獄門峠 ─盗賊の赤虎が大猿退治に加勢する話─ 早坂昇龍
本作は未公表作品である。
このため、ここでは冒頭の触りのみ紹介する。
盗賊の赤虎はふとしたことで大湯四郎左衛門と知り合った。
大湯四郎左衛門は「大猿退治」の助力を赤虎に求めるが、赤虎はそれを断る。
しかし、島の女・利江との間に生まれた息子の巖徹が、大猿を操る「猿の三次」にさらわれたことを知り、赤虎は大猿退治に関わって行くようになる。
『獄門峠』─盗賊の赤虎が大猿退治に加勢する話─
大湯四郎左衛門の家紋
(一)間違えられた男
今は昔のこと。地侍たちが相争っていた頃の話である。
一人の男が奥州の鹿角郡を訪れていた。
その男は、名を赤平虎一と言った。
しかし、世人の多くは、その名を短く詰めて「赤虎」と通称した。
この「赤虎」は北奥を荒らす盗賊団の首領であった。盗賊とは言っても、専ら赤虎が襲ったのは、民に重税を課す侍や、富を貪る悪徳商人たちである。
赤虎はこのような者たちから穀物や財宝を奪うと、貧しい下々の民にそれを分かち与えた。
このため、世人はこの盗賊のことを畏れる一方で、半ばは敬いもした。赤虎は侍や商人たちからは悪人として怖れられたが、貧しい民からは敬意を払われていたのであった。
時節は陰暦八月の終わりで、吹く風の冷たさが身に染みるようになって来る季節であった。
この時期になると、赤虎は数多の戦闘で得た傷を癒すため、鹿角の山中で湯に入るのを習わしとしていた。
湯治場には湯が沸いているだけで、他には何もない。赤虎が持参した酒なども、三日と持たずに尽きてしまった。
そこで、赤虎は湯に入り始めてから六日目に、湯治場の外に出掛けることにした。
この湯治場の近くに小さな宿場があり、そこにあるいずれかの宿屋に行けば、酒が置いてあったからである。
この日、赤虎が訪れたのは、「沖屋」という名の店であった。
山の中にある宿屋なのに、「沖屋」とは、如何にも奇妙な名づけ方である。
それはこの店の主人が元々漁港の育ちで、鹿角に移り住むようになる前は、長らく漁師をやっていたからである。
ある年に鰹の大豊漁があり、港の漁師皆が一時(どき)に大金を手にした。沖屋の主人はそれを機に漁に出るのを止め、こんな山家に移り住んだのだ。
そういう理由で、主人はこの地で商売を始めるに及んで、店の名前を「沖屋」に決めたのだった。
さて、宿屋と言っても、それはほぼ名ばかりの襤褸(ぼろ)家であった。
この家は元々馬喰商人が住居としていた建物で、前は大きな厩の隣に幾分こじんまりした母屋があるだけであった。
その襤褸屋を安く買い取った主人は、家を改造し、部屋の数を二倍に増やした。
この母屋の部屋数は八つで、今の主人はそのうち十六畳ほどの大広間を客間として、客を雑魚寝で寝泊まりさせていた。
雨露を凌げる程の屋根の下に、客に寝床を貸すばかりの宿ではあったが、意外に美味い酒と肴を出したので、店はそれなりに繁盛していた。
この日、赤虎が店を訪れると、広間の中には五六人の旅人が、思い思いの場所で寝転んでいた。
赤虎は宿屋の玄関口で、店の主人にひと声「酒をくれ」と声を掛け、広間に上がり込んだ。
赤虎が室内に入ると、先にいた客たちが揃って視線を向けて来た。
赤虎は背丈が六尺を超える大男である。
常人の間に入ると、頭ひとつ飛び越える高さであるため、否応なしに人目を惹いてしまうのだ。
赤虎は外套を脱ぐと、手早く畳んで脇に置き、茣蓙(ござ)の上に腰を下ろした。この日は湯治場よりこの店に直行したため、外套の中は小袖に奴袴(ぬばかま)の軽装である。
部屋の中央には大きな囲炉裏があり、また各所に火鉢や手あぶりが置かれている。
また、まだ申の刻になるかならぬかの頃合いだが、客たちは皆酒を飲んでいた。
このため、火の暖かさと人の熱気が相まって、部屋の中は息苦しさを覚えるほどであった。
少し酒が入ると、直ちに赤虎の体が火照って来た。そこで赤虎は着物の両袖を捲り上げ、襟を少し緩めた。
赤虎の腕や胸倉には、幾多の戦闘で得た刀創が刻まれている。
体躯の大きさに加え、この刀創である。
周囲の旅人たちは、この大男に尋常ならぬものを感じ、次第に視線を背(そむ)けるようになった。
そんな中、少し離れた場所にいた一人の男だけが、時折、赤虎の様子を盗み見ていた。
狐目の男は、それまで始終せわしなく周囲を見回していたが、赤虎が現れてからは赤虎だけを注視するようになっていた。
暫くすると、その男は、ひと声「間違いない」と呟くと、立ち上がって、部屋の外に出ていった。
赤虎は破れ障子の隙間から外の景色を眺めつつ、盃を口に運んだ。
その様子を見ていたこの店の主人が、下働きの一人に声を掛ける。
「ほら。そちらのお客に酒をお運びしろ。お代わりは二本だぞ」
主人は赤虎の風体と物腰を見て、咄嗟に上客と踏んだらしい。
赤虎が主人に顔を向ける。
すると、齢五十を幾つか超えていそうなその男は、赤虎の機嫌を取るように愛想笑いを返して来た。
「そのお里はまだこの店に入ったばかりで、気がききません。遠慮なく何でも言い付けなすって下さい。へへ」
そこに女が小走りで酒を運んで来た。
「ごめんなさい。気が回らなくて」
徳利を下ろす女の手が白く美しい。
その手の美しさに惹かれ、赤虎は思わず上を見上げた。女はその手の持ち主にふさわしい、小ざっぱりとした顔つきをしている。
(何処(どこ)か見憶えのある表情だ。俺は一体何処でこの女を見たのだろう。)
己の記憶が定かでなければ、本人に訊けば良い話である。
「お里と申したな。俺はぬしと、前にどこかで会ったことがあっただろうか」
女は赤虎に顔を向けぬまま、くすりと笑みをこぼした。
「お客さん。こんな下働きの女を口説くより、酌婦をお呼びになった方が早いですよ。呼びましょうか?」
それを聞き、赤虎の方も「ふっ」と笑いをこぼした。
「そうか。『ぬしと前にどこかで会ったか』は確かに女子に言い寄る時の常套句だな。だが今の俺は、本当にどこか別の所でぬしに会った覚えがあるのだ」
「そうなんですか?どれどれ」
女は赤虎の真正面に立ち、顔を覗き込んだ。
「ううむ。さて、どこで会ったのかしら」
女は小さく首を傾げながら、赤虎を見詰める。
齢は二十五六といったところだろうか。
人目を引くような美人ではないが、今も娘時分の清楚さを保ったままでいるようだ。
ここで女が口を開く。
「お客さん。やっぱり私には分からないな。お客さんみたいに大きな人なら、間違いなく憶えている筈だけど・・・」
この答えを聞き、赤虎は話を締め括る。
「はは。やはり気のせいだったか。ぬしのように器量の良い女子を見たら、大方の男がそう思いたくなろう」
「やっぱりお客さんもそう思う?」
「そう。やはりな」
軽口に軽口を返すところは、この女の頭が回る証拠である。赤虎はこのお里という名の女子が少し気に入った。
お里が客間から厨房の方に姿を消すと、表から男たちがどかどかと踏み込んできた。
入って来たのは、総勢十人を超える侍たちである。
まず初めにその中の一人が歩み出て、客の全員に聞こえるように声高に叫んだ。
「よし皆。我らはそこの男に用がある。関わりの無い者はこの部屋から外に出ろ」
その侍が指し示したのは、他ならぬ赤虎であった。
己を真っ直ぐ指で示されると、物事にあまり動じる事のない赤虎も、ほんの少しだけ身を固くした。
(こやつら。この俺を捕えに来たのか。)
すると、それまで周囲に座っていた客たちが、大慌てで土間に駆け下りた。
それと入れ替わるように、ばたばたと足音を立て、侍たちが土足のまま客間に駆け上がる。 侍たちはいずれも手槍や刺叉といった武具を携えていた。
赤虎は無意識のうちに刀を探し、右手で周囲をまさぐったが、生憎(あいにく)、大刀はこの宿の入り口で主人に預けていた。
役人たちが赤虎を囲み、じりじりと輪を狭める。
先程、部屋に入りしなに声を上げていた侍が、ここで再び前に出た。
「おい。貴様は楠(くすのき)の半蔵だろう。貴様の首には賞金がたんまり懸けられているというのに、なぜ里に下りて来たのだ。馬鹿なやつめ。もはや逃れられんぞ。大人しくお縄を頂戴しろ」
「楠の半蔵だと・・・」
(何だ。人違いか。だが俺が誰かを知れば、果たしてこのまま捨て置くかどうか。)
赤虎はしかし、今は話の流れに従う他は無い。
「俺はその半蔵とか申す男ではない。人違いだな」
この答えを聞き、役人が気色ばむ。
「何を言う。貴様のように六尺を超える上背(うわぜい)を持つ者は滅多におらぬ。加えて、その刀傷だらけの体躯を見れば、貴様が日頃よりまともな暮らしなどしておらぬことは歴然だ。このごろつきめ!」
役人は初めから終始居丈高な口調である。
赤虎は少々むっと来た。
「別人だと申しておろうに。その楠の半蔵とは一体どのような男なのだ?」
これで役人が眼を剥いた。
「知らばっくれるな。貴様が猿(ましら)の三次の右腕だということは、この北奥中に知れ渡っておろう。人相風体とも、手配書に書かれた通りではないか」
役人は懐から紙を出し、赤虎の眼の前で拡げて見せた。
「良いか。今ここで読んでやるぞ。上背六尺一寸から二寸。左胸と右の腕にそれぞれ大きな刀傷が一本ずつある、と書いてある」
その言葉に赤虎が「ふふ」と笑いを漏らした。
「貴様。何を笑う!」
「背の高さと傷跡だけでは、この俺様がその楠の半蔵だという証(あかし)にはなるまい。それにこれを見てみろ」
赤虎は己の襟を開き、胸前を晒した。
「刀傷が一本あるどころか、俺の傷跡は数え切れん位の数だ」
「おお」
赤虎の胸には数十本の傷跡がある。その凄まじさに、周りの侍たちが数歩後退(ずさ)りした。
この時、役人の輪の後ろから、声を掛ける者がいた。
「お役人様。そちらの御仁はこの先の湯治場に来なすった方ですよ。その方は確か閉伊郡(へいのこおり)の方で、ここには毎年来ておられます。猿の三次の一味とは一切関わりが無いように思われますが・・・」
声を上げたのは、この店の主人であった。
主人は赤虎と眼が合うと、小さく頷いて見せた。
その主人の隣で、女が口を添えた。
「そうですよ。この方は到底人殺しをするような悪人ではありませんよ」
これはお里である。
二人の話を聞いて、あの役人が眉間に皺を寄せた。
「間違いなくここに楠の半蔵がおると、我らに報せて来た者がおるのだ。おい、口入れ屋の松。何処(どこ)ぞにおるのだ。出て来て証(あかし)を立てろ」
役人が広間の中を見渡すが、その口入れ屋の姿はとんと見当たらない。
「あいつめ。賞金首を見つけたからすぐに来いと、我らを呼び付けて置きながら、一体何処へ行ったのだ」
ここで役人が気を取り直し、もう一度赤虎の方に向き直った。
「では改めて訊ねる。貴様が楠半蔵でないなら、一体誰だ。何という名なのだ」
もちろん、赤虎は無言である。赤虎自身、北奥中に名の知れ渡った盗賊であるから、答えようがない。
「ほら見たことか。貴様は己の名を答えられまい。その傷跡を見れば一目瞭然で、貴様はいずれにせよ盗人か人殺しだろう。貴様が楠の半蔵であろうとなかろうと関わりない。城に引っ立てて、貴様の悪事を暴いてやる」
赤虎はその役人を睨み返した。
(確かこの鹿角郡(かづののこおり)では一度も仕事をしておらなんだな。なら、試しにそう言ってみるか。)
「おい。俺は確かに善人ではない。と申すより、ぬしの言う通り、確かに悪人の類だ。だが、この鹿角郡(かづののこおり)では何ひとつとして悪事を働いてはおらぬぞ。ぬしは一体何の咎(とが)でこの俺を掴まえようと言うのだ」
これに役人がせせら笑う。
「ほれ白状したな。この盗人め。貴様を捕縛するかしないかは我らが決める。貴様は一体何者だ」
赤虎は「ふう」とため息を吐いた。
(毎度ながら、またもややこしい話に巻き込まれる訳だな。面倒な事だ。)
赤虎は己の手元に置かれていた手炙りから、さりげなく鉄の火箸を抜き取った。
(こんな腑抜け面をした侍どもなど、これで十分だ。)
「俺か。俺はな・・・」
ここで赤虎がすっくと立ちあがったので、周りの役人が一斉に身構える。
赤虎はその役人たちに言い放つ。
「俺の名は赤平虎一と言う」
周囲を囲む人垣に、どよめきが起きた。
「盗賊の赤虎」の名は、やはり北奥中に鳴り響いていた。
「おお。毘沙門党の赤平虎一だと」
「あの赤虎か」
「何と。楠の半蔵より、はるかに大物ではないか」
役人たちの眼が一斉に丸くなった。
この時、広間の入り口の方から、新たに数人が入って来た。
「道を開(あ)けよ!」
赤虎を取り囲む人垣が崩れ、三人の侍が姿を現した。
「どれ。北奥にその男ありと知られた、盗賊の赤虎とは一体どんな男だ。わしにその顔を見せよ」
三人の中央に立つ男が口を開いた。
その侍の年恰好は凡そ四十と幾つ。
赤虎とほぼ同じくらいである。
筋肉質のその体を見れば、幾度の戦を経験してきた兵(つわもの)であることが歴然であった。
「お前が赤虎か。噂に違わぬ大男だな。ふふふ」
その侍の飄々とした物腰に、赤虎はじっと動かず様子を見守った。
「話は外で聞いていた。ぬしの申す通り、もしぬしが赤虎だとすると、確かにぬしはこの鹿角郡では何ひとつ悪事も働いておらぬ。ぬしの本拠は閉伊郡や岩手郡だろう。あるいは斯波辺りまでか。いずれにせよ他領で何を行っておろうと、この鹿角で罪を問われることはない」
この侍の意外な言葉に、家来たちは「え」と声を上げ、互いに顔を見合わせた。
その家来たちを一瞥し、周囲に睨みを利かせつつ、侍が言葉を続ける。
「わしの名は大湯四郎左衛門。大湯鹿倉館の主だ。昨夜この先の村を賊が襲ったので、今から調べに参るところだった。たまたまこの近くを通った時に、口入れ屋の松と申す男が、賊の一味の者がいると報せて来たので、急遽、ここに回ったのだ」
「なるほど。随分と手回しが良いと思ったが、別に捕り物があったわけだ」
赤虎の言葉に、大湯四郎左衛門が頷く。
「猿(ましら)の三次の一味は、ただの盗賊ではない。村人を丸ごとかどわかしては、女子どもを売り飛ばす。大人の男は、手足の一部を切って動けなくしたうえで奴婢にする。その上、役に立たぬと見れば、容赦なく野山にうち捨てているらしい」
「それは酷(ひど)い」
「そやつらが狙うのは、辺鄙な山奥の小さな村だ。やつらは老若男女、総ての村人を連れ去る。よって、やつらに襲われた村には、人っ子一人おらぬようになる。語る口が一つも無くなってしまうから、これまでなかなか悪事が露見しなかったのだ」
「狙われるのが金持ちや侍なら、直ちに腰を上げるだろうが、下々の者たちであれば、六に調べもせずに捨て置かれるだろうな」
赤虎の皮肉を聞き、四郎左衛門の表情が少し強張った。
「そこは残念ながら、ぬしの申し通りだ。巧妙なことに、これまで猿の三次は、山奥の村ばかり狙って来た。それで神隠しが起きたと噂になったが、その実はそやつの所業だったのだ」
「俺はこの北奥の動向については、隅々まで承知している。しかし、そんな男の話は聞いたことがないぞ」
四郎左衛門が頷く。
「うむ。猿の三次は、一年ほど前に出羽米沢から移って来た男だ。よって、北奥に来てからまだ日が浅い。米沢の前は上方におったようだしの。仲間は初め数人だったが、米沢のごろつきを呼び寄せ、今は四十人はおるようだ。おまけに・・・」
四郎左衛門がここで言葉を止め、ため息をひとつ漏らした。
「おまけに何だと申すのだ」
「猿を手下にしておる」 (続く)
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