九戸戦始末記 北斗英雄伝

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早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



海濤 ─民話「魚の女房」より─              早坂昇龍

海濤(かいとう)             早坂昇龍
 今は昔のこと。
 鮫ヶ崎の沖、磯から三十間ほどの水の中に、神社の鳥居が沈んでいた。
 その鳥居は元々岬の上にあったものだが、慶長の大地震の時に津波が押し寄せ、海に飲み込まれたのだ。
 鳥居は土台ごと引き波に持ち去られた。
 しかし、昔の職人は腕が確かで、きっちりと材木を組んでいた。このため、鳥居は壊れることなく引き波に運ばれ、海底の岩の間に挟まると、そのままそこに留まったのだった。
 それから長い年月が経ち、表面の赤色はすっかり剥げ落ちたたが、鳥居は昔通り海中に佇んでいる。

三陸 とどヶ崎付近の海
三陸 とどヶ崎付近の海

 その近くの漁村に、捨吉という男が住んでいた。
 捨吉は漁師だったが、内地で飢饉が続いたせいで海の獲物が捕れず、食うや食わずの暮らしを送っていた。
 飢饉は冷害より生じる。
冷害のせいで山の緑さえ見えぬようになると、山の滋養が川に流れぬようになる。 
そうなると、川が滋養を海に運ばなくなるから、海の魚も激減してしまうのだ。
 仕方なく捨吉は、昆布を拾ったり、塩を作ったりして、どうにか生計を得ていた。
 しかし、元が漁師であるから、魚は獲れぬと承知していても、捨吉は日に一度は必ず沖に出た。
 網に幾らか小鯵が掛かることも無いわけでは無い。だが、殆どの場合、捨吉は手ぶらで岸に戻ることになった。
 漁の行き帰りに、捨吉は海に沈んだ鳥居の近くを通る。鳥居が間近になると、海の安全と豊漁を祈願するため、その都度捨吉は手を合わせる。
 そのまま舟を停め、波間を眺めると、鳥居の周りには数多くの魚が群れている。
 「沖ではまるで獲れぬのに、ここにはこんなに魚が居るなあ」
 捨吉にとっては、お宝の山である。
 だがもちろん、捨吉はこの場所で網を打ったりはしない。ここは神社の境内と同じで、神の領域だからである。
 「波に攫われても、あの鳥居はああやって立っている。神さまには何かお考えがあるのだ」 
 魚たちも、それを知ってか知らずしてか、猟師の舟が近寄っても、別段逃げもせず、ゆらゆらと泳いでいた。
 そんな魚たちの中に、一尾だけ真鯛の姿が見えていた。
 この近辺で、真鯛の成魚は珍しく、漁師でも滅多に見掛けることは無い。
 捨吉はその真鯛の姿の美しさに見惚れ、鳥居を過ぎる時には舟を停めた。
 「いつ見ても見事なものだ。おいお前。お前はけしてここから出てはいけないよ。ここに居れば、漁師に網を掛けられることは無いのだからな」
 ここで捨吉は懐から、小さな鈴を取り出した。
 チリンと鈴を鳴らすのが、餌の合図だ。
 鈴を鳴らした後、捨吉は舟の近くに魚たちの餌を撒いた。
 毎日のことで、魚たちも慣れている。
 鈴が鳴るとすぐに魚たちが船の周りに集まって来た。
 そんな小魚に混じり、一尺ほどの真鯛が悠々と泳ぎ、捨吉の舟に近付く。
 ごく間近まで寄ったので、捨吉にはその真鯛の頭に、白い掻き傷が一本あるのが見えた。

 飢饉は断続的に十年程続いたが、前の年くらいから気候が緩んできた。
 いくらかではあるが、網に魚が掛かる日が増えて来た。
 ある日、沖合に海鳥が集まっているのが見えたので、漁師たちは大慌てで舟を出した。
 鳥たちの下には鰯や鯖の群れが泳いでいる筈だからである。
 捨吉も漁師たちに混じり、自らの舟を出した。
 案の定、沖合には鰊が寄せて来ていた。
 波が白く立つほどの数である。
 通常、鰊漁は刺し網を使い、漁師が協同で行う。しかし、今は浜に戻っている余裕は無い。
 そこで、各々が自分の網を打って、鰊を掴まえることにした。
 その漁は大成功で、漁師たちは舟に積み切れぬ程の鰊を引き揚げた。

 捨吉が船の上で網を開くと、鰊の中に一匹だけ真鯛が混じっていた。
 その真鯛を確かめると、頭の所に小さな傷が付いていた。
 日頃、鳥居の近くを泳いでいた、あの鯛である。
 捨吉は思わずその真鯛に声を掛けた。
 「おい。どうして鳥居を離れたのだ。あそこに居れば安心だと申していただろうに」
 真鯛は苦しげな表情で捨吉の顔を見る。
 捨吉は日頃より、その魚に人に対するように接して来たので、どうしても不憫でならなくなった。
 捨吉は真鯛を逃がしてやることにした。
 捨吉は真鯛を海に放し、いつもの通りに声を掛けた。
 「二度と漁師の網に掛かるなよ」
 真鯛は捨吉の言葉を解するかのように、捨吉に眼を向けると、そのまま海中に姿を消した。

 それからひと月後のことだ。
 ある日、海が時化て、浜に荒波が押し寄せた。
 捨吉は自分の舟が流されないように、浜の上に引き上げることにした。
 浜に近付くと、あろうことか、沖の波間に人の姿が見える。
 捨吉が目を凝らして見ると、果たしてそれは人だった。
 その人は浮きつ沈みつしながら、浜に泳ごうとしている。
 「あれは・・・。人だ。野辺地港とここの港を結ぶ船が難破したのだ。きっとそうに違いない」
 北前船は野辺地を経由して蝦夷地に向かう。野辺地では、荷の一部を地元の船に積み替え、周辺の港に運ぶ。
 その運搬船が転覆し、乗っていた人が海に投げ出されたに違いない。 
 捨吉はそのことを悟ると、すぐさま海に飛び込んだ。
 この日は相当な荒波だった。
 泳ぎの達者な漁師でも、幾度も水を飲み、波に叩き付けられた。
 それでも、捨吉は溺れていた人を浜に引き上げることが出来た。
 浜で相手を確かめると、溺れていたのは若い女だった。女はしたたかに水を飲んだと見え、ぐったりしている。
 捨吉はその女を背負い、家に連れて帰った。
 捨吉の背中から下ろされても、女は意識を失ったままだった。

 「体が氷のように冷たい。濡れた着物をすぐに取り替えて、体を温めねば」
 捨吉は奥の部屋に行き、箪笥を引き開けた。箪笥の底には、先年亡くなった母親が、この家に嫁に来た時の着物一式が入っている。
 捨吉はその中から長襦袢を取り出し、女の許に戻った。
 「今は火急の時だから、許してけろよ」
 捨吉は女の濡れた着物を脱がせ、乾いたものと取り替えた。

 女が正気を取り戻すまで三日掛かった。
 その間、捨吉は、匙で粥を女の口に含ませたり、傷の手当をしたりと、献身的に尽くした。
 眼を開くと、最初に女は捨吉にこう言った。
「ここは何処なの?わたしはどうしてここに居るの?」
 船から海に落ちた時に、何処か二強かに打ちつけたらしく、女の額には打ち傷が出来ている。 
 頭を強く打ったせいか、女は前の記憶をすっかり失くしていた。
 この女のつぶらな瞳を見て、捨吉の胸はどきりと高鳴った。
 「傷が癒えて、前のことを思い出すまで、この家に居ると良いよ」
 捨吉の申し出に、女はこっくりと頷いた。

 それから十日の間は、女は寝たり起きたりの状態だった。
 しかし、日一日と女の顔に赤味が差して来る。
 捨吉が漁から戻ると、女が必ず「お帰りなさい」と迎える。その声も次第に力強くなって来た。
 捨吉もそんな女を見るのが楽しい。
 一人暮らしで寂寞とした家の中が、花が咲いたように明るくなった。
 しかし、女は己の名を思い出せぬままだ。
 このため、捨吉はひとまず女を「汐音(しおね)」と呼ぶことにした。
 そんなある日。捨吉が八日の市に干物を売りに行くと、網元の佐太郎に出会った。
 佐太郎は捨吉の母方の遠い親戚にあたる。
 佐太郎は捨吉を見つけると、有無を言わせぬ口調で告げた。
 「おい。そろそろあの話に返事をして貰うぞ。往来では何だから、明日お前の家に行く。何も出さんで良いからな。もてなしは要らぬ」

三陸海岸
三陸海岸

 「あの話」とは縁談のことだ。
 佐太郎は捨吉に己の二女を娶れと迫っていたのだ。
 網元の娘なのだから、貧乏な漁師の捨吉には悪い話ではない。
 ところが、一見美味そうな話には、必ず裏がある。
 網元の二女は幼き頃より我がままに育てられた。このため、長じた今も親の手に余る代物となっているのだ。
 その評判が知れ渡ってしまい、もはや良縁は望めない状況となったので、佐太郎は遠縁の捨吉のところに押し込もうとしているのだった。
 佐太郎にしてみれば、体(てい)の良い厄介払いとなる。
 捨吉は生来気の強い方ではなかったし、佐太郎には借りもあった。このため、これまで捨吉はその話を拒絶出来ずにいたのだった。
 「分かったな。明日お前の家に行くぞ。もてなさんで良いからな」
 捨吉には何とも返す言葉が無い。

 家に帰り、捨吉は汐音にこの話をした。
 「明日、網元がこの家に来る。どうしたものか」
 汐音はにっこりと笑った。
 「何をそんなにお困りですの」
 「網元はもてなさんでも良いと言った。それは逆に、何か出せと言う意味ではないかと思う」
 「では、何かお出しすれば良いのでは」
 「しかし、魚も貝も海の物は食い慣れておるだろう。かと言って、変わった物などこの家には無い。食うや食わずの暮らしだからな。ここはどうしたもんだろう」
 汐音は再びにっこりと笑う。
 「では、明日はわたくしがお作りします」
 捨吉は両眼を見開いた。
 「え。汐音は料理が出来るのか。昔のことを思い出せたのか」
 しかし、汐音は首を振った。
 「いえ。まだわたくしは前に己がどこで何をしていたのかを思い出せてはいません。それでも料理の仕方だけは何となく憶えているのです。でも」
 「でも?」
 「わたくしが厨房に入ったら、けしてそこには来ないで下さい。家伝の料理法ですので、他人に漏らしてはいけないと親に言われていたような気がします」
 「他人に漏らさぬ特別な料理の仕方があると申すのか」
 「そうです。きっとその網元さんもご満足頂けます」
 そこまで言うのなら、きっとこの娘に任せても大丈夫だろう。
 捨吉は明日のもてなしを汐音に預けることにした。

 翌日の昼に、佐太郎がやって来た。
 佐太郎は、酒瓶を板の間にどんと音を立てて置くと、家の中に上がり込んだ。
 土産と言うより、佐太郎自身が飲むための酒だ。
 佐太郎が用件を切り出すより前に、捨吉が口を開いた。
 「今日はようこそこんな襤褸屋にいらっしゃいました。口汚しですが、家の者が汁の物を作っております。遠慮なく召し上がって行って下さい」
 思いも寄らぬ立派な口上に、佐太郎の口があんぐりと開く。
 その時、仕切り戸の向こう側から、汐音が顔を出した。
 「いらっしゃいませ。すぐにお出しします」
 そう言うと、汐音は厨房に姿を消した。
 捨吉が前に向き直ると、元々日に焼けて赤い佐太郎の顔が、いっそう赤黒く変じていた。
 「捨吉。お前は・・・。いったいどういうつもりだ。せっかくわしが縁談の話で来たのに、お前は家に女を連れ込んでおるのか」
 佐太郎は怒りのため、両手をぶるぶると震わせている。
 「網元さん。あれは時化の時に船が転覆して、浜に流れ着いた娘です。怪我が治るまで家に居て貰うことにしたのです」
 「そんな言い訳は通らぬ。男と女がひとつ屋根の下で暮らしていれば、いずれなるようになる。しかし、あんな生っ白い娘に漁師の嫁が務まるのか。漁師の嫁には漁師の親を持つ娘を貰うべきだろ」
 佐太郎は茶碗をひったくるように掴むと、どくどくと酒を注いだ。
 そこへ、汐音が汁椀を掲げて持って来た。
 汐音は二人の前に、その汁椀を静かに置いた。
 佐太郎はその汐音を睨み付けると、不機嫌そうに「ふん」と鼻を鳴らした。
それから、佐太郎はぐびと酒を飲むと、汁椀にほんの少し口を付けた。
 「あれ。これは」
 佐太郎が再び椀を持ち上げ、今度はぐいぐいと汁を飲む。
 「こりゃ美味い。いったいどういう味付けだ?」
 その姿を見て、捨吉も汁を啜ってみた。
 「美味い」
 汁の中には、栄螺(さざえ)の切れ端と若布が少々入っているだけである。
 「この深い味わいはいったい何処から出ているのだ。まるで、丁寧に魚を煮込んで出汁を取ったような味だ」
 汐音が微笑む。
 「この吸い物は、捨吉さんに沖の海水を汲んで来て貰い、それを漉したものに、具材を少し入れただけです」
 佐太郎が首を振る。
 「いや。これはそれだけではないぞ。何か特別な作り方を加えている筈だ」
 ここで捨吉が口を入れる。
 「汐音は秘伝の料理法があると申しております」
 この話を聞いて、佐太郎は二度頷いた。
 「やっぱりな。そうだろう、そうだろう。これはしかし、他に例えようもない美味さだ。済まぬが、もう一杯貰えるか」
 汐音がお椀を下げ、厨房の方に消えると、すぐに佐太郎は大きく深いため息を吐いた。
 「はああ。畜生。これじゃあ仕方ない」
 「はあ?」 
 「いや。捨吉。お前が是が非でもあの娘と一緒になろうと思うのも無理はない。お前の嫁の作る汁は、この辺の村の者がけして真似できぬ程の美味さだ。これに敵う作り手はおらぬな。だから、これではお前がこの娘を娶ろうと言うのも致し方ないと申したのだ」
 捨吉は慌てて汐音の顔を見る。
 半月の間、汐音とひとつ家で暮らして来たが、男女を意識したことが無かったからだ。
 捨吉の前で、汐音は嬉しそうに微笑んでいた。
 捨吉は内心で小躍りした。
 もしかすると、この汐音はこのまま己の妻になってくれるかも知れぬ。
傍らに居る佐太郎も思い直したらしい。
 「おお。改めて眺めれば、まこと器量よしの娘御ではないか。額に傷があるようだが、いずれそれも癒えることだろう。少し口惜しいが、わしから注文は付けられぬな」
 佐太郎は持参した酒を飲み終わり、汁をさらに一杯食すると、漸く腰を上げた。
 「きちんと祝言を行うのだぞ。まったくの他人と言うわけでも無し。わしも祝いに駆け付けるからな。そしてその時は、また料理を作ってくれ。この辺の嬶ではとても及ばぬからな」

 佐太郎が帰ると、捨吉はすぐに汐音に向き直った。
 「お前はこの家の嫁に入ってくれるのか。こんな貧しい漁師でも構わぬのか」
 捨吉の言葉を聞き、汐音はまっすぐ捨吉の眼を見た。
「わたくしはこの通り面(おもて)に傷のある半端な女にござります。それどころか、己がどこの誰とも分からぬような者です。もし捨吉さんが妻にとお望みなら、こんな嬉しいことはありません」
 捨吉はここで初めて、汐音の手を取った。
 「どうも有り難う。これから二人は夫婦となり、共に腰が曲がるまで苦楽を共にしよう」
 汐音はいつもの通り、にっこりと笑い、捨吉に応えた。
 それから五日の後、捨吉の家で、婚礼の式が行われた。二人には式などどうでも良かったのだが、佐太郎が音頭を取り、村の主だった者たちが集まった。
 佐太郎が汐音の料理の腕前を吹聴して回ったので、呼んではいない者も訪れた。
佐太郎の噂話を聞き、興味を覚えた者たちが、捨吉の嫁をひと目見て、相伴に与ろうと思ったのだ。

三陸の風景
三陸の風景

 「こいつは美味い」
 「何とも言えぬ味わいだ」
 汐音が仕度をした料理を食べた者は、口を揃えて激賞した。
 人々のそんな姿を見て、捨吉は少なからず誇らしげな気持ちになった。

 夜になり、訪問客が帰った後、捨吉と汐音は互いに手を付いて婚礼の挨拶をした。
 「では宜しく頼みます」
 捨吉が顔を上げると、汐音が己を見ている。
 「お願いがございます」
 「何だね」
 「前にも申し上げましたが、料理の仕方は我が家の秘伝にござります。ですから、わたくしが料理をしているところは絶対に観ないで欲しいのです」
 「なんだ。そんなことか。それなら構わんよ。他に何か頼みごとは無いのか」
 「ございません。わたくしが捨吉さんにお願いするのは、そのひとつだけです」
 捨吉が大きく頷く。
 「そんなことで良いならお安い御用だ。お前が飯を作る時に厨房に立ち入ったりはせぬ」
 それまで、汐音の顔は幾分強張っていたのだが、ここで表情が緩んだ。
 「そのようなお言葉を頂けて、本当に嬉しゅうございます」
 「俺からもひとつだけ願いがある」 
 「どのようなことでしょうか」
 「いつかお前は昔の家のことを思い出すかも知れぬ。その時、元の家に戻ると言わんで欲しいのだ。お前にはずっと俺の女房で居て欲しい」
 汐音が大きく頭(かぶり)を振る。
 「もちろんですよ。わたしたちは夫婦になるのですもの。この後、何があっても一緒です」
 「そうか。それは良かった。はは」
 捨吉が笑い出すと、汐音も続き、二人の笑い声が家中に響き渡った。

 汐音を女房にしてからというもの、捨吉には事あるごとに幸運が舞い込んだ。
 漁に出ると、いつも大漁で、寄港の際には舟に魚が山積みだった。
 他の漁網に魚が掛からぬ時も、捨吉の網には掛かった。このため、売りに出せば、高値で売れる。
 やること為すこと総てが上手く回る。
 そんなことが半年一年と続いたので、いつしか捨吉の舟が新しいものに替わった。
 順風満帆の日々とは、この時の捨吉の暮らしを言う。

 ある日のこと。漁から帰った捨吉が表で魚の処理をしていると、馬に乗った侍が二人現れた。
 侍たちは捨吉の家の前で馬から下りた。
 捨吉は低頭して侍たちを迎えた。
 二人のうち、最初に年嵩の方が口を開いた。
 「ちと尋ねるが、捨吉の家はここか」
 「そうですが、貴方さまは?」
 ここで従者と思しき若侍が前に出る。
 「このお方はご家老の中里さまだ」
 捨吉は再びここで侍たちに低頭した。
 「捨吉。今日ここに参ったのは、ぬしの女房の吸い物を口にするためだ。巷で評判になっておる吸い物とは如何ほどのものかと思うてな」
 捨吉は驚いていっそう頭を下げる。
 「滅相もござりませぬ。田舎者の作るつまらぬ料理にござります」
 「いやいや。ぬしの家に寄ったと申す者たちが、口を揃えて褒めておる。是非ともその汁をひと口吸わせてくれ。これこの通りだ」
 中里と名乗る侍は、捨吉に向かって深々と頭を下げた。
 高い身分の者が丁重に頭を下げているので、捨吉も断るわけには行かなくなった。
 捨吉は仕方なく家の奥に行き、汐音に事の次第を告げた。
 困り顔の捨吉に向かって、汐音はいつものように快活な笑顔を見せた。
 「大丈夫。何も心配なさらないで。今日は雲丹と鮑を拾ってあります。表でお待ちください」
 捨吉が表に戻ると、家老職の侍は縁側に腰掛け、遠くの海を見ていた。
 「しばらくお待ちください。ただ今女房が支度をしております」
 侍は顔を海の方に向けたまま、話を始めた。
 「唐突に現れて相済まぬ。長く続いた飢饉のせいで、我が藩の財政はひっ迫しておる。そのため、金のやりくりが務めになった。今や、侍とは名ばかりで、大商人の顔色をうかがうのが務めなのだ。今ではそんな暮らしにもほとほと飽きて来た。そんな時、ぬしの家の吸い物の話を聞いた。それで、急に思い立ってここに参ったのだ」
 この数年は幾らかましになったが、その前は酷い有り様であった。
 作物がほとんど採れず、年貢が上がって来ない。
 領民が潤わねば、たちまち侍も困窮する。
 壮齢の侍の表情からは、疲労の色が隠せなかった。

 程なく、汐音が盆を掲げてやって来た。
 「粗末なものではござりますが」
 二つの椀には、汐音の最も得意とする吸い物が入っている。
 侍はその場に座ったまま、汁椀を受け取った。
 侍はひと口ふた口と汁を吸う。それから、一気に汁を飲み干した。
 「見事な味だ。聞きしに勝る」
 侍が顔を上げると、奥から汐音が変わりの椀を運んで来た。
 「それがしが必ず替りを所望すると思うていたのか」
 侍は苦笑を漏らしつつ、椀を受け取る。
 「近在の女子衆にも、作り方を教えてやるが良いぞ」
 侍は満足げな表情で立ち上がった。
 「では、ささやかだがわしから礼を贈ろう。これ佐々木」
 侍は供侍に合図をする。
 その従者は一例をすると、馬の所に向かった。
 「僅かだが、今や我が藩は貧乏藩だからな。わしの俸禄もたかが知れておる。礼と申しても、気持ちだけだが、それで勘弁してくれ」
捨吉は恐縮して、床に頭を擦り付けた。 
 「滅相もござりません」
 「うむ。気にするな。ところで、ぬしの女房は何処で育った女子なのだ?この辺の味付けとは明らかに違う味わいだ」
 「いえ。沖で船が難破して、岬に流れ着いた女でございます。頭を打ったのか、前のことをとんと思い出せぬのです」
 「何時のことだ?」
 「一年前でございます」
 侍が首を傾げる。  
「ふうむ。去(こぞ)年、船が沈んだなどという話があったかどうか。佐々木。ぬしは覚えておるか」
 供侍が馬の所から布包みを携えて戻って来た。
 「いえ。それがしの記憶にはござりませぬが」
 供侍は馬から包みを縁側に置いた。
 「まあよろしい。過ぎたことだ。では捨吉。これが礼だ」
 謝礼を渡すと、侍たちは各々の馬に跨り、捨吉の家の前から立ち去った。

 侍の姿がすっかり見えなくなった後、捨吉は包みを開いて中を見た。中には、布が一反と、銭一貫文が入っていた。
 「こんなに下さるとは。本当に畏れ多いことだ」
 捨吉は汐音と手を取り合って、自分たちの幸運を喜んだ。
 しかし、この頃から、捨吉は女房の振る舞いを不思議に思うようになっていた。
 いつも汐音は厨房に入ると、ぴたりと扉を閉めて、一切開けようとしない。
 汐音の作る料理も解せない。
 海の塩水を基にして、魚貝類や海藻を少し入れただけなのに、とても考えられぬような濃く深い味わいになっている。

三陸海岸の風景
三陸海岸の風景

 「ご家老さまが直々に食べに来るほどのものだ。いったい、汐音はどうやってあれを作っているのだろう」
 それまで捨吉は、女房と暮らす嬉しさに気にも留めなかった。しかし、いざ気にし始めると、どうしても知りたくなる。
 女房の身の上は今も分からぬままである。
 「ご家老は船が沈んだという件について、ご存じないと申されていたが・・・」
 疑念は深まるばかりである。
 捨吉はついに、己の眼で確かめることにした。厨房の板塀に穴を開け、中の様子を見ることにしたのである。
 
 ある日の午後、捨吉は汐音に告げた。
 「網元さんに用事があるから、少し出掛けて来る。一時ほどで帰るから、何か作って置いてくれ」
 こう言い残して捨吉は家を出た。
 しかし、捨吉は家の裏に回り、少し前に開けて置いた小穴から、厨房の中を覗き見た。
 中で汐音が立ち働いている様子がはっきり見える。
 最初に汐音は釜で湯を沸かし始めた。
 この湯が沸くと、汐音は大盥に湯を入れ、水で湯温を調節した。
 それから、汐音は着物の裾を捲ると、真っ白い尻を露わにし、大盥の中にそれを浸した。
 それから二度体を震わせると、盥の中の尻が尾鰭にかたちを変えた。
 「おお。何ということだ。あの娘は人ではなかったのか」
 捨吉は驚いたが、その反面、心のどこかでそれを予期していたところもある。
 あの嵐の日から、通常では考えられぬことが続いていたからだ。

 それからしばらくの間、捨吉は前と変わらぬ素振りで暮らした。
 「女房とは不見(みず)の約束がある。俺が厨房を覗き見たことは黙っていよう」 
 半月近くの間、捨吉は口を閉じていた。
 しかし、捨吉の家を様々な人々が訪れ、口々に女房の料理を褒めるのを聞いているうちに、黙っているのが苦痛になった。
 女房の料理は、実は尻を洗った水でこしらえたものだ。それを皆が有難がって食べている。
こんな痛快な話は他に無い。

 ついに、捨吉は口を滑らせ、己が厨房を覗き見たことを女房に告げてしまった。
 秘め事を二人で共有すれば、いっそう夫婦の絆が強くなる。そんな思いもあったのだ。
 しかし、捨吉の言葉を聞いた瞬間、汐音は身動ぎもせず、捨吉を見詰めた。
 汐音の二つの眼からは、大粒の涙が零れ落ちて来る。
 「わたしの姿を見ないで下さいと、あれほど申し上げましたのに」
 ここで捨吉は、自分が取り返しのつかない間違いを犯したことを悟った。
 「捨吉さん。わたしはいつぞや貴方さまが命を救って下さった、あの鯛です。わたしは鮫ヶ崎の神さまに、『あの方にお礼をさせて下さい』とお願いしたのです。そうしたら、神さまはわたしを人の姿に変えて下さったのです。でも」
 捨吉は大慌てで汐音の手を取った。
 「待ってくれ。お前がどういう者であろうと俺は一向に構わない。お前と俺は命が尽きるまで共に暮らそうと約束したではないか。もう二度とお前の素性については口にしない。厨房にも二度と入らずとも良い。だから、どうか俺のことを許してくれ」
 捨吉には、この女房が次に口にする言葉が分かっている。
 きっと、汐音は「海に帰ります」と言うのだ。
 その直後、汐音は捨吉の予期した通りの言葉を告げた。
 「捨吉さん。これでお別れです。私は海に帰ります」
 汐音は捨吉の手を振り解くと、背中を向けて走り出した。
 汐音の行先は鮫ヶ崎の東端だ。
 捨吉は急いで汐音の後を追うが、捨吉の想像以上に、汐音の足が速く追い付けない。
 もう少しで背中に手が届きそうになった時、汐音は崖から身を躍らせた。
 海水に着いた、その瞬間、捨吉の女房は大きな真鯛に姿を変えた。
 そして、その真鯛は海の中にゆっくりと消えて行った。

 汐音が居なくなってから、しばらくの間、捨吉はそのことを受け容れられなかった。
 家に入ると、汐音がすぐに迎えに出てくれるような気がする。
 空耳なのか、汐音の快活な声が聞こえることもある。
 汐音が去った後、捨吉の心には大きな風穴が開いた。そしてその穴には、びゅうびゅうと風が吹き抜ける。
 捨吉はまた従前の通り、漁の行き返りに、必ず海中の鳥居に立ち寄るようになった。
 そこは頭に傷のある真鯛が泳いでいた場所である。
 捨吉はそこで舟を停め、かつてのように鈴を鳴らしながら撒き餌をした。
 年老いて、漁に出なくなってからも、捨吉は毎日、鮫ヶ崎の端に立ち、鈴を鳴らした。
 何時の日か、汐音が戻って来るかも知れない。その時のために、捨吉は鈴を鳴らしたのだった。

 捨吉は汐音が去ってから四十年後に、海辺で死んだ。
 この時も、捨吉は鈴を握りしめたままだった。
 近在の者たちは、そんあ捨吉のことを憐み、その鈴を死に装束に結び、水葬にした。

 鮫ヶ崎の海中の鳥居は程なく朽ち果て、何時しか人々の記憶からも消えた。
しかし、晴れた日に鮫ヶ崎の磯に出ると、波間からちりんちりんと鈴の音が聞こえることがある。
 世人の中には「あれは漁師が妻を求めてさまよっている音だ」と言う者と、「あの鈴は今は夫婦が幸せに暮らしていると知らせているのだ」と唱える者の二通りがいる。
 しかし、実際にはなぜそんな音が聞こえるのか、はっきりとした理由は分からない。

注記:この物語は、東北地方の民話『魚の女房』(『鶴の恩返し』の前身)を翻案したものです。
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