎が女たちの載る牛車に向かおうとすると、その牛車の十間後ろを走り去ろうとしている一人の女がいた。
「あっ。あれはお玉!」
お玉は、目前で襲撃されている牛車の後ろの車に、柊女や妹と一緒に隠れていたのであるが、前の車の様子を覗き見て、恐れをなし逃げ出そうとしていた。
仲間を捨て、己だけで逃げようとするお玉の姿を見つけたのは、赤虎一人ではなかった。
後尾にいた別の馬頭鬼が、逃げるお玉に気づき、もの凄い勢いで追い駆け始めたのである。
赤虎は急いでその馬頭鬼を追ったが、如何せん脚の早さでは敵わない。
馬頭鬼はあっという間にお玉に追い着き、襟首をむんずと掴み宙に持ち上げた。
すると、だらしなく着込んでいたお玉の着物がするりと脱げ、お玉は半裸になってしまった。
「ひゃあ」
まさに空中に吊り上げられようとしていたお玉は、着物が脱げたおかげで、地面にどしんと尻餅を着いた。
お玉が驚いて後ろを向く。すると、お玉の二つの乳房はすっかり露になり、腰巻の裾からむっちりした太腿の付け根までもが覗いていた。
ここで馬頭鬼の動きが止まった。
馬頭鬼は、裸のお玉を前にすると、「フーッ」「フーッ」と息を荒げ、暫し静止する。
そこへ赤虎がようやく追い着いた。
馬頭鬼はその気配に気づき、振り返りざまに刺叉を繰り出した。
赤虎は刺叉の先を槍の穂先で受け止める。
すると、つい先程の牛頭鬼の時とは異なり、馬頭鬼の力は大したことが無い。
赤虎は「エイッ」という掛け声と共に、勢いよく槍を繰り出した。
赤虎の槍は見事に馬頭鬼の首の根に突き刺さり、鬼は声も立てずその場に崩れ落ちた。
思ったより簡単に鬼を倒す事が出来たので、赤虎は少し拍子抜けがした。
(こんなにあっさりと死んでくれるものなのか。)
赤虎は己の足で馬頭鬼の体をひっくり返す。すると、この鬼が急に力を無くした理由が一目瞭然となった。
「これか」
赤虎はすぐさま踵を返し、牛車の方に駆け戻る。その時、真ん中の牛車の近くには三匹の鬼が集まっていた。
「女共。助かりたくば、直ちに着物を脱いで肌を晒せ。こ奴らの弱味はぬしたちの裸だ!」
しかし、牛車三台の上に分乗した女たちは、赤虎の言葉をすぐに理解できない。
女たちが動かず固まっている間に、赤虎の手下二人が、牛頭馬頭に倒された。
「こ奴らに女子の裸を見せれば、たちまち欲情して力が失せる。殺される前に着物を脱げ!」
ここで漸く双子の姉妹の妹・お藤が赤虎の意図を解し、するすると帯を解き始めた。
お藤はあっという間に素裸になり、牛車の上で、鬼によく見えるように真っ直ぐに立った。
このお藤の様子を見て、周りにいた女たちも慌てて着物を脱ぐ。
忽ち牛車の上には裸の女だらけとなった。
この時、鬼たちは牛車の近くで盗賊たちと干戈を交えていた。
「皆下がれ。こ奴らに女共を見せてやるのだ」
赤虎の声に、盗賊たちがさっと退く。
三匹の鬼は、目前の敵勢が急に後ろに下がったので、様子を伺うべく周囲を見回した。
そこで、鬼たちは牛車の上にいた二十人の裸の女を眼に止めた。
鬼たちの動きが急に止まる。鬼たちは女の裸を凝視したまま微動だにしない。
赤虎は暫らくの間その様子を眺めていたが、頃合を見て手下に命じた。
「よし。鬼共は欲情したぞ。今ならこ奴らには力が入らぬ。このうちに倒してしまうのだ。一物が突っ立っているうちに、槍で囲んで脚を払え。傷付き倒れた所を突き殺すのだ!」
「へい」「へい」
盗賊たちが一斉に動き出し、鬼を取り囲んだ。
牛頭鬼は鉄棒を振り回し、盗賊たちを蹴散らそうとするが、その動きはつい先ほどとは雲泥の差で、実に緩慢である。
鬼の陽物は褌からはみ出そうになるほど膨らんでいたので、動けないのも当然である。
盗賊たちは、最初に鬼の脚を集中的に攻撃し、動きを止めた。
盗賊たちは鬼が地べたに腰を落とした所を取り囲み、一斉に槍を突き刺した。
四頭目の鬼の首を落とした後、赤虎は腹心の手下を呼び寄せ、状況を確かめる。
「死んだ者は何人だ。怪我人は幾人出ているのだ。皆直ちに報せよ」
するとその手下は、一行全体の様子を調べ、赤虎に報せに来た。
「四人が死に、一人が腕を折られました。人足と女子共は皆無事です」
「かなりの激戦だったと申すのに、死んだのはそれだけか。あんな敵を相手に、皆よく頑張ったな」
「へい」
報告に来た男の息は、未だ静まって居らず、肩が上下している。
牛頭馬頭共がどれ程手強い相手だったかを、男の息遣いが物語っていた。
「よし。屍を埋め、すぐに出発するぞ」
「でもお頭。仲間の屍も鬼の残骸も、皆ぐずぐずと溶け始めています」
赤虎と手下が、連れ立って見に行くと、屍は皆溶け崩れ、着物だけが残っていた。
「いよいよ地獄に近付いているという訳だな。よし、皆。急ぎ仕度をせよ。直ちに出発だ!」
「へい」「へい」
盗賊と人足は、それぞれの持ち分の牛車に駆け戻った。
遠征隊は再び北を目指し出発した。
赤虎が隊列の前に出ると、程無くお蓮が馬を横に揃えて来た。
「虎兄。さっきは何故、鬼共の弱点が分かったのだ?」
赤虎は顔を横に向け、お蓮に答える。
「ここはまだこちら側の世だからな。あの鬼たちは本来地獄の住人だが、今は生身の体を持つ半獣半人だ。何百年何千年と地獄で暮らすうち、悪しき心が寄り集まってあんな姿になった訳だが、しかし、やはり元はと言えば人に過ぎぬ。途方も無く長い時を地獄で暮らし、生身の女のことは前に見た事を忘れる位だろう。実際、最初の馬頭鬼は、お玉の裸を見て肌の匂いを嗅いだ途端に、すぐさま欲情していた。そうなれば、この世の馬と同じだ。発情した馬は殆ど役に立たぬではないか」
「成る程な」
ここでお蓮は、赤虎の鞍に長い鉄の棒が括られているのを見つけた。
「虎兄。その棒は牛頭鬼の物か?」
「そうだ。牛頭鬼のたった一撃で、俺は刀を折られたからな。使う者がかなり修練しなくてはならんが、この鉄棒は武具として優れた代物だ。これから俺は、これを己の得物とすることにした」
お蓮は「良く分かった」と言わんばかりに、赤虎に頷き返した。
「他の者なら恐らく持ち上げるのも覚束ぬ。それ程の重さだろうが、虎兄の力なら自在に使えよう。良い物を手に入れたな」
「明後日には怖谷に着く。柊女によれば、これから海沿いの平坦な道が続く故、遠くまで見通しが利く。恐らく次の難所は怖谷の手前だろう。気を引き締めて行くぞ。蓮」
「うん。心得た」
もはや旅の終わりも近い。
けして急かせそうという意図は無いが、牛馬の尻を叩く鞭の数が、やはり自然と増えて行く。
第六日目。
一行は海岸沿いの道を進み、昼過ぎまで平坦な道が続いた。
先頭を進む赤虎に、唐突に柊女が声を掛けた。
「赤虎。あと八里進んだ後、もう一度山道に戻るぞ。そこから怖谷まではほんの数里だ」
その声に、赤虎が振り返る。
「柊女よ。ぬしもこの地は初めてであろう。なぜ里程が分かるのだ」
柊女は右手を上げ、北の空を指し示した。
「あちらの空を見るがよい。黒雲が渦巻いて居るだろう。あの下が怖谷だ。もはや刻限が迫って居る。急げよ、赤虎」
柊女の示す指の先には、その言葉の通り、空の一角に真っ黒な雲が渦巻いていた。
赤虎は馬を下げ、隊列の中程で一行に号令を掛ける。
「夕刻には怖谷に着く。あと少しだぞ。皆疲れたであろうが、もうひと踏ん張りだ」
「へい、お頭」
旅の終わりが間近となり、遠征隊の歩みが、いよいよ速くなって来た。
一時半の後、遠征隊の前には奥州最北の山々が見えて来た。
この先は峡谷の道である。狭い道に入るため、赤虎は隊列を一列に並べ直させた。
山裾の道に隊列の半分が入った時、突如として左右の斜面に人影が現れた。
「おい。赤平虎一!」
この怒号を受け、遠征隊の一行に緊張が走った。
右側斜面の十五間上に大岩があったのだが、声はその岩から聞こえていた。
皆が一斉にその岩の方を見ると、岩の後ろから男が一人現れた。
「赤虎!お前はわしのことを憶えて居るか。よもや忘れたなどとは言わさぬぞ」
斜面のあちこちに、如何にも素性の悪そうな男たちが隠れていた。
(凡そ二十二三人か。)
「聞いて居るのか。赤虎」
赤虎は手下に目配せして、男の方に向き直った。男は見た所齢五十幾つ。頭が見事に禿げ上がっているが、その下の顔には大きな傷跡が残っていた。
ここで赤虎が男に言葉を返す。
「ぬしの顔には確かに覚えがある。猿(ましら)の三次とか申したな。あの深傷を受け、これまで生きて来られたとは、ぬしもしぶといな。今まで何処にいたのだ」
赤虎に「猿の三次」と呼ばれた男は、大きな眼を見開いて睨み返した。
「赤虎。あれからもう十二年が経つ。だがわしはお前のことを一日たりとも忘れた事は無いぞ。会津で五年、出羽で七年。長い雌伏の時を経て、漸く力を蓄え、こうやって戻って来たのだ。それは他ならぬ、お前に復讐する為にだ」
赤虎は道の先に進み、猿の三次の立つ岩の下に近付いた。
「おい。今この地で一体何が起きて居るか、ぬしは何ひとつ知らぬのか」
猿の三次は「がはは」と声を立てて笑った。
「知らぬ!お前を倒す為に閉伊郡(へいのこおり)に来たら、お前は既に北に旅立ったという。急ぎ北に向かい先回りして待って居ったのだ。ここでわしはお前を倒し、お前の持つ総ての物をわしの物にする」
「ぬしは西回りで参ったのだな」
「そうだ」
「成る程。どうやら、まだ西方には穴が開いて居らぬのだな。ではこの地で何が起きて居るか、ぬしが知らぬのも致し方無い」
「穴とは何だ。何の話だ」
今度は赤虎が笑みをこぼした。
「ここで現れたのがぬしで良かった。ぬしは所詮人であって鬼では無いからな」
「何だと!」
猿の三次の顔が一気に紅潮した。
赤虎は顔を猿の三次に向けたまま、背後の手下に叫ぶ。
「そろそろ仕度は出来たか。今皆には運気(つき)があるぞ。こ奴らはただの人だ。今までとは違い、倒すのは容易い。早いとここ奴らを皆殺しにして、先に進もう。さあ始めろ!」
赤虎のその言葉を合図に、遠征隊の一行が一斉に動き出す。
赤虎の手下たちは、とっくの昔に下馬しており、材木を積んだ車の陰に隠れ、敵の襲撃に備えていた。
人足たちは牛車の横に備えていた盾替わりの戸板を引き出し、周囲に立てた。
女たちは、荷台から武具矢玉を取り出し、盾の後ろに控える。
この数日の亡者や鬼の襲撃で、十分に教訓を得ている。皆動きが機敏で、かつ他の者との連携も取れていた。
「わあ」
叫び声と共に斜面の上から人が転がり落ちてきた。
「何!」
三次の手下が上を見上げる。すると、自分たちが陣取っている所から、十間上の斜面に、お蓮が立っていた。
隊列の最後尾にいた紅蜘蛛お蓮は、いち早く仲間三人を率い山の斜面を上り、敵の背後に回っていたのだ。
お蓮が連れて行ったのは、弓を得意とする者たちである。三人は続けざまに矢を放ち始める。
思いも寄らぬ襲撃に、敵の態勢が一気に崩れ始めた。
左右の斜面に分散していたので、各々は孤立している。上からの攻撃に応戦しようと岩の陰から出ると、今度は道にいる赤虎の手下から射掛けられた。
敵勢はあっという間に半減し、残りの者は散り散りに逃げ始める。
「こらっ、お前たち。逃げるなあ!」
三次の怒声が山々に響く。
その三次が視線を前に戻すと、すぐ真下に赤虎が立っていた。
「猿の三次。お前の望みを叶えてやろう。直ちに降りて来い」
赤虎は馬を下り、鉄棒を鞍の後ろから外すと、道の中央に立つ。
「よおし、赤虎。これが最後の勝負だ」
猿の三次は、槍を小脇に挟み、斜面を駆け下りて来た。
二人は五六間の間を置き対峙する。
「猿の三次。もしぬしが俺に勝つ事があれば、ぬしには俺の務めを引き継いで貰うぞ。直ちに毘沙門党の首領となり、地獄の蓋を閉じるのだ。この後どうすれば良いかは、柊女と申す巫女に聞け」
赤虎の言葉に、三次が頷き返す。
「何だか話が分からぬが、承知した。お前を倒したら、そっくり後を引き継ごう」
赤虎は三次から眼を離さず、仲間に叫ぶ。
「皆分かったな。どんな事があっても、怖谷に行き、使命を果たすのだ」
「へい、お頭」「へい」
この時既に、敵は三次一人を残すのみである。
「では参るぞ」
「よし」
二人は互いにじりじりと間合いを詰める。
赤虎は鬼の鉄棒、三次は槍が武器である。
先に動いたのは三次の方であった。
「ヤーッ」
掛け声と共に、三次は槍を繰り出した。
赤虎が鉄棒でこれを受け、ガチンという音が鳴る。
赤虎の武器は重い鉄の棒である。赤虎はまだ手に入れたばかりで、十分に使い勝手を知らない。如何に赤虎と言え、無闇に振るえば体力を消耗する。
この為、赤虎は三次の動きを測る為、敢えて先に攻撃させたのであった。
たった一度で、赤虎は三次の持つ槍の強度も、動きの速さも把握した。
「猿の三次。このすぐ近くには地獄の口が開いている。ぬしは迷う事無く、そこに行けるぞ」
赤虎は跳躍して至近距離に入ると、鉄棒を大きく振り被って振り下ろした。
猿の三次は慌てて槍でこれを受け止めようとした。
しかし、赤虎の鉄棒は三次の槍を真っ二つに折り、すぐ下の頭を打ち砕いた。
頭をぐしゃりと潰され、三次はその場に崩れ落ちた。
赤虎は三次を倒すと、すぐさまその脚を掴み、道の脇に引き摺り寄せた。勿論、牛車を通す為である。
「よし。怖谷はもう目と鼻の先だ。出発するぞ!」
赤虎の号令を聞き、一行はそれぞれの受け持つ牛車に散った。
その日。まさに陽が落ちようという時、赤虎一行は遂に怖谷の入り口に到達した。
空には黒雲が渦を巻いて居り、その奥で時折稲光が走っていた。
「ここが怖谷か。案外小さな谷なのだな」
赤虎の隣でお蓮が呟く。
宮野(九戸)城 二の丸搦手門跡
お蓮の言葉の通り、この谷は縦に三丁、横に一丁程の小さな谷である。谷の中央に川が流れていたが、それもせいぜい幅が十数間程度であった。
「別にこれと言って変わりの無い、何処にでもある並の川だが・・・。虎兄。どういうことだろう」
この時、二人の背後には柊女が近寄っていた。
「これはこの世の川だ。だが、あの世の川にも繋がって居るのだ。これから穴を探し、一旦それを拡げて鬼や亡者を戻し、改めてその穴を閉じる。穴が開き、それが閉じるまでが凡そひと時の間だ。穴が開いている間にあの世に渡れば、再び戻って来られるのだ」
振り返った赤虎は、柊女の眼を正視しつつ、口を開く。
「ぬしは、先のことは谷に着いてから話すと申していたが、今がその時だぞ。これから我らは何をすれば良いのだ」
「まずは祭壇を作る。これは青雲、頑慶の指示通りに、積んで来た神木を組んで行けば良い。明日の早朝から始め、これが終わるのは明後日の午後だ。祈祷はその日の酉の刻から始める。お前にはその祈祷式の冒頭で少々働いて貰わねばならぬ」
「どういう事だ」
「半刻も掛からぬこと故、その場で伝えよう。祈祷が進み、地獄の蓋が完全に閉まるまで、お前たちは好きなように、その穴を出入りできるのだ。誰か会って置きたい者が居るのなら、その時、お前は穴を通ってあの世とこの世の狭間に立つが良い。もしその者がまだその狭間に留まって居るのなら、お前の声に応じ、必ずや姿を現す。そこで生前には伝えられなかった思いのたけを、総て話すが良いぞ」
「猶予は、僅かひと時かそこらの間か」
「そうだ。地獄へ通じる穴が開放され、それが閉じるまでは、凡そひと時の間だろう。これはその場にならないとはっきりせぬ。もし、蓋が閉じた時に、穴の外に出て居らねば、この世には戻って来られぬ。そのことを確と忘れるな。猶予の時は短いぞ」
柊女はそのことを言い置くように、その場を立ち去った。
祭壇の組み立ては、明日の早朝からである。赤虎とその手下、人足たちは、青雲、頑慶の指示に従い、ひとまず牛車から神木を下ろした。
その後で、これからの数日を過ごす小屋が四棟建てられた。これも牛車に積んで来た物で、予め切り揃えられてある木を組めば、簡単に構築出来る代物である。
この時には、既に戌の刻となっていたが、一同は川で汗を流した後、その日の宴を始めた。旅の終わりの宴で、積んで来た穀類、途中の村で買い入れた魚や野菜が総て使われている。さらには酒樽も、夜の内にその総てが開けられる事になっていた。
もはや旅の終わりで、この先を考えずとも良い宴である。翌日の作業のため、ひとまずは子の刻までとは定められていたが、そのせいもあり、宴の初っ端から皆が異様に興奮していた。
「酒池肉林とは、まさにこのことだな」
呟いたのはお蓮である。
柊女と供の二人、さらに赤虎とお蓮の五人は、皆から少し離れた場所に茣蓙を敷き、そこで休んでいた。傍らには、この五人の世話をすべく、お藤が控えている。
ここで赤虎がお蓮の呟きに答える。
「命の縮む思いを踏み越えて来たのだ。それも至極当然の話だ」
「ここに居る山伏と違い、虎兄は普通の男だ。あっちで女子を相手にしても良いのだぞ」
「俺は酒が少しあればそれで十分だ。この谷に着いたからと言って、まだ終わりではない。最後の最後まで気は抜けまい」
赤虎が何気なく徳利の酒を差し出すと、柊女は珍しく己の盃で受けた。
「巫女でも酒を飲むのか」
「祈祷に清めの酒は付き物じゃ。少々は嗜む」
この時、びゅうと風が吹いた。谷の上手から突然吹き降ろす、気まぐれな風である。
「もはや秋で、夜風は涼しいが、この風はどことなく生臭い」
お蓮は周囲の山を見渡した後、空を見上げた。
「この雲。今にも雨が落ちて来そうだが、稲光が走るだけで、何事も無い」
「いざ地獄の蓋が閉まり始めれば、それから七日の間は雨が続くだろう。祈祷が終わった暁には、急いで谷を逃れねばならぬ」
「柊女。色々と我らに隠している事があるようだな」
「ふふ。妾の務めは、この世と地獄が繋がらぬようにする事だ。それに、早くからあれこれ細かい話をされても、お前たちの迷いを増やすだけだろう」
赤虎と柊女の話を他所に、お蓮はじっと周りを見続けている。
「もはや七月で、程無く盂蘭盆だと申すのに、この谷では虫の声がまったく聞こえぬ。これもここが怖谷で、死者の国との境にあるという事が所以か」
お蓮の言う通り、谷に響くのは男女の嬌声だけで、他に静寂を破る物は無い。
第七日目。朝から祭壇の普請が始まった。
祭壇の基礎は、幅が一間半、長さが二十間に及ぶ木製の台である。礎石を置き、最初に木枠を組んだ後、その上に板を敷き詰めた廊下のようなつくりと言っても良い。この台は川に並行するように構築されていた。
これが出来ると、その板の中央に角材を長く繋いだ一本の軌条が作られた。
この軌条は、二十間の祭壇の上を祈祷台が移動できるようにするための物である。
さらに、その軌条の上に祈祷台が組み上げられる。
基礎を組み立て終わったのが申の刻で、その上に祈祷台が載せられたのは、もはや酉の下刻に達した頃である。
赤虎は川から二十間後ろの位置に下がり、出来上がった祈祷台の全容を眺めた。
「これは・・・。祭壇と申すより門だ」
祈祷台は、高さが三間半、横に三間の頑丈な門構えである。
「成る程。この門を地獄に開いた穴に合わせ、出入り口とする訳だな」
赤虎の近くには柊女がいた。
「そうだ、赤虎。祈祷を始めるのは明日の午の刻だ。お前が最初の仕事をして、程無く地獄が口を開ける。その口の真ん前に、あの門を充てがうのだ。その門を通って、鬼や亡者が地獄へ戻る」
「閉じるにはどうするのだ」
「十分に地獄の者共を引き入れたら、今度は閉蓋(へいがい)の祈祷を行って門を燃やす。閉蓋の祈祷が終わった後、門が焼け落ちる前なら相互に出入りが出来る。その間は凡そひと時だ。ひと時と申すと長いようだが、いざその場に立てば、今思って居るよりはるかに短いぞ。けしてしくじるなよ、赤虎。地獄に墜ちるのは、死んだ後で良いからな」
思いも掛けぬ柊女の軽口に、赤虎は口を歪めた。
「心得た。門が立っている間に戻って来よう」
赤虎は柊女にそう返事をすると、お蓮のいる焚き火の方に向かった。
第八日目。閉蓋の儀式当日となった。
祭壇の前には、五箇所横一列に焚き火が置かれた。それぞれが、薪を数百本組み上げた大きな焚き火である。
その火の二十間後ろでは、地面に大きな五芒星の印が記されている。
この後、本格的に祈祷が始まれば、各所に分散していた亡者や鬼たちが、ここに集まって来る筈である。
そんな鬼や亡者の道連れにされないように、柊女が魔除けの為の結界を張ったのであった。
毘沙門党の手下や人足、女たちは、この五芒星の中央に膝を立てて座り、揃って祭壇を見ていた。
午の刻になると、遂に祈祷が始められた。
祭壇の中央に柊女が立ち、左右にはお玉とお藤の姉妹が、純白の巫女装束で立っている。
祈祷台の左右の下手には、山伏二人が控えている。二人は、穴の位置が判明し次第に、祈祷台を移動させる役割を担っている。
赤虎も周囲と同じく白装束を身に着け、柊女の後ろで待機していた。
柊女は祈祷台の前に立つと、まず天地開闢の祝詞を上げ、自らを神の代理とするための起請文を読み上げた。
これを終わると、柊女は後ろを向き、左右に控える巫女二人に命じる。
「お玉、お藤。この祭壇の二つの柱を抱えよ。赤虎。二人が柱に回した両の手を縄で結ぶのだ」
女二人を柱にしがみ付かせ、それを縛ろうというのである。
柊女は赤虎の怪訝そうな顔を見て、問われる前に答えた。
「二つの柱は、この二人が捕まる為に二本あるのだ。この二本の柱の間を、数多の鬼や亡者が通る。女二人がそ奴らに連れ去られぬように、柱に確りと結わえるという事だ」
言われて見れば、成る程筋が通っている。
赤虎は女二人をそれぞれの柱に縛り付けた。
再び祈祷が始まる。今度の祈祷は、周りの者には、どのような内容なのか、まったく聞き取れなかった。
この祈祷が始まると、頭上の黒雲がいよいよ渦を巻き始める。周囲が暗くなり、谷の中に霧が立ち込めた。
五芒星の中に座る男女は、これから何が起こるのかと不安になり、ひとつ所に固まった。
谷の中に風が吹き始め、どこからどこまでが雲で、どこからが霧なのか、天と地の境目すら分からなくなった。
ここで、徐に柊女が赤虎に歩み寄った。
何時の間にか、柊女の手には、ひと振りの剣が握られていた。
「赤虎。妾が先ほど申したのは嘘だ。妾は今、まことの神命をお前に伝えよう。お前は、この剣でお玉の首を刎ねるのだ」
「何だと!」
赤虎の両眼が大きく見開いた。
「お玉は淫乱で欲深な女子だが、死なねばならぬ程の悪事など、何ひとつ働いていないではないか。なぜこの女子を殺す」
これに柊女は小さく首を振る。
「あの女子が首を落とされねばならぬのは、女子自らの罪科によっての事ではない。この世と地獄との間に開いた穴の位置を明らかにする為の事だ。御灯明村の御柱と同じで、あのお玉は、この世を救う為の人身御供となるのだ。お玉の断末魔の声が、地獄を逃れ出た鬼や亡者を改めて呼び返す事になる」
「女子の首を刎ねさせる為に、この俺をここまで連れて来たと申すのか」
赤虎の眉間には三本の皺が刻まれた。
「赤虎。お前は神に選ばれし、『恐れを知らぬ男』なのだ。妾や山伏、あるいは他のどのような者でも、ただ浅はかなだけの女子の首を刎ねる事は出来ぬ。これが出来るのは、ただ一人、何物も恐れぬお前だけだ」
「・・・」
「恐れを知らぬ男とは、己の前に立ちはだかる敵を怖がらぬ者という意味ではないぞ。事の次第を知った上で、敢えて悪行を行い、ただ己一人のみが地獄の底に墜ちる事を、けして恐れぬ者だと申すのだ。今の事態を放置すれば、程無くこの世は地獄に変じる。しかし、あの女子を殺す悪行を為し、地獄の蓋を閉じれば、それを免れる事が出来るのだ。だが、その時は、お前一人だけが地獄に墜ちる。神が衆生を救う為にお前を選んだのは、お前が己を捨て、皆を救う事の出来る男だからだ。さあ、この剣であのお玉の首を刎ねよ」
柊女は冷徹な眼差しを赤虎に向けたまま、剣をぐいっと差し出した。赤虎はその剣を受け取らず、柊女を睨み返す。
「要は、この俺が盗賊で人殺しだから、神に選ばれたという事なのか」
「それは違うぞ。ぬしはこの世に生きる者を救う者で、さらにあの世に行けず彷徨うて居る、ぬしの思い人を救う者だからだ」
赤虎は、柊女の「思い人を救う」という言葉で、この旅が何の為の旅であったかを思い出した。
(七海。俺は七海に会う為にここに来たのだ。)
この時、頭上で強烈な稲光が光り、少し間を置いて雷鳴が轟いた。
赤虎はまったく表情を変えず、再び柊女を詰問する。
「もし俺が何もしなければ、この世は地獄。俺が務めを果たせば、俺だけが地獄。それでは、俺はいずれにせよ地獄ではないか」
「お前が果たせば、数え切れぬ者を救える。御柱の姿を見たであろう。あれと同じに、今ここでお玉は死ぬが、すぐに生まれ替わる。新たな人生では、今生よりはるかに幸福な一生を送る事が出来るのだ。急げ、赤虎。もはや一刻の猶予もならぬ。早く鬼共を地獄へ呼び戻せ」
柊女は有無を言わせぬように、赤虎の手の上に剣を押し付けた。
「お玉は死んでも、すぐに生まれ替わると申すのだな」
赤虎の問いに、柊女は無言で頷いた。
赤虎は御灯明村で、自ら人身御供となり焼け死んだ男を直に見ている。
ここで赤虎は、ある事に気が付いた。
「柊女。ぬしは、予めあの有りさまを俺に見せる為にあの村を通ったのだな」
柊女は赤虎の眼を、じっと見据えたままである。
赤虎は「ふう」とひと息吐き、腹を括った。
(これが俺の運命(さだめ)か。我ながら因果なものだ。)
赤虎は片手に剣を下げ、ゆっくりと祭壇に近付いた。赤虎の足は一路、お玉の方に向いている。
その様子を見たお玉が、己の行く末に気づく。屠られようとする畜獣は、己の死が近づくのを悟るが、直感が教えるのであろう。
「わたしを殺そうというのか、赤虎。わたしはまだ死にたくない。止めろ~!」
お玉はありったけの声で叫び始める。
「嫌だ嫌だあ。死にたくない。誰か助けてくれえ。誰かあ」
お玉は柱に縛り付けられた体を、じたばたと動かしていた。
「お玉。案ずるな。次は今よりはるかに幸福な一生を送る事が出来るそうだ」
「たわけた事を申すな。わたしは、今の今死にたくないと言っているのだ。来世の事など知らぬ!」
赤虎はお玉の髪を掴み、顎を上げさせる。
「済まぬ」
「わ・・・」
お玉の絶叫は途中で途切れた。赤虎が剣を用い、喉を掻き切ったからである。
お玉が絶命したのを見届けると、赤虎はこの娘の髪を引き、首を十分に伸ばさせた上で、剣を振り下ろした。
「赤虎。お玉の首級を門の上に架けるのだ」
赤虎の背中で、柊女が命じている。
赤虎は巫女の言う通り、踏み台に上り、門の上に女の首を吊るした。
首が吊り下げられると同時に、怖谷には、まさに天地を揺るがすような咆哮が響いた。
「うおおおおおう」
怖谷に入っていた人々が、一様に天を仰ぐ。
崖の壁を這っていた霧も、その霧に繋がるように空を覆っていた雲も、まるで生き物のように蠢き始めた。
「何だこれは」
「何が起きるのだ」
盗賊や人足、女たちは、いよいよ五芒星の中心に固まった。
霧が塊となって分裂し、四方八方に飛散する。雲は渦潮のように天上でぐるぐると渦を巻いている。
そんな中、川の真上の空中に、ぽっかりと穴が開いたかと思うと、その穴の縁が白く光り始めた。
その穴は、縦横四間程の大きさである。
「あれだ。あれが地獄の穴だ」
間を置かず、山伏二人が軌条に載る門を押し動かし、この門が穴の正面に当たる位置に合わせた。
この瞬間、地獄の門がここに完成した。
門が出来上がると、またもや天が叫び、地が吼えた。
それと同時に、谷を覆っていた霧や雲が、一気に二尺四方の水煙の固まりに分裂した。
何千何万もの水煙の玉が、もの凄い勢いで宙を舞っていた。その煙の玉をよく見ると、それらはただの煙ではなく、ひとつ一つが人の顔になっている。
「ひゃあ」
五芒星の印の中にいた女たちは、地べたにひれ伏し、煙の玉から遠ざかろうとした。
何万という水煙の玉が門前に集まる。
すると、今は門の真ん中に見える穴から、再び光が輝き始めた。
間髪入れず、人の顔の形をした煙玉が、その光を目指し、一気に門に向かって入り始める。
地上の物を薙ぎ倒す嵐のように、気が集まり門に突入した。
「岩に掴まれ。引き摺り込まれるぞ」
赤虎の叫びを聞き、ある者は地上の岩を拠り所とし、近くに掴まる物が見当たらない者は隣の者の体にしがみ付いた。
この嵐は、小半刻の間続いたが、煙玉の数が急に少なくなると、一瞬、気の動きがぴたりと止まった。
谷の中が急に静かになる。
ここで盗賊の一人が地べたから身を起こした。
「ああ恐ろしかった。これで終わったのか」
その男は首を高く掲げ、辺りを見回している。男は周囲の様子を確かめようと、結界の外に足を一歩踏み出した。
「まだだ!頭を下げて居れ」
赤虎の警告が鋭く飛んだ。しかし、その直後に男の悲鳴が響く。
「ぎゃああ!」
男は天空から突き出た、鷲の爪のような掌に頭を掴まれ、宙吊りにされていた。
すかさず柊女の凛とした声が響く。
「次は鬼共が来るぞ。身を伏せよ。結界の中なら鬼には見えぬ!」
柊女の事がが終わらぬ内に、「どどどど」と地響きを立て、黒い影たちが谷の中に入って来た。
いずれも皆、一直線に門に向かい、門の下を通って中に消えて行く。
門前には篝火が焚かれている。影たちがこの前を通り過ぎる時に、一瞬その姿が露になった。いずれも恐ろしい姿かたちをした鬼共である。
先程、巨大な鬼に頭を掴まれた男は、そのままの姿で門の中に引きずり込まれていった。
この時、赤虎は門の下手に立っていた。
目前には柊女と山伏二人が、一心不乱に祈祷を続けている。
鬼たちはその脇を次々に通り過ぎてゆく。
いずれも、三人の事は眼に入らぬような素振りである。
(神に仕える者は、鬼たちの目には見えぬという事だな。)
ここで赤虎は己の置かれた立場に気が付いた。
(俺は只の男だ。しかも、人殺しを屁とも思わぬ悪人だ。何故この俺を鬼たちは襲わぬのだ。)
赤虎が己自身の姿を見回すと、右手に鬼の鉄棒を持っていた。
ここで赤虎ははたと気づいた。
「成る程。この鉄の棒を持って居るのは、鬼の仲間だ。あ奴らは、この俺を己の仲間だと見なして居るのだ。もはや俺も地獄の住人の仲間に入っているのだ」
赤虎はそれを知り、我知らず眉を顰めていた。
鬼たちが怒涛のごとく門に押し寄せると、その一瞬後に、突然動きが静まった。
ここで、柊女が顔を上げ、赤虎に次の命を告げる。
「赤虎。これからは地獄の蓋を閉じる儀式だ。では、お藤の首を落とせ」
赤虎は言葉を返さず、柊女を睨む。
最初に首を落としたのは、双子の姉のお玉であった。門柱は二つで、その柱に括られた女も二人いる。となれば、お玉一人だけでなく、両方とも人身御供となると考えるのが筋である。
(薄々とは気づいていたが、やはりお藤の方も、俺に殺させるつもりか。)
「姉のお玉は性悪な女子だった。欲深で、隙あらば人の物を盗む。多淫であるだけでなく嫉妬深い。無闇に人を妬むし恨みもする。さらには血を分けた妹を放り捨て、己のみ逃げるような女だった。そんな女子の断末魔の叫びを聞けば、その仲間とも言える鬼や亡者が集まるのも、今はよく分かる。だが、このお藤が何をした。素直で気立ての良い娘ではないか。今この時、この娘を殺す事に、一体何の意味があると申すのだ。直ちに答えろ、柊女」
赤虎は穏やかな口調ではあるが、内心では、まさにはち切れそうな怒りを抑えているのが、誰の眼にも見て取れた。
片や柊女は、この赤虎の問いを、前もって予期していたかのように落ち着き払っていた。
「赤虎。神の為される事には、必ず明確な意味があるのだ。此度、地獄の蓋が開き、地の底に棲む者たちが外へ出た。これを呼び戻すには、悪心にまみれた魂が必要だ。そして、その蓋を閉じるには、そんな悪の心を持つ者であっても、深い慈愛を注ごうとする魂が必要なのだ。姉は妹を捨て逃げようとしたが、妹はそんな姉を許してくれとお前に乞うたではないか。そんな深い情愛こそが、地獄の蓋を押し動かすのだ」
この柊女に対し、赤虎は大きく頭を振る。
「この俺は人殺しの盗賊だ。だが好きでこうなった訳ではないぞ。親を亡くした孤児が仲間と共に生きてゆくには、それしか道が無かったのだ。今は悪人となり、人殺しをも何とも思わぬようになった。だが、ひとつ心に決め守って来たのは、謂われなくして人は殺さぬという事だ。お玉はともかく、このお藤を殺す事など、この俺には出来ぬ」
この時、柱に括り付けられていたお藤が口を開く。
「赤平さま。どうかわたしを殺して下さい」
思いも掛けぬ言葉に、赤虎が娘の方を向いた。
「ぬしは何を申すのだ」
「今、この祈祷を止めれば、また鬼が外に出て来る事でしょう。それでは姉の命が無駄になります。わたしの命で地獄の蓋が閉じ、皆が救われるというなら、わたしはこの命を捧げます」
お藤は赤虎をじっと見詰めている。
「しかし、・・・」
「父や母、弟妹たちも救われるのです。我が家はいよいよ困窮し、姉とわたしは売られる所でした。しかし、女子二人を売った所で、たかが知れて居ります。膨れ上がった借金を返す事など出来やしません。でも、この務めを果たし終えれば、お山が七つ貰える約定です。それだけあれば、これから三代の間は安泰に暮らせましょう」
「・・・」
「それに、この祈祷の為に死んでも、姉さんやわたしは、またすぐに生き返ると聞いています。生まれ変わった先では、今生の事を忘れてしまっているでしょうが、再び父母に会い恩を返すという事が出来るかも知れませぬ。姉が迷って地獄に墜ちてしまわぬ内に、追い駆けなくてはなりませぬ。さあ赤平さま。お早く」
ここで何時の間にか、柊女が二人に歩み寄っていた。
「赤虎。お藤も承知して居る。今を逃しては機を失う。お前は、この世を地獄にするつもりか」
赤虎は漸く腹を据えた。
「分かった。俺はぬしに言われた通り、俺の務めを果たそう。そこを退け」
赤虎の決断を聞き、柊女が道を開ける。
赤虎は神剣を右手に下げ、お藤のいる門柱に近付いた。
「赤平さま。ひとつお願いがござります」
その赤虎に、お藤が最後の願いを申し出た。
「何だ。申してみよ」
「わたしが次に生まれ替わった時には、今の事をすっかり忘れているでしょう。次にわたしに会ったら、父母に会いに行けと命じて下さりませぬか」
「次に生まれ替わるのが何時の日になるか。あるいはそれが男か女かも、まだ分かるまい」
「左手の甲に目印を付けて下さい。小刀で字を刻んで下されば、その由来を知るのは赤平さまだけです。わたしはその傷跡を、必ずや次の人生に持って行きます」
赤虎はほんの一瞬の間考えたが、すぐさまお藤に承諾の返事をした。
「よし。ではぬしの左手の甲に、夲(とう)という字を刻もう。前に進むという意味だ」
赤虎は腰に差す小刀をさっと抜く。
「ちと痛むぞ」
赤虎は、柱に回したお藤の手の甲に、小刀で字を刻み終えると、手拭でその傷を縛ろうとした。
お藤はそんな赤虎を留める。
「赤平さま。手当ては不要でござります。わたしはこれから直ちに死ぬ者です」
「そうはいかぬ。ぬしは皆を救う為に命を捧げてくれる者だからな」
傷の手当が終わると、赤虎はお藤の後ろに立った。
「では、参るぞ」
「お願いします」
お藤は覚悟を決め、首を長く差し出した。
これを受け、赤虎はこの娘の首をひと太刀で切り落した。
地獄の門に、お藤の首級を吊り下げると、すぐさま「ごごごご」という地鳴りが始まった。
宙にぽっかりと開いた地獄の穴の縁が白く光り始める。
柊女は五芒星の印の中に座る者たちに向かって、大声で叫んだ。
「おい。あと半時でこの穴が閉じる。宝が欲しい者は、この門を通りあの世との境目に行け。穴を抜ければ、そこは三途の川だ。宝はその川に沈んでいるから、急いで拾って来い!」
「おお。俺は行くぞ」
「わたしも行こう」
男女が立ち上がり、門に駆け寄る。門を潜り穴に入れば、そこはこの世とあの世の中間の世界となっている筈である。
柊女の横を多数の男女が通り過ぎ、穴の中に消えて行く。
「良いか。必ず穴が閉じる前に戻って来るのだぞ。穴が閉じれば、もはやこの世に戻っては来られぬ。忘れるな」
柊女は、穴に向かうひとり一人の背中に声を掛けている。
この時、赤虎は、依然お藤の体が繋がれた門柱の傍にいた。
「柊女。ぬしは地獄の穴はここだけでなく、幾つも開いていると申した。そっちは閉じずとも良いのか」
「この穴は他の穴にも通じて居るのだ。ここを閉じれば、他の穴も同時に閉じる」
柊女の答えに、赤虎は「分かった」と言うように顎をしゃくる。
この時、急にぽつりぽつりと雨粒が落ちて来た。
柊女は一瞬空を見上げたが、すぐに赤虎に向き直り、言葉を続ける。
「赤虎。お前も早く行け。お前の惚れた女は、穴のすぐ近くに居る。強い未練を残して死んだ者は、川を渡れずその場に留まって居るからな」
「どうやって探せば良いのだ」
「なあに。ひたすら心を込めてその者の名を呼べ。その者は死して後、ずっと暗闇の中に座って居る。ぬしの思いは光明となり、その者を照らす事だろう。それで気づく」
「分かった」
「赤虎。人は死すれば、物を考える頭を失う。死者に道理は通らぬぞ。その魂は情のみを憶えて居る。そのことを確と心得よ」
赤虎は門を潜り、穴に入ろうとする。
「この穴の縁は、向こうの側でも光って居る。それが閉じる前に戻って来るのだぞ。お前はまだ、あの世に赴く時では無い」
柊女は赤虎に背中を向け、祈祷台に進み、祝詞を唱え始めた。
赤虎はそんな柊女を、ほんの少しの間眺めた後、穴の中に歩み入った。
穴の中は漆黒の闇であった。
そこには川が流れている筈であったが、赤虎の眼は何ひとつ見えなかった。
赤虎に見えるのは、背後に光る光の輪だけである。
「七海」
赤虎は闇に向かって呼び掛けた。
「七海。どこに居るのだ。現れよ」
数度呼び掛けてみたが、何も変わらない。
(柊女は「心を込め、ひたすら念じろ」と申したな。)
そこで、赤虎は胸の中で、思い出を蘇らせた。
寺泊の浜辺。縁台に座る赤虎の前に立ち、七海は屈託の無い笑顔を見せた。
「虎一さま。わたしはこの先もずっと、虎一さまのお世話をしてあげても良いぞ」
赤虎の膝の上には、七海の子の雪がいる。
(七海。俺はお前に会う為にここに来たのだ。姿を現せ。)
赤虎は一心不乱に七海が現れる事を乞い願った。
その時、赤虎の耳にさわさわと水の流れる音が聞こえて来た。思いの外、赤虎の近くに川が流れていたのだ。
(これが三途の川か。)
相も変わらず、目の前は真っ暗な闇である。しかし、赤虎は、すぐ先に流れる川のせせらぎを感じ取っていた。
水の触感さえも指先に感じる。
「七海。俺だ。虎一がここに参ったぞ。姿を見せてくれ」
宮野(九戸)城 本丸裏の絶壁
すると、突然、川の手前に人のような影が現れた。
七海はそれまでずっと闇の中に座っていたのだが、赤虎の方が気づかなかったのだ。
「七海!」
その声に応じ、人の姿をした黒い影が顔を上げる。影は赤虎の目前で、見る見るうちに七海の姿に変じた。
「虎一さま。わたしを呼ぶその声は、よもや虎一さまか」
「七海。俺だ。俺はぬしに会いに来たのだ」
二人の周りに光が差し、急に明るくなる。
何時の間にか、赤虎と七海は、うららかな陽光を浴び、清流の辺に立っていた。
周囲は緑一色で、遠くから鳥の声なども聞こえて来る。
「虎一さま。ここはどこ?わたしはどうしてここにいるの」
(この女子。己が死んだ事を知らぬのか。)
赤虎は七海に事実を伝えるべきか否か、暫らくの間躊躇した。
「わたしが憶えているのは、風邪を引いて床に就いた所までです。それからわたしは、随分と長い間眠っていたような気がします。あるいは暗い所にしゃがんでいたような気もします。でも、まだよく分からない」
(ひと度死ねば、物を考える頭を失うのだと、柊女は言った。どうせ分からぬなら、遠回しに申しても仕方が無い。そのまま伝えよう。)
赤虎は腹を括って口を開く。
「七海。心して聞くのだぞ。ぬしは風邪をこじらせたが故に命を落としたのだ」
七海は生きていた頃と同じように、屈託の無い笑顔を見せる。
「虎一さま。冗談は止めてください。わたしも虎一さまも、こうやって立っているではありませぬか。足だってほら、つま先まできちんと付いています」
七海は両足を揃え、指で指し示す。白く美しい足先であった。
「ここはあの世との境目だ。目前に見える川は三途の川で、これを渡ればあの世に行ける。この場に何時までも留まれば、生きる者の間を彷徨う悪霊になるか、未練が妄執に変じ地獄に墜ちるか。その二つにひとつなのだ」
七海はにこにこと笑って赤虎を見ていたが、赤虎が冷徹な視線をまったく崩さぬのを見て、次第に表情を変えた。
「まさかそんな。本当にわたしは・・・」
「そうだ。ぬしは死んだのだ」
七海の両頬を涙がはらはらと流れ落ちる。
「でも虎一さま。虎一さまはどうしてここに?虎一さまも死んだの?」
「僅かな間だが、死者と生者の住む世界が繋がったのだ。俺は二つの世界に通じた穴を通り、ここに来たのだ」
「では、わたしをここから連れ出して下さい。こんな所にいるのは嫌です」
七海の懇願に、赤虎は首を振った。
「それは出来ぬ。ぬしが死んだのは、もはや一年近く前の事だ。穴が開いてから死んだ者は、今は出入り出来る。しかし、穴が開く前に死んで、それから年月を経た者は、たとえ今連れ帰っても幽霊になるばかりなのだ。ぬしの肉体は、もはや地中で滅して居るのだからな」
赤虎は七海が納得し三途の川を渡れるように、意図的に冷たい口調を用いた。
七海は困り果て、寂しげな表情で川の流れの方に眼を遣った。
その七海が、もう一度赤虎に視線を向けた。
「雪。雪はどうしていますか。一年も経ったなら、雪はさぞ大きくなった事でしょう」
赤虎が返答に窮する。七海の子の雪は、峡谷で出会った鬼に食い殺されてしまっていたのだ。
(もし、己の子があのような悲惨な死に方をした事が分かったら、この母親はけして彼岸に渡れぬ。どうしたものか。)
赤虎の心に迷いが生じたのは、ほんの一瞬である。赤虎はその迷いをすぐに振り払った。
(今となっては、七海の行き先は、悩みや苦しみを持たぬ、あの世が一番望ましかろう。七海の事を川向こうに渡すのが先決だ。)
「七海。雪は俺の娘として幸せに暮らして居る。俺はあれから後添いを貰い、雪を我が子としたのだ」
赤虎は七海を救う為に、己の本心とはまったく逆の嘘を伝えた。
勿論、赤虎の胸の内には、愛する者に嘘を吐いた事で、深い煩悶の念が渦巻いている。
赤虎の体の周りが瞬時に暗く変じたが、七海はまだそれに気付いていない。
「そうですか。虎一さまは妻を娶られて、雪を娘として大切に育ててくださっているのですね。安心しました」
娘の無事を知った七海の表情は、実に穏やかである。
「では、もはやわたしがここに留まる謂われは無いのだわ」
「そうだ。心安らかに、ぬしはその川を渡るが良い。川向こうはきれいな所で、ぬしと同じような仲間が、快くぬしの事を迎え入れてくれるだろう」
この時、七海の周りは、ゆっくりと白い光に包まれ始めていた。
「七海。今こそ川を渡る時だ。向こう岸に向かって、真っ直ぐ進め」
七海はこっくりと頷くと、赤虎に背を向け、二歩三歩と歩み出す。
しかし、川の手前で歩みを止め、再び七海は赤虎の許に走り寄って来た。
「虎一さま」
七海は赤虎の胸の中に飛び込んだ。
「わたしは虎一さまと暮らしたかった。虎一さまと雪とわたし。三人で暮らしたかった。それだけがただ一つの心残りなのです」
赤虎はそんな七海を、ぎゅっと力強く抱き締めた。
「案ずるな、七海。俺が死んだら、その川を渡り、また会いに行く。さらには、次に生まれ替わったら、その時こそ、俺とお前は夫婦(めおと)になるのだ」
「ほんとう?」
「まことだ。俺はぬしに確と約束しよう」
「良かった。それならこれは約束のしるし」
七海は爪先立ちをして、顔を上に向けると、赤虎の口許に己の口を付けた。
七海が唇を離した時、全身から出ていた白い光が、さらにきらめきを増していた。
「行け、七海。その川を渡るのだ」
「はい」
赤虎の愛する女は、再び背中を向け、川の方に進んでいく。
七海は川の手前で少し躊躇したが、そのまま前に歩き続けた。すると、流れに足を踏み入れても七海は水には沈まず、そのまま川面の上を歩いて先に進んで行く。
川の中程に達すると、それまで七海の着ていた着物が、はらりと水面に落ちる。
中から現れたのは光の玉である。その光の玉は、空中を飛んで前に進み、向こう岸に消えて行った。
「遂に逝ったか」
赤虎は二度溜め息を吐いた。試しに川に近付き、七海と同じように流れに足を踏み入れてみると、そこはやはり水である。
前に進もうとすれば、赤虎の体は水の中に沈んでしまう。
「俺はこの川を渡れぬのだな」
赤虎は独り納得して、元の場所に引き返した。
この時、赤虎の周りの世界は、先程までの明るさを失い、急に暗くなっていた。
赤虎はその理由を悟っている。
(今、俺がいる世界は、心の持ちようでその有り様を変える。俺の心が悪心や後悔で汚れれば、周りの総てが暗くなるのだ。)
「七海。俺はぬしに三度嘘を吐いた」
彼岸に消えた七海に向かい、赤虎は語り掛けた。
ひとつ目の嘘は雪のことだ。雪は鬼に殺されたとはいえ、死した後、母親より先に川の向こうに渡っている筈である。
二つ目三つ目は、己が死んだ後のことである。七海は知らぬが、赤虎は数多の人を殺した盗賊である。つい先程も、地獄の蓋を閉じる為とはいえ、二人の姉妹を手に掛けた。
「こんな俺が彼岸に渡れる筈も無い。俺は川の手前に留まり、地獄の底で永遠に苦しむ事になるのだ」
従って、次に人に生まれ替わる事も無い。来世で七海と夫婦になる夢など、叶えられる訳が無いのだ。
それが三つ目の嘘である。
七海が彼岸に渡った瞬間、それは赤虎と七海にとって、未来永劫の別れを意味していたのだった。
「しかし、俺はそんなことなど恐れぬぞ。七海という女子は、この俺の殺伐とした人生にひと筋の光明を与えてくれたのだからな」
七海は、たった一度抱擁し口付けを交わしただけの女子である。
「だが、俺にとって、俺の魂にとって、あれは最後の女子なのだ」
赤虎の周りはいよいよ光を失って行きつつあった。
ぽつん、ぽつんと雨も降り出している。
「ここでも雨は降るのか」
僅か三呼吸の後、雨はざあざあと音を立て激しく降り始めた。
「成る程。俺の心の中の慟哭が、この雨を呼び寄せているのだ」
ここで赤虎は三途の川に背を向け、地獄の穴に歩み寄った。穴は既に間口一間まで小さくなっていた
赤虎が穴を出ると、そこにはお蓮が待っていた。雨が降り続く中、穴から兄が出て来るのを待ち、じっと佇んでいたのである。
「蓮。ぬしは宝を取りに行かなかったのか」
お蓮は赤虎を見て、微かに微笑んでいる。
「誰か、この穴の事を見守る役目の者が必要だと思ったのだ。それに財物なら、悪徳商人や人殺しの侍から、何時でも奪い取る事が出来る訳だしな」
そこへ柊女が近寄って来る。
「赤虎。お前の思い人には会えたのか」
「会った」
柊女はさらに問い掛けようとしたが、赤虎の険しい形相を見て、それを止めた。
「ひゃあ」「わあ」
地獄の穴から、転がり出るように、幾人もの男女が飛び出て来た。
その者たちは地べたに這い蹲り、ぜいぜいと息を荒げている。
「どうした。何があったのだ」
赤虎が問い質すと、人足の一人がこれに答える。
「突然雨が降り出したかと思うと、すぐに土砂降りになったのでがす。そうこうしている内に川上から鉄砲水が押し寄せて来たのでがんすよ」
「それで宝はどうした?」
「お宝も何も、袋を抱えたままなら、今ごろは流されてしまってまさあ。何か残っては居らぬものか」
男は己の体をまさぐっていたが、褌の中から三枚の金を取り出した。
「ああ。褌にねじ込んでいた物だけは残ってらあ。金袋の近くに金を隠したのが良かったのかあ」
その男の様子が、如何にも剽軽(ひょうきん)である。
男を取り囲む顔が、皆一斉にほころんだ。
「それは残念だったな。だが、戻って来られただけでも運の強い方だ。その様子では、幾人かは押し流されているだろう。加えて多少なりとも懐に何か残っていれば、かなりの幸運であるのは間違いないぞ」
この時、赤虎は「地獄の雨と鉄砲水は己のせいなのではないか」と思ったが、敢えて口にせずに置いた。
穴の外でも雨が降り続いていたので、事情を知らぬ者には、いずれにせよ区別が付かぬだろうと思ったのである。
一行の内、翌日の朝に怖谷を出られたのは、全部で三十七人であった。その中で、三途の川に沈むお宝を持ち帰る事が出来たのは、凡そその半数である。
赤虎は、何も持たずに戻った者に対し、谷に来る時の路銀の残りを分けてやった。
遠征隊の一行は、復路は近道を取り西に向かったが、赤虎は独りで往路と同じ道筋を南に戻る事にした。
なだらかな海辺の道を半日進んだ所に、小さな川の河口があった。
赤虎は馬を休ませる間、浜との境目に石を積んだ。若くして死んだ七海と雪の母子の供養の為である。
四尺ほどの高さに石を積み上げるのには、意外に時を要し、塔が二つ出来たのは、それから二刻の後の事である。
漸くこれが終わると、赤虎は土手を上がって草叢に寝転んだ。
真っ青な空を眺め、ひとつ伸びをすると、頭の上の草叢の中に、何本か花が咲いているのが眼に入った。
黄色の花弁が眼に鮮やかな女郎花(おみなえし)である。
赤虎は起き上がって、その花に近付いた。
「七海と雪に手向けるのに丁度良い」
赤虎は手を伸ばし、花を手折ろうとした。
茎を掴み折り取ろうとする直前で、改めてその黄色い花が赤虎の眼に入った。
色鮮やかでは有るが、しかし、よく見ると質素な佇まいである。
「あの母子二人の佇まいに似ている」
寺泊の浜で、母子二人がにこにこと笑うさまが赤虎の頭に蘇った。
赤虎は二人の姿を思い浮かべながら、女郎花の茎から手を離した。
「秋の間だけの短い命だ。無碍に折り取る事も無かろう。限りある命を存分に楽しむが良い」
赤虎は河口に繋いでいた馬に歩み寄り、これに跨った。
赤虎は二十間馬を進め、土手の一番高いところに上った。
馬上から遠く草叢を見渡すと、その原っぱには、何千本もの女郎花が咲いていた。(了)
◆注釈◆
○「里」:奥州に於ける、この時代の一里は凡そ六百~七百メートルである。
○「山に棲む魔物」:「日刊早坂ノボル新聞・北奥今昔物語第七話 あの世に引きずり込まれそうになる話」(平成二十年八月一日)を書き直したものである。
○「御柱さま」:「日刊早坂ノボル新聞・夢の話第一四四話 災いを取り去ってくれる人」(平成二十二年六月一日)による。
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