九戸戦始末記 北斗英雄伝

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三戸・上方連合軍のあらまし

羽柴秀吉         ”黒眼2つ、手指6本の悪鬼”


 異形の天下人。天正末期に弟が死んでからは、常軌を逸した行動が際立つようになる。
 小田原攻め以後に秀吉が行った殺戮の数々は、これまで多くを語られることがなかった。
 しかし、人々の抱く秀吉像の大半は、江戸時代以降に作られた虚像である。
 本作で採用した秀吉の異形伝説は次の通り。

羽柴秀吉(橋本時浩画)
羽柴秀吉(橋本時浩画)

◎指が6本
 秀吉の右手の指が6本あったことは、前田利家の残した書状に記されている。当時としては、それほど奇異なことではなく、幼少のうちに1本を切り取ったとされるが、秀吉はそのままであったようだ。
◎黒眼が2つずつ
 東北地方の口承伝説としていくつか残っている。「黒眼が2つずつ」は片眼の中にはっきりと2つが分かれた状態で存在するのではなく、二重に重なったもの。要するに、眼の中心点が2つあるということである。
 地縁的血縁関係が濃く、遺伝形質に異常が生じたものであろうと考えられる。
 もちろん、改めて言うまでも無く、殺戮者たる秀吉に殺された者たちの恨みが形を変えたものかもしれない。ただし、これも当時としては実際に散見されたものらしい。

上方による九戸征討軍

羽柴秀次(24歳)  :秀吉の甥。初め三好家に養子として入ったが、後に秀吉の後継となる。九戸戦の際には三迫まで来た。

浅野長吉(45歳)  :後の長政。浅野長勝の娘のややの婿養子として浅野家に入る。長勝の養女ねねが木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉の姻戚として厚遇される。

蒲生忠三郎氏郷(36歳)  :元は織田信長に仕えたが、その死後、秀吉に臣従するようになった。かつて織田信長との初対面の時、信長は氏郷の才覚を見抜き、すぐさま氏郷に娘・冬姫を輿入れさせることを決める程であった。
 その後、秀吉に仕えることになったが、その力量には秀吉も一目置き、むしろ半ばはそれを恐れ、氏郷を遠ざけるようになっていた。

石田三成(32歳)  :秀吉の小姓から側近となる。宮野開城の謀略については、これに反対し署名しなかった。

津軽の人たち

大浦為信

 6尺を優に超える長身の持ち主(42歳)。元々は久慈氏の係累に当たる。
 南部晴政の指示で津軽地方に地盤を築こうとしていたが、晴政と敵対する石川高信(晴政の弟、信直の父)と争ううちに、晴政が死去。帰る場所が無くなり、そのまま津軽三郡を拠点とした。よって、「南部家を裏切って」独立したわけではない。
 秀吉の小田原参陣の命にいち早く従い、南部信直より先に領知安堵を得る。
 九戸政実とは盟友関係にあったが、九戸戦では敵味方に分かれる。
 九戸戦では、馬渕川沿いに布陣し、落ちてくる城兵を多数、西方に逃がした。政実の長男である鶴千代(後の九戸市左衛門)を迎え入れ、保護した。
 大湯四郎左衛門とは長年の親交があり、戦の前後で親族や大湯家臣を多数救った。

三戸南部家の主要人物

南部信直           ”その名の通りの九郎(苦労)人”

南部信直
南部信直

南部大膳太夫信直(九郎、45歳)。
 北信愛の導きで、先々代・晴政と敵対し、先代晴継を暗殺。三戸南部家の当主の座に着いたが、決断力、統率力に欠ける主君である。ただし、覇気を持ち、決断力に長けていたなら、早いうちに滅していたはずである。
 若い頃から幾度となく窮地に陥り、それらからやっとのことで逃れた経験があり、生き残り戦術にかけては長じている。5尺3寸の背丈で小太り型。

南部利直        ”苦労知らずのわがままなボンボン”  

 南部利直(彦九郎、16歳)。
 南部利直は、父信直が北奥に地盤を築いてから生まれ育ったので、父の苦労を知らない。
 生まれついての「殿様」である。軽薄な行動により、幾度か南部家を窮地に陥らせる。

八戸政栄     根城(ねじょう)南部の当主

 八戸薩摩政栄(49歳)。名は「まさよし」と読まれることが多いが、正しくは「まさひで」である。八戸弾正直栄(なおひで、なおよし)は子。南部晴継の死後、本来は八戸から養子を迎えるのが筋であったが、自らは眼疾のため眼が良く見えず、また直栄も養子のため、晴政と敵対していた信直が南部家を継ぐのを容認した。
 櫛引清長とは遠縁にあたるが、骨肉を食む身内の争いを繰り広げた。一方、娘の夫である七戸家国とは関係が良好で、家国が宮野に入城した後も七戸城を攻めず、また三戸方が主不在の七戸城を攻めようとするのを牽制し、これを防いだ。 九戸戦の後、娘を含む七戸家国の親族の助命を嘆願し、九戸党の中で唯一、七戸家だけが命脈を保つことになった。

北信愛           "北奥一の狒々爺"

 北左衛門佐信愛(68歳)。九十台まで生きた。
 陰謀に長けた南部家の執事(家老)で、九戸侵攻の策を次々と繰り出す。
 北彦助(愛一)、北(主馬允)秀愛は息子。北十左衛門は養子。

北秀愛

 北主馬允(しゅめのすけ)秀愛。
 北信愛の次男(兄1人が早世したため実際には三男)。文武に長けており、才覚は三戸家中随一である。
 南部家臣及び北一族を代表する英傑。
 一戸攻防戦で重傷を負い、表舞台から消える。一説では、この戦いで得た傷がもとで死んだとも言われる。
 名目上は、慶長年間まで生きたことになっている。

北十左衛門         ”南部一門中の反逆児”

 北十左衛門=南部十左衛門信景。
 北信愛の妹の子で信愛の養子となる。九戸戦の時点では20歳より前である。
 九戸戦では三戸方として戦功を上げる。
 後年、南部利直との相克により南部家を脱し、大阪の陣では敵の豊臣方に参じる。
 
 本作中では、もちろん三戸方であるが、既に時折、南部利直との軋轢が垣間見られる。
 とりわけ年恰好の同じ南部利直とは常に相容れず、後年、決定的な亀裂を生じさせることになる。

東信義(東中務、東朝政)

 東中務尉信義。初め直義とも伝えられる。後の朝政。通称は「中務」で東中務政勝の孫である。
 南部晴継の暗殺後、信直が南部家を継承する時には、北信愛や東中務(政勝)らの尽力があった。東家はそれまで南部本家に若干の距離を置いていたが、政勝以後、要職に復帰する。
 孫の信義は、忌み名として信直から一字を貰ったが、後に朝政と改名する。
 信義は父親が早く死んだため、若いうちに中務尉の官職を得ていた。
 天正末期ではまだ20歳代である。

 古文書には「東中務」または「東朝政」と記されることが多いが、前者は祖父の政勝と紛らわしい(混同しているものが多数ある)。また朝政は後年の名である。おそらく信直との間に快からぬ思いがあり、信直の没後に改名したものであろう。
 九戸戦では、三戸方として各所で活躍する。

浄法寺修理重安

浄法寺修理重安は、九戸戦の頃には既に高齢である。
浄法寺氏は5千石(または6千石)の大身で、南部家では家臣ではなく「客分」としての扱いだった。
南部家では、八戸家と九戸氏、そしてこの浄法寺氏が、他の家臣とは別格の存在だった。

いざ浄法寺一族が動けば、南部は滅亡の危機に曝されるため、その怖れから頻繁に「浄法寺謀反」の噂が流されている。
一戸城攻防戦では、弟の「某」(重行、本作の左京亮)と浄法寺主膳の企みにより、落城の汚名を着せられた。この後、修理は、三戸方の姿勢を堅持するようになった。
九戸戦の折、弟「某」は大湯四郎左衛門のいる鹿倉館に助太刀に向かったが、泥濘にはまり動けなくなったところを、「ここを浄法寺修理が攻めに来た」と誤解され、射殺された。この地では、弟某のことを修理とみなしたため、ここに「修理」の墓がある。

浄法寺家は、孫の重好が名跡を継ぎ、改めて修理を襲名した。よって九戸戦で南部勢に参陣した浄法寺修理と、大湯で死んだ修理、岩崎一揆における修理は、それぞれ別人である。
重好は岩崎一揆で敵前逃亡的に撤退したため、南部利直から遠ざけられるようになっている。

浄法寺左京亮重行

左京亮は本作による仮名。
三城攻撃の後、一戸城の浄法寺修理と東信義に、「留ヶ崎が攻められている」との虚偽の情報を与え、この城が九戸党に奪還される直接の原因を作った。
九戸党に従うよう兄修理を説得しようとするが、成し遂げられず。
追討され、浄法寺を脱出し鹿倉館に入ろうとしたが、大湯四郎左衛門に「館を攻めに来た」と解釈され、そこで死ぬ。兄修理と誤認され、修理の名で埋葬された。

浄法寺主膳(⇒畠山重勝)

浄法寺の一族。三城攻撃の後、一戸城の浄法寺修理と東信義に、嘘の情報を与え、城を九戸党に奪還させた。本作では、左京亮と共に鹿倉館に赴き、大湯四郎左衛門に討たれそうになるが、脱出し宮野城に向かう。本作では、宮野城攻防戦で死んだ畠山重勝に転じたとした。なお畠山は浄法寺の本姓である。

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