九戸戦始末記 北斗英雄伝

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早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



驟雪(しゅうせつ) ─盗賊の赤虎が最期を迎える話─       早坂昇龍

 本作は平成23年12月より平成24年1月まで盛岡タイムス紙にて連載された短編小説である。
 『九戸戦始末記 北斗英雄伝』において、三戸伊勢屋の前で、弟の敵討ちに来た赤虎を厨川五右衛門が倒す。
 力量に勝る赤虎が五右衛門に破れるには、それ相応の事情があった。
 これは、あの怖谷での一件に関係しており、その時、赤虎が背負った業によるものであった。

 『驟雪 ─盗賊の赤虎が最期を迎える話─』

北奥の風景 一戸城址
北奥の風景 一戸城址

 明り取りの小窓から、一片の雪が吹き込んで来た。雪の粒は暫らくの間宙を舞っていたが、やがて囲炉裏端に座る男の上に静かに落ちた。雪の粒は男の顔に当たり、その冷たさに男は眼を醒ました。
 男は夕刻に一度囲炉裏端で寝入ったのだが、すぐに目覚め、窓を開き囲炉裏に薪を投じた。しかし、火が燃え上がるに連れ心地良くなり、その場に座ったまま居眠りをしていたのだ。
 「何時の間にか寝入っていたのか」
 男は火箸を取り、囲炉裏の残り火を掻き立てた。

 男の脳裏では、つい先程まで見ていた夢が蘇っている。この夢は、数日前、赤虎が江刺家大滝の庵を訪れた時の記憶をなぞる夢であった。
 男は赤平虎一という名で、通称「赤虎」と呼ばれる盗賊である。この日赤虎が訪れたのは、この地の神に仕える巫女の棲処であった。
 赤虎が江刺家の庵を訪れると、若い巫女二人の方は用達にでも出たか姿が見えず、柊女が独りで背中を向け祈祷を行っていた。
 「御免。赤虎だ」
 赤虎が声を掛けると、齢四十幾つの年恰好の巫女が振り返った。
 「新しい年の初めに、この庵を最初に訪れたのは、やはりぬしであったか」
 「はは。年明けに急に雪が降ったものだから、ここも難儀して居ろうと思ってな。米や塩菜、干魚を携えて来た」
 赤虎は板間の上がり端に、担いできた荷をどしんと置いた。
 「さぞ体が冷えたであろう。今日は上に上がって火に当たって行くが良い」
 「盗人の俺が出入りしては、ぬしに迷惑が掛かろう。此度はたまたま荷運びの手が足りなかったから、俺が自ら来たまでだ。用が済んだら早々に立ち去ろう」
 「赤虎。酒でも飲んで体を温めてから去るが良いぞ」
 この時、赤虎は半ば後ろを向き掛けていたが、「酒」という言葉に動きを止めた。
 「酒か。では一献頂いて行くとするか。さすがにこの雪では、坂を上がって来るのに骨が折れた」
 赤虎はもう一度中に戻り、蓑を脱ぎ土間に置くと、板間に上がって来た。
 「よくぞ忘れずに此処に参るものだな。見てくれは無骨者そのものだが、気の配りようは意外と細やかだ」
 「ふん。共に地獄を垣間見た仲間だ。季節ごとに顔を見に来たとて、神罰は当たるまいぞ」
 赤虎は柊女の前に腰を下ろした。
 赤虎を見る柊女の顔は、ほんの少し和らいでいる。
 「お互い年を取ったな。赤虎」
 「俺は取った。これこの通り、髪の毛が薄くなり、頭の後ろに僅かに残すばかりとなった」
 赤虎が右手で己の頭を撫で回す。赤虎の額から頭頂部にかけては髪が残って居らず、後頭部に幾らか伸びた毛を束ね弁髪としていた。頭のあちこちに刀傷の痕が生々しく走っている。
 「あれから何年経つかの。俺はすっかり老いたが、しかし柊女殿は殆ど変わらぬな」
 「ぬしは相変わらず侍共を襲って居るのか。年がら年中争いを繰り返していては、気が休まる時があるまい。心身共に疲労困憊して居るから、実の齢よりも外面が老けて見えるのだ」
 柊女が盃を差し出すと、赤虎は無造作にそれを受け取った。
 「なあに。世の中には悪い奴らが多いものでな。悪者から守ってやると称しては、民から財を搾り取る。まこと性質(たち)が悪い。俺はそんな奴らが蓄えた財物を取り上げて、もう一度民に戻しているのだ。おっと、今日持参したのは、侍や悪徳商人から奪い取ったものではないぞ。総て俺が自ら家の周りの畑で育てたものだからな。流石の盗賊でも、強奪した物を神に供えるような真似はせぬ」
 赤虎は、柊女が目前に置いた白磁の酒器を手に取って、己の盃にとくとくと酒を注いだ。
 柊女はそんな赤虎をじっと見ていたが、赤虎が盃を三度あおるのを待ち、徐に口を開いた。
 「もう五年だぞ、赤虎。我らが怖谷に赴いたのはもはや五年前の話だ。ぬしはまだあの時のことを引き摺って居るのか」
 赤虎が視線を上げると、柊女が己の眼を見据えていた。
 「忘れようにも忘れられるものか。俺は何十人何百人と人を殺して来た悪党だが、あの時の刀の感触は今も手に残って居るのだ」
 その怖谷で、赤虎は地獄の口を閉じるために、お玉とお藤という双子の姉妹の首を斬り落した。
 「あれから五年。俺はお藤の生まれ替わりの子を捜しているが、未だにそれらしき子には会わぬ」
 双子の妹のお藤は、閉蓋の祈祷のため、自らの命を差し出すことを厭わなかった。そして、お藤は己の死の間際に、赤虎の前で転生を誓ったのだった
 「赤虎。あの世の時の流れは、こちらとは違うぞ」
 柊女は、赤虎の呟きに似た言葉に対し答を返した。
 「赤虎。この世では、人は生まれると、一年ごとに年を取り、いずれ老いて死ぬ。その間に子を生すが、その子は長じると、親と同じように老病死を迎える。時はあたかも水流のように、ひとつの線を辿るがごとく上から下へと流れる。しかし・・・」
 「あの世では何か違いがあると申すのか」

北奥の風景 玉山館跡の巨石
北奥の風景 玉山館跡の巨石

 「あの世の時の流れは、この世とはまったく違う。お前は死んだお藤の生まれ替わりとして、あの女子の死後、新たに生まれた者を探しているようだが、輪廻転生はこの世の時の流れには従わぬぞ」
 「何?それはどういう意味だ」
 「お藤が生まれ替わるのは、死後のことではのう、時を遡った昔のことかもしれぬということだ。あの世では、時は一方向に流れる訳ではない」
 これを聞き、赤虎は背筋を伸ばし、前に身を乗り出した。
 「柊女。では、四歳五歳の子らの中に、生まれ替わったお藤が混じって居る訳ではないのか」
 赤虎の言葉に、巫女の柊女はゆっくりと頷き返した。
 「そうだ。お藤が転生しているのは、お前よりも先に生まれた者かも知れぬ。百年も前に遡って居るやも知れぬのだ」
 「ううむ。それでは、転生したお藤のことを見つけようがないではないか」
 「本来はそうだ。今生のことは来世には持ち越せぬ。皆、三途の川に捨ててしまうからな。だが・・・」
 赤虎は、途中で言葉を止めた柊女の眼をじっと凝視した。
 「あの出来事は、あの世に通じる穴がぽっかりと開いていた時の話だ。お藤は転生し、必ずやぬしの前に現れるだろう」
 「ただし、生まれ変わったお藤は、どのような姿を取っているか分からない、ということだな」
 「その通り。男か女か。あるいは子どもか年寄りかも、まったく定かではないのだ」
 ここで赤虎は柊女から視線を外し、腕組みをする。
 「相手が老若男女いずれか判然とせぬのであれば、それがお藤かどうかを見極めるのは至難の業だ。しかし、俺はお藤が死ぬ直前に、あの女子の手の甲に、夲(とう)という字を刻んだ。この文字がたまたま手の甲に浮き出ることはなかろうから、それを目印とする他はない。いや、ぬしの申すあの世の決まりが事実なら、むしろここはその印が有ってくれて幸いだと思うべきだろう。他にはお藤を見極められる標(しるべ)が無いのだからな」
 赤虎の真剣な眼差しを見て、柊女はふっと笑みをこぼした。
 「赤虎よ。ぬしはどうあっても、お藤の転生を確かめたいのだな」
 「三途川の向こうにあの世が有ることを、俺はこの眼で見た。後は、魂が不滅で、生き死にはただ単にあの世とこの世を行ったり来たりしているのだということを知れば、さぞ気が休まろう。この俺だけでなく、世人は皆、目前の苦難や老病死の苦しみからも逃れられるのだ」
 赤虎は至って穏やかな表情である。
 (この男。何時の間にか、前とは桁違いに度量が大きくなっている。)
 柊女は、盗賊の体から滲み出る気配が、かつての盗賊とは変貌している事に気が付いた。

 「お頭!」
 唐突に己を呼ぶ声がした。
 赤虎は暫らくの間、夢うつつの狭間にいたのだが、この声で我に帰った。
 「何だ」
 赤虎の声を確かめるや否や、板戸が引き開けられる。すると、そこには手下の一人が控えていた。
 「大変です。熊三さまが・・・」
 「熊三がどうしたと申すのだ」
 手下は頭を下げ、俯いたまま報告を続ける。
 「熊三さまが畝(うね)村で討ち取られやした」
 「何!熊三が死んだと言うのか」
 赤虎は火箸で炭に灰を掛け、火を鎮める。
 「熊三め。あんな気性ゆえ、何時の日かそういうことになるだろうとは思っていたが、ついにその日が来たか。誰にやられた。何処の侍なのだ」
 「それが・・・、侍では無いようでがんす」
 「うつけ者とは言え、熊三はそれなりの技量は持っている。侍でなくて、一体誰が熊三を倒すと申すのだ」
 手下は一瞬視線を上げたが、主の鋭い眼光に接すると、すぐに眼を伏せた。
 「三戸の伊勢屋に逗留している猟師(やまだち)がやったのだと、先程、口入れ屋の松が報せて来やした」
 「松公は熊三が殺される所を直に見たのか」
 「いえ。しかし、確たる証(あかし)があると申して居ります」
 「我が弟とは言え、熊三は我らの規律を度々破り、無辜の民を襲って来た。侍や悪徳商人の他は襲うなと、あれ程きつく命じていたのにな。相手が侍なら意趣を返そうが、先に熊三が仕掛けて逆にやられたという話なら、罪は熊三の方にある。しかし、相手が猟師なら、これを襲った所で何の得もあるまい。どんな事情があったことやら。まあ、その猟師を直に質(ただ)してみれば話が早かろう。どれ」
 赤虎はゆっくりと立ち上がった。
 「三戸の伊勢屋なら町のど真ん中だ。城から捕り手が寄せて来れば少しやっかいなことになろう。窮奇郎や蓮はどこだ」
 「窮奇郎さま、お蓮さまのお二人が何処ぞに居られるかは、今のところ定かではごぜえません」
 「よし。では赤(じゃく)龍(りゅう)青(せい)龍(りゅう)を呼べ」
 赤龍青龍は兄弟で、赤虎が拾い育てた戦災孤児が大人に長じ、手下となった者たちである。
 二人は五年前の怖谷の時にも、赤虎に随行し、共に鬼や亡者と戦っていた。
 「明朝、伊勢屋に行き、その者に会ってみよう。事と次第によっては刃傷沙汰となるかも知れぬ。皆そのつもりで居れと伝えよ。寅の刻には出発し、辰の刻前には町の入り口に集結するのだ」
 「はい」
 手下はひとつ頭を下げると、すぐさま板戸を閉めた。

 翌朝。卯の刻に赤虎が三戸の町に向かう道別れに到着すると、既にそこには手下共が集まっていた。
 道別れには大岩が立っているが、その陰に身を隠すと左程目立たない。
 赤虎は手下の顔を見回し、「うん」と小さく頷いた。
そこに集まっているのは、如何にも風体の悪そうな男たち十数人である。
既に留ヶ崎の城は目と鼻の先である。
城の侍に悟られぬよう、道中は極力音を立てぬに越したことはない。
 赤虎が静かに馬を発すると、男たちはゆっくりとそれに続いた。
 赤虎一行は、程無く町の中央にある伊勢屋の前に着いた。
 「よし。皆持ち場に付け」 
 頭の命令に従い、男たちは荷から赤い襦袢を取り出すと、半纏をまとうように着物の上に羽織った。
 女物の鮮やかな色の襦袢は、戦闘になった時、容易に敵味方を判別出来る。これは長年の戦闘経験を踏まえ、何時しか着るようになったものである。
 伊勢屋の表口には、赤虎を始めとする十五人が、また裏口には三人が回った。
 「これから、熊三を殺した猟師を呼び出し、その者に事の仔細を質す。くれぐれも手前勝手に斬り掛かるなよ」
 赤虎がそう命じると、手下は揃って頷き返した。
 まず手下の一人が、伊勢屋の表口に近付いた。表門には門番不在の時のために、拍子木が吊るされている。
 手下はこれを手に取り、「かんかん」と二度打ち鳴らした。
 程無く扉に開いた覗き窓が開いた。
 屋敷の奥から用人が出て来て、外の様子を覗く。
 「ひゃ」
 門の外にいたのは、如何にも怪しい風体の男たちである。
 用人はすぐさま覗き窓を閉じ、屋敷の中に駆け戻る。
 「これでは埒(らち)が明かぬな」と、青龍が呟く。
 青龍は自ら前に進み出て、拳で扉を叩いた。
 「おい!厨川五右衛門と申す猟師は居るか。居るなら表に出て来い!」
 話を早く進めようと、他の手下もこれに続いた。
 「聞こえるか。とっとと出て来やがれ!」
 「早く出て来い!」

 この時、往来に面した伊勢屋の二階には、疾風(五右衛門)とお晶の二人がいた。
 騒がしい声に、先に眼を醒ましたお晶が窓から外を覗く。
 朝早く外にいたのは盗賊団の一味である。
 (これは・・・。きっと数日前に疾風さまが斬ったという盗人の仲間だわ。) 
 お晶は背後を振り返り、まだ床に寝ている筈の男の名を呼んだ。
 「疾風さま!」
 この時、疾風は既に眼を開き、床の上に半身を起こしていた。
 窓の下では、再び青龍が叫んでいる。
 「厨川五右衛門。きさまに質したいことがある。出て来ぬとこちらから中に押し入るぞ」
 疾風は着物を着て、窓に近寄った。
 疾風は、出窓の上から、下の往来にいる盗人たちに声を掛ける。
 「厨川五右衛門はわたしだ。すぐに降りるゆえ、そこで待って居るが良い」
 疾風はひと言そう言うと、ふっと姿を消した。

 この時、出窓から顔を出した疾風の表情を、赤虎が下の道から見上げていた。
 (悪人に囲まれているというのに、なかなか腹の据わった奴だな。顔色ひとつ変えぬ。)
 赤虎はその男の穏やかな表情を垣間見て、思わず感心した。

 ここで赤虎は表口のまん前に立ち、携えてきた鉄棒を地面に突き刺した。赤虎はその鉄棒を抱え込むように腕組みをして、体を預けた。
 赤虎がそのままじっと待っていると、やがて扉が開き、三十過ぎの男が表に出て来た。
 男は左手に小刀一本を下げただけである。
 町中では、城仕えの侍以外は刀を携えてはならぬことになっていた。もし、持っていれば、不審な者として捕縛されることがある。身を守る最低限の武具として小刀は必要だが、大刀は町の入り口にある馬喰宿に預けるのが、この三戸城下の慣わしなのであった。
 まず赤虎が先に口を開いた。
 「俺は赤平虎一と申す者だ。きさまが厨川五右衛門か」
 これに男が頷く。
 「確(しか)と間違いない」
 男は寸分の隙も見せず、周りに立つ手下たちを見回していた。

北奥の風景 沼宮内城址
北奥の風景 沼宮内城址

 赤虎はその男の視線に接し、身がきゅっと引き締まった。
 (こ奴。手下共の力量を測って居るのだ。この目の配りようは只者ではないぞ。)
 「では五右衛門。熊三を斬ったのはきさまなのか」
 声に応じ、疾風は赤虎に向き直った。
 「熊三とは誰だ」
 一瞬とぼけた後、疾風は再び周囲の様子に気を配る。間近に手槍が三人で、鎖鎌と鉞(まさかり)が一人ずつ。他の者は大仰な飾りのついた段平を差している。
 手下たちは皆、何時でも飛び掛かれるように、各々の得物に手を当てていた。
 赤虎はそんな手下たちを制しつつも、疾風に対し穏やかに語り掛ける。
 「畝村で死んだ男は俺の弟の熊三だ。その熊三を斬ったのは、きさまだと聞いている。もしそれが事実なら、如何にしてそうなったのか確かめようと思い、俺はここに来たのだ」
 その声に重ねるように、赤虎の背後から手下の一人が叫ぶ。
 「知らぬ存ぜぬとは言わさぬぞ!熊三さまは畝村の狢(むじな)穴(あな)に捨てられていた。狼共にあらかた食い散らされてはいたが、刀傷を得たことは一目瞭然だ。きさまが連れていた餓鬼が何よりの証拠だぞ。熊三さまを手に掛けたのは他ならぬきさまに違いないのだ」
 「それがしが斬ったと言えばどうする」
 その手下がいよいよいきり立つ。
 「知れたことよ。きさまの命は貰った。切り刻んで狼に食わせるまでだ」
 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、盗賊たちは一斉に段平を抜いていた。

 疾風は後ろ腰から左手で出刃を取り出し、そのまま片手でくるくると手拭を外した。それと同時に右手では左の腰に差してあった小刀を抜いていた。
 ここで赤虎は右手を高く挙げ、手下たちを留めようとした。
 「まあ待て。お前たち。争うのは事の次第を確かめてからだ」
 しかし、手下たちは足音高く散開し、疾風を取り囲んだ。

 この時、往来から聞こえる喧騒を聞きつけ、何事が起こったかと、周囲の家々で板戸が開き始めた。
 無論、影響が自分に及ぶのを避けるため、開いたのは二階の窓である。
 伊勢屋の二階でも総ての窓が少し開き、女たちや泊まりの客たちが往来を見下ろしていた。
 そんな見物人の中に、三好平八と玉山小次郎の二人が混じっていた。二人は猟師の五右衛門・疾風の連れである。
 「疾風さまは大丈夫でしょうか」
 「いかに達人の疾風殿であっても、あの人数に対し、得物が小刀と包丁ではちと厳しいぞ。手槍か大刀(だいとう)が欲しいところだの」
 二人のこの会話を、昨夜疾風と褥を共にした娘・お晶が聞いていた。
 (刀なら、わたくしが持っている。)
 お晶は、亡き父の刀を、納戸の奥に隠していた。

 往来の上では、赤虎の制止を聞かず、手下たちが疾風に斬り掛かっていた。
 「とおりゃ」 
 最初に手槍の一人が突っ込んだ。これを疾風は右手の刀で受け、すかさず一歩踏み込み、出刃で相手の腕の筋を斬った。
 間髪を入れず、別の一人が斬り込んでくる。今度は出刃でこれをかわし、相手の右の肩口から袈裟懸けに斬る。さらに返す刀で後ろにいた男の脚を刈った。これで三人が戦闘不能となった。

 「速いのう。恐るべき技だ」
 伊勢屋の二階で、三好平八が唸った。

 ここで、痩せた手下が、鎖を振り回しながら前に出て来た。
 「こやつ、手強いぞ。心して掛かれよ。皆の衆」
 疾風は、すぐさま横っ飛びに跳んだ。
 鎖鎌の男が慌てて鎖を振り回すと、鎖の先に付いていた鉄球は、別の手下の頭を直撃した。
 赤虎は、疾風と手下の戦闘を、見惚れるように見物していたが、配下のこんな不始末を目にすると流石に叫ばざるを得ない。
 「馬鹿もん。味方に当ててどうするのだ!」
 その赤虎の目前で、疾風は同士討ちの二人を、まさに瞬時のうちに斬り捨てていた。
 「この道は広くない。やたら滅多ら得物を振り回すな!」
 赤虎の叱咤を受け、手下たちはもう一度散開し、仲間との距離を取った。

 ここで新たに手槍の二人が前に進み出る。
 「おうさ。我ら二人でいこう」
 二人は共に疾風の迅速さを知り、斬り合いの邪魔にならぬよう、派手な上掛けを脱ぎ捨てていた。
 その二人を見ていた見物人の間から声が上がった。
 「おお。あれは赤(じゃく)龍、青龍の兄弟だぞ」
二人の槍の穂先近くに結ばれた布の色は、確かに赤と青である。
 「『毘沙門党の虎の口に双龍あり』と言われるが、あれがその二人か。では、あそこに立つ大男は、やはり噂に名高い赤虎に間違いないぞ」
 見物人の一人が指差す方向には、鉄棒を抱えた赤虎がじっと佇んでいた。

 「双龍」兄弟は、赤虎の腹心中の腹心である。二人は赤虎が義妹のお蓮を道で拾ったのと同じ頃に、拾い育てられた者たちであった。
 五年前の怖谷の件では、赤虎が窮地に陥ろうとする所を、この兄弟の献身的な働きで助けられた。
 赤色青色の牛頭鬼・馬頭鬼と戦った後、この兄弟は自分たちも鬼と同じような極彩色を身にまとうようになった。直接、兄弟が肌で感じ取った鬼の威力を、自分たちも身に付けようとしたのである。

 双龍兄弟が前に出ると、他の手下は揃って後ろに下がった。
赤龍の「やあっ」と言う掛け声を合図に、兄弟は次々に槍を繰り出し始めた。
 二人は悪人ながら確かな腕を持っている。間髪入れず繰り出す槍の速さに、疾風も防戦一方となった。
 三十手ほど刃を合わせた後、漸く激闘にひと呼吸入った。そこで、疾風は十歩ほど左に走り、構えを変えようとした。
 すかさず青龍が疾風を追い掛ける。
 「待て」 
 疾風は急に立ち止まり、振り向きざまに出刃を放った。すると、包丁は一直線に宙を飛び、青龍の喉首を貫いた。
 青龍は「ぐぐ」という呻き声を残し、その場に崩れ落ちた。
 「青龍!おのれよくも兄者を殺したな」
 赤龍がすぐさま槍を突き出す。
 疾風はこれを小刀で受けたが、赤龍の槍を止め切ることができず、その穂先が左の肩口を掠めた。疾風が右の小刀で切り返すと、赤龍は再び後ろに下がった。

 「疾風さま!」
 二階で見ていたお晶が、思わず声を上げた。
 続いて平八が呟いた。
 「まずい。やはり小刀ひとつでは不利だの」
 小次郎が苦悶の声を漏らす。
 「疾風さまに武器をお渡ししようにも。ここには槍も大太刀もござりませぬ」
 平八と小次郎は不安げな口調になっていた。
 この時、お晶は昨夜の疾風の姿を思い出した。亡き父の遺した重く太い大刀を、疾風は難なく振るうことが出来ていたのだ。
 お晶は直ちに自分の部屋に走った。襖を開け、押し込みに走ると、その中から父親の刀を取り出した。
 お晶は急いて風呂敷包みを引き剥がし、窓に駆け戻る。
 「疾風さま。刀でございます!」
 そう呼び掛けると同時に、お晶は下の疾風に向かって刀を放った。
 疾風はこれを左手で受け取り、ほんの僅かな間、お晶の顔を仰ぎ見た。

 この時、疾風のすぐ前に立つ赤虎の目には、高く掲げた疾風の手の甲が、はっきりと見えた。
 左手の甲には、白い筋で「夲(とう)」という文字が浮き出ていた。
 (あっ。あれはもしや・・・。)
 赤虎は背筋がざわめくほどの戦慄を覚えた。我知らず、赤虎は五歩六歩と前に歩み出る。
 「おい、猟師。お前の左手には、文字のような筋が浮いているが、それは何だ」
 敵として対峙する盗賊の首領が、余りにも唐突な話を持ち出すので、疾風はそのまま正直に答えた。
 「これは生まれた時から、ここに付いている只の痣だ」
 この返答を聞き、赤虎は「うう」と唸り声を上げる。
 (何と言うことだ。こ奴は、あのお藤の生まれ替わりではないか!まさか、よりによって、こ奴とは、何という巡り合わせなのだろう。)

 ここで赤龍が再び槍を構え直し、疾風に詰め寄る。
 「死ね。とうりゃ」
 この一撃を、疾風は鞘に入ったままの大刀で受け流し、体勢を整える。
 一瞬の後、疾風は敵に向き直り、まずは右手に持つ小刀を地面に突き刺した。
改めて大刀を腰に差し、刀身を引き抜く。二度、三度と体の左右で円を描くように刀を振るい、重さを確かめた後、疾風はその刀を両手で構えた。
 「いやあ」 
 ここに赤龍が槍を突いてくる。しかし、疾風が大刀で力一杯にその槍を払うと、槍は真っ二つに折れた。
 「やや」
 たじろぐ赤龍の頭を、疾風が大刀で割る。倒れようとする赤龍の頭からは、鮮血が迸り、雪の地面を真紅に染めた。
 「赤龍!」
 赤虎の目前で、二人の腹心が倒された。
いずれも、赤虎が幼き頃から守り育てた者たちである。赤虎にとっては、息子たちと言っても良い程の絆がある。
 赤虎はゆっくりと前に進み出た。
 鉄棒を構えながら、赤虎が疾風に向かって言ったのは、実に意外な話であった。
 「俺はぬしと争う為にここに来たのではない。俺の思うた通り、弟の熊三が無辜の民を襲い、その不始末が為に命を落したのなら、俺は黙って引き返そうと思っていた。俺がここに来たのは、この後、熊三と同じようなことをしようと思う者が出ぬよう、皆を戒めるために来たのだ。だが、双龍兄弟が殺された今は、どうやら話をするだけでは済まなくなったようだな。厨川五右衛門。ぬしはどうやら、俺とは深い関わりを持つ者らしい。これからそれを確かめる」

 赤虎が手にしていた武器は、長さ七尺はありそうな太い鉄の棒である。六貫に届く程の重量があるが、それもその筈で、地獄に済む牛頭鬼が持っていたのを、赤虎が奪い取った物であった。
 赤虎はその鉄の棒を頭上でびゅんびゅんと振り回しつつ、疾風に近づいた。
 これに対し、疾風は、地面に突き刺してあった小刀を再び抜き、左手に持った。
 大刀の方は、右の肩に載せるように構えた。
 そこへ赤虎は鉄棒を浴びせ掛かった。
 頭を狙った最初の一撃を、疾風は身をかがめてやり過ごした。赤虎は重い鉄の棒を、まるで樫の棒のように軽々と振り回した。
 「おい。五右衛門。ぬしの前世は、この俺と関わりのある者のようだぞ」
 平然と語る赤虎の話は、命を奪い合う戦いの最中には、まるで似つかわしくない内容である。
 疾風は三歩下がって、赤虎の顔を覗い、その心意を確かめようとする。
 赤虎はその疾風に対し、にじり寄りながら再び口を開く。
 「ここから二十里北東に白川郷という地がある。ぬしの前世はそこで生まれ育った娘なのだ。もし、この窮地を逃れることが出来たなら、そこに住む地主を訪ねて行くが良いぞ。そこにはぬしの前の父母が今も生きて、娘が戻って来るのを待って居るからな。己は娘の生まれ替わりだと申せば、話は通じよう。だが・・・」
 再び、赤虎の鋭い一撃が疾風を襲った。
 疾風は大きく跳び退って、これをかわす。
 「それも、この赤虎を倒すことが出来てからの話だ」
 赤虎はしゅんしゅんと音を立てさせながら、鉄棒を回した。
 十五回も回した後、赤虎はその鉄棒を下ろし、もう一度口を開いた。
 「俺はぬしの末期に、ぬしがいずれ生まれ替わった暁には、父母の許を訪ねさせる約定をした。今俺がした話は、それを果たすためのものなのだ。良いか、お藤」
 赤虎の言葉に、疾風の右の眉が僅かに上がった。
 「お藤・・・?」
 前世の話を持ち出されても、疾風には確かめる術がない。疾風の顔には、当惑の色がはっきりと表れた。
 赤虎がさらに言葉を続ける。
 「ぬしの前世はお藤と申す娘だ。その娘はこの俺が手ずから首を切って殺したのだ。不思議なことに、それはぬしがこの世に生まれた後の話だ。俺にはまだ理解出来ぬが、宿縁は時の前後には関わりなく現れるものだという話だ。事実、ぬしの手の甲には、かつて俺がお藤に刻んだ文字がある。さて、前世のぬしが死ぬ間際に、この俺と交わした約定は、今ここで果たしたぞ。これから先はぬしの決めることだ。ここでもう一度、俺に殺されるか、あるいはこの俺を倒して、父母に会いに行くか。それは五右衛門、総てはお前次第なのだ」
 話が終わる直前に、赤虎は鉄棒を一旋させた。
 赤虎の狙いは脚を払おうとするものであったが、疾風はこれを跳躍して避けた。
赤虎の鉄棒は尋常ならぬ鋭さを持っている。疾風は時折、左の小刀でけん制しつつも、次第にじりじりと後退し、民家の板塀を背にするほどとなった。

 伊勢屋の二階では、小次郎と平八がこの戦いをつぶさに見守っていた。
 劣勢に立つ疾風の様子に、小次郎が心細げな声を発した。
 「もう後がありませぬ」
 平八にもそれが見て取れる。平八は無言のまま、拳をぎゅっと握り締めた。

 赤虎が鉄棒を振るうと、疾風は二歩下がった。既に背中は板塀である。
 疾風が周囲を見渡すと、この板塀の右手前には小さな井戸があった。
 体勢を変えるべく、疾風はこの井戸の後ろに回り込もうとした。
 これを赤虎が見逃す筈が無い。
 「逃がすか。これでしまいだ!」
 赤虎の鉄棒は疾風の肩口を狙って襲い掛かる。
 寸での所で疾風が右の大刀で跳ね上げると、赤虎の鉄棒はその反動で、井戸の柱を倒し、さらにその後ろの板塀までを突き破った。
鉄棒のあまりの勢いに、疾風は逆方向に跳ね飛ばされ、左にごろごろと転がった。
 赤虎は塀に刺さった鉄棒を引っ張ると、鉄棒は塀から抜けたものの、折れた井戸の柱に引っ掛かってそこで止まった。
 「何だ?」
 赤虎は井戸端に足を掛けて鉄棒を抜こうとするが、柱の残骸に縛り付けでもしたかのように一向に抜けない。
 赤虎がさらに力を込めようと足元を見ると、そこには一枚の木の板が落ちていた。
 それは井戸の名を書いた木札である。
 その木札には、黒々とした文字で「玉乃井」と書かれていた。
 「玉乃井だと・・・。ううむ。お玉、お前か」
 お玉は、赤虎が怖谷で地獄の蓋を閉じた時に、お藤と共に首を落した双子の姉である。
 (この鉄棒の先は、あの時死んだお玉が掴んでいるのだ。)
 赤虎はここに至り、己がこの地に来たのはけして偶然の出来事ではなかったことを悟った。
(成る程。俺はあの姉妹に与えた「付け」をここで払うわけだな。)
 息子同然の双龍兄弟を殺され、激高していた赤虎の心は、何時の間にか鎮まっていた。

 赤虎が左手に顔を向けると、その猟師がまさに起き上がろうとする所である。
 疾風は大刀を構え、己の方に真っ直ぐ突き進もうとしていた。
 一歩、二歩と疾風が近寄る。
 赤虎はその猟師の眼の中に、在りし日のお藤の視線をはっきりと認めた。
 「お藤。俺は今こそお前に、あの時の借りを返そう」
 赤虎は両手を左右に大きく広げ、刀の刃が己に届くのを待った。
赤虎の動きが止まったその一瞬を逃さず、疾風は左の小刀を赤虎の鳩尾(みぞおち)辺りに突き刺した。
 その衝撃で、赤虎は深く身を屈(かが)める。
 「厨川五右衛門・・・」
 背中を折り曲げつつも、赤虎は疾風に語り掛けようとする。
 「俺の首を落せ。五右衛門。頭領が死ねば、手下たちはこの場を去る。無益な殺生はもはや無用だぞ。何故なら、今日のこの事態は、俺とお前との因縁により生まれたものだからな」
 赤虎が自ら進んで刃を受けたことは、疾風の方でも承知している。疾風は攻撃を止め、赤虎との間に三歩の距離を置いた。
 「どういうことなのだ」
 「先程申した通り、俺はぬしの前世でぬしの首を切った。これまで数限りなく多くの人を切った俺だが、しかし、ぬしとぬしの姉を殺した悔恨の情だけは、今も消えることはないのだ。ここで俺がぬしに首を切られるのも、深い因縁によるものだろう」
 「・・・」
 「苦しみに満ちた人生だったが、それもここで終わる。俺は今こそ解き放たれるのだ。さあ、俺の首を打て。お藤」
赤虎が自ら頭を下げ、首を長く差し出すのを見て、疾風は大刀を高く振りかざし、一刀のもとに頭を斬り落した。
 赤虎の頭はごろごろと地面を転がった。
片膝を地面に付いたままの首の切り口からは、鮮血が「びゅう」と勢いよく噴き出していた。
 疾風は赤虎の後頭部の弁髪を引き掴み、周囲によく見えるように、その首を左手で高く掲げた。
 「閉伊岩泉に屯(たむろ)する盗賊、毘沙門党の赤平虎一は、たった今この厨川五右衛門が討ち取った。この者に追随し地獄に落ちようと思う者は、遠慮なく前に出(いで)よ」
 疾風が大音声で叫ぶと、首領を失くした盗賊たちの間に動揺が走った。
疾風は首領の首を投げ捨てると、呼吸を整えつつ、再び刀を青眼に構えた。
 己は何時でも戦闘態勢に入ることが出来るぞ、という意思表示である。
 「ええい。退け退け」
 手下の一人が叫ぶと、その声に応じ、盗賊の残党はその場から走り去った。
 辺りから盗賊の姿が消えたのを確認してから、疾風は赤平虎一の着物の端で刀の血を拭い、ゆっくりと鞘に納めた。

 それから、どれほどの時が経ったことだろうか。
 赤虎が我に帰ってみると、己は暗闇の中に独りで座っていた。
 「どうやら俺は死んだらしいな。ここはこの世とあの世との境目。すなわち地獄だ」
 赤虎は、地獄の入り口には前にも来たことがある。よって、ここがどの辺にあたるのかは承知していた。
 「死ねば地獄に落ちるとは思うて居ったが、この先は未来永劫に、この闇の中で暮らすことになるのか・・・」
 赤虎は首を左右に振り、溜め息を吐いた。
 「だが、それも承知の上だ。ここは暗く冷たい闇の底だが、俺にはこの暗闇に灯を点(とも)す思い出がある」
 今改めて思い返しても、己の生涯は盗賊の殺伐とした人生であったが、その最後の最後に七海母子と出会うことが出来たのだ。
 (あの寺泊の浜で過ごした日々のことを、俺は永久に忘れんぞ。)
 赤虎は己の生き方を変えさせてくれた、あの母子との出会いを繰り返し反芻した。
 その時、赤虎の左の掌に滑り込んできたものがあった。
それは、小さく暖かい手であった。
 「小父ちゃん」
 (これは・・・。)
 赤虎の肘の辺りで、女児の顔が見上げていた。
 「雪・・・」 
 声を出す間もなく、右の腕に別の腕が絡み付いて来た。
 「虎一さま。わたしはこの先ずうっと、虎一さまのお世話をしてあげても良いぞ」

北奥の風景 日戸館
北奥の風景 日戸館

 懐かしい言葉である。
 横を向くと、果たしてそこには七海が寄り添っていた。
 「七海・・・」
 「わたしは、前に申し上げたその言葉を守るため、今ここにお迎えに来たのです」
 赤虎の周りに急に光が差し始め、緑の山々や青い空が遠くに見えて来た。
 すぐ目の前には、さらさらと音を立て、川が流れていた。
 漆黒の暗闇が、一瞬にして明るい世界に変貌していた。
 「さあ、皆で一緒に渡りましょう」
 七海の勧めに従い、赤虎は流れの方に歩み始めた。

 この日の昼過ぎ。江刺家大滝の庵では、祭壇の前で、巫女の柊女が祝詞を上げていた。
 柊女は朝からずっと祈祷を続けていたのだが、急にざわざわと胸騒ぎがして、それを止めた。
 「赤虎。お前も遂に死んだか」
 赤虎の生業は盗人であるから、いつ何時捕縛されても、また殺されても、何ら不思議ではない。
 赤虎自身、「いずれ道端で斃(たお)されるのが俺の運命(さだめ)だ」と、常々口にしていたのだった。
 柊女は「ふう」とひとつ息を吐き、両眼を閉じた。心眼を走らせ、赤虎の最期を知ろうというのである。
 すると、最初に浮かび上がって来たのは、赤虎の後姿である。
 赤虎は女子ども一人ずつと左右に手を繋ぎ、三途の川の向こうにある草原に歩み去ろうとしていた。
 「赤虎よ。お前はその川を渡ることが出来たのか・・・」
 周囲の穏やかな景色は、そこが彼岸であることを示している。
 三人が歩んで行こうとする先には、明るい雲が浮かんでいた。それは安寧を得た霊魂が集まる「極楽雲」であった。
 漸く眼を開けた柊女は、「ふっ」と小さな笑いをこぼした。
 「成る程。あの赤虎は、この世を救った男だ。これくらいの褒美を与えられたとしても、悪い訳が無かろう」
 柊女は再び一心不乱の祈祷に戻った。
 柊女の胸には、つい先程まで感じていた黒雲が、もう一度渦巻き始めている。
 (今年はこの地に不吉なことが次々と起きるだろう。此度は人のもたらす災いだ。人の行いは地獄の鬼より浅ましいからな。)
 柊女の心眼の先には、狂える天下人・羽柴秀吉の高笑いが、はっきりと見えていた。
 柊女の祈祷は、この後長い間続くことになる筈である。

 天正から慶長年間の伊勢屋当主であった藤吉が書き記した日記(『伊勢屋覚書』)には、この日、店の前で起きた騒動のことが短く記されている。
 天正十九年の一月、娼館の前で、ひとりの猟師が賊十名余を倒した。倒された賊の中には、かつて北奥で名を馳せた「赤虎」という盗賊がいた、とある。
 しかし、雪の降った朝、三戸伊勢屋の前の路上で起こった出来事には、こんな話が隠されていたのであった。   (了)

◆注記◆
○伊勢屋での決闘:三戸伊勢屋前での決闘場面は、『北斗英雄伝』「末摘花の章」に描かれたものである。毘沙門党との決闘で、赤虎以下十数人を斃した疾風は、その直後に留ヶ崎の侍に捕らわれ、東一刀斎との試合を強いられることになった。
○畝村:現在の岩泉国境峠付近。
○この物語での死生観:人が死んだ後の魂の行く末について、この物語で語られたことは、概ね次の通りである。
(一)死ぬと暗闇の中に入る。この暗闇は生前の執着心や欲望が作り上げたもので、己で解き放たない限り、闇は晴れない。要するに、そこは現世と彼岸との境目であると同時に地獄である。
(二)総ての執着心から抜け出た時、この世の狭間からあの世に移る。感覚的には、川を渡るイメージが最も近い。
(三)彼岸には草原のような空間があり、その空には鮮やかな色の雲が幾つも浮かんでいる(極楽雲)。霊魂は自分の仲間のいる雲に入るが、そこに入ると生前の記憶や感情を皆で共有する。言わば霊団とも言うべき存在となり、個人という存在は無くなる。
(四)時が来ると、霊団から一部が分裂し、現世に現れる。人として生まれ、肉体を持つようになると、個人的意識や感情、欲望が生まれる。霊界の仲間とも言うべき霊団とは、ここで切り離され、彼岸で共有していた安寧を失う。
(五)彼岸は時間を超越した次元にある。よって、過去や未来のいずれに生まれ替わるかは不規則となる。「縁」の繋がりのみが唯一の根本原理である。

○狂える天下人・羽柴秀吉:小田原攻めの後、秀吉は二度に渡る「奥州仕置」により、陸奥諸候に命じ、何万人もの民を撫で斬りとさせた。柊女が「狂える」と称すのは、虐殺の張本人が秀吉に他ならないことを指している

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