九戸戦始末記 北斗英雄伝

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高水寺城

高水寺城は、岩手県紫波町の中心付近にあります。
この城は「御所」との異名を持つ、斯波氏の居城でした。最後の城主は斯波詮元(後の詮直)で、南部信直の攻撃を受け、天正14(1586)年に落城したとされています。

「九戸戦始末記 北斗英雄伝」は、天正19年の年頭からの物語ですので、話の中に高水寺城は出てきませんが、そのプロローグたる「山吹の花が咲く頃」に、この城が登場します。

高水寺城 城下の「しもやまばし」
高水寺城 城下の「しもやまばし」

盛岡から国道4号線を南下すると、紫波町の中心付近で左側に「高水寺城跡」の案内板が見えます。
この交差点を左に曲がり、道なりに数百メートル進むと、駐車場があります。
この駐車場の上は山で、山全体が城になっていたことが見て取れます。

最初に見えてくるのが、この「しもやまばし」で、これは掘割の上に渡された渡り橋です。

高水寺城 掘割
高水寺城 掘割

橋の袂に「かもしかに注意」の看板がありました。

こちらが橋の右手に見える掘割です。
高水寺城は山城ですが、おそらく城下には、山を取り囲むように堀が作られていたのでしょう。

高水寺城の中腹
高水寺城の中腹

橋を登ると、かなり長い坂が続きます。
百メートルはあるでしょうか。
ここはなかなか大きな城のようです。

高水寺城の坂上の階段
高水寺城の坂上の階段

最初の坂の上に、階段が見えて来ました。
坂自体は、それほど急な斜面ではありませんが、延々と続いているため、次第に息が切れてきます。

高水寺城の三の丸(?)付近
高水寺城の三の丸(?)付近

最初の階段を登ると、平地が開けていました。
たぶん上から何番目かの平地で、「○○の丸」というような呼び名がある筈です。
(ここから頂上まで、さらに2回ほど平地に出ますので、三の丸くらいにあたるものと思われます。)

城の見取り図などがあれば助かるのですが、周囲にはそれらしき看板が見当たりません。

高水寺城の若殿屋敷
高水寺城の若殿屋敷

三の丸(?)をさらに上がると、右手に「若殿屋敷跡」の看板が立っています。

今回はたまたま通りすがりに立ち寄ったため、下調べをしていません。
近くの図書館で、城の詳細について調べる必要がありそうです。

二の丸(?)へ向かう道の下側
二の丸(?)へ向かう道の下側

若殿屋敷から50メートルほど北に回り、さらに上に上る道に出ました。
これはその坂道の下を眺めた眺望です。

本丸手前の案内板
本丸手前の案内板

長い坂道を上り終えると、そこには看板が立っていました。
高水寺城の由来や落城までが簡単に記されています。

高水寺城の本丸
高水寺城の本丸

頂上に出ると、ここにも広い平地が開けていました。
この城は、岩手県のお城の中では、かなり大きな城で、さすが「紫波御所」と呼ばれるほどのものだと納得します。

ちなみに城主は斯波氏ですが、地名は天正末期以降、「紫波」と表記されるようになっています。
最後の城主たる詮元が、川のせせらぎに陽光がきらめいているのを見て、「紫波」と名前を改めたと伝えられています。
もちろん、斯波の最後の君主のしたことですので、しばらくは浸透しなかっただろうと思います。

斯波詮元は文人君主であったらしく、神社や仏門を手厚く保護しました。
南部藩によって記された文書では、詮元は暗愚の主君で、それがために多くの家臣が離反したことにされていますが、これもどうも眉唾です。
侍が出払っており空城同然となっていた高水寺城を、南部信直が攻め、瞬く間に落としてしまいますが、落城すれば戦が終わるわけではなく、その後しばらくの間は、高水寺の門徒が一揆を繰り返したようです。
この辺の詳細は総て藩史から抹消されています。
都合の悪い事実は、常に抹消されてしまいますので、おそらくこの地でも一揆勢の殺戮が行われたのだろうと想像できます。

高水寺城の神社
高水寺城の神社

本丸のはるか奥には、守り神たる神社が見えています。

自然の地形をうまく利用したのでしょうが、城普請の際には、頂上付近を切り崩して平らにする工事が行われた筈です。
どれだけの人数がかかって、この城を作ったのでしょうか。おそらく何千人の規模です。
石垣こそありませんが、高水寺城は岩手県内屈指の規模を持つ巨大な城でした。

本丸の上から城下を眺めると、掘割の外までは直線距離で200㍍はありそうです。
「山吹の花が咲く頃」では、この城を落とした南部信直が上に立っているのを、下から九戸政実が見上げる場面があります。
馬に跨る政実が「親指くらい」のサイズに見えていると想定したのですが、今回はきっちり合致していました。

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