北奥三国物語 

公式ホームページ <『九戸戦始末記 北斗英雄伝』改め>

早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



怖谷奇譚                     早坂昇龍

 本作は平成25年10月7日より12月30日まで盛岡タイムス紙にて掲載された短編小説である。
 赤虎シリーズは『九戸戦始末記─』のスピンオフ作品なのであるが、これはさらにそこからスピンオフした作品群となる(「奇譚シリーズ」)。
 作中の「井ノ川円了」のモデルは実在の妖怪博士・井上円了である。時代設定は明治二十七(一八九四)年前後で、井上円了が狐狗狸を解明したほぼ二年後となる。
 「森下林太郎」のモデルは森林太郎(鴎外)。この年齢の頃、鴎外はは陸軍軍医である。

『怖谷奇譚』             早坂昇龍
 季節はそろそろ晩秋を迎えようとするある日のこと。我が庵の玄関口より駆け込んで来る者がいた。
 「円了先生。円了先生!」
 座卓から顔を上げると、若き友人が三和土(たたき)に立っていた。
 「林太郎君。そんなに慌てて、一体どうしたのだい?」
 私は墨を磨(す)っていた手を止め、友人が部屋に入って来るのを待った。
 友は草履を蹴散らすように脱ぎ、板間に上がって来た。
 「円了先生。興味深い話を聞きました。どうやら今度こそ本物ですよ」
 この友人の名は森下林太郎と言う。私より四つ五つ年下であるから、三十歳の手前の年恰好である。今は陸軍で軍医を務めている。

井上円了先生 直筆 掛け軸
井上円了先生 直筆 掛け軸

 森下青年はよほど道を急いで来たらしく、ハアハアと息を切らしていた。
 「駆け足で来るほど、面白いことがあったのかい?」
 森下青年は部屋の中に歩み入ると、座卓の向こう側に腰を下ろした。
 「先生。私が医学校に通っていた頃、隣の席に晴山と言う男がいました。その男は学業のほうは今ひとつでして、結局は医師になる夢を果たせずに郷里に帰り、家業を継いだのです。しかし、商いのほうも上手くは無かったらしく、この数年で繰り返し大損をした。そいつの家は陸奥で一二を争うほどの生糸商人でしたが、遂には破産してしまったという話なのです」
 「昨今の好景気が逆に災いして、手を拡げ過ぎてしまった、というところか。生糸は投機性が高いからね。今はそこいらじゅうで耳にする話だ」
 「晴山は元々山師のような気性の男で、それがために医学の道も続かなかったわけですが、竈返しを阻止すべく、起死回生の策を考えた。あ、この『竈を返す』ってのは、あちらの田舎言葉で破産するって意味らしいです。それで、奴がすがり付いたのが黄金の谷の伝説なのです」
 「ふん。なるほど、それこそ山師の思いつきそうな材料だ」
 「陸奥には数々の黄金伝説がありますが、この谷の話もそのひとつです。人知れぬ山の奥に谷がある。その谷の底には川が流れていて、川には黄金が沈んでいる。しかし、その谷はあの世と繋がるところで、あちこちに魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)が潜んでいる。そして・・・」
 「その谷に踏み込んで戻って来た者はいない、と言うのだろう。よくある話だ」
 森下青年が言葉を止め、私の顔を見る。
 せっかく訪れてくれたというのに、早々に話の腰を折ったのでは気の毒だ。
 少々、彼の機嫌をとりなすことにした。
 「いや。黄金伝説は大体そんな話だからね。昔は奥州では沢山の砂金が採れた。その金の力で、この日本の一大中心地となった時代もある。そんな古(いにしえ)を懐かしむのが黄金伝説なのだ。もちろん、そんな話の大半は、ただの伝説に過ぎない。その証拠が話の末尾で、もしその言葉通りに、誰一人として帰って来られないのなら、なぜその谷のことが世間に伝わるのかね。そういう伝説が残っているということは、すなわち、その話がただの話に過ぎぬということの証明になるわけだ」
 私の言葉を予期していたらしく、森下青年はほんの少し微笑んだ。
 「でも、先生」
 森下青年は、懐から何かを取り出した。
 「晴山がその話を信じたのは、これを見つけたからです」
 森下青年の右の掌には、一枚の金貨が載っていた。
 「それは甲州金ではないかね。十六世紀に甲斐の武田家が作ったと伝えられる物だ」
 森下青年が頷く。
 「先生。晴山はこの証拠の金を偶然手に入れたために、その谷を探すことにしたのです」
 「しかし、その谷は陸奥にあると言うのだろう。なぜ甲州金がある。縁もゆかりもない土地ではないか」
 私の追及に、森下青年はもう一度頷いた。
 「先生。昔この辺りを支配していたのは南部一族ですが、元は甲州から移って来た者です。その後も何かしらの繋がりがあったかもしれません。また、甲州と何も繋がりが無いのなら、それはそれで、逆に興味を覚えませんか。なぜ陸奥の山中に甲州金があったのか」
 「・・・」
 「晴山はこの金と、一枚の地図だけを家人に残して、その谷に入ったらしいのですが、それきり戻って来ません。その黄金の谷の名は怖谷(おそれだに)と言います。地元の者はその谷を畏怖し、けして中に入ろうとはしません。一昨日(おとつい)、晴山の家の者から手紙が来たので、私はこの話を知ったのです」
 「その晴山と言う男の親族は、何故林太郎君に手紙を寄こしたのかね」
 「そりゃ。私が先生と懇意にしているからですよ。先生が三年前に狐狗狸の正体を解明して見せてから、今や先生は『妖怪博士』として日の本じゅうで知られています。私が円了先生とお付き合いしていることを、晴山は家族に語っていたのでしょう」
 「妖怪博士。他所で私はそんな呼ばれ方をしているのか」
 私のこの言葉に、森下青年は「イケネ」という表情で、ほんの少し舌を出した。
 「先生。今では妖怪という言葉を聞いて、先生のことを思い出さぬ者はいないのですよ。さて」
 森下青年は、徐に懐から一枚の紙を取り出した。
 「円了先生。これが晴山の置いて行った怖谷の地図です」
 森下青年は座卓の上にその紙を拡げた。
 身を乗り出して覗いてみると、その地図の中ほど、陸中国と陸奥国の間くらいの位置に、直径一寸ほどの丸印が付けてあった。
 「林太郎君。これでは五里四方はあるぞ。今風の言い方なら十五キロをかなり超える。これじゃあ、探そうにも探しようがない」
 「ここいらは山の中で、人の歩ける道は数少ないわけですから、晴山が消息を絶った村まで行けば、後は何とかなります。晴山も馬鹿ではないので、自分が帰るためにも、あちこちに印を付けて行ったことでしょう」
 「人の訪れぬ深山にどうやって入って行くのかね」
 「まずは鉄道ですね。昨年開通した奥州線で、三戸か尻内(八戸)という駅まで行き、そこからは馬車になります。馬車で行けるところまで行き、最後の村からは馬を借ります。馬が借りられなければ牛です。坂を上るには牛のほうが良いようですね。歩様はゆっくりですが、その分力が出ます」
 「駅か。駅は馬車道に使う言葉だが、馬車でなく機関車でも、やっぱり駅と呼ぶ訳だ。ところで、今回の目的は人探しなのだから、谷に近くなったら、足で歩けば良いのではないかね」
森下青年が急に真顔になる。 
 「先生。もし万が一、その怖谷に山ほどの黄金があった時、それをどうやって運びますか。人の力で運ぶことが出来る量はたかが知れています。少なくとも牛馬一頭は連れて行かないと。黄金を見つけられれば、学府建設の夢もぐっと実現に近づきますよ」
 「・・・」
 言葉を失くした私を見て、森下青年が「ぷっ」と吹き出した。
 「今のは軽口ですよ。もし晴山を見つけられたとして、やつが無事でいるとは限りません。怪我をした男を運ぶのは、我々二人だけでは無理です。やはりどうしても馬か牛が要(い)り様でしょう。ははは」
 私が黙ったまま答えずにいると、森下青年は少々バツが悪くなったらしく、またもやちろっと舌の先を出した。
 しかし、ここで青年は一転して、真剣な表情に変わった。
 「先生。駄目ですか、この話は。黄金と魑魅魍魎が満ちた谷に、一度行ってみたくはなりませんか」
 (そろそろ頃合いだろうな。)
 勿論、最初から私の腹は決まっていた。 
 「林太郎君。あの世に繋がる扉なら、その谷には是非とも入って見なくてはなるまいよ。この世界をかたちづくる真理の一端を垣間見ることが出来るかもしれない。晴山君が消息を絶ってから、どれくらいの日にちが経っているのだい?」
 「とうに半月を超えています。もはや二旬が経ちます」
 「それでは、もはや命に関わる事態だな。今はまだ彼岸を過ぎたばかりで、山に食い物はあるまい。明日出発することにしよう。君はこれから上野駅に行き、切符を手配してくれまいか」
 「列車は青森まで直通です。通しで乗れば二十数時間という話ですが、少なくとも毎度三四時間は遅れるようです。昼前に上野発に乗ると、尻内に到着するのは翌朝になります。鉄道を下りてからのほうが道は険しい訳ですから、途中、仙台辺りで一泊するか、あるいは郡山、一関と二泊したほうがよろしいのでは」
 「いや、人の命が懸っている。行った先で、人馬を手配する必要もあることだし、駅を下りたところで一泊しよう」
 「はい。では直ちに行ってきます。今日はそのまま帰宅し、明日の朝お迎えに上がります」
 「うむ。宜しく頼む。私も早速これから旅支度をしよう」
 「では」 
 森下青年はすぐに立ち上がり、私に背中を向けた。三和土に降りようとする青年に、私は背後から声を掛ける。
 「林太郎君。私のことを先生と呼ぶのは止めてくれぬか。私と君とは三つ四つしか年が違わない。医師である君の方こそ、先生という呼び名がふさわしいよ」
 森下青年は顔半分だけ振り返って、私の話を笑い飛ばした。
 「円了先生。常人が思いもつかぬことをなさるから、皆が先生のことをそう呼ぶのです。ましてや、今回もこの世とあの世の境界にまたがる話です。先生こそが頼みの綱なのですよ。さてそれでは失礼」
 森下青年は頭をひとつ下げると、玄関から走り出て行った。

 三日後の昼に。私と森下青年とは、岩手県一戸の中山駅に降り立った。
 日にちが当初の予定より長く掛かったのは、途中の一関で、線路の不具合により丸一日止められたためである。
 このため、当初泊まる筈であった盛岡には寄らずに、そのまま北上した。
 しかし、この中山では十三本木峠の峠越えの際に、今度は機関車の車軸に故障が出て、そこから先に進めなくなったのだ。
 仕方なく中山駅に降りてみると、駅舎の周囲はすべて山林で、建物ひとつ見当たらなかった。
 二人して駅前に佇み、そこで途方に暮れていると、後ろから声を掛けられた。
 「御前様(おめさま)がた」
 その声に振り返ると、そこに立っていたのは、大きな風呂敷包みを背負った老婆だった。
 「少し離れたところに中山宿がある。そこに行けば、宿を取るなり、駅馬車を掴まえるなり出来るべよ。宿屋はねえが、孫介屋敷に頼めば泊めてくれるべさ。己(おんれ)に付いて来なされ」
 困っている時には、手を差し伸べてくれる相手が仏のように見えるという。
 今がまさにその時である。
 幸いなことに、同じ日の昼過ぎには中山から二戸に向かう馬車を掴まえることが出来た。
 だが、それは人を運ぶ駅馬車ではなく荷馬車であった。私と森下青年は、窮屈な荷物の隙間で固まったまま、ふた時も砂利道に揺られたので、すっかり酔ってしまった。
 目的地まではまだ遠く、当初からこの調子では先が思いやられた。

 しかし、そんな危惧も杞憂に終わった。

北奥の風景 八戸 根城の囲炉裏
北奥の風景 八戸 根城の囲炉裏

 翌日になり、念のため二戸で鉄道の状況を確かめてみると、何のことは無く、私たちが馬車に乗った後、程なく運行が再開されていたのだ。
 すなわち、中山駅でふた時(四時間)も待っていれば、列車に乗ることが出来たはずで、またその列車は馬車よりも先に二戸駅に着いていた。
 もしそのまま乗っていれば、前日の内に尻内駅に到着出来たはずである。
 「先生。こんなことなら、中山駅でじっとしていれば良かったですね」
 傍らで森下青年が愚痴をこぼした。
 私は内心で「まったくだ」と同意しつつも、口では年長の者らしい言葉を選んだ。
 「いや。得てしてこんなものだよ。物は考えようで、あのままあんな山の中に座っていたら、気が滅入ってしょうがなかったろう。また、もし機関車が動き出さなかったら、あのまま駅で夜を明かすことになったかもしれない。まだ新暦九月の終わりだと言うのに、ここは朝夕めっきり涼しいところだ。涼しいと言うより、もはや肌寒いという言葉のほうが当たっている」
 「東京とはえらい違いですね」
 野山から聞こえる虫の声は、この地ではすっかり侘しい晩秋のものに替わっていた。

 尻内駅に着くと、列車が到着した直後は構内に人が溢れる有り様であったのに、それも僅かな間のことで、その雑踏は程なく四散した。
 二人ともこの地は初めてである。
 しばらくの間、駅構内を眺めていたが、程なく駅の出入り口付近に、物売りが立っているのに気が付いた。
 物売りの身なりは凡そ十六七歳くらい。
 容貌の方も二十歳を超えたかどうかである。 
 こじんまりした着物を着て帽子を被り、腰には前掛けを巻いていた。
 半畳の広さの小さな板の上には、竹の皮の包みが二つ三つ並べられている。
 「先生。あれは・・・。ありゃ弁当ですね」
 「うむ。腹も減ったことだし、あの弁当を二つ買おう。それで、あの者の店を訪ねれば、宿の手配が出来る。おそらく、馬車の連絡も知ることが出来るだろう」
 二人でその物売りに近づいた。
 「おい君。その握り飯を二包みくれたまえ。五十銭銀貨を出して釣りはあるかね」
 物売りは一瞬、前掛けのコブクロに手を入れかけたが、途中で止めた。
 「お弁当がひとつ七銭ですから、お代は都合十四銭になります。お釣りもございます」
 物売りはごく若そうに見えるのに、意外としっかりした口調である。
 「齢はいくつなのかね。君は」
 「二十三です」
 「ふうん。君の外見は、実際の年齢より、だいぶ若く見えるね。ところで、君の店はどこにある。きっと近くで飯屋をやっているか、あるいは旅籠だろう。私たちはご主人に、ちと尋ねたいことがある」
 「主人はおりません」
 「何故だい。どこか出掛けているのかい」
 「この商いは私一人でやっているのです」
 「君自身が主人というわけかい。まだ若いのに、よく一人で切り盛り出来ているね」
 ここで私は若者が手渡す包みを受け取り、替わりに銀貨一枚を差し出した。
 若者は懐からお釣りを出しながら、私に尋ねる。
 「お二人は何をお知りになりたいので?」
 「いや。これから山の中に入らねばならないから、行けるところまでは馬車で行き、そこから先は馬でも借りて前に進もうと考えている。そういう時の手配を頼めるのは、この土地で商いを営んでいる者だろうと思ったのだよ」 
 若者は大きく頷いた。
 「そういうことなら、最初にここの駅長に訊くのが早いですよ。弁当売りの仕事ももう仕舞い時ですから、少しお待ちくだされば、私がお二人をお連れします」
 「君はここの駅長と知り合いなのかね」
 「私はここの駅長さんに拾ってもらったようなものです。元は函館にいたのですが、内地でひと旗揚げようと思い立って、そこを出て来たのです。ひとまず知内駅に着いたのですが、そうかと言って、行くあてがある訳では有りません。この駅まで来て長椅子に呆然と座っていたところで、ここの駅長が声を掛けてくれたのです」
 「いきなり弁当を売ってくれと言う話ではなかろう」
 「ええ。私の荷物は柳刃包丁が一本でしたが、駅長さんはその包丁を見て不審に思ったのでしょう。『まだ若いのに料理が出来るのか』と訊いて来ました。あるいは、駅長さんは私のことを、押し込みを働くようなごろつきではないかと疑ったのかもしれません。私が『はい。出来ます』と答えると、駅長さんは『じゃあ、裏に来て、何か作ってみせてくれ』と言い付けたのです」
 そこでこの若者は、駅員室に行き、そこにあったありあわせの具材で、夕飯のおかずを作って見せたという話だった。 
 そのことがきっかけで、その若者は、この駅で弁当を売ることを許されたのだ。
 「ふうん。巡り合わせというのは、そんなもんだろうね。この駅はまだ出来たばかりで、周りには何もない。少々、腹が減っても、どうすることも出来ないだろう。きっと、駅長は毎日のように客に文句を言われていた。そこに、君が現れたということだろう」
 「はい」
 「もし、駅長を紹介してくれるなら、本当に有難い。我々二人はこの地が初めてで、まるで勝手が分からない」
 物売りの若者が微笑む。
 「先ほど、山の中に行くとおっしゃられたようですが、どちらに行かれるのですか」
 ここで森下青年が口を開く。
 「怖谷というところに、人を探しに行くのだよ」
 その言葉に、若者が両眼を見開いた。
 「探しに行くと言うのは、もしや晴山茂吉さんですか?」
 今度はこちらの二人が驚いた。
 「何故その男の名前を知っているのだい」
 若者の表情がそれまでと一転して険しくなる。
 「まさか本当に行ったとは。晴山さんは、ひと月近く前にこの駅に来て、弁当を幾つも注文してくださった方です。その時に、『これから俺たちは怖谷に行く。そこで黄金を山ほど抱えて帰って来るのだ』とおっしゃられていました。あの時の晴山さんの言葉に嘘偽りが無く、あの方は本当にその怖谷に入ったのですね」
 「晴山氏はお供を何人も従えていたのかね。今、君はそう言った」
 「はい。使用人の方々を数人引き連れておられました」
 ここで、私は森下青年と顔を見合わせた。森下君の顔つきを見れば、彼が同じことを考えていることが分かる。
 「晴山氏はどうやら何か確証があって、谷に向かったのだ。これはどうやら気を引き締めねばならないようだよ」
 「はい」
 私は物売りの若者のほうに向き直った。
 「これから、我々はその晴山茂吉君を探しに行く。日にちか経っても我々が戻って来ぬようなら、ちょっとした騒ぎになるだろう。その時は君が地図を警察に届けてくれないか。林太郎君。この若者に地図の写しを渡してくれたまえ」
 森下青年が懐から紙を出し、若者に手渡した。
 「これは君が持っていてくれたまえ。君は強運を背負っているようだからね。ところで君の名は何というのだい」
 「吉田亀五郎と言います」
 「そうか。では亀五郎君。よろしく頼む。いや、この通り頼みます」
 私は目前に立つ、まるで少年のような容貌の弁当売りに向かって、深々と頭を下げた。
 それから我々二人は、弁当売りの亀五郎青年の口利きで、尻内駅の駅長に会った。
 この駅長は地元の名家の血筋であった。
 駅長は怖谷に向かう途中の村の有力者に宛てて紹介状を書いてくれた。
 
 そこから先は、万事がとんとん拍子に事が運んだ。
 地図の上の最後の村は東雲(しののめ)村と言い、わずか二十数軒程の小さな集落であった。
 尻内駅長に紹介された家は、村の中央にあった。集落の規模の割には大きな家で、使用人などもざっと二十人は抱えているようであった。
 我々二人はその家で一頭の駄馬を借り、怖谷があると見込まれる北の方角に出発した。

 我々の当初の予想に反して、道中の上り下りはさほどでもなく、山間をすり抜けるように平坦な道が続いた。
 しかし、三時間ほど進むと、左右の斜面が急に険しくなり、道が切れ切れになった。
 藪の隙間を探しながら、少しずつ前進すると、また先に道が見えてくる。
 幾度もこういう状態になると、森下青年が不安そうな声を出した。
 「こりゃあ、もはやけもの道ですね。東雲村で借りて来た馬は、このとおり小さな馬ですから、これまで『荷物運びには役に立ちそうもない。馬鹿にしやがって』と思っていたのですが、なるほど、この道を進むには、こういう馬でなくてはならない。あの村の人たちも、きちんと考えてくれていたのですね。それでも、これからはこんな道ばかり進むのかと思うと、さすがに気が削がれます」
 「道が見えなくなるのは当たり前だよ。地元の者は怖谷のことを恐れて近づかない。人が通らなければ、いずれ道は消える。ならば、この先はまともな道など望めないさ。しかし、逆に晴山氏の通った痕跡がはっきりと分かる。このけもの道の折れた草こそが、怖谷への道標なのだよ」
 ところが、そこから山をひとつ越え、道別れを曲がると、急に道幅が広くなった。
 さらに二つ目の山を迂回すると、遠くの山間に集落が見え隠れしてきた。
 「あれは何でしょう。地図に名が載っていませんね」 
 「長い間外とほとんど交わらずに、村の者だけで細々と暮らして来たのだろう。名の無い集落はよくあるさ。外の者が気に留めないだけだ」 
 そこから先は小さな峠である。
 人馬が一列となり、曲がりくねった坂道を登った。
 二十分ほどで峠の上に着く。
 すると、向こうの集落のほうから、タントンという音が聞こえて来た。
 坂を下り、集落に近づくと、その音が次第に大きくなる。
 「先生。どうやら秋祭りの太鼓のようですよ」
 「どうもそのようだ」
 「こんな山の中で祭り太鼓の音を聞くとは、考えもしませんでした」
 森下青年はいかにも怪訝そうな顔つきである。
 「ここは山の中だよ。楽しいことと言えば、盆暮れ正月か祭りくらいのものだろう。祭りの日には、近くの村から若者たちがやってくる。祭りは、若者たちの出会いの場でもあるのだ」
 「よくご存知ですね」
 「いや。亀五郎君に聞いた話の受け売りだ」
 「しかし、見たところ、この祭りには若者の姿はほとんどありません。どうしたんでしょうね」
 二人で話をしながら、太鼓の音のする方に近づいた。

 集落の入り口を少し入ると、視野が急に開けた。山の半分を削り取り、百間四方の広さの平地が拓かれていたのだ。ここは、途中の山道からは、山裾の陰となり見えなかった場所である。
 広場の外に馬溜りがあったので、その柱のひとつに馬を繋ぐ。水桶と藁は柱の根元に備え付けてあった。
 私は森下青年と共に、広場の中に入った。
 我々はまず入り口付近の片隅に立ち、広場全体の様子を眺めることにした。
 その広場の中央には、人の背丈を少し超える高さの櫓(やぐら)が組まれていた。上には大太鼓と男が一人乗っている。太鼓の叩き手は六十歳前後の初老の男であった。
 その櫓の周りには、人が十数人ほど立っており、太鼓の音に合わせて手を振っている。
 田舎の祭りでは、鼓手踊り手とも熟練したものが必ずいて、見事な所作を披露してくれるものだが、この村の踊りはてんでばらばらであった。
 「先生。ここには年寄りしかいませんね」
 踊りが下手に見えるのも当たり前である。
 広場にいたのは、どう見ても六十代から先の爺婆ばかりであった。
 「ここに若い者はいないのだろうか」
 そんな話をしたちょうどその時、我々二人の背後から声を掛ける者がいた。

 「どちらからいらしたんですか」 
 涼やかな声に振り返ると、すぐ後ろに十七八位の年恰好の娘が立っていた。
 娘の顔はと見れば、すっきりとした目鼻立ちで、まさに抜けるような色白の肌である。
 着物の袖からは、ほっそりとした腕が覗いている。
 「我々二人は東京から来たのです」
 その答えを聞いて娘が微笑む。
 「それは随分と遠いところからいらっしゃいました。どうしてこんな山の中に?」
 「知人が行方不明になったので、探しに来たのです」 
 娘の表情が急に曇った。
 「怖谷・・・」 
 ここで森下青年が口を挟む。
 「消息を絶ったのは私の友人で晴山という男なのです。どなたか晴山君のことを見聞きしてはいませんか。十数日前に、きっと晴山もここに来たことでしょう。どっちの方角に向かったとか、どのような些細なことでも構いません」
 娘は何かを思い出そうとするように、一瞬、視線を宙に向けた。
 「この村には怖谷を探しに来る人が、幾人も立ち寄ります。ひと月に一度というほど多くはありませんが、三か月の内に数人の割合にはなります。しかし、ほとんどの人は先を急いで、そそくさと立ち去って行きます。お探しになっている方も、きっとこの村に来たのでしょうが、言葉を交わした者はいないと思います」
 私にはその娘の言葉がよく聞き取れない。
 眼の前で繰り広げられている踊りが最高潮となり、掛け声が高くなったためである。
 「そおれ、そおれ。エイノエイノサー」 
 三人の視線が前に向けられる。
 広場で踊っていたのは年配の人たちばかりと見えている。しかし、先ほどとは一変して、踊りに熱が入り、動きが激しくなっていた。
 下手糞どころか、踊りの方はかなり達者で、しぐさのひとつ一つに切れがあった。
 「そおれ、そおれ。エイノエイノサー」 
 掛け声は、太鼓の拍子に呼応していた。
 「トトンが、トトンが、トントコトントコトン、のリズムですね」
 森下青年が独り呟くように言った。

 しばらくすると太鼓の音が少し鎮まった。
 鼓手・踊り手とも高齢のため、激しい踊りを長くは続けられないのだった。
 その頃合いを待っていたかのように、娘が口を開いた。
 「お二方は今宵の宿をどうなされますか。もはや夕刻で、これから山の奥にはお入りにはならないのでしょう?」
 「そうだね。どうやら怖谷はそれほど遠くわけでもなさそうだ。今夜はどこかに泊めてもらい、明日、その谷に向かうことにしよう」
 この言葉を聞き、娘が小さく微笑む。
 「では、どうぞ私の家にお泊りください。私の家は手狭なですが、お客様をお泊めする部屋くらいはあります。家族は祖母と私たち姉妹の三人ですから、何の気兼ねも要りません。姉に東京の話をお聞かせください」
 「ご迷惑ではありませんか」
 私の問いに、娘は屈託のない笑顔を返した。
 「こんな山の中で、周りは年寄りばかり。姉と私はすっかり退屈しています。どうか都会の珍しいお話をお聞かせください。家はこの道の先に松の木がありますので、その後ろです。大きな松の木を目印にいらしてください。じゃあ、私は先に家に戻り、姉に伝えて来ます」
 私たちの返事を待たず、娘はくるりと背中を向け、足早に歩み去った。
 後に残された二人は、ここで互いに顔を見合わせた。
 「先生。助かりましたね」
 「まったくだ。じきに暗くなるから、あのお嬢さんの言葉に遠慮なく甘えることにしよう。初日から野宿をせずに済みそうで、それはそれで良かった」
 「こんな山中に、あんな綺麗な娘がいるとは驚きました。きっと、あの娘の姉も妹に負けぬ美人でしょう。ここは北国で、色白の女性が多いですからね」
 人探しに来たというのに、こんな調子では若干不謹慎なような気もする。しかし、どうせ泊まるなら、どんな男だって美女二人のいる宿を選ぶことだろう。
 「ところで先生。先ほどの娘の名を聞いていませんでした。目印の松の木だけが頼りですね」
 「それは大丈夫だろう。年寄りばかりが住む村だ。もし道に迷ったとしても、美人姉妹の住む家はどこかと尋ねれば、皆すぐに教えてくれることだろう」

 山裾の道をゆっくりと先に進む。程なく目当ての家が簡単に見つかった。広場から七八丁進んだところに、高さ二十間もありそうな松の木が立っていたからである。
 そのすぐ後ろには、想像していたよりもかなり大きな屋敷があった。
 「先生。手狭どころか、この家はこの辺で一番大きな屋敷ですよ」

北奥の風景 北奥名物 大根の寒干(かんぽす) 
北奥の風景 北奥名物 大根の寒干(かんぽす) 

 その屋敷は人の住む家屋に馬屋がぴったりとくっついた造りの家である。
 「人の住める部屋はいくつあるでしょうね」
 「少なくとも十五はあるだろう。二階もあるようだしね。たぶん、二階の方は養蚕部屋なのだろうが」
 私たちは大きな門柱の間を通り、中庭に歩み入った。そこから家の前に近づくと。関口から先ほどの娘が顔を出した。
 娘はにこにこと微笑んでいる。
 「そう言えば、お名前をお聞きしていませんでしたね。この家は松屋敷という屋号で、名字は中野上(がみ)と言います。私が朱莉(あかり)で、後ろの姉が雪絵です」
 娘がちらりと後ろを振り向く。娘の視線の先には、妹より二三歳ほど年長と思しき姉が立っていた。
 思わず息が止まる。
 そこにいたのは、雪絵という名にふさわしい色白の美女であった。
 妹より散歩後ろに立つ姉は、優雅なしぐさでお辞儀をした。
 「雪絵でございます」
 横に立つ森下青年の方を見ると、やはり彼も両眼を大きく見開いたままでいる。
 私は気を取り直して、妹の方に向き直った。
 「私は井ノ川と言います。こっちにいる彼は森下という名です。朱莉さんと雪絵さん。今晩はよろしくお願いします」 
 私が頭を下げると、隣の森下青年も慌ててお辞儀をした。
 「お二人ともそこの上り端にお座り下さい。おみ足を洗って差し上げますので」 
 既に準備をして待っていたと見え、姉の雪絵は前に盥(たらい)を抱えている。妹の朱莉の足元にも同じ大きさの盥が置かれていた。
 「いやいや。足は自分たちで洗います」
 初対面の娘に、汚ない足を洗ってもらうのは、さすがに気恥ずかしさを覚えた。
 この様子を見て、朱莉が笑う。
 「ふふ。何をおっしゃっているんですか。お二人とも早く座って。さあさあ」
 どうやら、妹の方は気さくで屈託のない性質(たち)らしい。
 朱莉は私たち二人を無理やり板間の端に座らせると、足元に盥を置いた。
 「じゃあ、私はこちらの先生。お姉さんが森下さんね」
 朱莉は有無を言わせず、私の靴の紐を解き始めた。
 ここで隣の森下青年の様子を覗き見る。
 姉の雪絵が前にしゃがみ、ほんの少し視線を向けただけで、森下青年は大慌てで自らの靴ひもを解き始めた。
 (ま、こんな美女が足を洗ってくれようと言うのだ。緊張するのも当たり前だろう。)
 隣を見ている間に、前の朱莉が私の右脚を盥の水に浸した。
 驚いたことに、盥の中は水ではなく微温湯(ぬるまゆ)であった。
 「朱莉さんが先に帰ると言ったのは、このためでしたか」
 朱莉は言葉では答えず、小さく微笑んだ。

 夕食は田舎料理ながらにぎやかな品揃えであった。鮎を昆布巻きにしたものや松茸の焼き物など、季節の食材が取り揃えてある。
 食事の席には姿を見せぬが、この家の婆様はかなりの料理上手であるらしい。
 食事が終わると、姉の雪絵がこの家で作った濁酒を運んで来た。
 ひと口含んでみたが、かなりの強い酒である。それで、その酒を何故食膳に出さなかったか合点が行った。
 朱莉の勧めに応じ、囲炉裏端に移る。
 話をするのは専らこの娘で、姉のほうは常に少し後ろの方に控えて座っていた。
 姉の雪絵は日頃から無口な性質らしい。
 しかし、視野の片隅に居るだけで、匂い立つような色香が漂って来た。
 森下青年も同じようなことを感じていたらしく、幾度となく雪絵のほうに視線を送っていた。
 「先生」
 朱莉の呼ぶ声に、私と森下青年はほとんど同時に顔を向けた。
 「今、姉は気分がすぐれないのです。踝(くるぶし)の辺りに小さな傷を負ったら、そこがすっかり腫れてしまっているのです」
 なるほど、姉の雪絵が大人しいのは、その傷の影響もあったのだ。
 「なら、ここにいる森下君に診て貰うと良い。こう見えても、彼は軍医だからね」
 私の言葉を聞き、すぐに森下青年が反応した。
 「先生。こう見えても、は無いですよ」
 森下青年は口で不平めいたことを言っていたが、眼が笑っている。
 「でも、腫れているのでは可哀そうです。すぐに診てさしあげましょう。朱莉さん。お湯を沸かしてもらえますか。それと、清潔な布巾を二三枚持って来てください」
 「はい。では隣の部屋で支度をします。他に必要なものはございますか」
 「そうですね。では床几(しょうぎ)を二つ用意して頂きましょう。雪絵さんが座るのと、足を載せるためのものです」
 妹の朱莉は一度こっくりと頷くと、その場を後にした。

 程なく診察が始まった。
 「雪絵さん。足を上に載せて貰えますか」 
 森下青年が促すと、雪絵が右の足を床几に載せる。その足首には幾重にも包帯が巻かれてあった。
 着物の裾が少しはだけ、脹脛(ふくらはぎ)が露わになる。
 雪絵の脚は白くふっくらとした肌で、余りの美しさに思わず溜息が漏れた。
 その足の傷口を森下青年が確かめる。
 「ううむ。確かに化膿していますね。でもまあ、切開するほどでもないでしょう。膿を絞り出し、十分に消毒をして様子を見ましょう。数日後に、またここに戻りますから、その時にもう一度診察することにしましょう。化膿止めの薬を渡しますので、それを朝夕必ず飲んで下さい」
 森下青年は、日頃とは打って変わって、テキパキとした所作を見せていた。
 (なるほど。森下君は若くして軍医長を務めるだけのことはあるようだな。)
 感心しながら見ていると、森下青年、いや今は森下医師と呼ぶべきだが、その彼が雪絵の傷口を絞り始めた。
 「あ」
 雪絵が小さな声で呻く。その雪絵の眉間に寄った小皺が、またさらに美しい。
 (真の美女というものは、たとえ顔をしかめても美しいと言うが、本当なのだな。) 
 そんなことを考えているうちに、ようやく私は自分が不躾(ぶしつけ)な振る舞いをしていることに気が付いた。
 「これは申し訳ない。医師でもない私がここで見ているなんて、けして許されぬ話ではないだろう。では私は囲炉裏の方に行きます」
 これに、森下青年が小さく頷き返した。

 囲炉裏端に座ると、朱莉がやってきて、近くに座った。
 「先生。姉を治療して下さり、有難うございます」
 「なあに。礼なら森下君に言ってやってください。お姉さんを診ている医師は、私ではなく彼なのだから」
 「はい」
 ひと言言葉を返した後、朱莉は口を閉じた。
 しばらくの間、沈黙が続く。
 何か二十歳前の娘に合うような話はないものかと思案していると、朱莉がポツリと言った。
 「円了先生。私たちを東京に連れて行って貰えませんか」
 「え」
 「この村には、年頃の娘は私たち姉妹だけです。と申しますより、三十歳に満たぬ若い者が二人だけなのです。これからずっと、この山間の村に閉じ込められて、私たち姉妹が一生を終えねばならないとしたら、寂しい話ではありませんか。それに、この土地の者の血を繋ぐためには、私たちが外に出なければならないのです。先生。お願いです。どうか東京に連れて行って下さい」
 懇願する娘の眼はこれまでになく真剣な光を放っている。
 朱莉が私たちを家に招いたのは、そういう伏線があったのだ。
 「しかし、婆様はどうする。たった一人で村に置き去りにされても大丈夫なのか」
 「先生。このことは、そのお祖母様の言い付けなのです。私たちが出て行った後、お祖母様はこの村に何人か生き残っている親族と共に暮らすそうです」
 朱莉は身を乗り出して、私の間近に顔を寄せた。
 「先生。お願いします。どうか私と姉を東京に連れて行って」
 鼻がくっつきそうな距離である。
 こうして見ると、妹の方も姉に勝るとも劣らずの美形であった。
 (姉の匂い立つような色香とは異なるが、いずれこの娘も、人目を惹かずには置かぬほどの美しい女性になるに違いない。)
 私は自分の心が大きく揺れ始めたのを感じ、娘から顔を離した。
 「分かった。考えてみよう。今は人を探しに怖谷に行かねばならないが、その間に決めて来る。いずれ数日後にまたここに戻って来るから、話はその時にしよう」
 朱莉の表情がぱっと明るくなる。
 「良かった。有難う、先生」
 そう言うと、朱莉は急に私に飛び付いて、私の首元を抱き締めた。
 「先生。本当に有難う」
 朱莉の項(うなじ)からは良い匂いが香り立っている。
 それもほんの一瞬で、朱莉はすぐに立ち上がって、急いで隣室に向かった。
 「お姉さん!お姉さん!」
 かやかやという人声が漏れてくる。
 板戸の向こう側では、妹が姉に今の話をしているのだろう。
 その時、隣室とは反対側の廊下で、小さな衣擦れの音がした。
 咄嗟にそちらに顔を向けると、微かに人の気配を感じる。
しかし、それもほんのわずかな間のことで、その気配はすぐに消えてしまった。
 (きっと、この家の婆様が、私たちの話を聞いていたのだな。)

北奥の風景 晩秋の中尊寺
北奥の風景 晩秋の中尊寺

 「東京に連れて行って」という願いは、婆様の命じたことでもあると朱莉は言った。
 どうやら、あながちそれも嘘ではなかったらしい。

 翌朝。私と森下青年は松屋敷の玄関の前に立った。
 後には姉妹二人が私たちを見送るべく、並んでいる。
 「さて。今日から怖谷探しです。晴山君は北に向かったようなので、私たちもそちらを目指してみます」
 朱莉は神妙な面持ちで私を見ていた。
 昨夜の一件以来、私は姉よりも妹の方が気に掛かるようになっている。
 「先生。怖谷の場所はすぐに判ります。上を見て進めば良いのです。谷は自ら人を選ぶそうです。その谷に入るのを許された者には、空が道を教えてくれるという言い伝えです。でも・・・」
 「え?」
 「怖谷に行くのはお止めになった方が良いと思います。谷の中に分け入って、無事に帰った人はいないと聞きますので」
 「その話は知っているが、晴山氏をこのまま捨て置く訳にはいくまい。その男はこの森下君の友人なのだからね」
 すると、朱莉の隣で、姉の雪絵が初めて自ら口を開いた。
 「何人もの方が怖谷を探しに行きますが、大体の方は、探し当てられずに戻って来ます。ここでお止めになるのは不本意でしょうが、私どもにとっては、皆様が無事にお帰りになる方が嬉しいです」
 間を置かず、森下青年が断言する。
 「雪絵さん、朱莉さん。この方は国じゅうに名を知られた妖怪博士の円了先生ですよ。先生は必ず怖谷の謎を解き明かして、私の友人を連れ帰って来ます。帰路は必ずこの家に戻りますから、安心してください」
 このひと言で、姉妹二人の表情が、ぱあっと明るくなった。

 松屋敷を後にして、三時間ほどが経った。
 険しい山道を予想していたが、案外そういうこともなく、幅三四米の道が長く続いた。
 駄馬を引いても十分に通ることが出来る幅である。
 三番目の峠を登り切った頃、森下青年が呟くように漏らした。
 「先生。朱莉さんは、『空を見れば分かる』と言いましたが、一体どういうことなのでしょうね」
 「林太郎君。それはきっとあのことだと思うぞ。前の空を見給え」 
 私は先ほどから、北の空に、ある異常を見取っていた。
 その私の視線を辿り、森下青年も空を見上げた。
 「ああ。あれは・・・」
 この季節の北国には、朝夕必ず霧が出る。
 山中であればなおさら深い霧となる。
 しかし、まだ昼の内だというのに、山裾には真っ白な霧が下りようとしていた。それが空の雲と連なって、山々を覆い隠さんばかりの勢いである。
 周囲の山裾はどこもかしこも皆霞んでいる。
 だが、北の空には、霧だろうが雲だろうが、周りの総てを吸い込んでしまいそうな雲の渦が巻いていた。
 「あれは・・・。竜巻という訳ではなさそうですね。静かすぎる」
 「そうだ。竜巻と言うより渦潮の動きに似ている。あのような空の渦は、これまで見たことも聞いたことも無い。すなわち、あそこが朱莉さんの言う空の印だろう」
 「あの空には、この世のものではないという気配が満ち溢れています。この地の民が、あの場所に近づくなと言い伝えたのは、直にあれを眼で見るとよく分かります」
 「だが、我々の務めは、あの下に行き、何が起きたかを確かめることだ。急いであそこに行こう」
 私たちは早速、その雲の渦を目指し歩き始めた。

 私たちがその雲の渦に到達するのに、それから六時間を要した。
 遠くで見ていた時には、渦の真下には間違いなく強風が吹き荒れていると予想されたのだが、案外そういうことも無く、周囲は晴れ渡っていた。
 空の渦が、周りの雲を吸い込んでしまうので、その周りは晴れる訳である。
 渦の下に立ち、上を見上げると、天空の先の方まで円筒状の空間が出来ていた。
 「凄い。台風の中心と言うか、渦潮の中心と言うべきか、何とも凄まじい景色だ」
 その時、森下青年が何かを発見した。
「先生。前を見て下さい。何やら入り口らしき隙間が見えます」
 空から視線を下ろし、前を向く。
 すぐ正面には、標高一千米くらいの山が見えている。私たちはちょうどその山の前に立っていた。
 その山裾の一角に大岩があるのだが、その岩は二つに割れており、下の方に人が数人通れるくらいの割れ目があった。
 「円了先生。あれがきっと怖谷への入り口ですよ。行ってみましょう」
 森下青年は私の返事を待たず、小走りで岩の方角に向かった。
 私は馬を間近な灌木に繋ぎ、森下青年の後を追った。
 私が岩のところまで着いた時、森下青年は割れた大岩の壁を見ていた。
 「何か文字が彫ってあります。何でしょう」
 森下青年が岩の上を指差した。

 岩に彫られていたのは次の文字である。
 東方降三世夜叉明王、南方軍茶利夜叉明王、西方大威徳夜叉明王、北方金剛夜叉明王、中央大日大聖不動明王。
 明王の縄にて絡め取り、縛りけしきは不動明王、締め寄せて縛るけしきは、念かけるなにわなだわなきものなり。
 落石でもあったのか、その先の文字が崩れていた。
 「この先は何でしょうね」
 森下青年が私の顔を見る。
 もちろん、私はその真言の先を知っていた。
 「それは悪霊を縛るための真言、すなわち呪(まじな)い文だよ。その続きは、生霊、死霊、悪霊絡め取り・・・」
 私が真言を唱える途中、私たち二人の背後に、人の近づく気配があった。
 言葉を止め、後ろを振り返ると、そこにはひとりの老婆が立っていた。
 「止せ。その真言を唱えるでない。この岩のことはそっとしておけ」
 「うわあ」
 森下青年が四五歩後退りした。
 老婆の頭も白髪で真っ白だが、それ以上に顔の色が白かった。
 着物の方は、薄ら汚れた白装束で、まるで死人である。腰がすっかり曲がっているのか、大きな杖を支えにしていた。
 その老婆は真っ先に森下青年のことを凝視し、その次にゆっくりと私の方を向いた。
 「もし、この真言を知っているのなら、その逆さまの呪句も存じておろう。なら、ここまでに留(とど)め、今から里に帰るが良い。徒にこの地の気をかき乱すな。身の毛もよだつような怖ろしい目に遭うことになるぞ」
 老婆の両眼は血のように赤く、まるで妖怪のような有様である。
 私は気を取り直して、老婆の前に立った。
 「我々は知人を探しに来たのです。その男はおそらくこの地で行方が分からなくなったと思われます。もしやその男の消息をご存じではありませんか」
 老婆はぎゅっと眉間を絞った。
 「もし、その男がこの谷に分け入ったと申すのなら、もはやその男はこの世にはおらぬ。探すだけ無駄だろう。その男のことより、己らの行く末を案じるがよい。ここで踵(きびす)を返し、己の家に帰るのだ」
 この眼の光り方を見れば、この老婆がこちらの話など聞いてくれぬことは歴然である。
 (こりゃ駄目だ。取り付く島もない。なら致し方ないぞ。)
 「分かりました。我々はここで帰ることにします」
 この言葉を聞くと、老婆は私から視線を外した。
 「昔、この谷は清水谷という名だった。ところが、この谷に入り込んでは悪さをする者どもがあまりに多かったので、神がそのような者たちに罰を与えるようになったのだ。それから、いつしかこの谷は怖谷と呼ばれるようになった。里の者を遠ざけ、この世に災いをもたらさぬためにだ。だが時々、お前たちのように、欲に駆られ谷に入り込もうとする者たちがやって来る。何百年経とうが、人の愚かさはとんと変わらぬな」
 その言葉を言い置くように、老婆は私たちに背中を向け、足をずりずりと引きずりながらその場から去った。

 老婆の姿がすっかり見えなくなるまで待った後、森下青年が口を開く。
 「婆さんは遠ざかりました。じゃあ、先生。そろそろ谷に入って見ましょうよ」
 「うむ」
 あたかも、それが当たり前であるかのような会話である。
 歩き出してすぐに、森下青年がくすっと笑った。
 「先生。先生があの老婆に『帰る』と言うのを聞いていて、私は吹き出しそうになりました。妖怪博士たる者が、こんな面白い話を途中で投げ出すわけがありませんからね」
 老婆に嘘を吐いたのは、ちと心苦しいが、しかし、森下青年の言う通り、ここまで来て、そのまま帰る訳には行かない。
 大岩の割れ目に体を滑り込ませ、岩の向こう側に出てみると、そこには当初予想したよりかなり大きな眺望が広がっていた。
 縦に三百米、横が百米くらいの平地である。
 中央には川が流れている。しかし、その幅はせいぜい十五米程度であった。
 「あれれ。何だか拍子抜けしますね。どれだけ恐ろしい場所かと思いきや、きれいな谷ではありませんか」
 北国の秋は早く、周囲の木々はもはや色づき始めている。
 「これが怖谷なのか。穏やかで、美しい景色ではないか」
 川岸に歩み寄り、手で水をすくって見る。
 「澄んだ水だ」
 もう一度水をすくい、今度は口に運んだ。
 「美味い」
 一体、これのどこが『怖るべき谷』だと言うのだろうか。
 私は川岸にしゃがみ込んでいたが、ここでふと視線を上に向けた。
 「林太郎君。さっきの入り口に戻ろう。最初からやり直しだ」
 森下青年も頭上を見上げ、私の視線の先を見た。
 「うわあ」
 頭上では空全体がぐるぐると渦を巻き、雲を吸い込んでいた。谷に入るまでとは違い、灰褐色の暗い雲である。
 「どうやら、この谷は本物のようだ。作り物ではない、真の怪異がここにあるのだ」
 私たち二人は、もう一度谷の入り口に戻った。

 怖谷の入り口には、あの大岩がある。その岩の周辺を今一度詳細に調べてみると、やはり割れ目の真横の岩陰に、結界が張ってあった。
 ここで言う結界とは、真言を読み込んだ綱を張り巡らし、綱の内と外とを隔て遮断するものである。
 「やはりな。怖谷はこれこの通り封印されていたのだ。封印されたままでは、普通の谷と何ら変わりはない」
 「では、晴山君を見つけるためには、この封を解かねばならないということでしょうか」
 「そうだ。だが、そのことにより何が起きるかは、この私には想像がつかぬ」
 「ではどうしましょう」
 「結局は結界を解いて見るしかないだろうな。ここで帰ったら、物見遊山に来たのと変わりない。覚悟してくれよ、林太郎君」
 「はい。私に異存はありません」
 「では、もう一度岩の正面に戻ろう」
 私たちは再び大岩の正面に戻った。

 大岩の前で、私は森下青年に説明を始めた。
 「結界を解く鍵はここにある。これこの真言だ。最後の部分が消えているが、私はこの真言がどういうものかを知っている。この続きは『生霊、死霊、悪霊絡め取りたまへ。たまはずんば不動明王、おんびしびんからしばりそわか』と言うのだ。これは悪霊縛りの真言で、この世に災いをもたらす死霊悪霊を封じ込めるためのものだ。しかし、ちょうどその消えている部分を少し変えれば、縛りを解くための真言になる」 
 私は懐から懐紙と矢立を取り出し、筆でさらさらと文字を記した。
 「腹は座っているか、林太郎君。この岩の言葉に続けてこれを唱えるのだ。きっとそれで結界が開く」 
 「はい。やりましょう、先生」
 それから二人は、岩に刻まれた真言を冒頭より唱え始めた。
 文字が消えた箇所に差し掛かった所で、私が紙に書いた続きを繋げる。
 「ほぐれて解けて不動の縛の縄、あい緩めれば元のけんみちにとけ!」
 これを唱えて、しばらく様子を見たが、何ひとつ変わった様子が無い。
 「よし。もう一度だ。戯れでなく、明確な意思をもって、谷を開こうとしているのだと、示してやらねばならない」
 再び冒頭から真言を唱え直す。
 三度唱えたところで、ようやく最初の反応があった。
 地面の底から、「ぐぐぐぐ」という音が聞こえ始めたのだ。
 それと同時に、周囲が急に暗くなり始めた。
 もはや夕刻に近い頃でもあったが、ほんの一二分で周囲が闇に落ちた。これは明らかに異常な事態である。
 しかし、そんな変化の兆候もしばらくすると消えて、辺りは再び鎮まった。
 「先生。まずは松明(たいまつ)を作りましょう」
 「うむ。まずは灯りを準備してから、もう一度谷に入ってみることにしよう」
 こういう時のため、私たちは油やぼろ切れの類を携えて来ていた。

 松明を掲げながら、私たちはもう一度谷の中に足を踏み入れた。
 周囲はもはや真っ暗で、ほとんど何も見えない。河原を歩き、川の間近まで進んだが、先ほどと比べかなりの違和感を覚える。
 「何でしょう。さっきと同じ場所とは思えません」
 私にはすぐにその訳が分かった。
 「林太郎君。水音が消えているのだよ」
 つい一刻前に訪れた時には、渓流がさらさらと水音を立てていた。
 しかし、今はまるで湖の辺にいるかのように、ほんのわずかしか水音が聞こえない。
 「たった十数米の幅しかないのに、今度は何だか湖と言うか、はるか先まで水があるようです」
 森下青年が、松明を地面に刺し、地面の小石を拾って川に投じる。
 ちゃぷん、と音がした。
 森下青年はもう一度小石を拾い、今度は力を込めて遠くに投げた。
 すると、少し間を置いて、「ちゃぷん」と小さな音がした。
 「先生。三十米先にも水が流れているようです。さっき見た川と同じ川とは思えません」
 今度は私も加わり、力の限り遠くに小石を投じてみた。
 やはりかすかに水音が聞こえる。
 「これはもはや湖だ。あるいは海のような広さかもしれぬ。こんなことが現実に起きるとは・・・」
 私は思わずため息を漏らした。

 この時、川上の方から足音が聞こえて来た。
 「どしん」、「どしん」という重い足音で、次第にこちらに近づいて来る。
 薄暗がりのこともあり、私は遠くの音の正体を見極めることが出来なかった。
 「何でしょう。牛か馬のような重い響きです」
 今度は何が起きるのかと、さすがに不安になる。
 次第に近づく足音に耳をそばだてると、牛なのか馬なのかは分からぬが、どうやら一頭ではないらしい。
 訝(いぶか)しんでいるうちに、足音はどんどん二人の方に近づいて来る。
 そのままじっとしていると、不意に背後から声を掛けられた。
 「お前たち。すぐに後ろに下がって、この岩陰に隠れるのだ」
 振り返ると、そこにはあの老婆がいた。
 「早くしろ。犀鬼(さいき)に捕まるぞ。あれは鬼だ」
 老婆はこの時、確かに「鬼」と口にした。
 普通の状態なら、真っ先に疑うべき言葉だろう。だが、何せ得体の知れぬ獣の足音を、現実に耳にしている最中である。
 私は森下青年を共に、胸の高さほどの岩の後ろに身を隠した。
 驚いて退いたので、二人とも松明を水辺に刺したまま、そこに忘れて来ていた。森下青年がそれに気づき、岩の上から首を伸ばす。
 「あの松明はどうしましょう」
 火を見れば、少なくとも誰かがここにいることが、鬼たちに知れてしまう。 
 ここで老婆が同じ岩の陰に身を寄せて来た。
 「心配するな。あやつらは眼が見えぬ。耳も聞こえぬ。さらに火の暖かさを感じることも出来ぬのだ。ただ、人の動く気配だけは分かる。よって、あやつらが近寄ったら、けして身動きひとつするではないぞ。やつらに気(け)取られてしまうからな」
 その言葉が終わるか終らぬかの内に、重い足音がすぐ間近に近づいていた。
 私は岩陰に背中を預けてじっとしていたが、どうしても我慢出来ず、後ろを向いて首を伸ばした。
 (駄目だ。どうしても好奇心には勝てない。見てしまう。)
 すると、すぐ十米前を、どすどすと重い音を立てて三頭の獣が走っていた。
 松明の灯りに照らし出されたその姿は、大きな牛のようでもあれば、その名の通りの犀のようでもある。
 私は思わず「うう」と唸り声を上げた。
 その気配を感じ取ったか、三頭の獣は岩の真ん前で急に足を止めた。
 傍らの地面には松明が刺さっている。
 獣たちは頭を左右に動かし、気配の出所を探っていた。
 松明の灯りに照らし出された獣の頭には、目も耳も鼻も付いていなかった。頭はただの肉と骨の塊にも見えるが、顔の下の方に口だけが付いており、ぽっかりと暗い穴を開けている。
 (何ということだ。あれは到底この世のものではないぞ。)
 獣たちは口を大きく「あぐあぐ」と動かしながら、周囲の気配を探っている。
 私は静かに体を下ろし、岩の後ろに身を隠した。
 しばらくの間じっとしていると、その獣たちは、再び重い足音を響かせて、川下の方に去って行った。
 足音が遠くに去ったことを確かめた後、私たち三人はゆっくりと立ち上がった。
 「愚か者め。やはり封印を解いたか」
 老婆が険しい視線で私を睨み付ける。
 これに森下青年が反駁した。
 「我々は友人を探すために、ここまで来ているのです。ここは間違いなく友人が消息を絶った場所です。この谷まで来て、何もせず帰るなんてことが出来る訳がない」

北奥の風景 盛岡市馬場 芦名橋地蔵堂(妖怪小豆荒いを鎮めるためのもの) 
北奥の風景 盛岡市馬場 芦名橋地蔵堂(妖怪小豆荒いを鎮めるためのもの) 

 森下青年の言葉に、老婆がふっと小さな笑いをこぼす。
 「皆が同じことを言う。困窮した親兄弟のために来ただとか、子どもたちの命を救うためだとかな。そして必ず結界を破るのだ」
 「では晴山もここへ・・・」
 「その男のことは知らぬ。だがこの谷に入り込んで、無事に抜け出せた者はおらぬのだ」
 「婆様はどうしてここに?」
 「私はこの谷に人が入らぬよう、守り人として周囲を見張る者なのだ。私には霊力があり、短い間ならこの世界を出入り出来る。だが、そういう私もどうやら齢を重ねすぎたらしいな。岩の前を通り掛かったら、外から谷に流れ込む強風に、体ごと引きずり込まれてしまったのだ」
 この頃には、松明の灯りから遠ざかったことで、私の眼が闇に慣れて来ていた。私たちは真っ暗な闇の中にいるのではなく、黄昏時のような薄暮の中にいた。方々に薄明りが見えるが、地面から、わずかな光が出ているようである。
 うっすらとではあるが、周りの景色が見えるようになり、私は思わずため息を漏らした。
 「ここは最初に分け入った谷と同じ谷とは思えない。あの小さかった川は、今はまさに湖か海だ。はるか先まで水面が続いているではないか」
 「結界を破る前は、何の変哲もないこの世の谷だが、これをひと度破ってしまえば、この世から逸脱してしまう。ここはこの世とあの世が重なる地なのだ」
 今度は森下青年が老婆に問う。
 「先ほどの目鼻の無い獣は、一体何だったのでしょう」
 老婆の皺だらけの顔がさらにいっそう渋面に変じた。
 「あれは人だ」
 「人?」
 「正しくは、昔は人だった者だ。妄執に囚われ地獄にも極楽にも行けぬ、何千何万という亡者の魂が凝り固まり、あのような姿になったのだ。姿が犀に似ているので犀鬼と呼ばれておる」
 「え。あれでも元々は人だったのですか」
 「何と悍(おぞ)ましく恐ろしい姿だろう」
 ここで老婆が私たち二人の顔を順番に見た。
 「この谷に入り込むのは、さほど難しいことではない。だが、出るのは容易ではないぞ。最後にこの谷から人が出たのは、もはや数百年も前の話だと伝えられておる」
 ここに来て、私はようやく事態の重さを悟った。これまで、大概のことは科学で説明が付くと考えて来たが、やはり説明の付かぬこともある。その千にひとつ、万にひとつの証拠がこの谷なのだ。

 この時、唐突に人の声がした。 
 「おおい。おおい」
 声は川の中から聞こえていた。
 私は森下青年と顔を見合わせた。
 「なんだろう」
 さらに声が続いた。
 「おおい。誰かいるのか。いるなら返事をしてくれ」
 森下青年が眼を見張る。
 「あっ。あの声はもしや晴山ではないか」
 森下青年は水際まで走りより、声のする方に向かって叫んだ。
 「おい。お前は晴山か。私は森下だ。もし晴山なら返事をしろ」
 「森下?本当に森下なのか」
 「そうだ。晴山。お前は無事なのか」
 「俺は足を怪我して動けぬ。たった三十間の距離を泳いで渡ることが出来ぬのだ」
 目を凝らして見ると、沖合四五十米ほどのところに岩礁があった。
 声はそのわずか十米四方の大きさの岩礁の陰から聞こえていた。
 「晴山。お前はその岩礁にいるのか」
 「ああそうだ。鉄砲水に流されて、この岩に引っ掛かったが、どうやら足を折ったらしい。動けずに隠れていたのだ」
 「分かった。ではこちらから迎えに行こう」
 ここで森下青年が私の顔を見る。私は黙って頷き返した。
 たった五十米の距離だが、この地に船は無い。仕方なく、岸で流木を探し、これを頼りに泳いで渡ることにした。
 流木の枝を折り捨て、一本の丸太にすると、これを水に浮かべる。この木に掴まって行けば、途中で溺れることは無い。
 森下青年は己一人で泳ぎ渡ろうとしていたが、私も一緒に水に入った。
 流れの少ない穏やかな湖水で、岩礁までは十五分ほどで着いた。
 晴山という男は、森下青年の顔を見るなり、向こうから問い掛けて来た。
 「森下。お前はなぜここにいるのだ」
 「お前のことを探しに来たのさ。妹さんが心配しているぞ」
 「今は何日だ。ここには朝が来ないから、どれくらい経ったのかがわからない」
 「晴山。お前が消息を絶ってから、もう一か月近く経つのだ。お前はずっとこの谷にいたのか」
 「何だと。俺がここに入ったのは、たった三日ほど前だ。あれからひと月も経っていると言うのか」
 なるほど。老婆が言った通り、ここがあの世との境にある場所なら、時の流れはこの世と同じではないだろう。
 「よし、晴山。早いとこ岸に戻り、こんな薄気味悪い場所から、とっとと抜け出そう」
 「・・・」 
 何かを考えているような晴山の表情に、森下青年が畳み掛ける。
 「おい、晴山。どうした?」
 晴山は黙って、自分の唇に人指し指を当てた。
 「しっ。あの化け物がまた来そうだ」
 晴山は遠くの一点を見詰めている。私と森下青年がそちらの方向を向くと、さわさわという小さな水音が聞こえた。
 「来るぞ。頭を下げて、岩陰に身を隠せ」
 晴山はそう言うと、自ら腰を低くし、岩の陰に隠れた。
 私たちも晴山に倣い、岩礁の隙間に入り込んだ。
 程なく「シャアッ」という音が聞こえた。
 恐る恐る顔を上げて見ると、周囲の水面がうねうねと波立っていた。
 (まるで、魚か何かが泳ぎ回っているようだ。鰻のような長いヤツだな。)
 その正体はすぐに判った。
 その生き物が岩礁に近づいたところで、水面から姿を現したのである。
 水中を動き回っていたのは大きな蛇だった。
 鱗を持つ長い胴体が、水面を出たり入ったりして、岩礁の周りを泳ぎ回っている。
 「犀の次は大蛇の化け物か。何という恐ろしい所だ」
 私の呟きを聞きつけ、晴山青年が首を振った。
 「あの女どもに見つかっては駄目です。たちまち食い殺されてしまう。気配を消して下さい」
 この時、晴山青年は、はっきりと「女ども」と口にしていた。
 (あの蛇どもは女なのか。)
 この疑問もすぐに解けた。
 岩陰から盗み見る私の目前に、一匹の蛇が首を高く出したのである。
 水面から上に出た高さは、およそ五米。胴体の端から端までは、少なくとも二十五米はあるだろう。
 その蛇の頭には、恐るべきことに、人間の女の顔が付いていた。
 髪の長い女で、顔色が真っ青である。
 犀鬼同様、眼は見えぬらしく、二つの瞼はぴったりと閉じられている。だが半開きの口からは、絶えず「シャア」「シャア」と、禍々しい息が漏れ出ていた。
 (何という恐ろしさだろう。あんなものが本当にいるとは・・・。)
 私は岩礁の底に顔が付きそうになるほど身を屈め、女の頭を持つ蛇に気取られないようにした。
 幸いなことに、蛇には気づかれずに済んだ。 
 しばらくすると、その大蛇は沖の方に泳ぎ去った。
 長い時間が経ち、周囲が完全に鎮まった頃合いを見て、三人は同時に体を起こした。
 晴山青年が先に口を開く。
 「鉄砲水に流されて、やっとのことでこの岩礁にしがみ付いたのは良いのですが、落ち着く間もなくあの蛇が襲って来たのです。使用人を三人連れて来たのですが、皆あの蛇に食われました」
 「恐ろしい。あの顔を見ましたか。悪意に満ちた表情でした」
 森下青年の言葉に、私は深く頷いた。
 「あんな化け物がいるのでは、とっとと逃げ出した方が良さそうだ」
 「しかし、先生。我々はよもやあんな化け物がここにいるとは思いませんでしたので、ここへは丸太に掴まって来ました。再び岸に戻るのに、またこの丸太で戻るとなると、さすがに気が退けます。途中であの蛇が戻って来たら、ひとたまりもありません」
 「とは言え、他に方法が無い。ううん」
 ここで、晴山青年が声を上げた。
 「あれ?あちらに灯りが見えます」
 私と森下青年がその方向を向くと、沖合のかなり遠い所にカンテラの灯りが見えていた。
 「あれは・・・。舟ですね」
 「うん。小舟だ。誰かが船でこちらに来ようとしているのだ」
 「また化け物の類でなければ良いのですが」
 私は不安な心待ちのまま、身じろぎもせず舟が近づくのを眺めた。

 小舟が岩礁に近づくのを見ると、その船には壮齢の男が乗っていた。男は小袖一枚に野袴の格好で、頭に髷を結んでいた。男の顔は耳の下から顎の先まで、真っ黒な髭に覆われている。
 「あれは間違いなく人だな」
 「はい。違いありません」
 「よし。乗せて貰おう」
 私と森下青年は、すぐさま岩礁から立ち上がり、小舟に向かって叫んだ。
 「おおい。そこの人!」
 「お願いします。こっちに来て下さい」
 必死で呼び掛けると、男が振り向いた。
 「何だ、お前たち。そんなところで何をしているのだ」
 「流されて、渋々ここにいるのです。どうか岸まで乗せて行って下さい」
 「岸まではほんのわずかだ。自分たちで行けば良いではないか」
 「そんな。一人は足の骨を折っています。泳げないのです」
 「そうか。それならその男はこの舟に乗せてやろう。だが他の者は岸まで己の力で行くのだぞ」
 「そんな殺生な。我々も乗せて下さいよ」
 森下青年の懇願を他所に、男はどこ吹く風と言った表情で言い放つ。
 「なぜ泳ぐのだ?岸まで歩いて行けば良いではないか。俺は舟を漕ぐのが好きで、わざわざこうやって乗っているのだ。だが、いつもは歩いて渡っているぞ」
 男の言葉の意味が分からない。水の上をどうやって歩けと言うのだろうか。
 ここで、男は合点が行ったように頷いた。
 「なるほど。お前たちは迷い込んでここに入り込んだ訳だな。それなら勝手が分かるまい」
 男は手を伸ばして、晴山青年の体を船に引き上げた。
 「歩ける者は歩いて行くのだ。やり方はこうだ。まずは足の下に地面があることを思い浮かべよ。土の柔らかさ、草を踏みつける感触を頭に描くのだ。心が鎮まったら、足を前に踏み出すが良い。そうすれば岸にはすぐに着く」
 そう言い置くと、男は櫓を漕ぎ出し、ささと岩礁を離れて行った。
 「先生。あの男はああ言いましたが、そんなことがあるのでしょうか」
 「何が起きても不思議ではない。ここはあの世との境目らしいからな」
 それから二人は、水の前に並び立った。
 「土や草の感触を思い描け、か」
 私は子供の頃に遊んだ草原を思い浮かべた。
 あの時の私はまだ五歳。裸足で土の上を駆け回ったものだった。
 足の裏の冷たいような温かいような感触。
 (そうそう。あの日は空が真っ青な一日だったな。)
 私は五歳の幼児に戻り、足を一歩踏み出した。
 男の言った通りで、私の足の裏には土と草の感触があった。

 私と森下青年は、ゆっくりと水の上を歩いて、岸に到達した。
 岸に着くと、そこには男と老婆が立っており、地面には晴山青年が腰を下ろしていた。
 森下青年が興奮気味に口を開く。
 「貴方様のおっしゃった通りでした。水ではなく地面の上を歩いて来ました」

北奥の風景 盛岡市馬場 熊野権現
北奥の風景 盛岡市馬場 熊野権現

 「ふふ。ここはいわゆる三途の川というやつだ。水の流れは心の持ち様によって変化するのだ。心が邪心で満たされていれば、この水は黒く冷たい。しかし、心が安寧の域にあれば、自由に行き来出来るのだ」
 「では、やはりこの川の向こう岸があの世なのですか」
 「あの世のことを彼岸と申すだろ。それは要するにこの川の向こう側のことだ」
 私は傍らで話を聞いていたが、どうしても男に訊きたいことがあり、二人の間に入った。
 「では、向こうからいらした貴方様は、あちらの方ですか」
 「そうだ。今はあちら側にいる」
 「あちらは一体どのような世界なのですか」
 「それはその者の魂が選ぶのだ。人は死ぬと、己と同じような魂たちの許に行く。暗い心を抱えた者は暗い冷たい穴蔵に入るし、涼やかな心を持つ者は天上のさわやかな雲の中に向かう。いずれにせよ、それを選ぶのはその者自身なのだ」
 「貴方様はなぜこちらにいらしたのですか」
 男は顔を横に向け、隣の老婆に眼を遣った。
 「俺はこの者を連れ帰るために、ここに来たのだ」
 次に男は体を返し、老婆を正面から見据えた。
 「この者は生前、己の霊力を使い、霊たちの言葉を人に伝えるのを生業としていた。卜占師や八卦見のような者が、口から出まかせを言うのは一向に構わぬ。嘘や夢を語るのと同じことだからな。しかし真に霊力のある者が、人の行く末を先んじて知らしめるということは、けしてやってはならぬことなのだ。この者はそれを行ったがために、死してもなお彼岸に渡れず、三途の川の辺(ほとり)を彷徨って来たのだ」
 この時、老婆の方も、男の顔から眼を放さずにいた。
 「お前は・・・。私は前にどこかでお前と会ったことがあるような気がするぞ」
 男は穏やかな表情で見つめ返す。
 「柊女(しゅうじょ)。俺のことを覚えているか」
 老婆は男のことを思い出そうと、皺くちゃな顔をさらに歪めた。
 「お前は・・・。もしや赤虎か」 
 老婆の顔が急に晴れた。
 「はは。ようやく思い出したか。柊女よ。随分と長く待たせたな。俺はお前のことを迎えに来たぞ」
 「赤虎。私は一体どれくらいの間、ここにいたのだ?」
 男は顎をしゃくり、私たちの方を示した。
 「こやつらの時の流れで言えば、およそ三百年だな」
 「三百年とな。そんなに長い間、私はここにいたのか」
 「なあに。我らの時の流れで言えば、わずか三日も三百年もほとんど変わらぬ。時は霊魂にとってみれば、さほどの意味を持たぬからな」
 それから、二人は昔の話を始めた。
 昔、この世と地獄との境目に穴が開いたことがある。その穴を塞ぐために、この二人はこの怖谷に来たのだと言う。そこで二人は力を合わせ、その穴を閉じたのだ。
 二人の話の中身は、既に私の思考能力をはるかに超えていた。
 生きた人間の命は、せいぜい五六十年である。人はそれが人生の総てだと思い為している。ところが、死してもなお、魂は生き続けており、時間や空間の軸をはるかに超越した世界を行き来しているのだ。

 男が話を続ける。
 「柊女。俺がここに来た理由は、お前を連れに来ることと、もう一つ、花を見るためだ」
 「花を見るために・・・」
 森下青年の呟きを聞きつけ、男はほんの少し眼を向けた。
 「あの世にも花はあるが、色が無い。色と言えば、青い空と緑の草原だけなのだ。そこに赤や黄色の色は無く、どれもこれも白か灰色をしている。俺は色の付いた花が見たくなって、この川を渡って来たのだ。川のこちら側には赤い花が咲いているからな」
 ここで男が私たちの後ろの方を顎で示した。
 私たちが振り返ると、川岸の土手の上には、一面に曼珠沙華の赤い花が咲いていた。
 「おお。先ほどまでは、花など無かったのに」
 三人の驚き声を聞き、男が微笑む。
 「ここは三途の川だ。死者が生前の総ての欲を、また一生分の愛憎をここに捨てるのだ。よってここでは、どんなものでも見聞きすることが出来るのだぞ。では、少し明るくしてやろう」
 赤虎が言い終わる前に、周囲がパアッと明るく変わった。つい今し方までは黄昏の中にいたが、今は昼のような明るさである。
 それで、この谷の中を見渡すことが出来るようになった。
 現世で小川だと思っていた三途の川は、広大な海であった。その川の反対側には谷の斜面があったはずだが、今はただの崖ではなく、数千米級の高山が立ち並んでいた。
 その山の裾野には、麓を埋め尽くすように、曼珠沙華の赤い花が咲き誇っている。
 その荘厳な風景を見て、我知らず言葉が漏れていた。
 「なんと美しい景色だろう」
 「先生。見事ですね」
 私たちは瞬きもせず、この世界を眺め続けた。

 「赤虎」
 傍らで女の声がした。
 すると、つい先ほどまで老婆が立っていた場所に、三十を幾つか過ぎた年恰好の女が立っていた。女は白づくめの巫女装束を身に纏い、穏やかな表情で佇んでいた。
 「おお」
 私たちは驚き、二歩三歩と後退りした。
 男は悠然と女のことを眺めている。
 「柊女。ぬしはすっかり眼を醒ましたのだな」
 「よもや、私を救いに来るのがお前とはな。まこと、この世もあの世も分からぬものだ」
 「ははは。俺と柊女とは少なからぬ縁(えにし)があるではないか。それとも、別の者に来て欲しかったのか」
 「いや。そんなことはない」
 女はにこにこと笑っている。
 ここで、男は私の前に近寄った。
 「お前たちは、今、自分はここにいると思っているだろうが、ここにいるのはお前たちの魂だけだ。お前たちの体の方は最初に見た川の辺に横たわっているのだ」
 「えっ!」
 (そりゃ、一体どういうことだ?)
 「今はあの世とこの世の境目にいる。だが体ごとは入れぬから、体は元の川原に残して来ているのだ」
 「では、私たちはどうやって帰れば良いのですか」
 「来た時と同じように、また穴を通って戻れば良い」 
 「穴・・・」
 「お前たちはこの谷の封印を解き、霊力のある女をここに引き入れたが、それでこの世とあの世とを結ぶ穴が開いてしまっている。その穴を通り抜ければ、元の体に戻れる。そっちの男も、まだ体が残っているようだから大丈夫だろう。草叢に置いて来た体が、今まで損なわれずにいて良かったな」 
 「穴など、どこにも見えませんが」
 「眼には見えずとも、そこにある。これからひと仕事終えたら、その穴を見せてやろう」
 「ひと仕事?」
 「お前は質問の多いやつだな。穴が開いているのだから、閉じずにそのままにして置けば、地獄の鬼たちが穴から這い出てしまうではないか。これまで幾つかの鬼は見ただろうが、ここにおるのはそんな軽いものではないぞ。そっちの男が小穴を開けてからひと月が経つ。今はお前たちがそれを大きくして、十分に鬼の出入りが出来る大きさになっておる」
 「では、どうなさるので?」
 「穴を塞ぐ」
 「どうやって穴を塞ぐと言うのです?」
 「もっとも簡単な方法は、女の首を吊るすことだ」
 「えっ」
 ここに女はいない。強いて言えば一人だけである。私はついつい柊女という女の方を見てしまった。
 「生贄に捧げる女は二人。一人はこの世の欲に縛られ、執着心を燃やす者。もう一人は、欲心から解き放たれ、心の安寧が得られた女だ。お前たちは付いているぞ。この川にはそんな女の魂など、ごまんと転がっておるからな」
 男は私たちに背中を向け、川の中にじゃぶじゃぶと音を立てて踏み込んだ。
 男は水の中に手を入れると、まず鉄の棒のような物を引っ張り上げた。これを岸に置くと、 男はもう一度川に入り、今度は大ぶりの刀を引き上げた。
 「これで良かろう。この川の中には何でも落ちている。ここは生前の総ての欲望を沈めるところだからな」
 柊女という名の巫女が、その鉄棒に眼を留めた。
 「赤虎。それはあの時の」 
 「そうだ。前にここに来た時、牛頭鬼(ごずき)から奪い取った鉄棒だ」
 「ふふ。では私の方は、人首大蛇を一匹、救ってやらねばならぬ訳だな」
 「その通り。いちいち話して聞かせずとも良いから、やはり気心の知れた仲間は良い」
 男はちらと私の方を見た。煩く質問する私に向けた皮肉めいた視線である。
 三途の川を渡りこちら側に来ただけで、あの世の住人でも、多少は人間臭くなると見える。

 先に柊女という女が水辺に歩み出た。
 柊女は胸の前に右手を掲げ、一心に何事かを念じ始めた。
 しばらくすると、女の前の水面がさざ波のように揺れ、遂にはうねりとなった。
 そのうねりの中から、大きな水音を立てて、大蛇が姿を現した。
 大蛇の頭には、長い黒髪を垂らした女の顔が付いている。その女の顔には眼が無く、口が耳の下まで裂けていた。
 「何と悍(おぞ)ましい姿だ」
 柊女の後ろで見ていた私たち三人は、四歩五歩と後退りした。
 人首大蛇は口を開け、「シャアッ」と、息とも叫び声とも聞こえる声を上げながら、柊女に飛びかかろうとする。
 しかし、蛇は柊女の差し出した掌に近寄ると、急に大人しくなった。
 うねうねと動いていた胴体が、ゆっくりと動きを止める。
 ここで前に立つ男が振り向く。
 「あれは邪気を払っているのだ。あの蛇は元々女たちだが、恨みや妬みなどの邪念を捨て切れず、それが何千何万と凝り固まり、あのような蛇の姿になったのだ」
 蛇は柊女の真ん前で動きを完全に止めた。
 顔と顔の間はわずか一尺かそこらの距離である。
 「よし。次は俺だ」
 男は徐に歩き出し、水の中にじゃぶじゃぶと入った。
 膝上の深さまで入った所で、男は鉄棒を水面に叩き付ける。
 ザブンと水が跳ね上がる。
 もう一度、男が鉄棒を叩きつける。
 再びザブンと音高く水が跳ねた。
 すると、その気配を嗅ぎつけたか、沖合から漣(さざなみ)が走り寄って来た。
 それが人首大蛇であることは、もはや間違いない。
 男の方は、その二匹目の大蛇に知らしめるように、もう一度鉄棒を水面に叩き付けた。
 化け物はこれで進む方向を見極めたのか、男の方に漣が一直線に進んで来た。
 男の直前に来ると、水面から大蛇が姿を現した。大蛇は跳び上がって、男の首に噛みつこうとする。
 男は鉄棒を掲げ、その鉄棒を大蛇に噛ませる。かたや大蛇は直ちに男を食おうと、その鉄棒を思い切り噛んだ。その勢いで大蛇の上下の牙が鉄棒をがっちり銜(くわ)え込み、外れなくなった。
 その瞬間、男は右手の太刀を一閃させ、大蛇の首をひと太刀で切り落とした。
 男は切り落とした女の髪を掴み、首をぶら下げて岸に戻った。
 男はそのまま柊女の許に近づくと、無言でその巫女をそっと脇に押しやり、大蛇の正面に立った。
 再び太刀が振り下ろされた。
 男は二つ目の女の首を掴むと、川岸に並べ置いた。
 「柊女。ではこの世とあの世に繋がる穴を閉じ、この女たちを救ってやってくれ」
 男の言葉に、巫女の柊女が頷く。柊女は女の首の前で真言を唱え始めた。
 男が私たちのところに戻って来た。
 「ぬしはまた、何故かと問い質すのだろうな」
 男は苦笑いを漏らしていた。
 「長々と話はせぬぞ。お前たちもいずれは死ぬ。そして必ずこの川に来る。来ればその時に分かることだからな」
 「あの女の蛇はどうなるのですか」

北奥の風景 姫神山麓から望む岩鷲山(岩手山)
北奥の風景 姫神山麓から望む岩鷲山(岩手山)

 「女の邪念が蛇の姿になったと申したであろう。その胴体を切り離し、魂を鎮めれば、女たちは川を渡ってあちら側に行ける」
 「ただ単に生贄にするではないのですね」
 「おい。俺はお前たちの言葉で言えば、まさに仏そのものなのだぞ。例え相手が亡者の変じた化け物だろうが、意味無く殺生をする訳が無かろうが」
 実に生臭い仏である。
だが、その一瞬に、私はこの男が何となく好きになった。
 「柊女の祝詞だか真言だかが終われば、一刻も経ずして穴が閉まる。穴が閉まれば、もはや現世には戻れぬ。お前たちのような半死人がここに留まれば、亡者となって永久にあの世とこの世の間を彷徨(さまよ)うことになるだろう。だから早々にここを立ち去るのだ」
 「でも、その穴はどこにあるのですか」
 男はあきれたような表情で、私たちの後ろを指差した。
 「そこを見ろ」
 指された方を振り返ると、三十米先の斜面に赤い火の輪が見えていた。正確には崖の斜面ではなく、その上の空中に、光の輪が口を開けていたのである。
 「良いな。直ちに三人でここを出るのだぞ」
 男に促され、私と森下青年は晴山青年の左右で肩を貸し、その輪に向かって歩き出した。
 
 穴に向かって十五米ほど歩いた所で、後ろから男が私たちを呼び止めた。
 「あ、ちょっと待て。お前たちに土産をやろう」
 後ろを向くと、男が再びざぶざぶと川に入って行くのが見える。
 男は水の中に手を突っ込むと、何かを掴み上げ、手拭いでくるくるとそれを包んだ。
 それから男は、私たち三人に歩み寄ると、その包みの端を結び、森下青年の首に掛けた。
 「お前たちが柊女をこの怖谷の奥に引き入れてくれたから、今はあの者を連れて行ける。これは心ばかりの礼だ。よし早く行け。俺たち二人ももうここを離れる。外に出たら、鬼が迷い出ぬよう、穴を閉じるのだ」
 男はそう言うと、くるりと背を向け、巫女のところに向かった。
 「儀式が終わるのだな。では我々も急いでここを出よう」
 それから三人は光の輪まで歩いた。
 輪の中に入ろうとする直前に、私は一瞬の間、後ろを振り向いた。
 すると、男と巫女の二人は、舟に乗り、沖に漕ぎ出すところであった。
 男が櫓を漕ぐ音が、かすかに聞こえて来る。
 男は手を動かしながら、舟底に座る巫女に何ごとかを話し掛けている。
 二人とも穏やかな表情をしていた。
 その姿を見届けた後、私たちは前に向き直り、光の輪をくぐった。
 私は穴を通り抜ける途中で気が遠くなり、ふっと気を失ってしまった。

 眼を醒ますと、私は小川の辺で寝ていた。
 体を起こし、周りを見回すと、そこは最初に来た時の川の辺である。
 隣には森下青年が同じように横になっている。森下青年を揺すり動かすと、彼も眼を開けた。
 ほとんど同時に、少し離れた草叢から「うう」という声が聞こえた。
 「戻ったのですね」
 「ああ。そのようだ」
 森下青年の首には布包みが懸っていた。
 「それはあの男が寄こした物だな」
 「土産だと言っていましたが、一体何でしょう」
 包みを開けて見ると、その中に入っていたのは、拳よりもふた回り大きな金塊であった。
 「道理で重かった訳ですね。首が凝りました」
 「なるほど。三途の川は人生の総ての欲を捨てるところで、川の中にはどんな物でも沈んでいる。あの男はそう言ったが、実際その通りらしい」
 もう一度包みを結び、二人一緒に立ち上がった。
 私たちは谷の外に出て、大岩の前で悪霊縛りの真言を唱えた。その後で、注連(しめ)縄を繋ぎ、結界を元の通りに閉じた。
 谷の手前まで駄馬を連れて来たはずであるが、綱を結んでいた灌木の周りには見当たらなかった。
 晴山青年に肩を貸し、三人で歩き始めると、程なく野原の向こうに、その馬がいるのを発見した。
 私たちがいない間に繋ぎ馬の口(縄)が外れ、放馬したらしい。晴山青年が歩けぬこともあり、この馬が遠くに逃げ去っていないのは幸いであった。
 馬は心なしか少し痩せていた。

 駄馬に晴山青年を乗せ、元来た道を戻り始める。
 さすがに腹が空き、何か食いたくなったが、あの村まで我慢することにした。
 わずか数時間の道程である。村に行き、美人姉妹の作る手料理を食べる方が、はるかに楽しいからである。

 四時間ほど歩き、ようやく三人はあの村の入り口に近づいた。村の入り口を通り抜け、村人が踊りを踊っていた広場に差し掛かる。
 ここまでは、最初に来た時とまったく同じである。
 怖谷で強烈な出来事を経験したこともあり、私たちはもはやへとへとだった。
 ところが、そこから先、大きな松の木に向かう道に入ろうとすると、前回来た時とは様相が一変していた。
 松屋敷への道が途中で消えていたのだ。
 山側から崩れた土砂で、道が押し潰されていたのである。
 「これは一体どうしたことでしょう。あの集落が無くなっています。松屋敷の目印となる松の木も見えません」
 森下青年は崩れた土砂を前にして、盛んに訝っていた。私も同様である。
 「一体どうしたのだろう。まさかあれから直ぐに、何か凶事が起こったとでもいうのだろうか」
 三人で呆然と立ちすくんでいると、背中の方から声を掛けて来る者がいた。
 「皆さん。皆さん。ご無事でしたか」
 後ろを振り返ると、そこには弁当売りのあの青年が立っていた。
 「君は、確か吉田亀五郎君だね。どうしてここに?」
 まるで少年のような顔つきの吉田君が、小走りで寄ってくる。
 「もし、皆様が戻って来られぬようなら、警察に届けてくれと申されたではありませんか」
 「え?あれからどれくらいの日にちが経ったと言うのかね」
 「間もなくひと月です。周りの山の木々もすっかり色づいているではありませんか」
 これを聞いた私たち三人は一様に絶句した。
 私と森下青年が怖谷に入ったのは、つい昨日のことである。
 その一日の間に、外の世界ではひと月の時が経っていたのだ。
 (そう言えば、あの男は「時の流れは現世とは違う」と言っていたな。しかし、まさかここまで違うとは、本当に恐れ入った。)
 私たち三人は、余りの驚きから、その場にしゃがみ込んでしまった。
 程なく、村の入り口から人が入って来た。
 先頭は巡査たちで、その後ろには人が十数人か続いている。
 弁当売りの吉田亀五郎君が、その先頭に立つ巡査にぺこりと頭を下げた。
 「あれは皆様の捜索に来た警察や役所の方々です。東京から来た高名な先生だということで、捜索隊を出してくれたのです」
 「そうか。では大変ご迷惑をお掛けしました。どうも有り難う」
 そんな話をしているうちに、捜索隊の一行が近くまで来た。
 「ご無事でしたか」
 「これは良かった。我々は正直、皆さんを探すのは少し難しいかと思っていましたよ」
 先頭にいた巡査二人が、私たちの様子を確認している。
 私はそのうちの一人、年配の巡査の方にどうしても尋ねたいことがあった。
 「この村は一体どうなったのですか?この近くには松屋敷という家があり、婆様と姉妹二人が住んでいたはずですが、今は影もかたちも見えません。このひと月の間に、何か災害でも起きたのですか。朱莉と雪絵の姉妹は、今どこにいるのですか」
 私が捲(まく)し立てると、巡査二人が互いに顔を見合わせた。
 「先生。確かにこの村は山津波に襲われ、全滅しました。村人はほぼ全員が土砂に飲み込まれ、亡くなったのです。でも」
 その話のあまりの衝撃に、私は眼の前が暗くなった。
 うわんうわんと耳鳴りまで聞こえる。
 「でも井ノ川先生。この村が無くなってしまったのは、今から十二年も前のことです」
 これを聞き、隣に座る森下青年が驚いて、大声を上げた。
 「そんなまさか!我々はあの姉妹とここで会い、ちゃんと話をしました。先生。そうですよね。あれは夢でも妄想でもなく、ここで起きたことですよね」
なんということだろう。私たちが出会った村人や、あの姉妹は、既にこの世の者ではなかったのだ。
 私はその時、森下青年に言葉を返すことが出来ず、崩れた土砂の跡を茫然と眺め続けた。

 一時間の後、私たちは捜索隊と共に、その村を後にした。
 この最初の峠を越えると、あの村は山陰に隠れ見えなくなってしまう。
 (もはや二度とこの地を訪れることも無いだろう。)
 あの姉妹のことを想うと、さすがに後ろ髪を引かれる思いがする。
 一行が峠の頂きに達しようとした時、不意に私の背後から声が響いた。
 「先生。お願いします。どうか私たちを東京に連れて行って・・・」
 私は思わず後ろを振り返った。
 すると、峠の下の方から吹き上げて来た風が、私の顔にひゅうと当たった。
 その風には、ほんの少しだけ、朱莉の匂いが混じっていた。

 かつて村があった方向を望むと、あの村の周りには、もはや霧が下りていた。 
その霧に隠れ、あの松屋敷があった辺りは、今はすっかり見えなくなっていた。 (了)

◆注釈◆
◎井ノ川円了:モデルは実在の妖怪博士・井上円了である。時代設定は明治二十七(一八九四)年前後で、井上円了が狐狗狸を解明したほぼ二年後となる。
◎森下林太郎:モデルは森林太郎(鴎外)。この年齢の頃は陸軍軍医である。
◎男(赤虎):戦国末期の盗賊。生前は赤平虎一という名である。かつて柊女と共に怖谷に入り、この世を救ったことがある。
◎老婆(柊女):生前は巫女で、神託を世人に伝えるのを生業としていた。
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