九戸戦始末記 北斗英雄伝

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早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



芦名橋                         早坂ノボル

※手控え稿(中間)なので、少し不首尾が残っているようです。

芦名橋
 話の発端は文政の半ば頃のことになる。
 奥州道を盛岡から北へ五里半ほどのところに、馬場街という集落があった。馬場街はこの辺一帯を占める馬場村の元村であるが、古く中世の初めから馬継所が置かれていた。

芦名橋 妖怪小豆洗いを祀る祠
芦名橋 妖怪小豆洗いを祀る祠

 馬継所を指す言葉がすなわち「馬場」ということであるが、いつの間にかこの呼び名がそのまま地名になったのである。
 この地は、奥州道から姫神山に向かう西の入り口であったから、ひとまずは交通の拠点でもあった。姫神山は、中世には山岳信仰の一大拠点であり、かなり下火になったとはいえ、麓にはまだ山伏たちが何十人か修行していた。
 馬場街の南端は、南部藩を流れる最大の河川である北上川と、姫神山麓から流れ下りて来る沢目川との合流点となっている。この合流地付近一帯を芦名沢と言い、この沢に掛けられた橋のことを芦名橋と呼んだ。
 沢目川は、普段の川幅がようやく一間半あるかどうかの小さな渓流である。ところが、ひと度雨が降ると山麓の水の集結によって瞬く間に四、五倍も増水し、周囲の土地を水浸しにした。
 このため、水系が開いたわずかな平地を開墾して田畑を拵えても、そこで育てた作物は梅雨の季節には大方のところ根腐れてしまうか、畑全体が流されてしまうのだった。
 しかし、姫神山麓の豊富な森林から流れ降りてくる水が滋養豊かでないはずはなく、芦名沢一帯は耕作地として必ずや利用できよう。このように考えた百姓が幾人もこの地の開墾に挑んだが、水際の整地は結局のところ誰一人としてものにできず打ち捨てられてしまっていた。
 この小川の治水を工夫し、曲がりなりにも少々の耕作を可能にしたのは、隣村に住む別当の息子の利助という男である。利助はこの近くに住む親戚のつてを頼り、村役に沢目川の治水工事を進言したのである。
 利助は兄弟たちの助けを借り、旧暦九月初めの比較的乾燥した時節を狙い、川沿いに次々に杭を打った。それから、川岸の杭の外側を土塁で一気に固めてしまった。
 その後、周辺の土地が完全に乾かぬうちに、潅木を刈り、根を掘り起こして、草を焼き払った。
 こうやってできたのは、せいぜい三、四町に届くかどうかの細長い畑であったが、村うちに出来た新しい耕作地であることは違いない。
 荒地を開墾した功により、利助は分家独立と同時にこの地に住むことを認めてもらえることとなった。利助は元の家を出て、芦名橋の傍らに藁葺きの小さな小屋を建て、そこで暮らすようになった。
 もちろん、耕地を誂えたといってもすぐさま作物が実るわけではない。整地し、土をこね、肥料を施すといった作業を続けて、最初は粟や稗、豆を作る。さらに地質の改良を続けて、陸稲を作る。ここから、もう一度、土地を作り直して水利を良くし、ようやく田圃ができてゆくのだ。
 利助は本家や親戚の野良仕事の手伝いをしながら、自分の畑の土地作りに夜昼となく没頭したが、最初は蕎麦しか取れず、豆や麦が何とか実るようになったのは、それから三年ほど経った文政九年になってのことである。この年は、大豆も小豆も良く実り、わずかばかりの田圃でも米が取れた。

芦名橋付近
芦名橋付近

 「利助、利助はおるか」
 朝飯の豆粥がちょうど煮立った頃、表から誰かの呼ぶ声がする。声の主はこの馬場街の村役の宗右衛門であろう。
 「へいへい、何ですべいか」
 粗末な木戸を開けると、まさしくそこには宗右衛門が立っていた。招き入れると、宗右衛門は中には上がって来ずに、板間の上がり端に半分だけ尻を置く。
 「この間の話だが、山屋の善平がお前のとごに娘をやっても良いと言っておる。ここの畑をお前が一人で耕しているところを善平は通りすがりに見掛けていたず。働き者のお前なら間違いはあるまいと見込んだのだべな」
 利助は囲炉裏の鉄瓶から湯を汲み、急須に注いだ。この辺りでは茶は育たないので、急須の中は代用品の蕎麦殻である。もっとも、本物の茶はこんな北国ではぜいたく品なので、生まれてこのかた数度しか飲んだことはない。
 利助が芦名沢の開墾を始めたのが三十台半ばであったから、今では四十近くになっていた。
ここに至り、どうやら畑仕事のめども立つようになってきたことから、宗右衛門は嫁の世話をしてくれようというのである。
 山屋というのは姫神山に向かって山道を一里ほど入ったところにある四軒ほどの集落で、ここの本家の善平には娘が三人いたが、このうち下二人はまだ片付かないで家にいた。
 「善平さんとこの娘と言うと、上のお滝の方ですべか」
 蕎麦茶を差し出すと、宗右衛門は喉が渇いていたのか、すぐに二口ほど飲み、ハアッと息を吐いた。
 「いや、お末の方と言うことだ。姉のお滝は二十四でもうそろそろ薹が立つ歳だが、働き者で器量よしだがら、善兵はなかなか離したがらねえ。お末は器量の方は姉に多少劣っても、まだ十六で若いがら、しっかり働いて子どもも何人も産めるべえ」
 「おらの嫁コには若すぎねえべか」
 「反対に喜ぶことだべな。オンズカスだば普通は嫁も貰えねえぞ」
 「おんずかす」とは、「叔父のカス」の意で、この地方では次男以下の男を指す言葉である。
この当時、百姓にとって土地は何よりも大切なものであったから、次三男以下に土地を分け分家させることなど滅多にあるものではなかった。したがって、次男三男の多くは歳を取るにつれて無用の者となり、結局は嫁も貰えずじまいになったのである。
 このため、独り立ちしたい次三男たちは、山や荒地の開拓に入り、自身のための田畑を切り拓いた。
 利助は五人兄弟の三男であったが、荒地を切り開き新たに自分の食い扶持を作ったので、嫁も貰えるようになったのだ。
 この時、芦名沢の開墾に加わったのは利助と四男の市助、オンチャ(末弟)の甚五と、近所に住む幼馴染の重吉で、いずれも次三男以下である。
 芦名沢の開墾の後、利助はここに住むようになったが、市助、甚五はさらに奥に入り姫神の山裾近くで畑を作っていた。また重吉は働き具合を買われ、二里離れた江刈村の本百姓のところに婿養子に入っていた。
 利助がこれまで嫁を貰えなかったのは、自分の畑を整えることに加えて、引き続き兄弟たちの開墾に加わっていたからである。
  「来年はおめも四十だべ。この機会に早いとこ嫁を貰え。いい話だど」
 宗右衛門は、これこそが良縁だと、利助に向かって繰り返し諭す。
利助はしかし、山屋のお滝の方は何度か見掛けたことはあっっても、妹のお末にはまだ一度も会ったことがなかった。
 十六の娘ではさすがに歳が違いすぎるような気もするが、確かに悪い話ではない。
 今年はそれなりの作物が実ったから、これが二年三年と続けば野良仕事の手もいっそう必要になるはずである。
 利助は、その申し出を受けることにした。
 「ほんだば、善平さんにお願げえして下さりますべか」
 「吉事は早い方がいいべから、明日にでも話はしておぐ」
 宗右衛門は、すぐに腰を上げ、挨拶もそこそこに出て行った。
 
 婚礼は翌月早々、わずかな身内だけで行われることになった。盛大に宴を開こうにも、まだ居間と寝所しかない利助の小屋では所詮は無理な話だった。
 祝言の夜、利助は嫁となるお末を初めて見て、思わず小さな舌打ちをした。
 この嫁は、器量は十人並みではあるものの、野良仕事にどこまで耐えられるかと案じられるほど痩せぎすであったからである。背丈は四尺八寸ほど、体つきは十貫にも満たぬであろうほど華奢である。
 ほっそりとした面立ちで、黒く大きい瞳だけがやたら目立った。
 何かこう、まるで鹿のような顔だ、と利助は思った。
 しかし、婚礼が既に始まってしまった今となってはどうすべくもない。
まあ、数年して子どもが出来なければ、離縁して山屋の家に戻せばいいべ、と利助は改めて気を取り直した。
 祝い提灯を下げた小屋の入り口には、祝い事を聞きつけた近在の百姓たちが、それぞれに米や酒を持って挨拶に来ている。
 「あんながりがりの嫁コで大丈夫だべか」
 「娘みでな歳だべな」
 小さい住まいである。戸口近くで近所のカカアたちが騒がしく噂し合う声も、中までよく聞こえた。
 「ほんにおめでとうござんす」
 眼の前には近在の老百姓が、銚子と猪口を持って座っていた。
 祝い客が手向ける酒を、利助はぐいっと飲み干した。
 こういう祝いの席でなければ、百姓が清酒を口にすることはない。家で作る濁酒でさえ盆暮れや春秋の祭の時だけであるから、清酒を口にするのは大体のところ年に一、二度あるかないかといったところである。
 利助はあまり酒に強い方ではなく、すぐに酔った。
 まれな祝い事でもあり、内輪だけで行うはずだったのに、狭い家には呼んでもいない近在の者たちが次々と詰め掛け、気がついてみれば十四、五人も押し合いへし合いしていた。
 村の年寄りが数人立ち上がり、この土地に伝わる祝い歌を歌い、てんで勝手に手を振り腰をひねり踊っていた。
 しかし、利助にはそのざわめき声が、なぜか遠くに感じる。
 「本当に大丈夫だべか」
 頭の奥のほうから、そんな声が何度も沸いてくるのである。
祝言はひととおり済ませることができそうだとはいえ、嫁のことを考えると、利助はやはり一抹の不安を覚えずには居られなかった。
 ところが一月二月経ってみると、そんな利助の不安はあっさり解消された。
 大方の予想に反し、このお末はまだ幼い割にはかなりのしっかり者で、小さい体をよく動かし朝から晩まで働いたからである。
 利助が朝一番で沢目川や北上川に仕掛けた簗を見回りに行き、魚を抱えて戻ってきた頃には、家の回りの片付けやら農耕具の手入れやらが全部終わっていた。

芦名沢一帯の風景
芦名沢一帯の風景

 昼の間には、お末は利助と共に畑に出て働いたが、夜になってもけして休まず、寝る時間を惜しみ着物を仕立てたりもする。
 芦名橋の下はこの集落の共同の水場だったのだが、村のカカアたちはここで飲み水を汲み、野菜を洗い洗濯もした。山の開墾の帰りに遠く離れた芦名橋を望むと、この水場でお末が働いているのが遠くからでもよく見えた。
 お末は気さくな性格だったので、近在のカカアたちとすぐに打ち解け、毎日冗談を言い合っては快活に笑っている。
 この芦名沢の景色に、さっそく溶け込んでいる嫁の姿を見ると、日頃家を空けることの多い利助は心強い。
 家のことは、この年若い嫁に任せても、どうやら大丈夫のようだ。
 こうして、新年を迎える頃には、利助はこの娘のような年頃の嫁のことが、すっかり気に入るようになっていた。
 
 利助の住む馬場街はわずか二十戸ほどの小さな集落である。しかし、当地の交通の要であったため、通行人が日に七、八十人は通った。
 村肝入(村長)である宗右衛門の屋敷は、往来宿、牛馬宿も兼ねていたので、宿場もどきに軒先に大提灯をぶら下げていたほどである。
 また、集落の中程にある熊野権現の坂下では、毎月八の付く日には行商が集まり、ちょっとした市のような賑わいを見せる。これが盆暮れ正月になると商人の数は倍にも増え、まさに市そのものとなる。
 この年の暮れには、まずは例年のように村中に山伏たちの声明が響き渡った。
馬場街から姫神山に至る一帯は、既に中世から山岳信仰の一大中心地であったが、この文政頃ではかなり下火になったとはいえ、権現様の山の後ろにはまだ十数人の山伏が修行していたのである。
 年を越え、この声明がひととおり収まると、今度は新年の市が立つというわけである。
 権現の坂下には二十間四方ほどの広場があったので、この場所に物売りたちが筵を敷き品物を拡げたのであるが、正月八日には、百姓たちまでも自らが育てた雑穀や、暇を見て作り溜めた草鞋や蓑を各々で並べた。
 普段の月であれば、仲買が各戸を回り、品物を取りまとめるのだが、正月には彼らも休むし、百姓だって多少の銭は入り用である。
 もちろん、盆暮れ正月を一番の稼ぎ時とする行商人たちは、いつもにも増して沢山の反物や農具、瀬戸物を抱えて売りに来る。
 正月八日の権現下には、こうした物売りたちが三十人近くも集まるのだった。
 こういった物売りの集まる日には、新参者の利助が集落の入り口に立ち、通行人の見張り番をするというのが村で定められた役目だった。
 要するに、昼前には税を集めに来るであろう小役人を、なるべく早いうちに見つけるというのがその役目である。
 このあたりは沼宮内代官所の管轄になるが、貢租穀納(年貢)や役銭といった藩が定めた税の他に、御裾郷役という代官が定めた税金が商取引全般に課せられたからである。
 穀物や餅、塩砂糖の販売については日に七十二文、道具類や反物、着物であれば日に百二十五文が、市の立つ日ごとに徴収された。
 物々交換に等しい百姓の藁細工売りであっても例外ではなく、市の一角を占める場合は日に四十八文を納めなければならなかった。この当時は玄米一升がおよそ五十文であったから、貧しい百姓たちにとってはなかなか重い金額である。
 米作りは百姓の本分であるはずだが、米の大半は貢租に取られるため、日頃は口にできない貴重な食料だった。
 物を売るのを生業とする行商人であれば、必ず鑑札が必要であり税を逃れる術はない。しかし、貧しい百姓たちからみれば生産物の三割、四割を年貢として取られた上に、ささやかな内職仕事にまで運上金を課せられたのではたまらない。
 このため、小役人が馬でやってくるのが見えたら、見張り役は皆にいち早く知らせ、それまで広げていた品々を撤収させるのである。
 見張り役が一声掛けると、百姓たちは大急ぎで荷物をまとめ、半町ほど先の村の墓地近くまで駆け上って身を隠した。
 一方、行商の者たちは、百姓は自分たちにとって大事な客でもあるから、役人に対しては知らぬ顔を通してくれた。
 馬場街の南端には利助、北の端の甚平坂にはもう一人の村の者が立ち、役人を見張った。幸い、どちらの側も見通しがよく、十町先までの人馬の動きを一望することができる。
 利助は市の立つ日に丸一日通しで見張り番に立ったが、村うちではまだ新参者であるから、この駄賃として利助が貰うのはわずかに十六文であった。
 十六文と言えば、江戸であればちょうど掛け蕎麦一杯分の値段である。この十六文という値段も江戸の噂を富山の薬売りから聞き、ご苦労賃として掛蕎麦一杯分を振舞うという意味で決められたのである。もちろん、蕎麦屋など盛岡の城下にしかなく、百姓の生活は自給自足に近い状態であったから、あくまで形だけのものであった。物の値段自体、江戸とはだいぶ違うから、駄賃の実質的な価値は三倍、四倍にはなるわけではあった。
 しかし、この年の権現下には利助の新妻のお末が夜なべして作った丹前を並べていたので、家族を守るという意味で利助には好都合であった。いざとなれば、真っ先にお末に知らせることができるからである。
 この日、代官所の小役人は、北隣の巻堀村から甚平坂を登ってきて、すぐに肝入の屋敷に入った。肝入は既に行商たちから朝一番で歩銭を集めており、村を代表して役人に渡す段取りができていたので、役人の見回りも概ね通り一遍のものであった。
 役人は税を集めるや否やそそくさと次の村に向かうため、この地に滞在するのは半刻ほどもない。近在の郷村を手分けして回った役人は、その日の夕方までには沼宮内の代官所に戻らねばならないのである。
 利助が見張り役に立つのは、市の立つ日に加えて、代官の行幸の日であった。
代官は通常、二人任命され、交替で任地に赴任した。任期は概ね二年である。交替は半年に一度であったが、この時も利助は村はずれに立ち、代官の行列の到来を村人に知らせた。
代官が村を通る時、辻々には村人が並び、平伏して役人たちを見送らねばならなかったからである。
 地元の代官であっても、通行中に頭を上げて顔を見ることは許されず、百姓は皆、代官が通り過ぎる間はずっと平伏していなければならない。
 ただし利助のような「お立ち役」だけは例外で、不敬の無いように皆を見渡す必要から、立ったまま頭を下げるだけで良いとされていた。
 この年明けの沼宮内代官は大村正親という侍であった。大村は既に二期四年もこの地の代官を務めていたので、役人の一行を目前にしても、村人が身構え固くなることはほとんどなくなっていた。大村も侍にしては威張らず人当たりが柔らかかったので、百姓たちの受けも良かった。
 正月明けに、権現下でこっそり盗み見た代官の顔は、前年の豊作を反映してか、極めて上機嫌であるように利助の目に映った。
 
 文政十年から十二年に掛けての三年間はこの近辺では豊作が続き、利助も家を大きく建て増しすることが出来た。加えて利助は、この三年の間に山の開墾に次々と成功し、芦名沢ばかりでなく沢目川を六町遡る範囲の開拓を任されるほどになっていた。利助は土づくりが上手で、どんな荒地でも短い間のうちに耕地に変えてゆくことができたのである。
 利助兄弟の働きにより、この村における田畑耕作地は瞬く間に拡がっていった。
 この頃には利助も多少の蓄えも残せるようになっていた。芦名橋の近くは水気が多いので、利助はここから五十間離れた蝮岩の裏に小さいが堅牢な離れを建て、地下に穴倉を作りこれを雑穀倉として利用した。
 蝮岩は三間半ほどの高さの大きな岩であったが、この岩の周囲の草叢にはよく蝮が出るので、盗人はおろか穀類を食い荒らす鼠たちも一切近寄らなかったからである。
 翌文政十三年になると、一転して夏頃まで気温が上がらず、その後はカラカラの日照りが続いたので、南部藩の北部一帯は概ね不作となった。米は概ね六分出来だったので、百姓の多くは深く落胆させられた。
 しかし、冷害に強い粟や豆など雑穀は良く実った。このため元々田圃の少ない利助の畑の出来にはほとんど影響がなかった。

現代の芦名橋
現代の芦名橋

 また、利助とお末は元より勤勉な夫婦である。耕作の傍ら、山で栗やトチの実を拾い蓄えてあったのと、蕨やトコロ(ヤマノイモ)などから澱粉カスを取り普段から常食としていたので、粗食には日頃から慣れていた。
 ただひとつもの足りぬ点があったとすれば、年若い女房を得てから三年が経っても、利助には依然として子どもができなかったことである。
 利助が年配であったこと、お末があまりに痩せていたこと、二人してかなりの重労働に従事していたことなど、いくつかの理由があったのであろうが、実際のところはよくわからない。
あるいは常日頃、灰汁の強い山菜を食べていたことが、多少は影響していたのかもしれない。
 しかしこの頃では、利助はお末のことを妻として、また半ばはまるで娘のように可愛がるようになっていた。お末は生まれつき明るい性格だったので、父のような歳格好の利助のことを軽口半分に「おとっつあん」と呼んだ。
 午前中は二人して野良仕事に出るわけだが、昼前になるとお末は一旦先に家に戻る。そうして、飯の仕度ができると、表に出て利助を呼ぶ。
 「おとっつああん、飯の仕度ができたぞう」
 小さな体で、声を張り上げ精一杯叫ぶ。
 亭主が四十三、女房が二十歳の夫婦である。
 「ほれ、娘が呼んどるぞ」
 お末の声をきっかけに、周囲からきまって歳の差のことをからかわれる。
 このため、「おとっつあん」と呼ばれると少し気恥ずかしい気もするが、その反面いくらかは嬉しさも混じるのだった。
 けして楽ではない毎日だったが、利助の家ではいつも笑い声が絶えなかった。
 文政十三年の十二月には元号が替わり天保元年となったが、いずれにせよ大半の百姓たちにとってはあまり良い年ではなかった。
 
 明けて天保二年の作柄はやや持ち直した。昨年の冷害の経験を踏まえ、村人たちは利助に倣って寒さに強い雑穀を植え、そこそこの収穫を上げられた。米もまあまあの出来であった。
 利助はこの年、不作に備え、芦名沢の山向こうに穀物倉をひとつ拵え、保存用の穀物を蓄えている。粟や稗に加えて栗や栃、団栗の実や蕨根といった山の産物が半分近くを占めたが、これらは租税の対象にはならないという利点があった。
 しかし翌天保三年に入ると、再び深刻な冷害がこの地を襲った。旧暦六月になっても時折雪が降り、雪が消えた後にも次々と雹が落ちてきたのである。
 世に言う天保の大凶作の始まりである。
 南部藩の石高は全体で二十五万石弱であったが、この年の損耗は十五万五千石に達したので、平年の五分の二程度の収穫しか上げられなかったことになる。
 「いやはや、大変な年でがんす」
 これが村人の挨拶代わりの言葉になった。
 お天道様を恨んでも仕方ない。誰かに愚痴をこぼそうにも、どの百姓も皆同じなのである。
 しかし一昨年の経験を踏まえ、村人は様々な備蓄を行っていたので、何とかこの年の凶作を後越えることができた。山の産物の備蓄もあった。
 皮肉なことに、この年は気持ちの悪いほど暖冬で、霜は降りても雪の方はほとんど降らなかった。
 冷夏の年は概ね暖冬となるのが通り相場である。
 まさか来年もおかしな気候が続くのではないか、と村人は盛んに噂した。
 案の定、翌天保四年に入り三月、四月、五月となっても気候はほとんど変わらない。曇天長雨で低温が続いたので、いつもの年ではとっくに春から夏に移る時節になっているのに、山々は一面茶色のままである。
 田畑に至っては、畦にわずかに苔だけがへばりついている有様であった。
 六月まで雪がちらついたのは前の年と同じで、稲の出穂は全く見られず、八月半ばには新しい寒気が到来し、霜が立ち、間もなく雪が降った。普段の年ならば鈴虫の騒がしい季節であるはずが、草叢からは何も聞こえない。
 ここまで酷い冷害になると、雑穀もほとんど実らなかった。またそれどころか、非常食になりそうな山の植物もほとんどが葉すら出さず、わずかに蕨根がいくらか取れただけであった。 蕨根からはかろうじて少量の澱粉が取れ、これはまた保存にも耐えられた。澱粉を取った残りカスを「あも」と呼んだが、例年は打ち捨てて畑の肥料とする「あも」さえも、この年は捨てずに乾燥させ取り置くようになった。
 町場の市では、売り買いすべき食料が払底して、この「あも」ですら重要な商品として扱われ始めた。蕨根のような本来捨てるべき残りかすでも、一升十四、五文の値段である。
 この年の南部藩の損耗は、実に二十二万石強に上る。要するに南部領では米は九割方実らなかったのだ。
 雑穀を中心としていた利助の家でも、さすがに収穫を上げるのは困難で、蕎麦と稗が平年の三、四割程度取れただけである。
 野良仕事の用も無くなり、畑に出ても一回り見回るだけであったが、利助は毎朝畑に行かずにはいられない。そこは百姓の性である。
 しかし結局は、毎日同じように肩を落として家に戻ることになる。
 「大丈夫、大丈夫。そのうち良いこともあるべよ」
 そんな利助を、お末はいつも変わらず明るく迎えた。
 この、屈託のない女房の笑顔のおかげで、利助の心はだいぶ救われる。
 また、収穫は少なかったとはいえ、それでも利助の畑はこの辺りではかなり良い部類なのであった。
ここまでの冷害になると、田畑の作物ばかりでなく百姓にとって貴重な蛋白源である川魚も取れなくなる。
 利助は沢目川と北上川の数箇所に簗を掛ける権利を持っていたが、どの簗にも全く魚が掛からなくなった。雑草ですらまばらな状態であったので、山の生み出す滋養が川に届かなくなっていたのである。川では山女や鮠はおろか川海老や泥鰌、あるいは「まのよ」(八目の稚魚)すら見当たらなくなっていた。

芦名橋の下を流れる沢目川
芦名橋の下を流れる沢目川

 山に緑が見当たらないわけであるから、いずれ雉や山鳥もいなくなる。
 時折、よたよたと畑に落ちてくる山鳥が何羽かいたが、骨と皮だけになるほど飢え細っており、とても食えたものではなかった。また、道端では狐や狸も多く飢えて野垂れ死んでいた。 しかし、どの動物も最後は病気に罹っているはずなので、誰一人手を出そうとはしない。
 周囲の状況はどんどん悪くなっていたのであるが、この年の十月には、利助夫婦はようやく念願の子宝を得ることができた。
 蝮岩の地下倉には豊作時に蓄えた雑穀の備蓄もそれなりにあったので、少しの米と豆を取り出して粥を作り、これを祝いの膳とし近在の者たちに振舞った。
 生まれたのは女の子であるが、五百匁に満たぬ誠に小さな赤子であった。母親のお末も小柄であったので、母に似たとも言えるが、やはりかなり栄養が不足していたのであろう。
 お末はほとんど乳を出せなかったので、わずかに取り置いた玄米か小豆を挽いて粉にし、これを湯で溶いては赤子に飲ませた。大豆は体に合わず、粥にして口に含ませても赤子はすぐに吐き出した。
 一方、お末の方は、産後の日経ちが悪く、ふせりがちになっていた。しかし、元が働き者の性分である。
 「ゆっくり寝でろ」
 利助が言い置いて外に出ると、お末は利助が戸をまだ閉めぬうちに早くも起き出して働こうとする。
 十一月にもなれば、姫神山から吹き降ろす寒気はいっそう厳しくなり、外へ出るだけで頬が切れそうになる。
 赤子を産んだ直後の母親は、絶対に体を冷やしてはならぬのに、お末は冷たい水汲みをして余計に具合が悪くなった。根がじっとしておられない性分であるから、こんなことを繰り返しているうち、一月も経たぬうちにお末はほとんど寝たきりになってしまった。
 
 さて、二年続いた厳しい凶作のおかげで、真っ先に困ったのは村々の百姓たちというより、やはり町場の貧しい者たちである。
 百姓たちの収穫が乏しかったので、侍の俸禄を確保するために前の年の年貢は五公五民に上げられたのだが、例年の一割しか作物が実らないのであればやはり侍たちも逼迫する。侍が払う金に困れば、これを客とする職人や物売りたちは暮らしが成り立たなくなるのである。
もちろん、ここまで食料不足が逼迫すると、食物の値段も軒並み上がっていくわけであるから、銭が不足気味になるし、また銭を出しても食材は買えなくなっていく。
 世は大飢饉に突入しようとしていた。
 盛岡の城下でも、貧しい町民は乞食となり、ただ箸だけを腰に差して、家々の板戸を叩いた。
 「お願いでござります。一椀めぐんで下され」
 これを戸口で亡霊のように繰り返す。
 これに何がしかの食を与えないうちは、けして立ち去ろうとしない。命が掛かっているのであるから、わずかでも見込みがあると思えば夜通しでも唸り、泣き喚いた。
 「めぐんでけろー。めぐんでけろよー」
 しかし、戸口に立たれた家の方でももちろん食い物を分け与える余裕はなく、板戸を固く閉じたままじっとしている他はない。
 そのうち、真冬の寒さのせいで、外から食を乞う声は次第に小さくなってゆく。
 北上川の河原には、飢えて死んだ者の亡骸が目立つようになっていった。町人たちは道端で死んだ者の屍を片付ける余裕がないので、河原まで持ってゆき放り捨てたのである。
 天保四年の冬には、盛岡城下の報恩寺や東禅寺に窮民に施粥をするための救小屋が設けられている。しかし、十一月から翌年二月までの間に、東禅寺の中で餓死した者は実に二百四十人を数えた。境内で死んだ者がこの数であるから、救小屋に行き着けず道端や河原で死んだ者はいかほどだったのであろうか。

 「おとっつあん、ごめんなせ」
 天保五年三月の寒い朝、利助が外へ出ようとすると、布団の中のお末が消え入りそうな声で呼びかけた。
 「起きずに、きっと寝でおれよ」
 利助は振り返ってそう返し、外へ出た。
 道々、思い出してみると、お末は気丈な性格で、これまでただの一度も弱音を吐いたことがなかった。
 利助は何となく胸騒ぎがして、三町離れた農具小屋に着くと同時に踵を返し、小走りで家に戻った。
 表戸を開け、寝床に近寄ってみると、はたしてお末の体は既に冷たくなっている。
 利助はお末の亡骸の傍らに腰を落とし、腸を絞り出しそうになるほど咽び泣いた。
その隣では、赤子が何も知らず静かに寝ている。
 
 利助の赤子の名はお新と言った。暗い時世であったから、何か縁起の良い新しい名を付けようということで、この名にしたのである。
 お新は誠に小さな赤子で、息をしているかどうかもわからぬほど大人しかった。腹がすいても尻が汚れても、けして声を上げることがなかった。
生まれたばかりの赤子にしては静か過ぎることが却って心配で、利助は夜半に何度も目覚めてはお新の様子を確かめた。
 悪い夢も繰り返し見る。
 崖の下なのか、穴の奥なのかよく判らぬが、真っ暗闇の中へお新が落ちてゆこうとする。
 利助は、「けして落とすまい」と、両手を伸ばしお新を掴もうとするが、どうしても届かない。
 お新の顔は、闇の中にゆっくりと落ちてゆく。小さくなってゆくお新の顔を目で追いすがってゆくと、それはいつの間にか女房のお末の顔に替わっているのである。
利助は眠りながら、いつの間にか唸り声を上げている。
 この利助自身の呻き声で目が醒める。
 目覚めた利助があわてて横を向くと、それはまさに夢の中の出来事で、隣のお新は何事もなく眠っていた。
 静かに眠っているようでも、口の端に指を当てると、お新はペロペロと舌を出した。そこで利助は小豆粥をよく練って少しずつ口に入れてやった。
 半歳を越えても、お新はやはり大豆や蕎麦を全く受けつけず、食わせてもじきに吐き出したので、利助は米の粉を湯で溶いたものと小豆粥だけを交互に食べさせていた。食が細いせいかなかなか大きくなれず、いまだに三ヶ月かそこらの赤子に見える。
 お新は母親のお末に似て、子鹿のようなくりくりと大きな瞳をしていた。利助は娘の顔を見るたびに、己の身が溶けてしまいそうになるほど愛しく感じる。
 
 この年、村ではこの何年かの凶作を踏まえ、米作をできるだけ控え目にし、冷害に強い雑穀畑に力を入れることとした。利助の経験と知識を活かし、村人が総出で芦名沢の奥山の開墾も進めた。
 山で取れる木の実や山菜も熱心に集め、干した川魚も十分に備蓄した。余裕がある時には、十分に保存に耐えられる「めのご(昆布)」を皆が買い置くようになった。
 利助は、前の年の凶作で食い詰めた小作たちを引き受け、山屋や外山といった姫神山の周囲の山間に入植させた。ここでは弟たちが開墾に励んでいるし、まだまだ未開拓の山がふんだんにあったからである。山の斜面であっても、木を切り、雑草を焼き払えば、十分に蕎麦を植えられた。
 この年の天候は比較的安定しており、平年並みとはいかないまでも、この村の百姓が何とか飢えずに済む程度の作物は得られている。前の冬には、近在の村々でも小作が何人か飢えて死んだと聞くが、この年は村人たちにも少しだけ明るい顔が戻ってきたかのように見えた。

 この年の秋には、お新もようやく人並みに育ってきて、腹が空けば赤子らしく泣き騒ぐようになった。
 冬が来る頃には、利助は山屋の開拓から手伝いの小女(こおんな)を家に置くようになっており、赤子の世話はこの小女に任せられるようになった。小女はお末の従妹で名前はリツと言ったが、まだ十二だった。
 リツは頭の回転は幾分鈍かったが、それだけに却って利助の言い付けを固く守った。
 
 しかし、息をつけたのも短い間で、翌天保六年になると、二年前を髣髴とさせるような大凶作、大飢饉に転じてゆく。
 春から夏に掛けては、雨がいつまでも降り続き低温となり、作物が全く葉を出さなかった。 ようやく日が出始めたと思ったら、季節外れの台風が何度も襲った。その上、台風が収まった頃には、害虫が大発生し、乏しい作物を食い荒らしたのである。
 天保六年では、南部藩は二十万石の損耗となり、収穫は普通の年の二割に満たなかった。
 この年、村肝入の宗右衛門と利助は姫神山の山すその開拓に取り組んでおり、この村全体の戸数は六十五軒に増えていた。
 「おらほの村では絶対に飢え死には出さんぞ」
 そういった掛け声の下、宗右衛門と利助は、小作や開拓に対し一軒当たり四石三斗の稗を無利子で貸し出したので、村から一人の餓死者をも出すことはなかった。
 しかし、奥州道をわずか十二町ほど北隣にある巻堀村では、飢え死ぬ小作が何十人となく出ていた。かつて宝暦や天明の時代に、餓死者が多数積み重なったと言われる才津長根には、供養塔が建てられていたが、今回の飢饉でもこの塔の周りには餓死した者の亡骸がいくつも放置された。
 一方、馬場村一帯では飢饉対策が十分に行き渡っていたので、食料の備蓄は各戸で行われていた。中心部の馬場街は周囲からみれば高台にあったのだが、ここからは雑穀を炊く釜戸の匂いが絶えることは無い。
 飢餓が蔓延するにしたがい、釜戸の匂いに惹かれた近在の困窮民が次々とこの地に集まるようになった。
 「この子にだけでもめぐんでけらしぇ、めぐんでけらしぇよう」
 飢えた女が赤子を抱き、戸口に立っては夜通し泣き叫ぶ。ついに「ほいど(乞食)」は町場だけでなく郷村にも浸透するようになったのである。
 母子の泣く声に心を動かされ、「あも」などを少しでも分け与えようものなら、次の日は三人、四人と連れ立ってやってくる。
 しかしこれに一々応じていてはきりがなく、あっという間に自分の家の備蓄が尽きてしまう。
 このため宗右衛門は権現下に看板を立て、百姓の家の戸口では一切応じない代わりに、毎朝、この広場で粥を貧民に施すものと告知した。
 炊き出しは、わずかに残っていた権現様の山伏たち数人が行った。この時の炊き物は、雑穀にかなりの混ぜ物をして薄く溶いたものであるから、もはや粥とは言いにくい代物であったが、しかし何とかその場の飢えをしのぐことはできる。
 このため、戸口に立つ窮民はいなくなった代わりに、新たに十数人ほどが権現下に集まり窮民は二倍に増えた。
 窮民がいっそう集まるようになると、結局は十分に施しが行き渡らなくなる。こうして、本来の意に反し窮民と村人の双方に次第に鬱屈が溜まっていった。

 馬場や巻堀など沼宮内通り一帯でも厳しい飢饉にさらされていたが、さらに北部の野田通りの軽米や九戸地方よりははるかにまだましと言えた。
 ちなみに、「通り」とは南部藩独特の地方制度で、今で言えば地方管区にあたる。
 南部藩の北部は、そうでなくとも例年、厳しい寒さに襲われるのであるが、このような飢饉に至ってしまうと収穫は皆無である。作物どころか、何とか食えそうな雑草も生えない。家畜の餌すらもないわけであるから、牛馬も次々と飢えて死んでいった。
 もっとも、死にそうになる前に、家畜は殺して食ったはずではある。活きの良さそうな牛馬は真っ先に襲われるので、百姓たちは盗人に備えあちこちに棍棒を隠し置き、何をするにも必ず腰に鎌を差して外に出た。
 道端には、病気で倒れた牛が放置されていたが、飢えのため、ついにはこれにも手を出す者たちが現れる。このため、否応なしに疫病が蔓延した。
 「そんな按配だがら、ついには人を攫って食う者まで出るようになったんだでよ」
 塩商人の弥吉が利助に語る。
 弥吉は三陸の野田あたりから塩を、また軽米、大野から炭を交互に運んで売買するのを生業にしているのであるが、月に一度は海産物の取引のため盛岡にも出てくる。弥吉は普通の交易路を通らず、行きは品物を集めながら宮古を回って盛岡に向かうが、帰りは奥州街道を真っ直ぐ北へ帰る。
 帰り道では、渋民の宿場より泊り賃の安い馬場街で一泊するのを常としていた。商売のため幾度となくこの村を通るうち、自然と「立ち役」の利助とは面識ができていた。
 利助とは何かと話が合ったため、いつの間にか宗右衛門の宿ではなく、利助の家に泊るようになったのである。

芦名沢の北にある熊野権現
芦名沢の北にある熊野権現

 弥吉が来た夜は、二人で囲炉裏端に座り夜もすがら世間話をするのだった。
 弥吉は商売柄、北の地方の事情について詳しかった。
 「一戸からさらに何ぼか山越えた奥に入ると、一軒ごとに一人や二人は飢えて死ぬ者が出てるようだべす。道端にも屍が転がっているが、自分のことで精一杯だがら誰も片付けね。中にはまだ何ぼか息があるようなのもいて、眼も当てられねがら、そんなとこは急いで通り過ぎるのでがんす」
 ところが、周りがそんな状況なのに、村の中には大して痩せてもいない者がいて、そういう家に限って家人が皆一様に血色が良い。
 そこでその地の村役が不審に思い、その家を訪れてみたと言う。
 「奥には、若い女の屍が転がっていて、それを見てみると、何ともはあ、太股の肉が切り取られていたんだとよ」
 「キャッ。おっかね話だ」
 釜戸の前で火をおこしていたリツが身をすくめた。
 人喰いには、か弱い子どもが真っ先に狙われるため、おちおちと子どもを表にも出せなくなった。子どもは常に家の中に留め置かれるため、外で遊ぶ子どもたちの姿を見掛けることは、この地方ではほとんどなくなっていた。
 「他人事ではねえ話だべな。今や人でも取って喰わねばならねほど、食うものが無えのはどごでも同じだべ」
 人喰いは、遠い「北の方の話」として伝わったが、厳しい飢饉は格別その地方だけの話ではなかったのである。
 「何あっても、お新がら眼離さねようにせや」
 翌朝早々、利助はリツにきつく言いつけた。

 この馬場街では、秋口頃から、近在の窮民に加え、何処から来たか分からぬ乞食たちが、常に二十人近くも権現下にたむろするようになっていた。乞食たちは施粥では到底足りず、村人の目を盗んでは家に入り込むので、家の中には必ず見張り番を置いて、戸には突支い棒を当てておくようになった。
 田畑の作物も当然狙われる。
 収穫期どころか、まだ実が入っていない葉や蔓まで持ち去られる。とりわけ芋の類は残さず食用にできるため、既に夏前には畑から一切無くなっていた。
 米盗人は元々重罪であったが、このような飢饉に至ると刑罰はさらに厳しくなる。
殺人、強盗は問答無用であるが、穀物を盗む者も、露見の際は犯人の親族に告知した上で筵包みにし、川に投げ捨てることが黙認されるようになっていた。
 顔見知りでも厳罰となるのに、それが何処から来たか分からぬ者たちでは是非もない。
盗人が捕まった場合、その身を保証し、損害を補填する者がいれば命は助かる。しかし、もちろん窮民や乞食にそんな保証人などいようもない。
 宗右衛門は、窮民たちを集め、施粥をこれまでどおり続ける代りに、もしこの中から盗人や強盗が出れば、他村と同様に厳しく罰すると申し渡した。
 村人も浮浪者たちも、その日その日が命掛けの毎日だったのである。

 「あにさん、大変だ。江刈の重吉が賊に襲われたらしい」
 十月七日の夜になって、弟の甚五が家に飛び込んできた。
 「たまたまさっき本家に寄ったら、沼宮内の炭商人が来てで、そう言っとった。今日の昼のごとらしい。重吉の家人は、もう向こうに行ったそうだど」
 提灯を持ち、甚五と連れ立ち大急ぎで外へ出る。何年も続く飢饉のため、馬継所である馬場街にも馬は数頭しかいなかったが、火急の事態でもあるため、宗右衛門は快く荷馬車を出してくれた。
 痩せ馬の引く荷車に、五人が乗ったので、目指す家に着いたのは夜半になってしまった。
 重吉の家では、中庭に村人が十四、五人ほど集まっていたが、利助たちは挨拶もそこそこに中に入った。
 勝手口から板間を過ぎ、家人に案内されるままに床の間に入ると、そこには顔に布を被せられた仏が一体寝かされている。
 家人や縁の者たちが、周りを囲んで頭を落としていた。
 布を持ち上げてみると、果たしてそれは幼馴染の重吉である。
 「なしてこんなごとになったのや」
 利助が尋ねると、この家の婆が泣き声交りに、ボツボツと語った。
 
 昼前にたまたま重吉が家に戻った時、戸口に薬売りが立ち、中の子供と押し問答をしていた。この時、家の中には、まだ十歳の子供と婆の二人だけがいた。
 商人が戸口で声を掛けた時、そばにいたのは子供の方であった。
不穏な世情でもあり、子供はやはり「誰が来ても戸をけして開けぬように」と言われていた。このため、開けろ開けぬの押し問答になったのである。
 これを見た重吉がどうしたのかと尋ねると、商人は置き薬を確かめにきたのだと重吉に言った。
 「いつもの人はどうなさっとるの」
 夏ごろから臥せっておりまする、と薬売りは答えた。
 そこで重吉は中の子どもに声を掛けた。
 「おい、戸を開げでくれ」
 その声を聞き、子どもはつっかい棒を外した。
 「さ、中に入ってけろ」
 重吉は先に立ち、敷居をまたぎ中に入ろうとした。
 その時、薬売りは隠し持っていた包丁で、何も言わず後ろから重吉の背中を刺したのである。
 うっ、と一声漏らし、重吉はその場に倒れた。
 商人は、薬売りに変装した強盗であり、この土地で最も裕福そうな重吉の家を狙ったのであった。
 「食い物と金目の物を出せ。早く出さねば餓鬼を殺す」
盗人は婆に向かい、声を落として言った。
 婆がただオロオロしていると、強盗はまず釜戸近くの穀物袋を取り戸口に置き、次に中に掛け入って箪笥から手頃な着物を数枚選び、持参した風呂敷に包み込んだ。
 「少しでも騒げば、戻ってきて殺すぞ。ここに入ってじっとしておれ」
 婆と子どもを納戸に閉じ込め、盗人は急ぎ出て行った。
 家人が家に戻りこの変事に気づいたのは、ようやく夕方近くになってからだった。
 近隣の者が総出で辺りを捜索したが、盗人は遠くへ逃げおおせた後である。
 こんな事件は、いまや南部領の各所で頻発するようになっており、役人の取り締まりはもはや及ばなくなっている。犯人を探し出すことなど、もはや不可能なことだった。
 利助はかつての幼馴染で、共に芦名沢の開墾に携わった重吉の葬式を、身内の者だけでひっそりと出した。
 さて一方、南部盛岡藩もこの年の夏を過ぎた頃から、何年も続く不作や飢饉に対処するために、ようやく様々な策を発令し始めていた。
 収穫がいつもの年の一割、二割という年が続いたなら、その半分を年貢として徴収しても、所詮たかが知れている。俸禄の少ない下級武士であればなおさら影響は甚大で、既に食い詰めて辻斬りを働く者も出始めていた。

現在の芦名橋
現在の芦名橋

 貧しい町人は元より次々と餓死しており、また生産者である百姓たちの中からも土地を捨て、都会を目指し「欠け落ち」てゆく者が増えていた。
 収穫が全く見込めないからには、土地にしがみついていても死ぬのを待つだけである。盛岡や仙台に出れば、駄賃の貰える仕事にありつけるかもしれない。あるいは海岸に出れば、昆布を拾うなどして生き長らえることができるかもしれない。
 実際には、盛岡の城下でも、餓死する者が多数出ていたのであるが、土地を捨てて欠け落ちる百姓たちはもちろんこのことを知らなかった。
 そうは言っても、百姓が土地を捨て、村を離れるのはもちろんご法度であり処罰の対象となる。
 自分の属する五人組から一人でも「欠け落ち」百姓が出れば、残った者は連帯責任を問われ、さらなる重税を課せられた。
 侍も、町人も、百姓も、それぞれがのっぴきならない苦境に立っていた。
このような事態に至り、いよいよ領民の不満がいつ何時、藩に向けられ、反乱や一揆として爆発してもおかしくない、と考えられた。
 この対策として藩が最初に行ったことは、「津留」である。
 「津留」とは、領内の穀類が他領に流出しないように、関所での荷物改めを徹底し、禁輸するというものである。この場合、もちろん他領からの穀類の持込は許される。また通行する旅人を調べ、芸人、役者、無用の者はここで追い返した。領内には食料が払底していたので、これを消費する者はなるべく少ない方がよい。また、これらの者はいつ何時、盗人に転じるかわからなかった。
 しかし、この令はあくまで建て前に過ぎない。荒れ果てた南部領に入って来ようとする者がそんなにいるわけがなく、また飢饉にあえぐ領内から持ち出すことの出来る穀物もあるはずもない。
 この令の本当の狙いは、村々の労働力をさらに低下させる「欠け落ち」の防止にあり、逃れ出ようとする百姓を押し返すというものであった。百姓を働かせねば収穫は上げられず、年貢を集めようにも集められなくなるからである。
 一方、村の戸数改めも徹底に行なわれた。百姓の人数の確認は元々は村役に任されていたのであるが、まず役人が村の隅々まで廻って実際に確かめるようになり、さらには代官自らが巡検して人数を確認するように改められている。
 藩が次に行ったのは、富裕層への課税である。経済の激変期には、富める者はさらに富み、貧しい者はさらに貧しくなっていくのが常である。富農、豪商は金貸しに手を染め、法外な利子を得ていたばかりでなく、返済できぬ者たちから容赦なく耕地を取り上げ、あるいは質者奉公人とすることによって安価な労働力を得ていた。質者奉公とは、金を返す代わりに一定期間の労働で肩代わりすることである。この結果、一般の領民は次々と餓死していたのにも拘らず、豪商たちの蔵には穀物が溢れるように詰め込まれていた。
 侍がこれに目をつけない筈はない。豪商たちには様々な名目で御用金を申し付けた。
 また、「米価の高騰を防止する」という名目で「囲い置き」を禁止した。「囲い置き」とは、必要な食料以上の穀物を隠し置くことを指すが、これを行う者を摘発し、悪質な者に対しては備蓄の穀類を徴発できるように定めている。
 この令は主に富農や中規模の商人を念頭に置き、彼らから物資を合法的に取り上げるための策である。しかし、これをあからさまに行ったのでは、不満が爆発しかねない。このためなるべくこれを粉飾し、表立って異を唱えることができないような工夫もされた。
その工夫とは、天保六年十月に近江屋市右衛門に命じて発行させた七福神藩札である。
 これはいわゆる悪名高い「盛岡切手」のことを指すが、札とは名ばかりの、銭との交換を認めない空手形であった。
 手口は極めて簡単で、ある日突然、役人が富農の下を訪れて蔵を封印し、中を改める。その上で、「領民の救済のために、大半の穀物を買い上げる」と宣言する。確かに代金は支払われるが、銭でなくこの藩札で渡されるのである。この時、藩は課税するのでも、取り上げるのでもなく、あくまで「買い上げる」ことになる。
 金種は紙に書かれていても、銭には替えられないのであるから、実質的にはただの紙切れに過ぎない。紙幣としての流通はもちろん無理で、領内の商人は悉く受け取りを拒否した。
 ただし、不平不満の矛先を変える抜け道も同時に準備してあり、唯一、盛岡城下の質屋ではこの藩札の受け取りを拒否できないと定めた。このため、この札は質屋に殺到し、何ヵ月か後には盛岡中の質屋が悉く潰れる事態となった。
 世相はいよいよ混迷を極めてゆく。
 百姓の中には、藁を刻んで食ってみる者も出てきた。しかし、もちろん人が藁を消化できる筈もない。本来これを食わせるべき牛馬は、既にほとんどいなくなっていたので、何か食料として利用できないかと苦心した挙句の所為であろう。
 ここに来て犯罪も激増してきた。
 飢えて死ぬか、食ってから死罪になるかを天秤に掛ければ、答えは自ずから明らかである。
 盛岡の城下においても、侍、町民、百姓を問わず、窮民は多く暴徒と化した。盗みを働き、家々を打ち壊し火を放つといった事件が続発するようになった。

 一方、領民のための飢饉救済策としては、既に天明の飢饉の後に「御荒蔵(備荒蔵)」が設置されており、ここに穀類を備蓄するのが制度化されていた。しかし、天保三年の飢饉の折にその大半が放出されており、その後、三年間の計画をもって蔵への詰め戻しが試みられていたが、打ち続く不作と飢饉のためにそれも叶わす、天保六年の飢饉の際に備蓄されていた穀物はさほど多くなかった。
 救民のためとはいえ、最後の砦であるこの備荒蔵を開けて食料を配分する頃合いを見極めるのはかなり難しい。
 明けて天保七年の春に、当時の沼宮内代官・獅子内和馬はついに当地の備荒蔵を開け、管内の百姓一人につき二升五勺ずつを配分した。獅子内はこの地で次々餓死してゆく百姓たちの姿を見るに見かねたのである。  
 とはいえ、飢えをしのぐには明らかに些細な量である。何人の百姓を、どれだけの期間延命できたのかは推して知るべしと言うところだろう。
 しかし片や獅子内の方も、当地の代官として腹を括ったうえでの蔵開けである。
 南部領内でいち早く「救い米」の放出という決断を下した獅子内は、その一月後にはすぐに代官を罷免されている。すなわちそれは勝手に御蔵を開けるな、という藩による明確な意思表示である。
 要するに、藩の重臣が考えていたことは、まずは侍の食い扶持を守る、ということだけであったのである。このような教訓をふまえ、この後に任命された代官たちは、救い蔵を開けることを極力避けるようになった。

 さて、この頃には、娘のお新は二歳半に達していた。最近ようやく口を開くようになり、利助のことを可愛らしく「とっちゃ」と呼ぶ。しかし言葉を発するのはまだそれだけである。
 利助が、押入れの奥を整理していると、見慣れぬ葛篭が一つ出てきた。開けてみると、何やら布が一括りもきつく結んである。ほどいてみると、大きさの違う着物が何枚も入っていた。
今は亡き女房のお末は、この子を孕んでいる時、赤子のための着物を仕立てるなどして産後の準備をしていたのだ。そこにはいずれ三歳頃になったら使うだろうと、お手玉なども一緒に入れられていた。
 お末の死は極めて唐突であったから、このような仕度のことを利助に伝えることもできなかったのだ。
 利助は娘のために一枚の着物を取り出し、葛篭をまた奥に隠した。
 次にその脇の、これまた几帳面にたたんであった妻の着物を取り出してみる。
 顔を埋めると、まだお末の匂いがした。
 お末のことを想い出すと、今でも胸がきりきりと痛む。
 この時、利助はお新と一緒に、亡き妻の着物にくるまって寝た。
 利助はいつも娘のお新の隣で寝ていたが、やはり夜半には必ず一度目が醒めた。灯を点けて隣を見ると、眠っているお新の顔は死んだ妻に生き写しである。
 頬を触ってみると、赤子の肌はすべすべで、真綿のように滑らかである。
「何としても、この子だけは」
 たとえどんなことが起きようと、己の命に替えこの子を守ろう、と利助は改めて心に誓った。
 
 一方、この天保七年において、南部藩の当主・利済が腐心していたことは、豪奢な御殿の建築である。まずは不来方城内の大奥に広壮な御殿を建築し、三階を「長生楼」と名付けた。また新丸を破壊し、ここに離れを建て、「広小路御殿」と「清水御殿」と名づけている。さらには城下大沢川原にある菜園を潰して遊園地を作った上に、あきれたことには盛岡近郊の津志田に江戸吉原を模した遊郭まで建てている
 当然のことながら、家老たちは「このような時節に不穏当ではないか」と口を揃えてこれを諌めた。しかし利済は、「この飢饉で領民たちが困窮しているから、敢えてこのような工事をしているのだ。民に米穀や銭をただ与えては怠け癖をつけ却って害となる。そのため民を働かせて銭を給える為に工事を起こしたのだ」と答えた。
 利済は幼少の頃から学問に長けていたので、小理屈を並べるのは得意だったのである。
 無意味な御殿建築や造園を行う一方で、藩主は家臣に対してはこう主張した。
 「改革なくして発展なし」
 飢饉の際、心掛けねばならぬのはとにもかくにも倹約である。窮乏の折、さらに切り詰めるのは難しいが、痛みを伴う努力をもってすれば藩の財政は必ずや改革できよう。
 あまりの言行の不一致さに、これを漏れ聞いた町民のみならず家臣の多くが、この主君のことを半ば公然と「うつけ殿」と呼ぶようになるまでは、さほどの時間は掛からなかった。
 領民の「生き死に」が掛かっているまさにその状況で、藩主がこの体たらくでは是非もない。
南部藩の寺社奉行大矢勇太は、諸寺における救小屋の実情を目の当たりにしていたので、領民の窮状がもはや差し迫った段階に来ていることを、もちろん熟知していた。このため、場合によっては詰め腹も切ることを覚悟したうえで、藩の財政危機を案じた諫言書を利済に対し上申している。
 しかし、利済はその上申の書に対し、侍としてあるべき原則論を持ち出し、一々反論している。幼い頃から江戸に住み、南部領の事情に疎いこの君主は、危機の意識を全く持ち合わせていなかったのである。

 さて、ここで沼宮内通りの状況に話を戻す。
 天保七年は旧暦四月半ばに東風が吹き始めたが、その後は驟雨が続いたので、ほとんど日が出なかった。六月になっても、著しい冷気のため稲穂は全く出穂を見せなかった。七月ごろになって、ようやく穂が出るには出たが、結局のところ実は全く入らなかった。
 秋に交替した、沼宮内の新任の代官は小栗兵庫と言った。名字で察せられるとおり、元は南部の出ではない。歳は三十三歳とまだ若いが、南部家と近しい関係にあった水戸藩の下級武士で、数年前に新たに召抱えられた者である。諸法護持に極めて厳格であると噂されていたが、この飢饉の中、短い間で出世したということは、要するにそれだけ民からの取り立てが厳しかったということである。
 着任早々、小栗は当年の作柄の見通しが暗いことを踏まえ、代官所管内における「囲い置き」の禁令を強化することを改めて宣言した。管内の困窮民救済のために、穀物の備蓄のある者はこれを進んで差し出せ、隠し置く者は容赦なく摘発し、穀物を没収すると言うのである。この年の一月に七福神札は預り切手との交換を宣言されていたが、やはり銭としての実効性は乏しかった。もはや「お買い上げ」の建前もどうでもよく、形振り構わず次々と徴発だけを行うようになったわけである。
 しかし、飢饉に備えての備蓄と、私利私欲のための「囲い置き」は、これを隔てる境界線が曖昧である。このため、管内から三人以上の訴えがあった時にこれを吟味する、というように取り決めた。半ば言い掛かりに近いような取立てであるから、後のそしりを免れるために根拠を仕立てたというところであろう。
 また一方で、この「囲い置き」をする富農を密告した者には、一定額の報奨金を与えるものと定めてもいる。
 新任代官の小栗としては自分の力量を知らしめるという意味もあったのだろう。「囲い置き」の摘発には、代官自ら陣頭で指揮を執った。

 馬場街では、まずは宗右衛門の蔵が標的になった。
 発端は、権現下に留まっていた食い詰め者の讒言である。
 曰く、馬場街では不作の際に乞食たちに施粥を行えるほど、穀物を溜め込んでいる。領内では有数の寺でしか行っていない施粥を、この馬場街では早くから自主的に行っているのは元々相当な余力があったことの証である。これは、本来救い米として差し出すべき備蓄穀物を隠し通すための隠れ蓑であろう。村の百姓たちには穀物を貸し出しているが、これで高利を得るのが本当の目的である。
 これを口々に言い立てたが、飢饉の中、何としても租税を集めたい役人にとってはもっけの幸いであった。
 この訴えを受けて、宗右衛門の家を二人の役人が訪れた。代官が水戸から連れてきた腹心の片桐兵衛と島之内右近という侍である。
 唐突に現れた二人の役人は、まずは宗右衛門の蔵に直行し、これに封印を施した。仮にこれを無断で剥がすと重罪に処せられるのは言うまでもない。
 翌朝早々に、もう一度代官と役人十有余人が揃ってやってくる。
 中庭で平伏する宗右衛門の家人を尻目に、片桐と島之内は蔵の封印を解いた。小役人たちが中の穀物を外に出し、これを勘定役が一々数え上げてゆく。
 この時、周りにいた見張り番の役人たちは、宗右衛門の顔がまともに見られず、皆眼を伏せていた。何年かこの地にいれば、宗右衛門が近在の村々まで人格者として知れ渡っていることは、重々承知している。隠し蔵の嫌疑は、所詮は言い掛かりに過ぎない。
 遠巻きに見ていた当地の百姓たちは、うろたえながら事態を見守っていた。
 自分たちが困っている際に、幾度となく宗右衛門に助けてもらった経験があるからである。
 穀物の検量が終わると、代官の小栗は懐から書状を出し、「禁令に従い、家人一人に三石の稗を残し、他は召し上げる」という文言を短く読み上げた。
 これには異論も弁明も認められなかった。何と言おうと、穀物の没収、徴発は最初から定められていたのである。
 宗右衛門も家人も、役人たちの所業をじっと見守る他に術はない。
 穀物蔵からは大半の備蓄が運び出され、中はほとんど空になった。人足たちは黙々と俵を荷車に積んでいくので、荷造りが終わるまでの時間はわずかであった。外へ出てゆく荷駄を見送りながら、中庭の男衆は皆下を向き、女たちは泣き崩れた。
 宗右衛門は家の中に戻ったが、何も言わず縁側に座ったままであった。
 あまりに落胆した宗右衛門は、間もなく病に罹り、一ヶ月の後には病死している。

 結局のところ、権現下の乞食たちは、これまでの施粥の恩を感じるどころか、仇で返すことになった。さすがの利助もこの時ばかりは腹を立て、権現下での施粥を止めるものとした。もっとも、いずれにせよ宗右衛門なしでは施粥を続けられるはずもなかった。
 また村人たちにとっても、何かと迷惑の種である窮民、乞食たちがいなくなってくれれば幸いである。このためこれを機会に、窮民、乞食は馬場街から追い払うものとすることに村人たちの異論は全く出無かった。
 村人は総出で、権現下の救い小屋を撤去した。
 冷害のため、蝉も全く鳴かぬ天保七年の秋口のことである。
 間もなく秋も深まり、この年の米の収穫がほとんど見込めないことが知れてきた。
 しかし、利助の周辺では、この何年もの間、荒地の開拓に取り組み冷害に強い雑穀の増産や山の産物の備蓄を心掛けてきたため、この冬をどうにか生き延びられるだけの食料は確保できていた。
 利助の周辺では飢饉対策が功を奏していたが、一方、近在の村々ではもちろんそうではなく、このため傍からみるとこの村だけが周りから浮き上がって見えたはずである。

芦名澤の祠
芦名澤の祠

 利助は姫神山麓に散らばる開拓の家々を訪問し、各戸の指導に当たったので、芦名沢に戻るのは、どうしても夕方か夜になってしまう。
 この夜、いつものように暗い夜道を歩き、ようやく自分の家に近づくと、「ギエッ」という叫び声が中から聞こえた。
 慌てて駆け寄り、戸口から中を覗くと、小女のリツが土間に倒れている。
 リツの右の肩口と首の間には、鎌が深々と突き刺さっていた。
中へ入ると、竃の陰には薄ら汚れた風体の乞食が二人しゃがみ込み、雑穀雑炊を鍋から手掴みで食っている。
 利助が近寄っても、二人は背後の気配に気づきもしなかった。
 利助は黙ったまま戸口に戻り、端に転がっていた用心棒を拾って踵を返した。それから、一心に食い続ける乞食たちに近寄り、渾身の力を込めこの棒で乞食たちの頭を打った。
 あたかも餓鬼のような風体の乞食たちは、全く抵抗することなく順番に打たれては、ことんことんとその場に倒れた。
 乞食たちが気を失ったのを確認した後、利助は外に出て、軒先に吊るしてあった鐘木を叩き鳴らし、村中に異状を知らせた。
 それから急ぎ土間のリツのところに戻ってみると、既に小女は虫の息である。
 「大丈夫だか。しっかりせ、リツ」
 リツは何か言いかけたが、それも叶わず、手足をただぶるぶると震わせている。
 もはやこれは助かるまい、と利助は直感で感じ取った。
 リツを板の間に横たえ、急いでお新を探した。
 仕切り戸を開けてみると、お新は奥で子供らしく両手を拡げ眠っていた。幸い凶事に気づくことなく、始終眠ったままだったのであろう。

 小女は朝を迎えることなく、あっさりと死んでしまった。
 翌日の昼過ぎに、村役が集まり盗人の沙汰を相談したが、盗みに加え人に危害を加えたのでは、決まりどおり川に流す他に選択の余地はない。
 盗人二人には、最後に一椀ずつ粥を食べさせた。
 「有難どございます」
 村人の間に座らされた盗人たちは、何を思ったか地面に頭を擦りつけながら、口々に礼を言っている。
 利助と村人三人で、村はずれの甚平坂まで筵巻きの盗人二人を荷車で運んだ。そこで改めて盗人たちの筵に石を詰め込み、坂の上から北上川に放り捨てた。
 こんなことがあった後、利助はお新を背負うか、荷車に乗せて外に出るようになった。
 
 さて、これより先、飢饉の影響が甚大であった北部の八戸南部藩では、既に天保五年の飢饉の時に飢餓と年貢に耐えかねた百姓たちが一揆を起こしていた。相次ぐ飢饉で飢餓が頂点に達したこの天保七年の年の暮れには、盛岡領の花巻、大迫の百姓たちが一揆を起こし、数千人が城下中ノ橋まで押し寄せる事態となった。
 盛岡藩の領内全域の村々が、いよいよ最悪の状況に向かいつつあったのである。

 一方、沼宮内通りでは、どこからともなく一つの風評が立つようになった。
 芦名橋下の水汲み場では、毎日のように雑穀を洗う音が聞こえる。ご禁令を無視して、米や雑穀を隠し置き、己たちだけ贅沢三昧しているのだ。
 川に流された盗人の仲間が利助たちを恨みに思ってそう讒言したのかもしれす、またあるいは、飢餓を抱えた者たちには実際にそのようにも聞こえたのかもしれないが、事の仔細はわからない。
 芦名橋の下には、沢目川が実に清涼な音を立てて流れており、それはあたかもサワサワ、ショリショリと豆を研いでいるように聞こえる。所詮はただの小川の浅瀬の音であるが、妬み、嫉みの念はその音をねじ曲げる。
 それから間もなく、直々に代官所に訴え出る者が現れた。「隠し蔵」をいち早く報ずれば報奨金をもらえるが、そのためには他の誰よりも先に訴え出なければならないのである。
宗右衛門の時、密告した数人の食い詰め者には各人に稗一石と褒賞金鉄銭一貫文ずつが下賜されている。
 過去に味を占めていたから、おそらくは同じことを試みようとしたのであろう。
 噂の真相を質すため、役人の片桐と島之内が、周囲の数軒をそれとなく訪れた。
 次に何名かを代官所に呼び出し、代官が自ら厳しく問い詰めた。
 「事の仔細をはっきりせねば、この馬場街の村人総ての備蓄穀物を取り上げるぞ」
 食料を総て取り上げられてはたまらず、近在の者たちはついには芦名橋下の利助のせいにした。
 村人にとっても、まさしく生きるか死ぬかの瀬戸際だったのである。
 馬場街では、他の村よりかなり早くから施粥が行われていた。
 この施粥は、専ら宗右衛門と利助の提供するものであったので、他村より余裕があったというのは、ある一面で事実と言えないこともない。
 翌朝早々に、果たして代官の小栗を筆頭に役人たちが揃ってやってきた。
 今度の探索は、宗右衛門の時より数段厳しいものだった。
 母屋の各部屋、穀物蔵や小屋を改めただけでなく、床板を引っ剥がし床下まで捜索した。
 密告者が声高に示していた蝮岩の穀物蔵も同様である。

 この探索には昼までかかったのであるが、発見された穀物はそのすべてが屋外に出され、代官によって一々検分された。
 「この他に隠し置いてあるものはないか。包み隠さずに申し述べないと、留保分も取り上げるぞ」
 型どおりの質問である。利助にとっては、食い物を隠している心積もりは端から無いわけではある。このため利助は、しばし呆然とした。
 「有るか無いかと尋ねて居るのだ」
 小栗は重ねて尋ねた。
 「決して、ございませぬ」
 慌てて利助は答え、平伏した。
 「では今一度、確かめるものとする。者ども、かかれいっ」
 小役人たちはまたもや総出で家中を探し始めた。
 今度は、蕎麦殻の入った枕を見つけると、これを開けその中身を確かめることまでした。
程なく、一人の役人が急ぎ戻ってくる。手にはお手玉が四個抱えられていた。
 果たしてそれは、女房のお末が娘のために作り置いたものであった。
 小栗は、そのお手玉を少し握ってみて、ひとつ一つの感触を確かめた。
 「フン」
 鼻を小さく鳴らした後、板の間にそのお手玉を落とす。それから小栗は刀の柄から小柄を抜き、次々と突き刺した。
 お手玉の中からは小豆がばらばらとこぼれ出た。
 「どうせ他にも隠しているであろうから、これも持ってゆけ」
 代官は小役人に命じこれを拾わせる。
 それから利助に向かい、声高に言い渡した。
 「米穀の隠し置きは一切ご法度である。これだけ触れを出しているのにも拘らず、お上にあからさまに逆らうからには、本来死罪にされても仕方のないところであろう。ただし、これまでの山の開拓の功に免じて、今ここにある九分七厘を召し上げる代わりに、改めて罰しはせぬ」
 一切の申し訳は許されなかった。
 抗弁すれば、今度は役人に刃向かった角で、罪に問われることになるであろう。
 役人が立ち去った後、家の前に残されたのは、「あも」が一俵と、稗、大豆が各々一袋だけであった。

 その後、三月が経ち、天保八年の春に差しかかろうとした頃、利助の家ではいよいよ食料が尽きようとしていた。
 近在の村人は、自分たちが結局は讒言に加担してしまったことを申し訳なく思ったのであろう。徴発の直後は、たまに利助の家の戸口には雑穀がひとつかみずつ袋に入ったものが置いてあることもあった。村人の多くはやはり自分たちの所業が後ろめたかったと見える。 
 しかしその一方で、表から利助を訪ねる者はすっかり途絶えてしまっていた。
 この数ヶ月は厳寒期でもあり、村人は一様に家に閉じこもる。春が来た頃には、利助の家への置き穀も既に無くなっていた。このため、利助は何らの食材をも調達できず、親娘は飢えに飢えた。

 お新は赤子の時から大人しい娘である。
 「とっちゃ、腹が空いたよ」
 昆布の汁を飲む毎日が続いていたので、育ち盛りのお新には到底足りない。お新は徐々に弱り、最近はいよいよ床に臥すようになっていた。
 時折、布団の中で細々と泣く声がするが、それもわずかな間のことで、一日の大半、お新は寝たままの状態になった。
 利助は近在を駆けずり回っては食を求めた。しかし、春先になると、飢饉の明けでもあり、百姓が他家に食料を回す余裕は無くなっている。
 利助が声を掛けても、乞食たちが家々の戸を叩いた時と全く同じように、どの家も固く戸を閉じたままであった。
 利助はお新のために、かつての成功者の体面をかなぐり捨て乞食となり、毎日食い物を求め村々を歩いた。
 その日も近在の戸を叩き叩き、やっとのことで小豆粥を一杯分けてもらうことができた。
 急ぎ家に戻り、お新の床へ駆け寄る。
 利助は少しずつ粥をすくっては娘の口元へ運んでやった。お新は赤子の時と同じように、舌を小さく出しては粥を舐める。
 しかし、それも三口ほどで止まり、お新はまた気を失ってしまった。
 翌朝、利助が目覚めると、隣のお新はうっすらと目を開けて利助を見ている。
 「とっちゃ」
 母親のお末が死んだ時と同じに、細く消え入るような声で言った。
 さぞや苦しいのであろう。しかし、娘に与えられるものは、もはやただの一粒も残っていない。
 お新はそのまま気を失い、翌日の夕方、静かに息を引き取った。
 利助はお新の隣に横になり、まずは手ぬぐいで娘の顔を丁寧に拭った。それから、長い時間を掛けて、髪を梳かし整えた。改めて、お新の頬を撫でてみると、すべすべだった頬はすっかりやせ細り、顎が尖っていた。
 利助の悲痛は深く、もはや一粒の涙すら出なかった。

 それから数日後のこと、代官が馬場街を通る日が来た。四月の半ばとなり交替の時期が来たので、盛岡へ帰るのである。
 利助はこの日も従前のとおり、お立ち役として代官一行を迎えた。
 この半年で、代官の小栗は、囲い蔵の摘発を何件も行い業績を上げた。このため、城下へ戻れば間違いなく出世が待っている。
 馬上の小栗は、頭を高く掲げ、誇らしげな顔をしていた。
 芦名橋の上を代官一行が通り過ぎようとするまさにその時、傍らに立っていた利助は後ろ腰に隠し持っていた鎌を抜き、馬上の代官に斬りかかった。
 気配に驚いた馬が立ち上がったので、鎌の刃先は小栗の胴には届かず、わずかに左足を二、三寸ほどかすっただけであった。
 小栗の供についていた片桐と島之内の両名は、いずれも手練の侍である。二名はすぐさま刀を抜いて応戦し、各々左右から利助の胴を斬った。
 利助は交互に一太刀ずつを受け致命傷を負い、その場に崩れ落ちた。
 左胸と右のわき腹からは、血がどくどくと噴き出してくる。
 頬に当たる草の匂いを感じていたのはごくわずかな間で、利助はすぐに気が遠くなっていった。
 次第に暗くなっていく利助の眼には、妻のお末がお新を抱きかかえ、芦名橋のたもとに立っている姿が映った。
 春の明るい日差しの中、妻も娘も利助に向かって柔らかく微笑んでいる。
 妻子の影に向かってわずかに手を伸ばしかけ、そこで利助はこと切れた。

 数日後、百姓が役人を傷つけたかどで、芦名橋の袂にあった利助の家も焼かれることになった。これには当然のことながら、見せしめの意味も含まれている。
 片桐と小役三人が火つけ役で、めぼしい家財を徴発・没収した後、夕刻になって四方から火の手が掛けられた。
 この夜、芦名橋の袂には、ひときわ大きな火柱が上がった。
 村人たちは、利助の屋敷が焼けていくのを、遠巻きに取り巻いて眺めた。
 家屋敷のすべてが焼け落ちるのには一とき半ほどの時間を要した。
 こうして、利助とお末、娘のお新の三人が生きた証は、煙と共にすべてが灰燼と帰した。
 
 一方、かすり傷であったはずの代官も、鎌の鉄錆から毒が回ったのか、一月後にはあっけなく死んだ。後の世で言う破傷風に罹ったのである。
 このような凶事が起こってから程なく、芦名沢ではどういうわけか沢目川の水量が著しく減じ、田畑に水を引くことすらできなくなった。
 芦名沢に広がっていた田畑は、大半がまた再び昔の荒地に戻ってしまった。

 南部領北部の飢饉は、断続的ではあるが、その後三年間続いた。
 村人の間で奇妙な話がささやかれるようになったのは、飢饉がようやく一段落した天保十二年頃のことである。
 夜半に、芦名橋の上を通り掛ると、橋の下の方でなにやら人の気配がする。
 何者かが水汲み場に居り、雑穀を洗っている。その者は、ザルに入れた雑穀を洗いながら、しわがれ声で歌を呟いていた。
 「小豆とごうか、人とって食おうか、ショキ、ショキ」
 不審に思い、橋の上から覗き込んでみると、そこには誰もいない。
 こういった不審事が何度も起き、通行人から幾度も問われるので、村人が夜半に数人連れ立って橋まで確かめに行ってみた。すると、やはり皆の前でも同じように聞こえてくる。 
 この者たちは、大急ぎで村役の家に走り、事の仔細を報告した。
 芦名沢の水量は、この頃ではかなり少なくなっており音も小さい。けして聞き間違いではなかろう。
 「よほど強い怨念を抱えているとみえる」
 村人は、利助の事件の顛末を思い出し、誰もが深く戦慄した。
 そこで、村の主だった者で相談し、通行人を驚かすこの妖怪を鎮めるために、小さな祠を建てることとした。
 祠を建て、供養を続けているうちに、妖怪は次第に出現しなくなっていった。

 しかし、芦名橋下で小豆を洗う妖怪の話は、奥州道を行き来する商人たちによって、南部領を越え日本中に広がった。日本各地の街道筋に同じような伝承はあるが、その大元は人喰いに至るほど飢饉で苦しんだ南部領であり、またさらにこの芦名沢がその発祥である。
 「小豆洗い」は、小川のせせらぎの音が小豆を洗う音に聞こえるほど、飢饉で飢えた人々の無念の思いが込められた、かくも悲しく哀れな妖怪であった。

 芦名橋の傍らには、この時に建てられた小さな祠がひっそりと佇んでいる。
 飢饉で死んでいった数多くの名も無き民の霊を慰めるこの祠には、昔を伝え聞く古老たちによって、今も供物が絶えることはない。 (了)    

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